2012年06月17日

無事帰還

 こんばんは、裏部長です。

 札幌支部一行、無事札幌へ帰ってきました。

 こちらは雨模様のためすっかり肌寒く、日光のときと同じように半袖で乗り越えるのは難しそうです。


 遠征の内容については、また後日。


posted by 札幌支部 at 20:47 | Comment(0) | 裏部長の日記

2012年06月14日

出征前日

こんにちは、裏部長です。

なんだかんだでもう六月も半ば。各地梅雨入り。札幌はこのところ夜になると長袖でも肌寒い有様。

気づけばもう、栃木への遠征が明日に迫っていました。



今回は師匠のほか、裏部長、部長、後輩の三名という大所帯で伺います。

初参加の三名は、諸先輩方の空手のすさまじさに胸を躍らせつつも、体道の稽古中に師範からちゃっかり指導を受けようと意気揚々たるものです。


あたたかく、かつ厳しく、ご指導のほどよろしくお願いいたします。



いつものように、遠征の模様は、無事帰還したのちにアップしますのでいましばらくのお待ちを。



では、いざ栃木へ!
posted by 札幌支部 at 13:18 | Comment(0) | 裏部長の日記

2012年04月28日

愛だったんだよ

 こんにちは、裏部長です。

 北海道もすっかり春で、そして気づけばゴールデンウィークです。行楽地がにぎわい、観光バスが渋滞し、桜が咲き、桜が散り、そして沖縄ではもう梅雨がはじまっているという季節です。

 ほどよい陽光は眠気を誘いつつも、なんだか活動的な空気を運び、背中を押してくれます。




 今年に入ってから、札幌支部では体道のみの稽古を再開しました。

 以前は毎週木曜日に体道の稽古をやっていたのですが、2008年からその曜日に道新文化センターにて古武術講座をやることとなってしまったために、体道のみの稽古日は取らず、ふだんの空手稽古の合間におこなう程度になっていたのです。

 それに、体道をやるといっても、場所は床がコンクリートの教室で、満足に投げることも投げられることもできないという有様。もちろん、どんな場所でも技ができなければいけないのですが、こと投げ技に関しては、できれば畳のある空間で存分にやってみたい。

 そんな話が出たり入ったりした結果、今年の二月から、月に一度だけですが、畳のある武道場を借りて、体道のみの稽古日を設けることとなったのです。

 毎月、第二土曜日にやっています。

 いつも柔道部なんかが稽古しているところなので広いし、天井も高いので、刀、杖、棒、なんでも振り放題です。冬場の寒さ、あるいは来たる夏の暑さだけ覚悟すれば、とても恵まれた環境と言えるでしょう。



 
 空手の稽古においては、いろいろな発見があります。

 不器用で、なおかつどんなことでも自分で体感してみないことには納得できない性分の裏部長は、愚かな試行錯誤をくりかえし、ときには傷つき、ときには反省の嵐に見舞われ、夜道をひとりで淋しく帰ったりしているわけですが、最近気づいたことはこれです。

相対的な強さはつまらない

 師匠は、相対的な強さより絶対的な巧さ、ということをずっとおっしゃっていましたし、わたしもそれを信念にしてきてはいたものの、最初からその考えで出発してしまったために、相対的な強さとは、あるいは、相対的な強さを求めるとはどういうことかを知らずにいました

 もちろん、純粋に武術を稽古してゆくなかでは、相対的な強さになど眼もくれないという姿勢でよいのでしょうが、なにぶんにもやってみないと納得しない質なので、ちょっと試してみたのです。

 とはいっても、どこかの道場へ殴り込みに行ったわけでも試合に出場したわけでもありません。ふだんの稽古のなかで、絶対的な巧さの追求をあえて廃し、強さのみを考えて組手などをしてみたわけです。


 これは不思議な体験でした。

 というのも、わたしはいささか体格に恵まれたところがあるので、この肉体、この体重、この筋肉をあてにした動作をしても、自分よりも格下でなおかつ身体も小さい後輩相手ではじゅうぶん通用してしまうのですね。

 相対的ということは、相手と自分が離れている状態です。独立した自分という存在が、離れているところで同じく独立している相手を攻撃する。蹴散らす。相手が避けようが受けようが構わず、突進し、破壊し、表面化したダメージのみで優劣を判断する。

 これまでにしたことのないやり取りだったために、最初は不思議と楽しささえ感じました。弱いよりも強い状態に人は優越感をおぼえ、満足してしまうものです。わたしも、情けないことに、一時はそんな心境を抱えて稽古へかよっていました。


 しかしこれ、長続きはしなかったのです。


 強さを求めた場合、そこにいる相手全員よりも自分が強くなってしまうと、それ以上の稽古ができない。つまり、深めてゆく過程がないから、結果だけを判断材料にしているから、優ってしまうとそれだけで終わってしまい、それ以上の満足感、手ごたえのようなものを獲得したいのなら、道場を出て武者修行をしなければならなくなる。

 後輩相手でも、馬鹿のように何発もの突きをぶつけ、体格で圧倒し、押して押して押しまくる。もちろん、そういったことをするべき時期も、できるようになる時期もあるでしょう。

 しかし、それだけになってしまうと、稽古は停滞してしまいます

 武術は死んでしまうのです



 愚かな試行錯誤を終え、ふたたび絶対的な巧さ、技の稽古に着手すると、これが面白い面白い。

 追い突き一本をやっているだけで楽しいのです。あれやこれやと発見が訪れる。

 そして、やはり、こちらのスタンスのほうが、腕は磨かれます。こと突きの威力という面だけを見たとしても、相対的な強さを求めていた時期とは比べものにならないほどの内容が生まれています。

 武術はほんとうに奥深い世界です。




 昨夜なんかは「」の話が出たのですが、これなんかはその最たるものですね。

 突きを出すときにはかならず片方の手を引く。この引き手で突いているわけですが、高段者になるとかならずしも手を引いていない場面を多く見受けます。

 これはなぜか。

 もちろん、引ききってしまわないほうが二本目の突きを速く出すことができるわけですけども、じつはそれだけではなかったのですね。

 川なのです。

 自分の身体の前に川が流れているのです


 マットをミット代わりにもって師匠に突いてもらいました。

@一般的な、片方の手を引く突き。

A引き手を残し、それをただそこに置いたまま出した突き。

Bそして、パンチ


 Bの突きが放たれた瞬間、わたしはその変貌した迫力と威力に圧倒されながらも、たしかに、眼の前に師匠の肩幅よりもわずかに狭い、しかしあきらかに水量をもった川が流れたのを見たのです。

