2013年08月09日

今日と来週の稽古について

こんにちは、裏部長です。


今日の稽古ですが、仕事のため私が参加できません。なので、お休みにさせてください。


来週は、火曜日をお盆休みとし、金曜日は通常通り稽古をおこなう予定です。


よろしくお願い致します。


posted by 札幌支部 at 12:22 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年08月07日

10日の稽古について

こんにちは、裏部長です。


今週の土曜日に予定していた武道場稽古ですが、参加人数が極端に少ないため、お休みにします。


よろしくお願いします。


posted by 札幌支部 at 13:27 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年08月04日

地球の本棚

 おはようございます。裏部長です。



 どうでもいい話ですが、春先から、大学へ車でゆくようになりました。アナログ人間を自称する裏部長も、交通の便利さには抗えなかったようです。汗っかきなので、夏場はとても助かっています。


 移動手段が変わり、進むスピードも変わると、おのずと見えてくる風景が違ってきます。交差点で信号待ちをする高校生。歩きながらあわてて化粧をなおす老婆。大学生たちは無遠慮に自転車で道路を横断し、夜にはランニングをする人をよく見かけます。みな、日中に忙しさを抱えながら、それでも体重を減らすために努力しているのですね。


 先々週の金曜日、花火大会がありました。会場の近くに自宅があるわたしは、帰りの交通渋滞を考慮して、この日ばかりは以前のように、地下鉄とバスで大学へ向かったのですが、正門前に降りたってびっくり。なんと、ついこないだまであったコンビニエンス・ストアがなくなっていたのです。いえ、そればかりではありません。正門前にあった〔不二家〕の店もなくなり、すっかり空き店舗と化していました。


 これには驚きのあまり立ち止まり、しばし呆然としてしまいました。


 思いもかけない風景は人を立ち止まらせます。そして、これまでには感じることのなかった印象を、その胸のうちに芽生えさせ、その人が望むと望まざるとに関わらず、心を惹きつけてやまないのです。





 以前、体道の稽古をしていたときのことです。


 後輩が天心古流の「肘詰」をやっているのだけれど、どうも上手くゆかない。相手の肘の上に自分の肘を置くところまではなんの問題もない、というか、誰がやってもできるのですが、そこからがいけない。何度やっても、相手を下へ潰してゆくことができないのですね。


 わたしはほとんど感覚的な人間なので、こういった場合、まず技をかけてもらうことにしています。実際に受の立場でその威力を味わってみるのです。


 このときも後輩に「肘詰」をかけてもらいました。身体の向きや形は間違っていない。この技が上手くゆかない最大の原因は、力が肩まわりにわだかまってしまうことですが、どうやらこの後輩もその傾向にあるらしい。だから、指導をする立場としては、力の渋滞を解いて、下へ下へと、まるで水が滴るように流してゆけるよう説明すればよかったのですが、このときわたしはふと思ったのです。


 この技をやるとき、どうしてほとんどの人が力の渋滞を起こすのだろう?


 たしかに、力がわだかまりやすい体勢ではあります。しかし、こうも高い確率で多くの人がそうなってしまうのには何かべつの理由があるのではないか。人の肉体は均一ではなく、またその内面的な感覚も一様ではありませんが、もしかすると共通する穴があるのではないか。わたしはそう考えたのです。


 と言ったところで、じつはすぐに見つかりました。その原因は、技のはじめの瞬間の、捕の側にあったのです。


 この「肘詰」という技では、胸倉をつかまれた捕が受の手をとり、身体をつかいながらその腕を返すところからはじまります。肝心なのはそのときの、腕を返そうとする捕の右手です。ここに不要な力みがあったのです。技のはじまりであるこの場面において、捕が受の右手首を強く握って返してしまうと、いわゆる裏骨法のような形になってしまい、かなり痛い。痛みを感じると、受は即座に反応し、その腕は無意識のうちに緊張し、すぐさま硬直してしまいます。捕が腕を返しきり、肘の上に肘を置いたとき、それは人間の腕というよりも鉄橋のような硬さをもっていることでしょう。


 技の熟練度がさほど高くない人間がそんな腕を前にして、滞らせずに、力を下へ下へと流してゆけるわけがありません。きっと、肘をのせた瞬間に、「あっ、これいかねえな」と感じるはずです。


 つまり、すくなくともこのときの後輩は、自ら技をしづらくしていたのです。その証拠に、腕を返す過程において極力がんばらず、力まずにおこなうと、要は相手の腕に余分な緊張をあたえていないため、思いのほかあっさりと「肘詰」をきめることができました。


力で技をやるんじゃない。技が力を生むのだ


 これは大原則だけれど、ある程度修業を積んだ人間でないかぎり、技の力と言われてもちんぷんかんぷんで、わからない。だからこそ最初のうちは、自分の感覚や意見を滅して、素直に、ただ純粋に技の「かたち」を指定された通りにやらなければならない。正しい形が技になり、その技が力を生んでくれるのですから


 しかし、体道の技が教えてくれているのは、そうした「かたち」ばかりではなく、その「かたち」をおこなう行為そのものを通してしか発見できない、汲み取れない感覚でもあり、いやむしろ、この感覚のほうこそ重要なのではないか。わたしは最近そんな風に考えるようになりました。技の動作など表面的なものにすぎない。肝心なのは、技の稽古を通して、動作の奥底から湧きあがってくる目に見えない感覚で、だからこそあれだけ多くの技数が必要なのではないでしょうか。


 掘る鉱脈が多ければ多いほど、湧きでる資源は豊富なはずです。





 を抜く際のことについて、二点気づいたことがありました。


 ひとつは抜刀時の右手と左手の関係性。元道新文化センター受講生のO氏より譲られた模造刀をつかっていたとき、刀を抜く右手とその角度を調節する左手とが、分離しているようで分離していない、まるで夫婦手のような連動を見せた瞬間がありました。感覚のなかで、神経がつながった感じです。


 わたしはまだほとんどと言ってよいほど刀の稽古をしていませんが、あれくらい繊細な領域で肉体と向きあい、感覚と対話することができたらどんなに面白いことでしょう。いつか自分の身体にきちんと合った刀を買って挑戦してみたい。


 あと抜き打ちのときの刀の動きが、真上から斬りおろすときと、角度が違うだけでまったく同じ理論に基づいたものになっているのだということも、いまさらながらの発見でした。要は、手よりも刀が先に走る。この一条に尽きるのでしょう。





 空手についても、二点。


 よく、「あの人は歩いているときもナイファンチンだったよ」という証言が本に載っていますが、あれは歩き方というより腰の話なのではないか。内歩進初段の、騎馬立ちのときの腰。あの吊っているような状態の腰をキープしたまま歩くことは可能です。肉体的にもかなり楽です。


 三戦で立つということにも最近はまっています。上半身はほとんど力まず、下半身だけの締めで立つ。すると、体内に明確な軸、というかができる。いわゆる体幹というやつでしょうか。この幹を置いた上で其場突きなどをすると、腕にはほとんど力を入れずとも速く鋭く拳をとばすことができます。


 この二点もまた、表層的な技法よりもそれを通して得られる感覚だと言えます。形のないものだからこそ、ありとあらゆる動作に応用できる。






 師匠が以前、「自分は欲張りかもしれない」と書かれていました。武術家として生きる以上、何かひとつのことだけをしているのでは不十分で、「何かされているのですか」と尋ねられたら、「武術をしています」としか答えようのない状態が好ましいのだと、そのために、武術の幅を広げるためにいまも修業をつづけているのだと、そう記されていました。


 わたしはあの文章を読んだとき、欲張りだと思えるほど広範囲に稽古できる人は限られていて、たとえ学ぶことができたとしても、それらすべてをきちんと理解し、吸収できる人はかなりすくない、師匠はその数すくない武術家のひとりなのだから、べつに欲張りでもいいではないかとさえ思ったものです。大量のデータをダウンロードしたくても、パソコンの容量がすくない人は、したくてもできないのですから。



 しかし、最近はなんだか違う印象をもつようになりました。



 もしかしたら師匠は、何物にも規定されない存在になりたいのではないか。空手をやっている空手家、柔術をやっている柔術家、剣術をやっている剣術家など、規定をした瞬間に発想は制限され、技に対する柔軟かつ自由なアプローチができなくなります。枠を設けたほうがそりゃ楽です。一定のルールのことさえ考えていればよいのですから。しかしそれは、やはり一定のルールに縛られるということでもあります


 誰かの名言に、「“俺は誰にも媚びない”と宣言することもひとつの媚びだ」というものがありました。表明したとたんに、おのれを規定され、可能性を制限される。師匠はそうなりたくなくて、ありとあらゆる技に通じようとしているのではないか。



 もちろん真意は師匠の胸のうちです。計り知れないものがあります。



 しかし、ひとつだけたしかなことは、斯く言うわたしが、そのような心境になりつつあるということです。どこかのカテゴリーに安住したいと思って身を寄せてみるけれども、すぐに息苦しくなる。すべての根底には空手があるが、じゃあ空手だけでいいのかと問えば、やはりそうではない。






 物理的には存在しない無数の本棚が、所蔵される書物を無言のまま待っています。


posted by 札幌支部 at 11:21 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年08月03日

夏休み期間中の稽古日程

 おはようございます。裏部長です。


 夏休み期間中の稽古日程が決定したので、お知らせします。


 8月2日から9月27日まで、札幌大学1001教室にて、毎週火曜日と金曜日の夜6時から通常どおりおこないます。いまのところ休みはありませんが、お盆などの時期については、参加者をあらかじめ募った上で実施を検討します。