 ほんとうに、川が見えたのです。



 その突きを見せていただく数十分前、わたしはわたしで、こんな風な身体の使い方をすればよりよい突きが出せるのではないかという、ちょっとしたアイディアを思いつき、ひとり悦に入っていたのですが、そんな気分はひと息で吹き飛んでしまうほどの技でした。

 
 こういう瞬間を味わい、体験し、そして自らもそこへ向かえる稽古こそ、真に武術なのではないでしょうか。

 そして、そんなやり取りに楽しさを見出せる人だけが、稽古をつづけてゆけば良いのではないでしょうか。
 
posted by 札幌支部 at 13:35 | Comment(0) | 裏部長の日記

2012年01月18日

詮のないこと


 最近ふいに、

武術を稽古するって、どういうことだろう

 と考えたりします。



 師匠のもとへ入門して、来月で丸八年。

 若輩者のわたしが、後輩たちの指導をしたり、道新文化センターで一般の方へ体道を教えたりできているのは、ひとえに師匠のおかげです。

 経験に比して、このような体験ができているというのは、稀なことです。

 ありがたい経験を積ませていただいています。


 ただ――。

 だからこそ、気づいてしまったのかもしれません。




 これはあくまで持論ですが、稽古をするというのはつまり、

自分を白紙にする行為

 なのではないでしょうか。そう思えてならないのです。



 空心館に入った以上、この道場の、あるいは、自分が求めてついた師の有する武術の技術なり、基準なりを共有することが必要になってきます。

 ほかの道場や日常生活のなかで習得したことはあっても、それは、純粋に、空心館の武術をやるという時点においてはまったく役に立ちません。

 それを持ちだした途端に、修得の道は霧で覆われてしまいます。



 つまり、修業者はいったん完全なる素人にならなければならないのです。



 この姿勢を貫く場合、稽古のなかで自分の意見を言うということはなくなります

 空手をするにしても体道をするにしても、その技が、その動作が良いのか悪いのか、自分で判断するべきではないからです。

 どんな些細な動きに関しても、自分で判断せず、すべて師に見てもらう

 そして、出された助言や指摘を百パーセント受けいれ、それを具現化することだけを考え、稽古する



 たしかに、いつまで経っても師がいなければどうにもならない、では話になりません。

 親の脛に齧りつきつづける悪しき子のようでは、ひとりの武術家として自立することは叶いません。


 しかし、それは数十年の修業を経た人間にだけ取ることを許される手段です


 この道へ、この道場へ入門してわずか数年の、あるいはそれ以下の人間がわけ知り顔でやってよい言動では決してないのです。





 わたしが考える稽古論、上達論をまとめるとこういうことになります。


○道場へ入門した以上、師、あるいは先輩の教えを尊重すること。その基準を嚥下し、おのれの心身へ移植することを最優先する

○この姿勢を持つ以上は、稽古中に自分の意見、感想、提案を出すべきではない。いやむしろ、徹底している人間であれば、発する言葉は「はい」以外にありえない

○稽古者は自然と無口になる

○師の発言にはつねに耳を向け、その動作を注視すべし。あたえられた助言はかならず受けとめ、返事をする

○自分はできる、自分は知っている、自分は理解できているなどとは決して思わない。少なくとも、入門して三年を経ていない人間は、「自分はまだ空心館においては素人である」と自戒しなければならない





 人間は十人十色。

 個性は尊重しなければなりません。


 穴だらけの道を、どこもかしこも灰色のアスファルトで覆ってしまうように、稽古者を同じ規格でがんじがらめにする必要はないのかもしれない。


 そうわかっていても、わざわざこんなことを書くのには理由があります。

 それは単純なことです。


 上に書いた条件に合わない人間のほとんどが、最終的に技の上達を諦め、道場を去っていってしまう

 わたしはそれが残念でならないからです。



 どんなタイプの人でも、最終的に動けるようになれば何の不満もありません。

 偉そうなことを言っている鼻もちならない奴でも、きちんと教えた技を教えたようにできているのならよいのです。


 わたしが見てきたなかで言うと、そういったタイプの人間は皆無に等しいです。

 まったくと言ってよいほどいません。


 入門以前に、または道場外で仕入れてきた知識、経験、考察の結果を持ちだし、何かというと自己判断をして、正誤の結論を勝手に出すたぐいの稽古者は、やっぱり下手です。

 空手にしても体道にしても、肝心の技ができないのです。

 出来たようなことを言っている人間に限って、どうでもよいつまらない間違いをし、そのくせ他人のミスにはめざとく気がついて、まるで指導者のような口ぶりでそれを指摘するのです


 はっきり申しあげて、わたしはそういう種類の稽古者を好みません。不愉快です。






 今日、どうしてこんなことを書いたのか。

 鼻もちならない奴がいるのなら、そいつに面と向かって言ってやればいいじゃないか。

 そうおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。



 違うのです。



 たとえば、技術面のことであれば、直接言ってあげたほうが身になるでしょう。
 

 その技がどうしてもできない人に、こうしたらいいよとアドヴァイスをすれば、できなかったことができるようになる。

 稽古とはそういうものだし、わたしは何も、やってできない人を非難しているわけではないのです。



 今日書いたことは、いわば、その人の精神面心根に関する部分なのです。

 これは、直接言ったところで、叱りつけたところで、容易に変わるものではありません。



 心根のことについては、その人の魅力、人間性などと同様に、最初から存在している下地のようなものです。

 だから、もともと持っていない人は、何度注意してもできないし、持っている人は、わざわざ指導しなくてもはじめからそうしているものです


 言っても詮のないことなのです。

 だからあえてここに書きました。




 わたしもひとりの稽古者として存在している以上、何よりも自分の修業のことだけを考え、他人のことに頭を悩まさず、ただひたすらに汗を流すべきであることは重々わかっているつもりです。これらのことも、書こうか書くまいか、かなり悩みました。

 その上で書いたことです。不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、ご勘弁ください。



 なお、上記の内容はすべて裏部長個人の想いです。師匠の受け売りではありません。

 その責任は、わたし一人にあります。





 裏部長でした。 
posted by 札幌支部 at 16:23 | Comment(0) | 裏部長の日記

2012年01月08日

稽古初め2012

 



 明けましておめでとうございます。

 裏部長でございます。

 今年も何卒よろしくお願い申しあげます。





 札幌支部の稽古初めは六日でした。稽古納めから一週間とちょっとしか経っていないせいか、正月気分を感じる暇とてなく、いつも通り大学の教室からスタートしました。

 あいにく師匠はお仕事のため欠席。参加は、熱心に稽古している後輩のIくんと、あとは師匠のご子息のみという珍しい顔ぶれでした。


 理論よりも実践考えるより動け

 そんなことを心に刻んだ稽古初めでした。



 
 稽古のなかには空手と体道があるわけですが、強いて目標をあげるとなると、どうしても空手のほうが先に立ってしまいます。

 それも、やはり突きについて。


 今年も目標は、「重く、そして軽やかに」です。

 何のために追い突きを重点的に稽古しているのか。それも、相手の反撃ありきではなく、約束組手のなかで、ごく純粋に追い突きをやっているのには大きな意味があり、それをこそ実践しなくてはなりません。

 それでなければ、この稽古をしている甲斐がないというもの。


 結局は貫通力だと思うのです。きちんと突ききる。障害物など弾き飛ばして、相手の身体ごとなぎ倒しながら、重く素早い突きを相手へ当てる。

 二本目、三本目の突きなど、それができたあとに手をつけるべき代物で、最初の一撃さえまともにできない人間は、どんな手数を増やしても、しょせん小魚の群れ。

 鯱のひと呑みには敵うはずもありません。



 もう何年も前に、奈良のM田さんに言われたことばがここで痛烈によみがえってきます。

手数よりも、ここで決めるという一本

 それを理屈ではなく、体現する一年にしたいです。




 ただし、体道も忘れてはいけません。

 現在やっている内田流短杖術のあと、できれば夏までには天心古流の挫を終わらせたい。そう師匠とは話していますが、果たして行けるかどうか――。

 それに、技数だけではありません。そこから、きちんと武術的エッセンスを吸収しなければなりません。

 これは空手の型も同様で、ただ憶えた、ただ馴れたでは半人前もいいところで、そこから武術的な身体のつかい方を学び、それへ自分を順応させなければ、ほんとうに型をやったとは言えないでしょう。




 まさに、“稽古者多忙”です。

 そうあることに、感謝しなければ。




 今年も空心館とともに。


 
posted by 札幌支部 at 19:01 | Comment(1) | 裏部長の日記

2011年12月29日

稽古納め2011

 こんばんは、裏部長です。

 
 すっかり書くのが遅れてしまいましたが、今週の火曜日が札幌支部の稽古納めになりました

 師匠のご子息ら、子供たちのにぎやかな声。そして、さしていつもと変わらぬ顔ぶれのふたりの後輩たちと、氷点下の夜に汗を流しました。


 その後輩たちも、いまではふたりとも茶帯です。稽古へ熱心に参加している後輩はもうひとりいて、彼も来年にはきっと茶帯を締めることでしょう。

 札幌支部で一度に三名の茶帯が稽古をするというのは、なんと初です。これまでにはなかったことです。


 韓国人留学生Cくんが締めていた以外には、わたしと部長のほかは、茶帯まで達した人間自体がいなかったのです。黒帯までいったS呂くんは他流派の経験者で茶帯は締めなかったし、それ以外の後輩たちは――まあ、言わずもがなといった感じです。


 あらためて長く稽古をつづけることの難しさを痛感します。しかし、だからこそ、長くつづけた先に大きな発見があるのだと思います



 わたしは来年の二月で、師匠のもとへ入門してから丸八年になりますが、最近になってようやく、自分のなかの武術観が変わってきた気がしています


 結局、まっさらな状態で入門したわけではなかったのですね。合気道の経験が深く根づいていたし、それ以外にも、あの本を読み、この映像を見て、あくまで独学ながらも、あれやこれやと知識を溜めこんで稽古をはじめてしまったがために、師匠や諸先輩方の動きを目の当たりにしながら、どこかでそれ以外の残像を見ていたのではないか。

 そんな反省を、最近はことあるごとにしているのです。



 現在、体道では内田流の短杖術を稽古しています。

 やるたびに笑えてくるほど面白い流儀です。ひとつひとつに武術のエッセンスが煮こごりのように詰まっていて、これまでにない感動をあたえてくれます。

 こういった技を稽古していると、武術というのは筋力ではない、年齢や体力ではない、といったごく当然なことを痛感せずにはいられません。

 そしてもっとも強く刺戟されることはこれです。

武術は繊細で、かつ地味なものだ


 必要最低限の動きで、小さく、速い。武術というのはすべからくそうした形状へと向かってゆくのだとすれば、技そのものの内容はもちろんのこと、それをおこなう武術家もまた、動けば動くほど繊細で、そして地味な表現に行き着くのでしょう。


「やっていけば、浅山なんかは面白いよね」

 この台詞はわたしの個人的な意見ではありません。つねづね師匠が、そして、今年の九月に本部道場へお邪魔した際、師範もまた口にされていたことばです。

 
 いまようやく、わたしはその真意に触れはじめているのだと思います。



 先代、藤谷師範は杖の技に長けていたとか。

 杖、短杖、棒、半棒――。その腕前たるや恐ろしいものであったと師匠から伺っています。

 そして、体道のなかには、多種多様な杖関連の技があります。

 加えて、わたしは杖や棒が好きなのです。武具のなかではもっとも強い興味があります。




 いくつもの兆し。藤谷派糸東流拳法空手道と体道がある、空心館という道場の、師匠のもとへ入門したことの意味を、あらためて噛みしめつつ、2011年の書き納めといたします。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 20:30 | Comment(1) | 裏部長の日記

2011年11月19日

地つづき

 こんばんは、裏部長です。


 札幌ではついにが降りました。ついに冬到来です。

 木曜日の朝など、地面のどこもかしこも真っ白になっていました。

 しかし、わたしはこの季節が好きです。というか、この季節におこなう稽古が好きなのです。師匠のもとへ入門したのも冬だったし、札幌支部メンバーで本部へお邪魔したときも寒い季節でした。

 道場内の熱さと外気の肌寒さ。このなんともいえない対比が、その当時のことを思い出深くさせているのかもしれません。



 さて今週は、栃木のT君とも親しいT田さんら懐かしい面々が札幌支部の稽古へ参加してくれました。

 賑やかな稽古はやはりたのしいものです。



 裏部長はというと、ここ最近は面白いくらい稽古が面白い。行くたびに発見があり、収穫があり、また同じ量の反省点を抱えます。

 
 昨日の稽古なんかもそうで、得るものが多かったなあ。

 
 結局、地味な稽古の積み重ねなのです。いくら特殊な動きをしたところで、他者の物真似をしたところで、そんなものは本当の武術にはなりえない。


 そして、そういった稽古をくりかえした結果つくられる肉体、生まれる動作こそが、目指すべきへとつながってゆくのでしょう。


 一途に、ただひたすらに没頭すること。その大切さを日々痛感しています。



 とはいえ、やればやるほど面白く、知れば知るほど恐ろしい世界です。


 数年前には、ただ速いなあ、凄いなあと思っていた師匠の動きが、いまではまるで違って見えます。

 速いには速いなりの意味があり、それは往々にして物理的な、がむしゃらに頑張って生みだせる術理ではなかったりする。

 それらを目の当たりにしたときの驚愕と恐怖と快感については、きっと今日まで稽古をつづけてきた人間でなければわからないものなのでしょう。知覚できただけで幸福というものです。