 第2土曜日におこなっている武道場での稽古も同様です。参加希望の方は、6日あたりまでにご連絡ください。その時点での参加人数によって、こちらも実施を検討します。



 よろしくお願い致します。
posted by 札幌支部 at 08:56 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月28日

立ち止まるための雨

 こんばんは、裏部長です。


 つい数日前、道新文化センターで講座を終えたあと着替えていると、受講生の方から、「空心館では忍びになるための修業をしているのか」と訊かれました。この日はいつものように空手の基本と移動をやったあと、拳法図の技の前に、木刀を用いて抜刀などの稽古もしたので、きっとそう思われたのでしょう。


 わたしは、「たしかに、日本武術研究所をつくったのは藤田西湖という忍びだったけれど、われわれもそのあとにつづいて、忍びの修業をしているわけではありませんよ」と答えましたが、そう話しながらも内心では、なんだか懐かしい興奮のようなものを感じていました。


 たしかに、そのような想いをもって稽古に臨んでいた日があったなあと、学生時代の記憶を反芻していたのです。



 わたしがまだ大学生だったころ、稽古の日数はいまよりも多く、たしか空手は週に三回、そのほかに体道のみの稽古が一回、加えて、土曜日の午前中に武具の技を教えてもらったこともありました。教室では天井が心配なので、胴衣姿にスニーカーを履いて校舎の裏の芝生のところへ行って、法典流の十型などをやったのです。部長の眉間に杖があたり、出血したため、急遽稽古が中止になったこともありました。


 夏休み期間中などはどうしても稽古人数が減少するため、空手の日でもそのときのメンバーしだいで内容を変えることがありました。教室の電灯をつけず、窓から差しこむ夕日だけでじゅうぶん明るい時刻、師匠とふたりきりだったため、法典流の分銅や鎖の技を教わったこともありました。鋼の短棒(?)が木刀をはじき、その側面に赤い錆びがついたことも、分銅という武具がおもいのほか怖ろしいものであると知ったことも、いまとなっては懐かしい思い出です。



 しかし、いつからそんな風に、わたしは多様性のあるものとして稽古を捉えなくなってしまったのでしょうか。



 正直なところ、道新文化センターで先のように尋ねられるまで、わたしのなかに、忍びになるための修業と誤解されても仕方のないほど多彩な稽古をしているという自覚は消え失せていました。自分自身が日常的に触れているもの、つまり、もっとも高い頻度で稽古をしているのが空手と体道(おもに柔術)だったせいかもしれませんが、しかしこの講座では刀の動きもやるし、札幌大学武道場での稽古では、杖も棍もやっています。


 それなのに、どうしてわたしのなかにその認識が薄れかけていたのでしょう?



 考えてみるに、ここ数年の裏部長は、先に書いた空手と体道の、それも空手のほうに強く惹かれていたせいではないかと思うのです。空心館のなかには空手のほかに、柔術をはじめ、刀、杖、短杖(半棒)、杖、棒などの武具をあつかう側面があり、聞けば師匠らは手裏剣も投げられるというほどで、やっていないのは弓くらいなものです。札幌支部にいるわたしも、その一端には触れさせていただいていますが、意識のなかでは、ここ数年は空手のなかに立ち止まっていたような気がします


 それについては、以前書いたことと重なるためあえて記しませんが、要は、単に知っている人から出来る人への脱皮をはかりたかったのです。稽古の内容として空手はその大部分を占めるもので、だから逆に言うと、この空手が充実していないと、そのほかの柔や刀や杖の技術をいくら吸収しても満足はできない。むしろ、それら空手以外の技に通じるにはまず、大黒柱たる空手をもっと深めなければならない。わたしはそう考えてここ三年ほどをすごしてきました。


 師匠が中国へ行かれてからの約一年で、わたしが気づき、発見し、そして吸収できた内容はここに書ききれないほどあります。受けが変わり、突きが変わり、蹴りも変わりつつある。そして、それを日々おこなう肉体そのものも変化を見せはじめている。こんなことはいままでになかったし、またそれらの変化が今度は体道に飛び火し、そして体道で得られた変化がまた空手に帰ってきたりもして、とてもたのしい。師匠のもとへ入門して約十年。空手と体道は、いまが一番たのしいです。


 多くの技法について、あれやこれやの知識をもつことをよしとせず、実際に理想とする技術をやれる人間になりたかった。そのための選択として、ときには立ち止まることも必要ではないでしょうか。立ち止まるからこそ、ひとつの穴を深く掘り進めることができ、また目移りしていないからこそ、自分について、あるいは自分をとりまく周囲の環境について、冷静に判断することができる。


  
 すべてはなのかもしれません。自分で採用したと思っている道も、じつはすでに誰かとの出逢いによって、そこに生まれた縁によって選ばされたものなのかもしれない。だからいま、たとえばわたしが、空手を捨てて柔術一本で生きると宣言してみても、いや体術はすべてやめて、刀の道をゆくと決意してみても、そこに縁がなければ、一夜のむなしい夢と消えてしまうでしょう。そして、また次の日には大学へゆき、胴衣を着て、「じゃあ、其場突きからいきましょう」と言っているに違いないのです。


 きっと、そこにはこれまでのどの瞬間よりも面白がって、嬉々として汗を流している裏部長がいることでしょう。







 今夜の札幌は雨です。


posted by 札幌支部 at 20:20 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月20日

なぜ力む必要があるのですか?

 こんばんは。裏部長です。



 たった一瞬の感傷でも、それが心を揺れ動かしたり、それまで目に触れなかった風景に気づかせてくれたりすることは、そう頻繁に訪れる機会ではありませんが、変化を渇望する人間にとってはありがたいものです。それこそ、たった一個の単語が自分のなかの世界を変えてしまうというのは、奇蹟にも似たすばらしい体験だと思います。


 体道で技を習った際、自らのことばでその内容をノートに記しますね。あれは、体道の教科書が市販されていないということもありますが、重要なのは、そうやって自分の文章で内容をまとめることにより、さらなる理解と技法の定着を促す作用なのです。ことばできちんと表現できたとき、たいていの場合はその技自体もほどよくこなせるようになっているものです



 最近、ある本を読んでいて、「反発原理」ということばに出逢いました。その瞬間、わたしのなかに立ちこめていた靄が一気に晴れ、伊丹十三さんの表現を借りれば、長いあいだ目の前にあって視界を遮りつづけていた曇りガラスが割れて、その向こうから光が差したような思いさえ感じたほどです


 この「反発原理」ということばを用いると、どんなことが表現できるか。以下に裏部長なりの理解を書いてみます。



 一般的な空手の道場においては、稽古のなかで自由組手をする、あるいは試合に出て組手をするということがほぼあたりまえのようにおこなわれています。それが伝統派とよばれる寸止め空手であれフルコンタクト空手であれ、ほとんどの稽古者がこの環境のなかで日々を送っていることでしょう。若く、血気さかんで、なおかつ強さにあこがれる心のもち主であれば、当然です。


 あえて表現を変えて言うならば、組手は、相手と「攻防をする」ということになりますが、この攻防というのが意外に厄介な代物なのです


 攻防の「攻」は、自分発信でおこなえる行為です。自分のタイミングで、自分のやりたい攻撃を、自分のやりたいようにおこなえる。もちろん、それを相手がさせてくれるとはかぎりませんが、行動の選択は自由にできます。しかし、一方の「防」はそうはいきません。こちらは、相手の攻撃があってはじめて稼働する行為ですから、自分勝手におこなえない。相手ありきの行動なのです。


 なので、空手にかぎらず、打撃の要素をもつ武道や格闘技において自由組手をおこなうと、決まって選手たちからは「攻防」の「防」の字が消えてしまい、「攻」一色になってしまいます。つまり、攻撃のやり合いになってしまうのです。試合の映像などで、膠着状態になっている場面をよく見ますが、あれは両者が攻撃しようとしてぶつかり合っているわけで、どちらもその立場を変えないため、事態がにっちもさっちもいかなくなっているのです。


 どちらもが攻撃一色になってしまったふたりは、言わば同じ磁極を向きあわせた磁石のようなものです。つまり、どう工夫したところで反発しあってしまう。両者くっついたところからはじめても、離れたところから急いで接近しても、反発した関係性はいつまで経っても変わりません


 この状態において、相手に勝とうと思ったら、何よりもまず先手必勝です。相手がこちらの磁石を弾いてしまう前に、突進して、とにかく攻撃あるのみ。弾かれる前に弾いてしまわなければ、自分が負けてしまいます。多少バランスを崩そうが、受けがおろそかになろうが、とにかく攻撃! ということになるでしょう。


 わざとらしい言い方に見えるかもしれませんが、わたしは何もそういった空手を否定しているわけではありません。むしろ、そのような方針で強さを求めている場においては、上記のように、受けよりもとにかく攻撃、寸止めならばポイントの取れる速さを、フルコンタクトなら的確にダメージをあたえられる部位の選定を、というふうに考えるのは、論理的にみても科学的にみてもまったく矛盾のないやり方です。その方法論を採りたいのならまったく問題なく実行できるでしょう。




 しかし、肝心なのは、そうした反発した状態の技や身体を、われわれは獲得したくないという点なのです




 天心古流に「両手裏投」という技があります。相手がこちらの両手首を両手でとる、こちらはその状態のまま身体を回転させ、最終的には倒し、腕の急所を攻める技ですが、習った当時わたしはかなり苦労した記憶があり、いま札幌支部で稽古している後輩たちも一様に苦悩していたものです。

 
 この技において陥りやすいのは、前半の、それも動作の出発地点にあります。つまり、身体を回転させて相手を崩そうとしても、突っ立っている相手のせいでこちらの身体が思うように動かないのです。


 いま冷静に考えると、あの技が上手くできないとき、決まってそこには反発原理が隠れていたように思います。つまり、反発しているというのは、「自分」と「相手」というふたつの存在がそこにあって、「自分」が「相手」を押しているという状態なので、相手からすると、自分を押そうとしている対象が容易に把握できてしまうわけです。押されている人間はその力に逆らおうとしてしまうため、自然とそこには反発しあう力が生まれてしまっていたのです。


 逆に、あの技がなんの違和感もなくできるようになると、そこに「自分」と「相手」というふたつの存在はなくなり、言わば、相手と自分がひとつになった、一個の輪があるのみです。捕の人間はその輪をただ廻している(正確に言えば、自分もその輪の一端となって廻っている)感覚になり、受の人間は、誰かに押されているという感覚を失うので、抗う対象をも見失い、笑ってしまうほどたやすく崩れてくれます。



 いま裏部長が理想として考えているのは、あの「両手裏投」のときの感覚なのです。あの感覚で、空手の受けはもちろん、突きすらもやれないだろうか。そう考えはじめているのです。




 そもそも、反発する突きとはどんなものでしょうか。


 文章で書くとなんとなく小難しい質問のように見えますが、答えは簡単です。それは、

相手のなかへ入ってこない突き

 です。


 ん? それが答え?


 そう思われた方もいらっしゃるでしょうが、現時点でもっとも的確な表現を、もっとも簡潔に述べるならば、わたしはそう答えます。



 われわれはごく当然のこととして、相手の懐のなかまで身体を運んで追い突きをします。それは単純な技術論で、運んだ足が相手から遠いと、届いたとしても拳は相手の身体の表面を叩くだけになってしまう。その距離感で突きこもうとすると、前傾姿勢になり、バランスが崩れてしまう。できれば自分の軸を崩さず保ったまま、さらに突きこんで、拳が相手を貫通するようにしたい。


 だから、まずは相手の懐のなかまで足を運び、腰を入れ、その上で拳をとばすようにしています。わたしもそう最初から習ってきたし、当然そちらのほうが論理的にも優れた突きの身体運びなのですが、じつは、この動作に、“反発しない突き”の要諦が隠されていたのです。


 とはいえ、これは理論立てて説明するほどのことではありません。試しに相手へ向かって、深く踏みこまずに追い突きをしてみてください。拳が相手へあたった瞬間、反作用が自分の身体へもどってくるのがわかるはずです。そしてそのとき、突きを喰らった人間はほんのわずかでも、イラッとしたはずです。つまり、動きそのものが反発しているため、その動作によって衝撃と痛みを受けた人間の心のなかにも、反発しようという感情が生まれてしまうのです


 ではその次に、普段どおり深く足を運び、たった一本でいいので、ドーンと突きぬけるようにやってみましょう。もちろん、拳の照準は相手の水月にあて、実際にそこを突いてください。しかし、身体はあくまで突進モード、追い突きの感覚も、相手にあたればよいのではなく、あくまで貫通させるイメージでおこないましょう。


 まったく違う感覚が、突いた側にも突かれた側にも生まれるはずです。




 突きがそうならば蹴りや打ちだって同じ話だし、攻撃にある理論はそのまま防禦にも応用できなければほんとうではないのだから、この反発しない感覚を用いて、相手の突き蹴りを受けることも可能でしょう。いや、そうできるように稽古するのが理想でしょう。裏部長はそう考えています。


 そして、空手でそのように実地検証ができたならば、今度はそれを体道へもってきて稽古することも可能でしょう。相手と反発しないというのは、同じ磁極をむけて弾きあっていた磁石の一方が、その性格を一変させたようなものです。N極どうしで反発しあっていたところで、こちらがS極になってあげる。すると、いままで反発していたふたつの磁石が瞬く間にくっつき、ひとつになってしまいます



 この「ひとつになる」ということ、ものすごく重要なポイントだとわたしは思うのですが、どうでしょうか。



 先ほどの「両手裏投」の輪のように、相手も自分もそこにいない、いやもっと言えば、そこに自分はなく、相手と技だけがあるような状態で動くことができれば、これまでに稽古してきた技法はまったく違った顔を見せはじめるはずです。そして、その感覚を会得できさえすれば、どこへ行っても、何をしていても、つねに技とともにあると言えるような人間になれるのではないでしょうか。


 いささか大仰ですが、憧れるにはじゅうぶんすぎる境地で、そしてきっと、師範や師匠はすでにそうなっていらっしゃるのでしょう。そうでなければ、その下で稽古をつづけるわたしが、たとえなかば理論段階の話だとしてもこのようなことを考えられるはずがありません。





 返す返す、凄い話です。登れば登るほど、これまで見えなかった高い山が目の前に現れてくる。雲に覆われていたその山は、ある程度の高さまで登らなければ見ることさえ叶わない。地上にいる人間には姿さえ拝めない。





 凄い世界です。


 しかし、やっぱり面白い世界です。





posted by 札幌支部 at 20:43 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月15日

 こんにちは、裏部長です。


 海の日、いかがおすごしでしょうか。暑すぎて海にすら行く気が起こらない? 同感です。大汗をかくのは道場のなかだけでじゅうぶんだと思う今日このごろ、あいかわらず扇風機しかない部屋のなかで裏部長はパソコンに向かっています。




 先日、稽古論めいたことを書きましたが、フェアであるというのはもっと簡単に言うと、「われわれはさまざまな形を学ぶ稽古をしているのだ」という一文に集約される気がします。空手にせよ体道にせよ、わたしたちは先人たちの伝えたいくつもの形(型や技と言っても構いません)を学んでいます。いや、それらを学ぶことしかしていないし、武術の稽古というのはそれ以外にありえないとも言えます


 たとえば、体道のなかに出てくる天心古流の「附身」。受が中段追い突きで来るのに対し、捕は掛け受けや裏拳打ちなどをし、足を払って倒して極めるという技ですが、これを習っているとき、わたしたちは「附身」という技の形(内容)を教わっているのであって、それが実戦でつかえるかどうかの議論も、実戦でつかうためにはどうしたらよいだろうかという検証もしてはならないのです


 要は、捕の人間が技の内容を把握し、その通りに身体を動かせるようくりかえしおこない、最終的に自然なやわらかさをもって相手を制することができるように練習している最中に、受の人間が、空手の組手でやるような本気の追い突きをしていったのでは、稽古が破綻してしまいます。捕は手首をとれない、はたまた突きが鋭すぎて喰らってしまう。そのあげく、「この技は実戦でつかえない」と烙印を押してしまう。


 これ、武術稽古にありがちな瞬間で、この上ない愚行です。なぜなら、そのときのわたしたちは、「附身」という技の形を学んでいるのであり、それを実戦でつかうための応用をしているわけではないからです。実戦ということになれば、体道のときのように自然体で相手の攻撃を待つ必要はないし、動きの連続性に鑑みて、当て身などを省略することもありえます。受が、技をされるために動くのではなく、純粋にこちらへダメージをあたえようとして追い突きをしているのに対し、捕だけが馬鹿正直に、体道の「附身」という技をその形どおりにやろうとしていたのでは、アンフェアです。均衡はすでに破られているのです。



 
 いま札幌支部に来られている稽古者のなかに、以前われわれとは縁のないある道場にて剣術などを学んでいた方がいます。この方が先日、わたしが試案していたある技を見て、「そのような技は実戦でつかえない」というような発言をされました。非常に考えさせられるお話で、勉強になりました。


 その日、わたしは拳法図のある技を後輩につきあってもらって検証していました。受が帯刀した状態から抜きざま斬りつけてこようとするのに対し、捕は一歩出ながら右手でその右手首を制し……という技です。拳法図のなかにはこの系統の技がいくつか出てきます。


 たしかに、いままさに抜刀しようとする人間に向かって、丸腰の人間が素手で押さえにゆくという技は、一見すると非常識で無謀な行為に思えるかもしれません。それは、刀の扱い方を知っている人間であればあるほどナンセンスに感じるはずです。


 しかし、何度も言うようですが、われわれは形を学ぶ稽古のなかにいます。先達たちが残していったそれらの技を、まずは吸収する段階にいるのです。もちろん、技の有意性を検証することは、武術家としては当然の姿勢でしょうが、それは武術家と言える人間のする行為で、わたしたちのような修業段階の稽古者がたやすく手を出すべきものではありません



 それに、実戦でつかうためにはどうしたらよいかという応用の稽古をしないのには、もうひとつ大きな理由があるように思えてなりません。先の拳法図の技を例にとって説明しましょう。



 受はすでに両手を刀の上にのせている、つまりあとは抜くだけの状態になっていて、かたやの捕は一歩を出してようやく手の届く位置に立っています。そして、受が刀を抜こうとした刹那、瞬時にとび出して押さえようというのですが、この場合すくなくともふたつの問題点があります。

 
 ひとつは間合いです。捕が一歩を出してようやく手の届くという距離感は、どちらかというと受のほうの間合いです。つまり、捕からするとすこし遠い。実戦でこの技を成功させようと思ったら、まずはこの間合いを調整しなければなりません。要は、間合いを詰めるか、安全圏まで大きく後退するかですが、今回は相手の手首を押さえなければならないため、前者を採るしかありません。捕は技をはじめる前に、相手を間合いのなかへ入っておく必要があります。


 次に、動きを起こすタイミングです。受が抜刀するのに合わせて動いたのではやはり遅い。捕は、相手の心のなかにこちらへ対する敵意を見つけ、その敵意のあとで受の手が刀へ伸びはじめた瞬間に動いていなければ間に合いません。