 地道な稽古はときとして窮屈さを感じさせるかもしれません。だから、武の世界で生きるかなりの人たちは、自分なりに解釈した動作や、大声をともなって鍛えた筋肉や根性に頼る方向へと進んでいってしまい、真に武術たりえているものはその数を、残念ながら、徐々に減らしていっているそうです。

 師範のお話を伺うと、空手に関して言えば絶望的だとさえ思えます。



 師匠と空心館に出会えたことをいまこそ感謝したいです。

 そして、一度気づいたのなら、もう一生迷わずに、道場外の余計な騒音には惑わされず、純粋に、素直に、稽古を重ねてゆきたい。


 これはきっと、わたしの人生にさえ関わる大切な決意になるはずです。


posted by 札幌支部 at 19:49 | Comment(0) | 裏部長の日記

2011年11月13日

武術だなあ。

 
 こんばんは、裏部長です。


 十一月になってしまいました。すっかり秋です。ちょっと強い風が吹けば、街路樹から何枚もの葉が散って、乾いた音がアスファルトの道にひろがる今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。




 九月のひとり旅以降、いろいろと考えるところがありましたが、いまはむしろ純粋に、これまで以上にたのしんで稽古にいそしんでいます。


 二日前の稽古では空手の基本から移動をやり、そして約束組手といういつもの流れのなかで、刻み突きに対する受けをやったのですが、これなんかは奥深くてねえ、やりながら感心してしまったほどでした。


 そりゃレヴェルの高いことに触れれば心が刺戟されるし、新たな課題となってくれるし、その過程で発見することは多々あるわけですが、そういった単純な印象とはわずかに異なる、懐かしさにも似た感動があったのです。



 思い起こせば七年ほど前。まだ大学生だったわたしが師匠のもとへ入門し、空手や体道を習いはじめたころ、毎回の稽古が新鮮な感激に満ちていました。いや、それだけではない。わたしは確実に、「武術」というものを志していました。

 武道ではなく、格闘技ではなく、ましてやスポーツなどではない、武術を



 
 金曜日にやった受け技は、刻み突きを前の手で右から左へ受けるというものでした。ただ手を払うだけでは、拳はよけられても相手の身体は突進してきて、二本目の突きを喰らってしまう。だから受けと同時に、その体をも崩せる動きをしなければいけない。

 そんな技でした。



 稽古の最中、わたしはしきりに、

武術をやってるなあ

 と心のなかで呟いていました。




 ここ最近になって、師匠のおっしゃるように、空手や柔術などといったジャンルに固定せず、総合性と一貫性をもった【武術】を稽古しているのだなという認識がわたしのなかにも生まれてきました。

 無論、刀も、杖も、棒も、すべて同様にです。



 屈強な肉体と健全な年齢を有し、足腰を鍛え、拳を巌のようにしたところで、ただがむしゃらにそれをぶつけるだけでは威力は発生しない。素人には痛みをあたえられても、玄人にはきかない。


 武術とは、いかに効果的な動きをおこなうかだ


 師匠はそうおっしゃいました。


 たとえ老齢で筋力がなくても、効果的な部位へ、効果的な攻撃を、効果的な間合いと速度でもってぶつけることができれば、相手へ効果的なダメージをあたえられる。


 瞬発力も若さも筋力だってある若い有段者が、逆立ちをしても師範には敵わない現実を、われわれはつねに忘れてはいけません。


 そして、一度気づくことができたなら、それが空手であろうと柔術であろうと剣術であろうと杖術であろうと、すべて同じなのだ、武術として実現できるのだと信じ抜くべきです。




 これはわたしと、わたしよりも若い後輩たちに伝えておきたいことでした。

 諸先輩方、またまた生意気な文章、お許しください。




 とことん知らなければわからないことがある。


 武術はほんとうに奥深く、そして、やはりたのしいものです。


posted by 札幌支部 at 20:13 | Comment(0) | 裏部長の日記

2011年09月26日

裏部長ひとり旅

 こんばんは、裏部長です。


 すっかりです。天気予報で「23度」などと出ていれば今日は涼しいなあと驚いたものですが、今となっては、街角の温度計が21度を指していても、今日は温かいなあと心底思ってしまいます。


 ほんと、現金な肌でございます。


 そんななか、訪れた栃木はいまだ真夏でしたね。新栃木駅から降り立ったとき、過去に三度しか来たことがないにも関わらず、夏休みに田舎の祖父母へ会いにきた小学生のような心持ちに襲われました。


 それは、今から二週間ほど前のことです。





 9月13日、火曜日。


 前日、東京に用事のあったわたしは、不馴れな乗り継ぎをくりかえして、どうにかこうにか三軒茶屋から新栃木まで行かねばなりません。


 これが存外しんどいものなのです。


 あたりまえのような真夏日のなか、三軒茶屋から渋谷、そこから湘南新宿ラインで栗橋、栗橋で乗り換えて田園風景のなかを進むことしばし。


 新栃木駅に着いたのは午後三時すぎだったでしょうか。ほとんど無人の駅前広場には、数台のタクシーと、あとは燦々たる日光のみがありました。



 夕方まで時間をつぶし、道場へ向けて歩きだしたのが午後六時すぎ。


 昼間にくらべればあきらかに気温は下がっているものの、それでも暑い。道の隅々まで浸透している湿度と熱が、重いキャリーバッグにまとわりつきます。


 不思議なことに、道場へは迷わずに辿りつきました。過去に三度ここへはお邪魔しているわけですが、そのときはいつも師匠がいて、車で来ていたので、こうして自力で、それも徒歩で行くなどというのは、方向音痴なわたしにとってはちょっとした冒険だったのですが、自分でも驚いてしまうほどスムースに到着。

 
 まるで、毎週ここへかよっているかのような足どりで、四年ぶりの本部道場へ。



 道場では少年部の稽古中。窓という窓を開け放ち、玄関も開けたままなので、近づくにつれて子供たちの元気な声が聞こえてきます。


 そしてもちろん、そこには師範の姿も。



 勝手な印象ですが、四年ぶりにお会いしたとは思えないほど、失礼なくらいの親近感と愛着にも似た感触をもって師範と再会できたような気がします。わたしたちのような一介の稽古者にとって、師範は雲の上の存在です。言わば、若手噺家にとっての志ん生、文楽、あるいは可楽みたいな方なのです。


 それでも、そうしてお会いして、時候の挨拶もほどほどに、道場の板の上にあぐらをかいて、少年部の稽古を眼前に眺めながら、いろいろな話、あれやこれやの武術談義ができたことは、やはりいくら支部と言えどもつねに師範とのつながりのなかで稽古をしているのだなあという感慨をあたえてくれました。