 現代のわれわれはもちろん、江戸時代の侍たちでさえ、両手を刀の上にのせてつねに臨戦態勢のまま外を歩くことはありません。その体勢は刀を抜く寸前にできあがるものであり、当然のことながら、その体勢をとる前には「こいつを斬ろう」という思いのほうが先に発生します。斬ろうと思うから手が動くのであって、手が動いてから斬ろうと思うのはただの狂人です。まともな人ではありません。


 なので、この拳法図の技を捕の側から見て、実際につかえるものとして検証する場合、間合いを調整し、相手のなかに攻撃を意を見つけ、手が刀へ向かった瞬間に押さえてしまうしかない。裏部長はそう考えます。



 しかし、です。


 
 こういう応用をしはじめると、とてつもなく怖ろしい現象が起きはじめます。それは目に見えず、音もなく舞いあがる綿ぼこりのように、軽やかに、しかし着実に浸食して、わたしたちの思考を腐食させます。


 先の問題点とその解決法では、捕が技を成功させるためには受のなかに攻撃の意をまずは見つけなければならないと書きました。それくらい繊細に、相手の呼吸などにも気を向けて動かなければやられてしまう。これは武術全般に言えることでしょう。しかし、そこまで踏みこんで考えはじめると、考察と検証のスピードは衰えるどころか加速して、そしてついにはこんなことまでも疑いはじめてしまいます。


そもそも、どうして相手は自分のことを斬ろうと思ったのか


 現代社会においてはもちろんですが、たとえこれが江戸時代であったとしても、丸腰の人間に刀をもった人間が一方的に斬りつけるということは異常です。道場内で稽古をするときや、たがいに納得した上で立ちあう際には抜刀することもあったでしょうが、往来で、むやみやたらと刀を抜くことはありえません。もしそういった事態が現実に起こると仮定するならば、先にこちらから手を出したか、あるいは相手がほんとうに狂人であったかのどちらかでしょう


 つまり、先の拳法図の技の実戦性を疑いはじめた途端、そのシチュエーション自体も検証せねばならず、もし自分から攻撃をしかけたのであれ、向こうがとち狂った異常者であったのであれ、その環境のなかに入ってしまった自分をこそ、まずは戒めなければなりません。前者であればおのれの好戦的な性格を、後者であれば危機回避能力をまず見直し、反省し、改める必要があるでしょう。


 そして、一度そうして疑いはじめたのなら、拳法図や体道だけでなく、空手も同様の目線で検証しなければ嘘になります。相手のことが憎くないのにどうして組手で中段追い突きができるのか。ふだん誰かを一方的に痛めつけたいわけではないのに、なぜ突きや蹴りを稽古するのか。そもそも、どうして拳を握るのか……と、ここまで考えを延長させた瞬間、わたしたちは稽古する意味を見失ってしまいます。




 なぜ拳を握るのか。なぜ突きや蹴りや打ちや受けを学び、約束組手で本気の追い突きをくりかえし稽古するのか。どうして体道の技をやる際に、相手を打ったり突いたりつかんだり抱きついたり刀で斬りかかったりするのだろうか。


 すべての答えはここにあります。


わたしたちがしているのは、さまざまな形を学ぶ稽古だから




 空手の其場突きでも追い突きでも、それが武術の技だから稽古できるのであって、相手へ恨みを晴らすためにやるのであれば、わたしなどはすぐに身体が動かなくなってしまいます。逆に、其場突きという形、追い突きという形を稽古しているのだという認識があれば、べつに誰かを憎く思っていなくても、実際に拳をぶつける対象が目の前にいなくても、われわれは自分ができる最大限の突きをすることができます


 一般的に、空手の経験者のなかにはこの考え方が稀薄なように見受けられます。札幌支部にも、これまでに幾人も空手経験者が来られましたが、約束組手などをすると、身体はまっすぐ前を向いたまま、手だけで横によけた人間を突いてしまうということが頻発し、また受けを取る人間が下がったりすると、突く的に拳が届かなくなってしまうので、身体そのものが止まり、追い突きどころの騒ぎではありません。


 これは、ほとんどの空手修業者が自由組手や試合を中心に稽古している証拠で、つまりは拳で撲ったり足で蹴ったりする対象がないと思いきり攻撃できないのですね。言い方を変えると、それは相手に翻弄されているわけで、攻撃してくる寸前にこちらが前に出たりすると、もうそれだけで動きが止まってしまう。当然、突く対象がないひとり稽古では、其場突きも追い突きも満足にできません。


 もちろん、ひとくちに空手といってもその活動の場は多種多様で、われわれのように試合などへまったく関わらず、ただ純粋に技だけを稽古しているほうが珍しい昨今にあっては、このようなことを書いても共感されにくいでしょう。その違いをじゅうぶん理解した上で、同門以外の人とは向きあうべきです。






 裏部長が考える稽古論でした。
 


posted by 札幌支部 at 14:20 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月06日

基準と無欲

 おはようございます。裏部長です。



 最近つくづく、「自分は無欲だなあ」と感じます。べつに聖人ぶるわけではないのですが、ほんとうに物欲がなくて、どうしてだろうとあらためて考えてみますと、なんてことはない、裏部長はただ、興味があるものか自分が実際につかうもの以外にあまり熱くなれない性格だったのです。


 たとえば、先月ひさしぶりに武術関連の書籍を買って読みました。なんと三冊も。一冊は形意拳についての本、もう一冊は中国拳法全般についての本、そして最後は空手の本でしたが、とても興味深く読みました。いくつか収穫があったし、何よりもそうして他流儀の情報に触れることが久方ぶりであったために、とても新鮮な時間でした。師匠のもとへ入門するまでは、手に入るかぎりの武術関連書籍を読みあさり、そのつど一喜一憂していましたから、あのころのことを思いだして、なんだか懐かしささえ感じました。


 せっかくよみがえった新鮮な感動なので、できれば持続させてみたいと思い、その後何度か大型書店を訪れて新たに武術関連の本をさがしてみましたが、しかしこれが面白いことに、もう一冊も手を伸ばしたいと思えるものがないのです。


 もちろん、藤田西湖さんの本などは、欲しくても値段が高くてなかなか手が出ないという事情があるので、この場合には除外していますが、それ以外の書籍に対してはまるで関心がもてないのです。例の三冊を選びとったとき、読了したときの感触はまだ新鮮さを失わずにこの胸のなかで生きているのに、書店へ行き、実際に書棚の前に立ってそのラインナップを目にした途端、一気に熱は冷めて、結局は何も買わずに帰るはめになってしまいます。


 要は、買いたい、読みたいという欲そのものがもう存在していないのですね。先の三冊については、たまたま内容に惹かれただけであって、他流儀の情報を何がなんでも知りたい、吸収したいと思っていたわけではなかった。書店にならんでいる本たちにはいっさい罪はなく、裏部長個人の問題だったのです。



 こういうことは稽古のなかにも反映されてきます。



 この春から稽古へ復帰しているS呂くんと話していたときに、「今後は蹴りもやりたい」という話題になりました。彼は、本部道場へ行ったときに、われわれがY師範代に稽古をつけていただいていたとき、端で蹴りをやっていた他の有段者の動きを横目で観察し、「うわあ、すげえ蹴りしてんな」と思ったそうで、栃木訪問から六年が経った現在でもその印象を鮮烈におぼえていました。


 彼は、「自分は欲張りなので、すごい動きを見ると、自分もやってみたいと思うんですよ」と言っていました。当然、空手をやっていれば突き以外にも魅力的な動きはあるし、それに、彼のように身長が高く、脚も長い人は、その武器をおおいに活用したいと思うでしょう。本部の猛者たちのえげつない蹴りを目にしたとあればなおさらです。


 だから、師匠が帰国したのちは、積極的にアピールして蹴りを学んでもよいのではないか、ただその受けをとるのが裏部長ということになるといろいろと痛い目を見そうなので、なんとも言えないなあ、などと昨夜も話していました。札幌支部ではあまり蹴りをやってこなかったので、有段者が増えるであろう今後は、すこし稽古メニューに変化があってもよいのかもしれません(当然それは師匠の判断ひとつです)。


 しかし、です。空手の稽古としてそれらの動作が必要だったとしても、裏部長自身としては、べつだん蹴りそのものに興味はありません。なぜなら、つかう場面がほとんどないからです。これが空手の試合に出るとか、日常ストリートファイトをしている人間ならば、突き以外にも習得したいと思うかもしれませんが、裏部長は基本的に温和な一般市民なので、競技をやることにも他人を攻撃することにも興味がありません。ただ純粋に、稽古をしているだけなのです。


 なので、稽古のなかで使用する動き以外にはあまり興味を示せません。蹴りも、基本や移動のなかで出てくるからやっているだけで、強力な蹴りを出してやろう、それで相手をノックアウトしてやろうという考えはまるでない。だから、蹴りが得意であるとも不得意であるとも言えない。たとえ稽古のなかで、裏部長の蹴りを喰らって痛がっている人がいても、嬉しくともなんともないのが現状です。


 追い突きについてはまったく違います。空手の、もっと言えばすべての稽古の根幹にあるこの技は、約束組手で毎回つかうということもあって、とにかく気にしています。あれやこれやさまざまな注意点をさらいながら、いまの自分に可能な最大限の追い突きができているか、ほとんど毎日考えているくらいです。