 

 師範のお話は、ざっと言ってしまえば、武術をきちんと修めている武術家のなんとすくないことか、ということに尽きます。


 空手に限らず、柔術の方面にしても、何にしても、とにかく紛いものが多すぎる


 他者を批判することも、自分を賛美することも師範の本意ではなく、それらのお話はあくまで、武術を心底愛して追求している人間からの警告、あるいは悲しき愚痴のようなものでした。伺いながら、わたしは愕然とし、また惨憺たる想いにも襲われたものです。


 この国で武術を真に学び、そして真におこなっている人間は、そう多くないということですね。



 少年部の稽古が終わり、三々五々大人たちが集まってきて、八時くらいから一般部の稽古がはじまります。


 懐かしやY師範代、その御子息のTくん、彼が言うところの猛獣Mさんら、この夜は有段者ばかり数名だけのシンプルなメンバー。

 本部道場独特の準備運動から基本、ワン・ツー、足まわしなどとつづきます。


 型を挟み、後半は約束組手。


 熱気舞いあがる道場内に、頼りになるのは隅に置かれた巨大な扇風機ひとつ。踏みこむ足の圧力と、拳が皮膚を撓ます震動に、残暑厳しい夜の稽古は、固まりかけの溶岩がごとく重厚に進んでゆきます。



 稽古終了後、Y親子、猛獣Mさんの計四名でささやかな食事。Tくんの驚異的な食欲。Y師範代のグローブのような掌。猛獣Mさんの、波乱万丈な人生と多趣味で器用なその指先。



 この夜、わたしはYさん宅に泊めていただきました。きれいなご自宅で、奥様にも親切にしていただき、TくんはTくんで積もる話に花を咲かし、気づけば午前二時すぎ。


 身体のあちこちに熱を残したまま、わたしたちは慌てて部屋の電気を消したのでした。




 師匠の弟子としてや札幌支部のメンバーのひとりとして訪れたときと違い、今回は単身、言わば<個>の状態で稽古に参加したせいか、いろいろなことを学び、また同時に、さまざまなことを考えさせられました。


 そして、それは今もなおつづいています。


 今日こうして綴った旅の回顧録のなかに、具体的な指導内容や技のことを書かなかったのは、それを書けるほど、わたしのなかでまだ十分には吸収できていないからです。戸惑い、概念の揺れ、新発見。どれもがわたしに浸透し、次なる変化を急かすのですが、それに対応できない自分もいるわけです。


 今回なぜ単身で栃木へ行ったのか

 東京に用事があり、そのまま帰ってくるのはもったいないから行った? せっかくだから? もう四年も行っていないから?


 違うのです。それ以外に、誰にも打ちあけていない動機がわたしのなかには存在していたのです。

 
 だからこそ、あの夜に稽古のなかで感じたこと、その前後に伺ったことはどれも鮮烈で、いまだにわたしの体内で小さな炎を燻らせています。


 それらについて書くのは、もうしばらくお待ちください。




 師範、Y師範代、Tくん、猛獣Mさん、そして稽古にいらっしゃっていたみなさん。


 緊張感のない顔で北の地からやってきて、汗だくになって稽古し、さっさと帰っていったこのわたしを、たとえ一時とは言えあたたかく迎えてくださって、本当にありがとうございました。


 またお会いできる日を待ち望んでいます。



posted by 札幌支部 at 20:12 | Comment(3) | 裏部長の日記

2011年08月15日

ザンショハイツマデ?

 裏部長です。


 終戦記念日です。巷ではすっかり東北の震災、または原子力発電所の事故でもちきりですが、TVなどでは細々と特別番組を製作し、あの年の夏を伝えています。

 どんなに鈍感でも怠惰でもいいから、こういう季節くらい、戦争の悲惨さを思いだしたいものです。




 さて、ひさしぶりに栃木のTくん、ならびに奈良のMさんからコメントをいただきました。

 最近はすっかり閑散としていたので、嬉しい限りです。




 栃木ではあいかわらず日々の稽古がつづけられ、また奈良では、コメントにもあったように抜刀術や体道の研鑽に余念がないといった印象を受けました。

 関東の地にも関西の地にも、凄腕の猛獣……失礼、猛者たちがいる。

 空心館の一員としてこれほど力強く感じることはありません。



 余談ですが、最近ブログに技の内容や発見などについて、わたしは書くことを控えています。これは以前、奈良のMさんから「武術は秘するもの」という指摘を受けたことにより、意識的にそうしていたらいつの間にか書かなくなってしまったというもので、いまでは習慣のようになっています。

 だから、今後の記事もあまり読んでいて面白くはないかもしれませんが、ご勘弁ください。



 そうそう。

 唐突ですが、明日の札幌の予想最高気温は二十四度です。多少、湿気はあるものの、全道的に涼しい一日となるでしょう、とTVで天気予報士が笑顔で言っています。


 夏はもう終わってしまったのでしょうか。


 べつに蒸し暑い日々が収束を迎えることは構わないのですが、そうしてすっかり残暑をすぎ、秋の色さえ見えてきたころに、いまだ夏まっさかりの北関東へ出向く……。



 なんともスリリングなひとり旅になりそうです。



 
posted by 札幌支部 at 18:58 | Comment(0) | 裏部長の日記

2011年08月08日

念願!!!!?

 こんばんは。裏部長です。


 札幌支部は先週金曜日、5日の稽古をもって、夏休みに入りました。

 再開は九月の最後の週から。きっともう、残暑も終わっていることでしょう。



 先日書いた「自由にならない突き」ですが、あいかわらず、攻略できずにいます。

 ただし、いくらか進展はあり、また新たな課題も見えてきています。


 こういう時期が、稽古のなかにはあるのですね。




 さて、わざわざ報告することもないのですが、9月13日に栃木へ行きます


 裏部長、単身遠征です。


 まだまだ残暑の厳しい時期に、それ以外の熱も大量に発生しているであろう本部道場へ行きます。



 じつはその前日に、東京で所用があり、当初はそのまま帰ってくる予定だったのですが、せっかく飛行機を利用して行くのにとんぼ帰りではもったいないと、急遽、栃木へまわることを思いついたのです。


 自分で決めたことながら、どうしてそんな暑い時期に、という後悔がないわけではありませんが、こんなときでないとなかなか行けないので、気合いを入れて新栃木駅へ向かいます。



 本部のみなさん、そのときはどうぞよろしくお願いいたします。



 それでは、よき夏休みを。


posted by 札幌支部 at 19:15 | Comment(2) | 裏部長の日記

2011年07月30日

ただ一閃

 こんばんは、裏部長です。


 いやあ、暑い

 そりゃ本州にくらべたら楽なもんでしょうが、こちらはこちらで、やっぱり夏は暑いのです。しかも近年は、さわやかな風が吹く北海道らしい夏が消え、すっかり蒸し暑い日々が続いています。

 そんな中で稽古をすりゃ、そりゃあね、胴衣も濡れぞうきんのようになりますよ。


 のっけから愚痴ってしまいましたが、昨夜は空手の稽古でした。

 
 札幌支部は来週いっぱいをもって、夏休みに入ります。再開は九月二十七日なので、二箇月ほどおやすみということになります。


 だから、というわけではありませんが、昨夜は子供たちが多かった。師匠のご子息、そのお友達、そしてK先生のお子さんもいらっしゃったので、さながら子供祭りの様相を呈していましたね。そのくせ、子供以外に参加している人間が、わたしのほかに二三名しかいないというのですから、なんともはや……。


 おっと、またもや愚痴ってしまいました。

 昨夜の稽古の話でしたね。


 窓をあけると、わたしの大嫌いな虫たちがたのしげに入ってきてしまうので、これくらいの気温の日には絶対に換気しません。汗のにおいと、男たちの熱気がこもる札幌大学1001教室で、空手の稽古は粛々と進みます。


 基本を軽めにひと通り。手廻し。その場で内受け・逆突き、ワン・ツー。

 移動稽古は追い突き、逆突き、追い突き・逆突き、刻み突き、ワン・ツー、前蹴り・廻し蹴り、五連続。


 約束組手はまず、わたしとK先生が受け手専門になり、数名の参加者がこれに順次かかってゆくという流れで、気づけばもう午後七時。


 ここで、子供たちとK先生は早退です。


 後半の稽古はその後、約束組手の続き、型、体道と進み、午後八時すぎに終了したわけですが、わたしのなかには口惜しさが残りました。



 どうも追い突きに不満が残るのです


 空心館の空手では、さまざまな攻撃手段のなかでも突きを、とくに追い突きを稽古し、磨いてゆく。このことについては過去のページにも書きました。

 蹴りよりも、打ちよりも、とにかく追い突きを稽古してきた日々。収穫もあれば挫折もありました。


 その末にいまの自分がいるわけですが、最近はどうも、追い突きに不自由さを感じてならないのです。


 歯がゆいほど、突きが自由にならない。ものすごく硬い、頑ななケースに入れられ、その形状のなかで押しつぶされるかのような窮屈さ。生まれかけた威力をもてあまし、十二分に発揮できない情けなさ。



 あれはどういうことなのでしょう。これまでは、あくまで意識的に身体を動かそうと稽古に励んできたつもりでしたが、どうも最近は自分のコントロールを無視して、その拳が、その突きが、わたしが思ったように動いてくれなくなっているようです。


 ただ一閃。速度と威力を秘めた追い突きだけでよいのです。それさえあれば、すべてが終わるのに。



 なんだか終始愚痴になってしまいました。

 裏部長、すこし早い夏バテかもしれません。


posted by 札幌支部 at 19:35 | Comment(0) | 裏部長の日記

2011年07月17日

修業者多忙

 こんばんは、裏部長です。

 蒸し暑い連休、いかがおすごしですか。


 現在の札幌は霧雨で、外へ出てじっとしていると肌寒いくらいです。

 つい先日には気温が三十度を超え、すっかり夏になっていた身体には少々しんどい気候です。




 最近、ふいに、空心館へ入った当初のことを思いだします

 あれはいまから七年前

 わたしはまだ大学生でした。



 空手のかの字も知らず、足を振りあげるだけで息を切らしていたあのころ。

 師匠の研究室で、わたしと部長との三人だけで、空手をやり、体道もやっていたのでした。

 
 稽古が進むにつれ、手狭になり、また門弟も増えてきたために、教室を借りるようになりましたが、あるとき稽古開始時刻になっても師匠が現れず、一時間ばかりすぎたころでしたか、血相を変えて走ってこられて、すっかり忘れていたと、お詫びのジュース片手に謝っていた師匠の笑顔や声が、昨日のことのように思いだされます。



 ……なんだか、遺書のようですね(笑)


 
 武術の右も左もわからず、ただ師匠の技に感動し、空心館へ入門して稽古をはじめたあの日から、丸七年。

 あっという間でもあり、思い返せば、ほんとうにいろいろなことがありました。



 それでいて、いまだに気持ちが失せず、なお烈しく燃えあがり、より一層の修業を志している現在の自分が、我ながら不思議でなりません。



 空心館には、武術としての、また護身術としての空手である「藤谷派糸東流拳法空手道」があり、一方で、武術の宝庫ともいうべき「体道」があります。

 空手だけを取ってみても、尽きることのない修業の課題があり、それに加えわれわれは、体道という宝の箱を有しているわけです。



 単に技や型の数だけを見ても、途方もない道場です

 もちろん、技数を増やすだけが稽古ではありません

 それを吸収し、深め、研究し、実践してゆく過程もふくめての修業です



 そう考えると、われわれのなんと多忙なことか!


 
 他の流派や他ジャンルの武術、格闘技の知識を得たり、本を読んだり、DVDで動きをチェックしたり、インターネットで動画を検索し、お気に入りに溜めこんで休日に鑑賞したりしている暇は、わたしたちにはないのですね。