 やっぱり、ここにも性格が関係しているのでしょう。自分が、面白そうだなあ、知ってみたいなあと思うことには能動的に接近し、この人の弟子になりたいと思えば入門し、学びたいと欲すれば何年間でも喰らいついて離れない。まるでスッポンのようですが、これは裏部長の現実で、元来そうした性格であるにもかかわらず、師匠についてもうそろそろ丸十年が経ちます。



 空心館における裏部長の興味の対象には、もちろん体道が含まれます。これがあったから現在までつづいているようなもので、体道をやってきたからこそ見えた風景があり、会得できた感触があり、また生まれた出逢いもあります。道新文化センターでの講座もそうです。今週から新たな三箇月がはじまり、水曜日は八名、木曜日は十二名の受講者の方がいます。これまでにある程度の期間ここで体道をやった人数は相当なもので、何名か有段者も生まれています。


 自分の稽古はもちろん、師匠について指導をする場面にも顔を出すようになり、いまはひとりで留守を任されたりするなかで、純粋に体道をやっているからこそ気づけたことというのがいくつか増えてきました。しかし、いま裏部長のなかにあるそれらの内容は、たぶんに観念的で、実際に技をやってみれば具体性を帯びてくるのですが、文章にするとなんとも抽象的で伝わりづらいと思うので、あえて書かないでおきます。それに、これは稽古を継続してきたなかで見つけたことでもあるため、安易に公開することは望ましくないかもしれません。


 ただひとつだけ、注意点を書いておきたいのです。



 体道を稽古する際、受と捕はつねにフェアでなければならない。裏部長はそう考えます。正しい形が技になる技が力を生む。そのための稽古であり、体道であるため、柔道の乱捕りや空手の自由組手のように技をおこなうことはできないし、不適合である。技のなかに散りばめられたコツやエッセンスを慎重に抽出し、咀嚼し、吸収しなければ意味はありません


 だから体道を稽古する際には(もちろん空手においても同様でしょうが)、自分本位に動いてはいけないし、また向かいあう両者はつねにフェアな状態になければなりません


 昨夜、後輩のIくんやOくんに天心古流の「後抱取」を教えました。あれは受が背後から捕の身体を抱きかかえるところからはじまる技ですが、基本的に、捕が技をやっている最中、受は両手で抱きついたまま動きません。ただその両手が外され、最終的に押さえこまれるのを待つばかりです。


 これ、たしかに、攻撃としては不自然かもしれません。相手に危害を加えようと近づいてきた人間が、こちらの身体に抱きついたままじっとしているはずはなく、引っ張ってもちあげようとしたり、タックルのように前へ倒そうとしたり、あるいは、空いている足で蹴ったりすることも考えられます。それが攻撃としてのリアリティであり、微動だにしないのは非現実的です。


 しかし、ここが重要な点ですが、受がそのような攻撃のリアリティをもち出して、抱きかかえる以外の動きをした場合、捕もそれに応じないわけにはいきません。捕は素直に「後抱取」をやろうとしているのに、受だけその技からはみ出した動きをしていると、稽古のバランスが崩れて、いつまで経っても何も上手くいきません。それはまるでジャンケンをする際、すでにグーを出している相手になんとかチョキを出して勝とうとしているようなものです


 技において両者がフェアであるというのは、捕が所定の動作をして技をおこなおうとしている時点においては、受もその技が指定している動作以外におこなうべきではないということで、そんなことはおかしい、実戦で相手がじっとしているわけがない、というような意見は、実戦においては真理でしょうが稽古においてはナンセンスです。その理屈でストリートファイトをするのならまるで問題はありません。しかし、その理屈で体道をやろうとすると途端に時間は紙屑のようになり、汗は不快な粘着質を帯びて、心を蝕んでゆきます。



 これらのことを痛感して裏部長が心にとめたことは、空手はもちろんですが、こと体道においては、きちんとした指導者なしに稽古をすべきではないという一点に集約されます。ある程度経験を積んだ有段者が、内輪で技の確認なり復習なりをするのなら問題はないでしょうが、さほど理解の及んでいない段階の人間が集まって稽古をしようとすると、かならず技のバランスは崩れ、気づかぬうちに意味のない時間をすごすことになります。それでもいいのだと言う人はそれで構いませんが、裏部長はいやです。そんな稽古を、後輩たちにも、道新文化センターの受講生の方たちにも受けてもらいたくないし、見たくもありません。



 武術というのは多様性を孕んでいるため、稽古の仕方ひとつで、それがケンカ術になり、健康法になり、思想や哲学にもなったりします。だからこそいくつもの流派や技が生まれてきたわけだし、裏部長もこうして、ひとつの道場で約十年もお世話になれているわけです。多様性に感謝です。師匠のように、洋の東西を問わず、さまざまな武術に触れ、学び、交流するやわらかさ、懐の深さ、寛容さをもっていてもよいのかなあと思います。


 ただ、多様性があるからこそ、学ぶ以上は、その道場においておこなわれている技の内容や術理、目標とする感覚などを最優先にしなければならないという気もします。師匠も、現在中国の猛暑のなか、指導者について武術を学んでいるそうですが、当然そこではそこでやっている技法をそこでやっている原理に則って稽古しているはずです。自分は空手と体道の師範なのだ、自分の動きはこうだ、などと自己主張することはありえないはずです。技自体の有意性ということのほかにも、その技を稽古する意味というのが存在するのだということを、ひとつの道場に属し、ひとりの師について修業をするわれわれは決して忘れるべきではありません。



 そして、それを悟った人間は、まだ理解できない段階の者へ、きちんと伝える義務があるはずです。



posted by 札幌支部 at 10:06 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月04日

濁流のなかに見えるもの

 こんにちは。裏部長です。



 以前何度かご紹介したことがあると思いますが、画家の早川剛さんが展示会をおこなうということで、宣伝させてください。


世代を超えて2人展vol.3 鳥垣英子・早川剛


 七月八日から十三日までの約一週間、東京のK's Gallery(〒104-0031東京都中央区京橋3-9-2プラザ京橋ビル3F TEL03-5159-0809、FAX03-5579-9004、Eメール kgallery@eagle.ocn.ne.jp、ホームページ http://ks-g.main.jp/)というところで開催されます。




 裏部長は残念ながら伺えないのですが、もし東京へ行く機会のある方はぜひ足を運んでみてください。




 大多数の人間が美しいと言うものを見て自分も美しいと言うのはたやすい。しかし、表現者が全身全霊を込めて、命を削って描きあげた渾身の一作のなかに、ただ目を向けるだけでは見えてこない美を発見することは難しい。だからこそ、そこから湧きあがってきた感動は何物にも代えがたいのではないでしょうか。




 こんな季節だからこそ、暑さにまかせて未体験の衝撃を。


posted by 札幌支部 at 12:35 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月01日

7月の稽古日程

 こんばんは、裏部長です。


 7月の札幌支部の稽古日程が決まったので、お知らせします。


 今月も、札幌大学1001教室にて、毎週火曜日と金曜日の夜6時からおこないます。先月下旬に、師匠の奥さまとご子息がひと足早く帰国され、現在は火曜日の稽古のほうへ来られています。少年部二名、いたって元気で、とてもにぎやかです。


 また武道場での稽古は、今月からふたたび第2土曜日にもどり、13日の夜6時からということになります。参加者の顔ぶれにもよりますが、最近は通常の稽古時に体道を多くやっているので、武具の技に時間をさくかもしれません。


 なお、もうすぐ大学は夏休みに入りますが、一応その期間中も稽古を実施する予定です。来月以降の予定については、また確定したのちお知らせします。



 よろしくお願い致します。
posted by 札幌支部 at 19:00 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年06月29日

受け止める器がなければ、蛇口をひねる歓びもない

 こんばんは。裏部長です。


 六月もあと一日で終わり、いよいよ夏本番といった季節がやって来ます。本州でも、師匠がいる中国でも、すっかり蒸し暑い毎日がつづいているようですが、札幌はいたってのんきです。昨日など、稽古を終えて大学から出てくると外は涼しく、長袖でないと歩いていられないほどで、今日も、こうして家で文章を書いているわたしは長袖姿です。


 こんな夜は、かえって、寝冷えをしないよう気をつけなければなりません。



 さて今夜は、最近わたしがあれやこれやと考えている技のことについてとことん書いてみよう――と思ったのですが、ごめんなさい、またの機会にします。

 
 いや、というのものですね、どうも最近、自分の考えていること、言いたいこと、検証したいこと、その結果確信したことなどが山ほどあっても、たいていの場合それらは稽古の場で消化されて、あとに残らないのですね。これが、いまいち納得できなかったり、さらなる課題を見つけたりしてしまったときなら、ここにその想いをぶつけることができるのですが、幸か不幸かまったく残らない。すっからかんなのです。


 稽古としては、当然いまの状況のほうが衛生的です。しかしねえ、ひとたび深海に住みついてしまった魚は水面へあがってこられないように、一度深いところで技を考えはじめてしまうと、ひとつの気づきによって動作が劇的に変化したとしても、数日としてその場に留まることができなくなるのですね。じっとしていられなくなるのです。そして、さらに次のステップへと、早く進みたくて我慢できなくなるのです。


 そんなサイクルのなかへ入ってしまえば、日々の稽古は有意義なことこの上なく、修業する立場の人間としてはこれほどたのしいことはありません。しかし唯一つらい点としては、すべてのものを稽古で吸収し、また吐きだしもしてくるので、ここにわざわざ活字にして提示する意欲を失ってしまうことです。これまで、いまのような状態に陥ったことがなかったため、裏部長、大いに戸惑っております。




 ちなみに、今日のタイトルは、安部公房著『砂の女』の冒頭の一文、「――罰がなければ、逃げるたのしみもない――」をもじったものです。



 蛇口も、それをひねる手も、流れでる水も器も、すべて自分のなかに存在してしまうという哀しさよ!