 そんな時間があるなら、一本でも有意義な突きを

 資料を収集する金があるなら、栃木へ修業の旅に

 知識を溜めこむ体力があるなら、本部道場の猛者たちと



 武術を志す者は、多忙であることを、誇りに思うべきです。

 わたしはもう忘れません。


posted by 札幌支部 at 20:06 | Comment(0) | 裏部長の日記

2011年07月03日

いま考えること

 こんにちは、裏部長です。

 最近はすっかり夏で、暑い日がつづきます。

 北海道はさほど辛くはない気温ですが、本州はさぞや地獄のようでしょう。

 TVの天気予報で、「猛」とか「厳」という字を見るたびにそう思います。



 先週の金曜日。七月に入って最初の稽古。

 あいにく師匠はお休みでしたが、後輩たちは三名ほど参加してくれて、そこに部長も来てくれて、図らずも賑やかな夜になりました。

 基本をやり、その場ですこし動いて、移動稽古へ。

 師匠不在でわたしが指導役をする場合、極力丁寧に、基本に忠実に動くことを最優先に考えます。

 この日も同様で、とにかく基本的な動きを正確に、純粋に表現することを追求しました。


 稽古自体はさほど変わったこともなく、そのあと約束組手をやり、最後にすこしだけ体道の復習をして幕を下ろしました。着替えをはじめたのは午後八時十五分ほど。

 しかし、われわれが大学を出たとき、時計は午後九時をまわっていたのです。

 その間、何があったのか。


 熱心なる後輩たちが、稽古時に負けないほど熱心に質問をしてきてくれたのです

 これにはもちろん、わたしも部長も熱心に答えます。いつもの風景ではあります。


 ただ、たとえばそれが空手に限らず、体道の話や、本部道場でやっている抜刀術の話などに至ると、わたしもなんとなく、切ない感慨にふけってしまいました。


 ああ、いま自分たちが稽古できているものは、どれもすごく貴重なものなのだ。
 
 師匠から伝えられる空手もそうだが、たとえば体道などはどうだ。歴史があり、とてつもない内容を有しているのに、実際に稽古している人口はかなりすくない。

 本部道場でも数えるほどしかいないというではないか。


 北海道では、ここ札幌支部を中心に、特殊な事情で体道を教える空間が増えつつあるため、年々その稽古人口は増えているが、あれほど素晴らしい――先日、来られた中国武術の師範の表現を借りれば“まるで宝のような”――ものを、それくらいの人数しか稽古していないというのはなんとももったいない。

 
 もちろん、伝えるために、遺してゆくためだけにわれわれは稽古をしているわけではありません。

 純粋にたのしいから、もっと巧くなりたいと欲するからこそ汗を流し、しんどいことにも耐えられるのです。

 技や歴史を受け継いでゆくのはその結果であり、わたしたちはまず、黙って稽古に励まなければなりません。


 それをわかった上で、でも、どうしてもそう考えてしまうのです。



 師匠から教わる藤谷派糸東流拳法空手体道も、この地に、そして次の世代に伝え遺してゆく使命のようなものが、これからも稽古をつづけてゆくわたしたちにはあるのではないか。たのしく、前向きに取り組みながら、それぞれが高い志と、胸を張れる誇りとをもって、その術理を学べることを感謝すべきではないか。


 そんなことを、いまの裏部長は考えているわけです。



 
posted by 札幌支部 at 15:20 | Comment(0) | 裏部長の日記

2011年06月08日

拳を握る理由

 


 独白。

 
 己の未熟さを悔いるとき、身体のなかには熱がある。
 
 感情的にさせる何かがあった。それを抑えることも、紛らわせることもできなかった。

 そんな後悔。忸怩たる想い。

 こんな気持ちになるのなら、もう争いになど出会いたくはない。


 もう二度と。


 争わないためにはどうしたら良いだろう。

 いくらこちらが非武装で、温厚で、優しく接していても、攻撃的な人間はその姿勢を崩さない。

 野蛮であろうとも、自己中心的であろうとも、何喰わぬ顔で自己顕示欲を発揮する。

 辟易してしまうのだ。

 もう子守りはまっぴらだ。


 では逃げようか。

 最初から彼らには近づかず、自分だけの世界で生きようか。


 それも、またひとつの道かもしれない。

 あの人がそう生きたように、自分で山をつくり、その頂上に立てば変わるかもしれない。


 でも、自分はその道を選ばないだろう。


 実践と憧れはちがう。

 恰好いいとか、羨ましいとか、そんな感情は上辺だけのものだ。

 もしほんとうに欲するのなら、誰が何も言わずとも、それを実践している。

 そうせずに、憧れを募らせるだけで終わる対象は、結局のところ自分には合わないものだ。


 だから、師には意味がある。

 この師に出会い、この師について数年間を経てきたということには重い意味がある。


 ある人は言った。

 師をもつ人ともたない人のちがいは、ただ一点。

 謙虚であること。


 わからないことはもうわかっている。

 その闇を晴らしたいわけではない。

 真相などいらない。それを提示しようとする人間など不快でしかない。


 もっと単純に、もっと明快に生きたい。

 そして怠けるためではなく、逃避の動機にでもなく、ただ安住の地を求めたい。


 世間話のできる人間になりたい。

 理解しあい、呼吸しあい、ともに同じ風景を見て笑える仲間が欲しい。

 生き方が狭いかい?

 そんな考え方は幼稚だと、高いところから見下して笑うかい?


 それでもいいさ。

 青空のような拳を、こうして握りづづけることができるのなら。

posted by 札幌支部 at 14:05 | Comment(0) | 裏部長の日記

2011年02月01日

姿勢

 アクション俳優、スティーヴン・セガールが若きころのお話。


 念願の来日が叶い、日本で合気道やら空手やら柔道やらを習っていたセガールは、ある日、某神社でおこなわれている剣術の稽古へ参加することになりました。

 どこの神社でおこなわれているどんな流派の剣術なのかは判然としていませんが、本人がそう言っていたので事実でしょう。神主自らが指導していたというので、なんとなく興味をそそられる場所ではあります。

 とにかく、日本の武術に心を燃やしていたセガールは、拙い日本語聞きとり能力を駆使しつつ、師範の教えを受けるわけですが、剣の握り方について指導されているとき、彼は失態をおかしてしまいます。

 握り方や指の運用を教えてくれる師範に向かってセガールは、こんな風に言ってしまったというのです。

はい。それ知っています

 もちろん、言いたいのは「わかりました」ということだけだったのですが、まだ日本語を習って間もないころだったのでしょう、満足にその気持ちを表現することができなかったのですね。

 そのあと、師範はただひとこと、

ああ、そう。知ってるの。だったら外で自分でやりなさい

 と言って、彼を稽古から除外してしまったそうです。



 きっと、本来の武術というのはこういったものなのでしょう。

 ことばの問題だけではありません。

 それが外国人ならまだしも、こういったケースは、日本人同士でもよく見られます。

 そして、口から出たことばは十中八九、その人の心を表しているのです



 学ぶためには、学ぶ姿勢にならなければなりません。

 そして、真に学ぼうとしている人は、謙虚です。指導する者の前では無となり、教えられればすぐに、どうにかしてそれを吸収しようと努めるはずです。

 
 誰が、という話ではありません。

 それはわたしであり、これをお読みのみなさんでもあるでしょう。


 器用になるな。わかった気になるな。つねに謙虚であれ。



 それができなくなったとき、成長は止まる。


posted by 札幌支部 at 22:03 | Comment(0) | 裏部長の日記

2011年01月21日

臨機応変

 裏部長はいま、構えに取り組んでいます。

 ひさしく手をつけていなかったテーマです。長らく、ほったらかしにしておいたものです。

 やってみると、これがまたいろいろと考えさせてくれる、厄介なやつなのです。



 組手などにおいて、相手が前にいる。そしてこれから攻防をしようという状況にある。

 こういった場合に、まず構える。

 この構えのことをいまは考えているわけですね。

 
 わたしが思うに、要点のひとつは、すべてが相手に向いている、ということではないでしょうか。

 手はもちろん、足も相手からずれていない。手をそのまま出せば突き、足を出せば蹴りになるよう、きちんとすべてのパーツを相手に向ける。決してそっぽを向かない。


 半身をつくろうと思い、上半身をひらくと、後ろ足もそれにつられてひらいてしまうことを防ぎたいわけです。きちんと後ろ足は締めておきたい。



 ただし、これは出発地点です。

 これから自分が攻撃する、もしくは相手が攻撃してくるのを捌く、という状況下では、つねに同じ体勢を維持して動くことは至難のわざ。いや、むしろナンセンスです。相手が変化しているのに、こちらがずっと同じかたちというのはやはりおかしい