 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 20:24 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年06月23日

枯れない花のために

 おはようございます。裏部長です。


 昨日の師匠の書きこみ、とても興味深く読みました。そして、すこし方向違いかもしれませんが、こんなことを考えてしまいました。




 ここ最近、空手の追い突きについては改良や発見の機会が多く、たった一本のシンプルな攻撃であるにも関わらず、日進月歩、次々と新しい顔を見せてくれています。この追い突きという技が大黒柱として存在しているからこそ、多くの型や、体道のなかにある膨大な量の技にも、適度な距離感で接してゆけるのかもしれません。

 
 約束組手においては、前手のつかい方に凝っています。前に構えたこの手をすぐには引かず、突きの寸前まで、もっと言えば突きはじめている段階においてもまだ引かないようにしておくというのは、すでに師匠や師範から教わってきたことですが、たとえば、「前の手を残しておくことで、相手の反撃を捌くことができる」とか、「両方の手をバランスよく構えたまま身体を運んでゆくと、相手は追い突きがくるのか刻み突きがくるのかわからず、またこちらもその両方をつねに出せる状態で動ける」とかいうポイント以外にも、じつはこの手の活用法があるのではないかと考えはじめているのです。


 前手を引かず、相手の胸へつくくらいまで残しておいた場合、自分の前のスペースは、すぐに引いたときとくらべてかなり狭くなっていることがわかります。だいたい胴体の幅の三分の一か、半身をキープした状態だと、身体の半分ほどのスペースしか空いていないでしょう。しかし、追い突きである以上は、空いたスペースがどんなに狭かろうと、足を入れ、腰を入れ、最終的には拳も入れなければなりません。


 身体が入るということは、その方向へエネルギーが放出されるということで、前手が壁となって残っている以上、そのエネルギーは向かって右側にしかあふれていかないはずです。そして、その方向にはつねに相手が立っているのです。


 ここへ、足は弧を描いて出す腰骨を相手の股関節へぶつけるように運ぶ、などの基本的な動作をより明確に導入することにより、追い突きはこれまでの何倍も鋭く、厚く、相手を崩すという意味ではより正確に技と言えるものになります。相手のいないほうへ力が漏れてしまうことがないので、身体のつかい方によっては、二本目、三本目への突きにも容易かつ素早くつなげることができます。


 数日前の稽古で、S呂くんがこの方法論へアプローチしてきました。わたしが先輩風を吹かして教えたのではなく、彼のほうから、「追い突きのときに、どうしても左のほうへ流れてしまう」という発言があり、ならばと、上記の前手の話をしてみたところ、たちまち突きそのものが変化してしまいました。ただ前の手を残して、狭いスペースへ身体を入れてゆくイメージをもっただけで、追い突きが一段と厳しくなったのです。


 このような追い突きをされると、受けのほうの人間はその場に立っていられなくなり、崩されてしまいます。しかし、だからといって下がるわけにはいきません。相手がこちらの懐のなかを抉ってきたときこそ、それを包括してあまりあるほどのやわらかさと吸収力で、威力を呑みこんでしまわなければなりません


 そのような受けを目指す際、反撃は不要な気がします。突っ込んでくる相手に拳や蹴りで反撃をする、あるいは投げや押さえ技へもってゆこうとする、これらの反応は自覚的、能動的にできるものなので、つい熱くなるとしてしまいがちですが、攻撃をしつづける相手に反撃をしようとした瞬間に、吸収するという感覚が見えなくなるような気がします。突きや蹴りなどの打撃はもちろん、投げよう押さえようという柔術的な選択肢さえ奪われ、ただ受けることしかできない状態で相手の突きを吸収し、崩す。いわば、100パーセント受けしかない人間になって、追い突きをする相手と向かいあう。


 たぶん、これくらいの徹底した意識をもたないと、いつまでも心のどこかで、危なくなったら突いてしまえばいい、膠着したら組みついて倒してしまえばいいという、腕力や体格に頼った考え方を支持してしまうような気がします。もちろん、武術とは攻防一致で、どちらか一方しかないというのはありえませんが、こと稽古においては、とくに組手においては、「攻防」をいっぺんにしようとするのではなく、攻撃は攻撃で磨き、それを受ける際にはわずかにも攻撃の要素を残さず、100パーセント受けの状態で相手の突きを吸収する。この両者を兼ね備えた者だけが、組手においてやり合える、つまり、攻防ができるのではないでしょうか






 ……と、長々と書いてきましたが、これが今日の本題ではありません。


 師匠の書きこみで感じたのは、これくらいわたし自身が熱く興奮しながら語る話も、人によってはまるで関心のない、物好きの戯言にすぎないということなのです。


 道場という空間へ稽古のために集う人間は多種多様で、もちろんその道場の方針や技術や雰囲気に魅かれるからこそやってくるわけですが、だからといって、そこに顔をそろえた門弟が全員、まったく同じ性質をもっているわけではありません。空手も、柔術も、刀も、杖も棒も挫も、すべて均等に熱意をもって稽古し、探究を怠らず、つねに貪欲に修業をつづける人間ばかりではないということです。


 現に、これは札幌支部にかぎった話ではありませんが、空手には大いに興味があるが、体道はいまいち、という人もいれば、体道で出逢うさまざまな技や身体の動かし方が面白く、逆に突いたり蹴ったりする烈しい動作にはどうも馴染めない、という人もいるでしょう。前者に体道を、また後者に空手の動作を、懇切丁寧に指導したところで、所詮は受け取り手のほうにそれを吸収する機構がないのですから、無理におこなえば、植物に水をあげすぎるようなもので、その根はいずれ腐ってしまいます。



 ひとつの道場のなかで志をひとつにし、ともに稽古をしていても、門弟それぞれに性質が違い、吸収できる養分の種類も異なる。水分をほとんどあげないことでかえって甘くなる果実も、つねに注意して栽培しなければ咲くことのない花も、同じ植物で、栽培する人間はその種類ごとに手の加えようを判断する必要があります。そのためには、頑なにならない心と、寛容さが必要なのかもしれません。


 

 ……となると、昔ながらの指導方針、つまり、「手とり足とり教えることはしない。技は盗んでおぼえる」というのは、存外理にかなっているのではないでしょうか。欲する者だけが残り、そうでない者は去る。頑ななように見えて、こういったスタンスのほうがより寛容なのかもしれません。


 
posted by 札幌支部 at 10:34 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年06月11日

立ち方について

こんにちは。

今回も、立ち方について気づいたことを記しておきたいと思います。
というのも同じ太極拳でも、やはり流派のようなもの(これは老師の違いかもしれませんが)で解釈や留意点は違うようで、同じ准备から起势でも立ち方が違うからです。
私が教わっている@簡化24式とA楊式でも大きな違いがあるので、その点を記します。

その違いとは、膝を折るかどうかにあります。

視点を変えてみれば、腰椎を鉛直方向に立てるように、股関節を緩めてお尻を縦回転に巻き込むようにしていき、脊椎を横から見たときにまっすぐにするイメージをつくるのですが、そのために膝を折るか、それとも腰から上を軽く前傾しお辞儀をするような姿勢にするか、という違いになります。

これまで、前者を教わってきていましたし、太極拳の中でのイメージは膝を折るものでした。
空手の稽古においても、壁に踵から後頭部までまっすぐつけた状態から歩きはじめるために膝を折ることを教えていました。
重心や身体の移動には、膝を折ることが要だと考えていました。

そして、むしろ前傾姿勢をとるのは避けてきたきらいがあります。

しかし、先日来、楊式の先生からは、膝を伸ばし(無駄に力は入れません)、股関節を緩めてお尻を巻き込む、というよりも腰椎から頸椎までをまっすぐにするように意識すると前傾姿勢にならざるをえないのですが、前傾姿勢をとるように指導されています。
他には、胸骨と鎖骨の接点あたりを脱力することと下顎を引くようにする(無駄に力は入れません)も注意されます。
こうすることでも、やはり上肢には電気的な刺激があります。
そして、当然ながら重心移動の力はみなぎることになります。

腰の在りかたが、私の修得してきたものと逆なように、この立ち方も逆の解釈です。
新たな身体感覚の修得につながるものと期待して稽古に励んでいます。


そう言えば、单鞭の姿勢を細かく(ミリ単位で直されます)正されていったときに、ふと快い雰囲気に包まれました。
時々あることですが、立ち方や技がはまると、何とも言えない心地よさに包まれます。
その時、間をおかずに老師から「很舒服对吧」(とても気持ちがいいでしょう)、と声をかけられました。
その通りなのですが、そう指摘されたことに対しては恐ろしさも感じた私でした(苦笑)。

この気持ちよさが、なかなか再現できずにいます。
再現しようとする力や意識が邪魔なのでしょうね・・・。
なかなか難しいです。
難しいからこそ面白いのですが・・・。

posted by 札幌支部 at 15:31 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年06月01日

自己規制の虎

 こんにちは。また裏部長です。



 数週間前からようやく北海道も春になりました。最近では夏日になることも多く、今日もすでに気温は二十六度をこえています。こんな日にいつもの教室で熱く稽古をしていると、窓ガラスが白く曇り、床が汗でぬれ、まるで油を塗ったかのようになります。