 この点がものすごく難しい。



 結局は「臨機応変」の四字に尽きるのでしょうか。

 しかし考えてみれば、武術でこれを実現するのは、とてつもなく高度なことです。きちんと決められた動きを決められた通りにおこなうだけで良いのなら、まだ楽だし、逆にすべて好い加減で良いのなら、それもまた簡単なことでしょうが、これはそのどちらとも違うし、そのどちらをも内包している。

 大変な道です。でも、それを師匠たちはやっているのですね。

 師匠の構えが、動きが、きちんとしていながら硬くなく、柔らかいのにだらしなくないのはおそらく、ほんとうの意味での「臨機応変」ができているからなのでしょう。


  
 いまやっている構えは、その第一歩と信じたい。



posted by 札幌支部 at 22:04 | Comment(1) | 裏部長の日記

2011年01月18日

個性を履きちがえない

 こんばんは、裏部長です。


 栃木のTくん、ならびに東京のT田さん。

 コメントありがとうございました。


 そうですか。師範は踵ですか。

 わたしも、同じ靴下を長く使用していると、いくぶん踵の部分が薄くなりますが、穴はあかないなあ。何かちがいがあるのでしょうか。

 本部道場でも稽古がはじまったようですね。想像しただけで寒気が襲うあの猛者たちが、床板を踏みぬかんばかりに突きあっているさまが、目に浮かぶようです。

 われわれも若さに任せて、そのあたりの激しさはもうすこし見習わなければ。


 T田さんはすごい。

 東京へ転勤されて、札幌支部にも本部にも顔を出せない多忙な日々を送られていながら、つねに稽古を生活の片隅に置き、満足せずに精進されているなんて、ほんとうに素晴らしいことです。

 またともに汗を流しましょう。



 して、こちら札幌支部の今日の稽古ですが――。

 あいかわらず、OくんとIくんといういつものメンバーで、いつも通りのメニューをいつも以上の気合いと元気でやってみたわけですが、いろいろと気づくことは多くありました。

 いや、それ以上に、反省すべき点が、わたしには多かったかな。


 それらについてはまた後日、じっくりと腰を落ちつけてから書きにきます。


 それは、大まかに言うと、今日のタイトルになります。


個性を履きちがえない


 再出発にはうってつけの、よい稽古でした。


posted by 札幌支部 at 21:54 | Comment(0) | 裏部長の日記

2011年01月14日

寒い穴

 こんばんは、裏部長です。

 
 今日の札幌支部の稽古はお休みです。今週末はセンター試験があるため、今日からもう教室等は使用不可なのですね。学校ならではの事情です。

 明日からはまた寒いそうで、受験生のみなさんには気張っていただきたい。いくら北国に生きる若者だとて、マイナス十度とかTVに表示されると、それはそれでぐったりくるものです。気後れせず、寒さにも負けず、立派にやりとげてください。



 そうそう、寒いと言えば――。

 みなさんは、靴下に穴があくとき、どこにできます?

 周囲の方たちや、TVドラマのしがないサラリーマンなんかを見ていると、たいてい指先ですよね。なんとも情けなく、指の頭だけが外へ出ているという状態しか、わたしは目撃したことがありません。

 しかし、わたし自身はと言うと、これが不思議。一度も指先に穴があいたことはないのです。


 穴が発生するときは決まって、足の裏、上足底にできてしまうのです。


 これはもう、職業病みたいなものだと諦めていますが、それで何足の靴下をだめにしたことか。

 片方に小さな穴があいているくらいであれば、端からは見えないし、家のなかで履くぶんには良いだろうと、わざわざ捨てずに使用しつづけているわけですが、この季節はさすがに辛い。

 氷点下でふた桁に達しようかという寒気が、数センチ四方の穴から忍びこんでくるのです。

 これは、考えただけでも、寒い。



 受験生のみなさん。どうか、穴のあいていない分厚い靴下を履いて、会場へ向かってください。

 健闘を祈ります。



posted by 札幌支部 at 19:46 | Comment(2) | 裏部長の日記

2011年01月11日

星の数ほど

 こんばんは、裏部長です。


 今日は空手の稽古でした。参加はIくん&Oくんのいつもの顔ぶれで、師匠は開始一時間後くらいに合流されました。

 前半は、基本稽古ひと通り、手廻し、移動を追い突き、逆突き、追い突き・逆突き、ワンツーとやり、型の復習をはじめようかというときに師匠が来られたわけです。

 後半は、体道をおこないました。Iくんは師匠と天心古流を、わたしはOくんの浅山一伝流の復習につきあいました。


 上記のふたりは、真面目に稽古へ臨んでくれています。感心するほどです。だからこそこちらも、すこしでも彼らの動きがよくなり、武術として向上するようにと、精一杯の指導をするわけですが、今日ふとこんなことを思ってしまいました。


 基本稽古ひとつを取ってみても、彼らに指導したい箇所は山のようにあります。それは仕方のないことで、いまのわたしを師匠が見れば、同様にあれやこれやと口を出したくなるはずです。段階の差こそあれ、修行途中である以上、上位の人間から見れば、そこに直したい部分はいくらでも発見できてしまいます。

 わたしが彼らを指導する際、気づいたことを次から次へ言ってしまっては理解しきれないだろうと思うため、至急直したほうがよいものを優先的に伝えているのですが、そのポイントたるや、いったい何個あるのだろうと考えてしまいます。


 其場突きにしたって、いくつもの注意点があるでしょう。くどくど書きませんが、初心者のころに口うるさく言われた数多のポイント。これをしてはいけない、こうすると脇があいてしまう、などなど、とにかく、数えあげてゆけば途方もない量の注意ポイントがあります。

 それこそ、星の数ほど。

 われわれは稽古を重ねるうちに、それらをきちんと網羅しながら、それでいて自然な動き、脱力した技を、ごく平然とおこなえるようになるわけです。


 これ、あたりまえのようにやっていますが、じつはものすごく高度なことではないでしょうか。


 
 基本のちょっとした動きにおいてさえ、無駄な稽古など一瞬たりとも存在しない。

 改めて感じさせられました。


posted by 札幌支部 at 22:19 | Comment(0) | 裏部長の日記