 今年もまた暑い季節がはじまろうとしています。




 
 かなり前の話ですが、空手の約束組手において、師匠から、

内受けをすることが、かえって相手の突きを招き入れてしまうことがある

 という話を伺ったことがありました。


 そのとき自分が何色の帯をしめていたのか、まったく記憶にないのでかなり昔のことだと思われますが、当時はいまと違って、かなり基本に忠実に内受けをしていたのでしょう。相手の突きが前手に触れ、それが前手の捻りを生み、その捻りが身体をも動かし、内受けとなるのが、そこに発生した捻りが相手の突きを自分のほうへと導いてしまう、ということでした。


 あのころは、「へえ、そういうものなのかあ」と思って、額面どおり受けとっていましたが、最近その事項について違った見方ができるようになりました。


 つまり、前手の捻り問題以外にも、相手の突きを自分のほうへ招き入れてしまう原因があるというのがわかってきたのです。




 たとえば、相手が突いてくるのに対し、下がってしまったり、腰を引いてしまったりしては、どうしたって拳は自分のほうへと飛んできてしまいます。これはわりかし初歩的な、また具体的な技術面での話ですので、理解し、そうならないように稽古すればべつだん問題はありません。できないところをできるようにし、以後注意していればよいだけの話です。


 大切なのは、下がりもせず腰も引かずに構え、避けていながら、相手の突きを自分のほうへと招き入れる身体ができているか、ということなのです。




 自ら突く際にも、相手の突きを受ける際にも、はじめのうちは身体が緊張し、硬くなってしまいます。とくに、腕をあげて構えている上半身は、嫌が上にも硬直し、胴体が一枚の板のようになってしまう。この状態で突くと、要は壁が突進していっているようなもので、動きが大きくなり、一本目の突きを引いて相手へ向きなおり、二本目を突こうとすれば、身体は遠心力に負け、外へ流れてしまいます。


 この突きしかできない状態で受けをやってみると、身体は同様の状態に保たれているので、すこし硬いわけです。この硬いというのは具体的に言うと、おのれの懐に余裕がないということでもあります。


 懐に余裕のない相手へ追い突きをする場合、懐を抉るように、寸前まで拳を飛ばさず、鋭く、厳しく突こうと思うと、意外に入れづらいものです。なぜならそれは、そこに突くスペースがないからです。だから逆に、こういった状態の相手へは、弾道ミサイルのようではなく、馬鹿正直に、電車道方式でまっすぐ突きぬかせたほうが拳はあたりやすくなります。


 これは、体道のなかで柔術をやっていても気づけるポイントです。投げ技の際、相手が倒れるスペースに自分が居つづけてしまうと、相手は崩れたくても崩れられず、動きは止まってしまいます。とくに、張りつめていた緊張を解くことで相手を倒すような場合は、きちんと崩れる場所を確保するようにおこなうと、相手は面白いほどたやすく投げられてくれます。




 さて、それでは、懐に余裕のない状態の身体から、そうでない身体へと変化させるためにはどうしたらよいでしょうか。


 わたしはいまのところ、突き自体に関しては、腰の切りかえしと、約束組手における二本目への転身をやりながら、すこしずつ上半身のやわらかさ(あるいは脱力の加減)を学んでゆくのがよいかと考えています。動作が単一の方向だけでなく、多種多様になり、加えて身体そのもののあつかいも、一枚板ではなく分割してつかえるようになれば、自然、相手の突きを受ける際にも張りつめた力みが消え、懐に余裕が出てくるはずです。


 この余裕が出てきた相手に、馬鹿正直な電車道方式のまっすぐな突きは入らなくなります。それも、弾かれたり拒絶された上で入らないのではなく、やわらかく、空間を包括されるかのように避けられてしまうのです。


 ここまで来てようやく、攻撃をする側は追い突きの精度を高める作業に入れるわけです。その一端は、足を弧を描いて出す出した足にきちんと軸をのせるギリギリまで突かないなるべく前手も引かないでおく腰を相手の股関節へぶつけるように、などなど、白帯のころに習ったことばかりですが、これらが新たな追い突きのページをひらいてくれるのですから、教えとは怖ろしいものです。たとえば、前手を寸前まで引かないという一項をもってしても、その効果は絶大で、決して軽んじてはいけない教えです。


 それらのことに、いまになってようやく理解が追いつくのですから、稽古というのは深いものです。


posted by 札幌支部 at 14:19 | Comment(0) | 裏部長の日記

6月の稽古日程

 おはようございます。裏部長です。


 札幌支部の六月の稽古日程が確定したので、お知らせします。


 今月も、札幌大学1001教室にて、火曜日と金曜日の夜六時からおこないます。ただし、十四日の金曜日、十五日の武道場稽古は、学校行事のためお休みです。


 よろしくお願い致します。


posted by 札幌支部 at 10:24 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年05月25日

雲の上の山

 こんばんは、裏部長です。


 落語のマクラめいた前置きはやめにして、一気呵成に本題を並べてみます。すべて、最近の稽古のなかで気づき、考えつづけてきたことです。




 体道について。技が上手くいかない場合、たいていは力の入れすぎと、動きを必要以上に大きくしていることが原因になっています。たとえば、天心古流の「後襟止」は、相手をこちらの足もとまで引き崩す技で、つまりは足もとへ倒すだけの力が生まれればよいのに、馴れないうちはそれ以上の力をつかおうと、全身で相手の腕を引っ張ってしまうことが多く、これでは、崩すどころか、相手を床へ落とすことさえできません。

 しかし、違った目で見てみると、できないときの動きのほうが、あきらかに大きな力を生みだしているように思えます。相手の腕を綱引きよろしく全身で引っ張っているのです。自分が立ちあがる力を利用して、相手をこちらの足もとへ引き崩すほうがよほど非力で、現に、技が上手くいったとき、相手はこちらの足もと以上にどこかへ動いてしまうことは稀です。要は、それだけの力しか発生せず、また相手にも伝わっていないということになります。

 なぜ、エネルギーの大きな前者が失敗に終わり、さほど莫大なエネルギーを生まない後者が技を成功させるのか。これは「後襟止」に限らず、すべての技に言える疑問であろうと思います。

 裏部長の推測としては、技には「」があって、そのなかに過不足なく力や方向がおさまったときにだけ、いわゆる技の力というのが生まれ、そこをすこしでもはみ出した瞬間、それがどんなに巨大なエネルギーであっても、相手を制する動きにはなりえないように最初から構築されているのではないか、というものです。先の「後襟止」の場合、どうしてこちらの足もとへ崩す程度の力しか発生していないのに相手は崩れるのか、という疑問は、そっくりそのままそれが答えで、つまり、こちらの足もとへ崩す技であるから、こちらの足もとへ崩すだけの動きとエネルギーさえ発生させられれば技は成功し、それ以上の力をおもに筋肉でもって拵えようとすると技は失敗する、ということになっているのではないでしょうか。

 武術の技にはあらかじめそういった「枠」が設定されていて、そのほとんどが、縦横無尽に肉体を振りまわすようにはできていない。むしろ窮屈であったり、力みを抜かないと、その姿勢を取ることすら困難な動作さえある。しかし、そこに指定されている動きや身体のかたちこそが、目に見えない技の力であって、だからこそわれわれは、空手の組手や柔道の乱捕りのように体道を稽古しないのではないか。あえて型稽古としておこなうことでしか、その見えない力にはたどり着けないように思えます。


 次に空手の約束組手について。追い突きをする側を「」、受ける側を「」とします。まず盾にとっての組手ですが、当然のことながら、向かってくるのが速くて鋭くて重い、怖ろしい「矛」であればあるほど成長できます。そんな怖い突きを、拒絶せず、止めず払わず、受け入れて呑みこんでしまうことができるようになればなるほど、その盾は怖ろしいものになります。

 では、逆に「矛」をおこなう際どうしたらよいか。受けをやっていたときに感じた衝撃、速さ、重さなどを反映し、自分も、速くて鋭くて重い、怖い突きをやってやろうと思うのがふつうだし、そう志すのが稽古だと思います。しかし、こちらの放つ突きが、速くて鋭くて重い、怖い突きであるかを判断するのは、それを受ける相手のほうです。こちらがどんなにそう信じて突きを放っても、喰らった相手が平気な顔をしてなんらダメージを受けていない以上、それは「へなちょこの突き」ということになってしまいます。

 ここで、攻撃と防禦の逆転ともいうべき現象が起こるのです。

 盾の受けは、文字どおり受け身ではあるものの、どのような受け方をするかは自分で決められます。以前ここにも書いた、自分で動かず、相手にこちらの胴体を実際に突かせて、それによって身体を動かしてもらう受けをする際、動作そのものは能動的におこないませんが、その方法を採るか採らないかは自分で決められます。ふつうに横へ身体を逃がす通常の内受けをしてもよいし、下がってもよい。どの受け方を選ぶかは、能動的におこなえる判断なのです。

 ただし、注意しておかなければならないのは、どの方法論を採るかはこちらの自由ですが、採用したものによって、相手へ知らず知らずのうちに影響を及ぼしていることがあるという点です。相手の突きをぎりぎりのところで避け、すぐさま突きで反撃してやろうと構えている人間と、相手に身体を突かせて、その衝撃をすべて呑みこんでやろうと構えている人間とでは、たとえ同じように立っていてもオーラが違ってきて、それは攻撃する側の人間にとって、板壁と暖簾くらい異なるものです。硬いものへは抵抗できるので力も入りやすい。しかし、暖簾にはいくら突っ込んでいったって、肩すかしを喰らうのみで、張り合いがないでしょう。

 さて、結果は相手が決めると言った突きですが、その点を肯定したところで、問題なのは、突きそのものはやはり自分で自発的におこなわなければならないということです。受けの場合は、相手が突いてきてくれるので、待っていれば技がはじまるのだけれど、突きに関しては、自ら足を運んで拳を放りださないかぎり、事態はひとつも変化しません。この突きが速くて鋭くて重い、怖ろしい攻撃になっているかどうかを自己採点せずに、それでもいま自分が出せる最大限の突きを放つことの矛盾。だからこそ、追い突きであるという約束事が必要なのか――。





 なんだか堅苦しい表現で、結論もないくせに、改行もすくなめに一気に書いてしまいましたが、これらが最近わたしのなかで浮かんでは沈んでゆく課題たちで、しかしそれをあえて雑駁に記したのは、昨夜の稽古でそれらすべてが吹き飛んでしまったからなのです

 
 なんの変哲もない稽古で、約束組手をした相手もすべて後輩たちでした。しかし、何かを指導するためではなく、いま自分が出せる最大限の追い突きをしてやろうと、余裕を切り離し、何本かやってみたときの感触が、これらすべての理屈っぽい考えを払拭してしまったのです。


 技とはこういうものなのでしょうか。修業とはこういうことなのでしょうか。どうも最近、稽古が充実するにしたがって、自分のなかから言葉が消えてゆくようで、すこし戸惑っています。





 追伸。

 五月に入り、数年前までともに汗を流していた「おすぎ」ことS浦くんや、札幌支部三人目の黒帯取得者、S呂くんが稽古へ復帰しました。なつかしい再会でした。


 賑やかな初夏になりそうです。



posted by 札幌支部 at 19:56 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年05月16日

肚子岔气

こんにちは。

今回のタイトルにした「肚子岔气(ドゥズチャァチィ)」は、火曜日の空手の練習で学生から教えてもらった言葉です。
「おなかが、ひねりすぎで息をすると痛い」ということを表現しているそうです。
辞書で引くと「脇腹が痛い」となりますが、学生たちは腹直筋あたりを押さえて言っていました。

さて、この言葉はもちろん前回の「腰をきる」練習によって漏れてきた言葉。
月曜日には、うまく言葉では伝えきれずにいたのですが、火曜日には言葉よりも動きに工夫をして見せて実践。
2日目ということも手伝ってか、だいぶ腰をきれるようになった途端に痛さを感じたようです。
これは、第1段階としてはうまく伝わって、動きをつくれるようになってきた証拠。

「痛いのは、上手くできている証拠だから頑張って」と声をかけて、練習を継続。

「老师,休息一下?(先生、ちょっと休みませんか?)」と声をかけられても、「もう一動作してからにしよう!」とこちらのペースで進め、ちょっと意地悪くして。


私は型(形)選手を主に指導しています。
6月の全国大会では、女子と男子一人ずつ優勝を狙っている選手がいます。
さすがに上手なのですが、競技組手主流の練習をしてきているためか、「キレ」に物足りなさを感じています。
型の分解、技の意味の理解も不足しています。
この点、私なりの助言でも、少しでも役に立ってくれるならと幸いと、指導しています。

「腰のきれ」をつくるために、細い「軸」をイメージさせることが次の課題です。

中段追い突きの約束組手を軽めにして、「軸」がぶれること、「バランス」を失うこと、力を入れるタイミングと時間などを感じてもらいました。

きっと彼・彼女たちはブレインストーミングしていることでしょう。


言葉が通じないことは、真剣に観て吸収しようとする姿勢につながるので、不幸中の幸いと感じたりしています。
これは私の中国武術の授業でのことも含めて。
posted by 札幌支部 at 23:44 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年05月07日

本日の稽古について

こんにちは、裏部長です。


本日の稽古ですが、所用のため参加できなくなってしまいました。


なので、急で申し訳ないのですが、本日はお休みとさせてください。


よろしくお願い致します。
posted by 札幌支部 at 14:50 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年04月27日

5月の稽古日程

 こんばんは。裏部長です。



 5月の札幌支部の稽古日程が決定したので、お知らせします。


 来月もこれまで通り、火曜日と金曜日の夜6時から、札幌大学1001教室にておこないます。いまのところ休みはありません。


 また武道場での稽古は、第3土曜日の18日に実施します。時間は通常稽古と同じ、夜6時からです。


 これまで武道場では、その広さや天井の高さを活かして、剣や杖などを多く稽古していましたが、来月は体道を中心におこなう予定です。



 よろしくお願い致します。


posted by 札幌支部 at 20:00 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年04月23日

じ〜ひ〜

 こんばんは、裏部長です。


 今日、職場から自宅への帰り道、河川敷にある気温計をみたら「15度」とありました。本州に比してみればまだ肌寒い数値ですが、札幌の夕方でこの気温だと、じゅうぶんにあたたかいです。


 ようやく春と呼べる季節になりました。





 そういえば以前、こんなことがありました。


 稽古の直前、あまりに参加人数がすくないので、もうひとりかふたりがやって来るまで休憩し、すでに来ているメンバーと談笑をしていたときのことです。


 まあ談笑と言っても、物好きたちが集まっているので、話題のほとんどは武術に関することです。


 熱心な後輩がいくつか質問をする。それに対して、わたしが自分の意見を述べる。そんなやり取りをしていたとき、後輩のひとりがふいに、


先輩って、深めてゆくタイプの人ですよね


 と言いました。


 これにはすこし面喰ってしまいました。たしかにそうかもしれないが、これまでそんなことを言う後輩に出逢ってこなかったので、肯定するべきかどうか考えてしまったのです。






 たしかに、最近のわたしの稽古スローガンは、『深く深く』です。これは師匠不在となってからのいくつかの実体験にもとづき、導きだしたもので、要は、横へ広げてゆくような稽古は強さを求めて闘いつづけるようなもので、際限がない。いま道場にいる人間をすべて負かしてしまったら、ここではもう何も得るものがないということになってしまい、諸国行脚に出なければならなくなる。道場破りの日々を送るはめになる。


 わたしにはそんな勇気も時間も費用も捻出できないので、横へ広げてゆく手法ではなく、一点をただひたすらに深めてゆくやり方を採用したのです。


 この方針はコストパフォーマンスが高く、なおかつ飽きがこない。武術稽古にはうってつけのやり方です。





 深めてゆく稽古をしていると、日常にいくつも発見の種が隠れていることに気づかされます。


 たとえば、こないだの『ホンマでっか!?TV』。カレーうどんを、汁が服にとび散らないよう食べるため、学問の先生方が知識を総動員し、高価なマシンもつかって正解を導きだすというコーナーでは、固有振動数ということばが出てきました。


 つまり、物には決まった振動数があり、これと上手くあわさった力がさらに加えられると、しだいに大きなエネルギーとなって揺れを大きくするというもので、合致した震動のことを「共振」と言うそうです。浴槽のお湯に手をつけて、水面を押すようにゆっくり大きく動かしたほうが、最終的には揺れが巨大化するというのも、この共振のたまものなのです。


 空手において、突いたり蹴ったりする人の身体もまた、ほんのわずかでも揺れますよね。もし、その一瞬の揺れを捉え、そこに共振する力を加えられたら――。もしかしたら、たやすく投げたり崩したりすることができるのではないか


 TVのバラエティ番組を見てさえこんな発見ができるのです。






 稽古内のことで言うと、最近の裏部長は、やはり「」に注目しています。


 これもちょっとした成り行きのおかげでして、昨年末までわたしの突きの課題は“放出”でした。エネルギーを滞らせることなく、止めることなく、全放出して突く。これを用いた逆突きを、後輩のひとりが携帯電話の動画で撮影したいと言うので、やって見せました。そして、その動画を今年に入ってわたしも見たのですが、映像を目にしてびっくり。


 唖然とするほど、のろかったのです。


 あんなにも鈍重な突きであったとは、自分のことながら情けなく、ちょっと落ち込みました。しかし、放出の原理については誤りでないという自信もあったため、ならば、その状態をキープした上でもう一度スピードにこだわってみようと思い立ったわけです。


 そんなこんなで行き着いたのが、「肘」です。突きの威力は速さと重さの掛け算である。威力を倍にしたい場合、体重を倍にするのは難しい。しかし、速さを倍にすることはたやすい。そのとっかかりのひとつが、最短距離をゆくというもの、と初心者のころに教わりました。


 脇をあけない。拳が最後の最後に返す。そうすることで、拳が遠まわりすることなく、直線的に相手へとんでいってくれる。


 この考え方に立って、さらに検討するに、長く突くよりも短く突いたほうが当然スピードはあがりますね。拳という物体を移動させる距離が違うわけですから、載せているエンジンが同じである場合、短く小さく突いたほうが速い。


 しかし、短く小さく突いたのでは相手に届かない。もちろん、突きぬくこともできないわけです。


 だから、贅沢を言えば、突きは短く小さくおこなうも、拳は通常の突きと同じ位置まで運びたいわけです。そして、それを可能にしてくれるのが、両方の腕にいつも黙っていてくれる「肘」なのです。




 これらはあくまで裏部長個人の研究内容であって、いまだ確定していないものばかりです。ただし、「肘」を意識した突きの速度の違いはあきらかすぎるほどあきらかで、これを利用しない手はないとさえ思っています。あとはその感覚を身体に定着させ、深め、追い突きなどに応用するだけです。






 氷山の一角ということばがあります。水面から顔を出しているのは、氷の塊のほんの一部である。海のなかには、あの一角の何倍もの大きさの塊が黒々と、無言のまま漂っているのです。


 修業する以上、その奥深くまで潜って、氷の全容を目にしたいものです。




posted by 札幌支部 at 20:58 | Comment(0) | 裏部長の日記