2006年08月29日

またも口伝

 夜半に失礼いたします。裏部長でございます。そろそろと気温も低く安定しはじめ、いよいよ秋か〜といった感じでございますが、こういう季節の変わり目というのが案外あぶない。気温の変化にカラダがついてゆけず、風邪をひいてしまうことがよくあるものです。
 みなさんも気をつけてください。

 今日も雨が降っておりましたが、そんな中にあっても、きっちり稽古をしてきたので、そのご報告をいたしましょう。


2006年8月29日(火)曇りのち雨。夕方から大雨になる。
 午後二時過ぎ、札幌大学1001教室にて空手の稽古。参加者は昨日、稽古が終わってすっかり人気のなくなった教室へ来て、はじめて時間を間違えたことを悟った苫小牧のひと、Hのみ。部長からは音沙汰がない。
 基本ひと通り(其場突き〜横蹴り)。いまだ左肘の痛みは消えないが、しかし今はすこしその捉え方が変わってきている。というのも、左の突きに関しては、知らず知らずのうちにその肘の痛みを躰がおぼえてしまい、よって腕がのびきる寸前に筋肉でその勢いをとめる癖がつきはじめていたのだが、これは百害あって一利なしという戒めをもって、むしろ今は、痛みを感じるほどバシッと突かなくては不安になるようになったのだ。だから今日も、こちらから痛みを欲するが如く、バッシバッシと突いてみる。
 其場で体捌き・内受け・逆突き、逆突きを前蹴りにして同様の動き、猫足立ちになりながら上段受け・内受け・下段払い・逆突き、其場でワン・ツー。
 移動稽古(追い突き、逆突き、追い突き・逆突き、刻み突き、ワン・ツー)。
 約束組手は、利き手による中段追い突きのみ。Hは突き終わる位置の話、わたしは引き手の位置について新たに教わる。
 最後は型。Hは「平安初段」、わたしは「腕秀」。わたしはどうも最近の傾向で、おもに左の突きのあと拳をひらく癖があるらしい。これは早急に直したい。
 四時過ぎ、終了。降り出した雨のなか散会す。


 今日はどちらかといえばオーソドックスな、稽古らしい稽古だったかもしれない。基本をやり移動をやり約束組手をやって最後は型、これが通常の稽古メニューなのだ。
 Hは突きの重みというか、迫力が出てきたようだ。突っ立っている人間をかれが突けば、おそらく軽く吹っ飛んでしまうだろう。しかし贅沢をいえば、まだ少し硬い。それはカラダが硬いとか関節が硬いというような肉体的なことではなく、動作として硬いのである。メインである突きに関して云っても、初動(突き始め)と突き終わりだけに力を張り、そのあいだには脱力して腕をムチのように使えたら、型にしても約束組手にしても、多分もっともっと変化することだろう。

 わたしが今日、新しく教わったことと云えば引き手の位置についてだが、これなどは地味な話だが有効で、かつ変化を促す教えであったと想う。その動きはさほどに複雑なものではなく、よってすんなり吸収することができたが、吸収したあとのほうが大変であった。つまり、それまで普通にできていた一本目の突きのあとの動作が、簡単に行なえるようになったが故に扱いづらくなってしまったのだ。
 こんな話はおそらく、それを体験した当の本人しか解せぬもので、読んでくれている後輩諸君はなんのことだがサッパリという感じだろうが、こういう些細な変化というものは毎日の稽古のなかに沢山あふれている。たとえば手の位置、足の位置、膝の曲げ具合、躰のライン、呼吸、可動域の使い方。それらの、数ミリ単位の動きの話が、それまで知ってはいたが使えずにいた動作を可能にするのだ。
 往往にしてそんな教えを「口伝」というのだろう。わたしはそう想う。

 今日といい昨日といい、あまりにも稽古が淋しすぎるぞexclamation部長、生きていたらちゃんと連絡を入れなさいexclamationほかの門弟諸君も、夏休み中はここ数週間のBlogを読んでもわかるように、参加人数が少ないから、密度の濃い稽古をするチャンスなんだぞexclamation気張って来なさいよexclamation雨でも、雷が鳴っても、気合いを入れて来なさいよexclamationH君を見習いなさい。あのひとは昨日も今日も雨に濡れて帰ったんだから・・・・・・もうやだ〜(悲しい顔)

 明日は稽古休み。みんなも気温の変化と体調にはじゅうぶん気をつけてください。
 裏部長でした。
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2006年08月28日

腰と柔らかさと私

 おばんです。裏部長です。残暑きびしい今日このごろ、みなさんはいかがお過ごしでしょうか・・・・・・なんて、こりゃ本州以南の話。今日の北海道はきのうまでの暑さがウソのようにすっかり涼しく、しまいにゃ雨は降るはトンボは飛びまわるはで、すっかり秋の装いです。こんな気温が続くようだと、そろそろ半袖をしまう準備をしなくてはなりません。
 なんだかんだと云っても、やっぱり北海道の夏は短いのですね。

 S呂くんのことをもっと知りたいという隠れたS呂ファンのために少しその情報をアップしておくと、彼は車好きです車(セダン)走ることが大好きなひとです。ここ最近のガソリン値高騰に嘆いている人のひとりです。ヒマがあると峠を攻めます。攻めすぎて事故ったこともありますむかっ(怒り)
 彼が自動車とおなじくらい真剣にとりくんでいるのが武術です。まあ、特にといえば空手でしょうね。青春をつぎごんで頑張ってますよ。若いのにノジョも作らずせっせと稽古に来ています。ファンの方はかれを応援してあげてください。
 さて、S呂くんの書き込みにあった突きの話ですが、その関係にあるちょっといい話を今日の稽古で仕入れてきたので、そのご紹介もかねて、本日の稽古報告と参りましょう。


2006年8月28日(月)曇りのち雨。すっかり肌寒い。
 午後二時過ぎ、札幌大学1002教室で空手の稽古。参加者はわたしだけ。ここ最近はなかったことである。
 師匠と差し向かいで稽古。基本は、まず廻し蹴りまでやり、それから手廻しをし、そして横蹴り(おそらく師匠は、まだ左肘の痛むわたしを慮り、刻み突きと裏拳打ちを外してくれたのであろう)。
 移動稽古(追い突き、逆突き、追い突き・逆突き)。狭い教室のため、あっさりとやる。
 後半はもっぱら質疑応答。以前にもあったこういう師匠と差し向かいの二人ぎりの稽古では、正直云ってあまりやることがない。後輩がひとりでもいればそのひとに合わせて、たとえば型をやるとか、約束組手をするという内容を用意することができるが、私しかいない場合、型は先日来やっているし、其場でやる動作や移動関係は改めてやってもあまり意味はないし、約束組手はただの確認で終わってしまうため、発展的な稽古ができないのだ。
 とはいえ、せっかくの場なので、いろいろと質問をする。
 空手における「相抜け」の話。膝のやわらかさ腰は入れない、構えたままの形で前進する、ゆったりとした速度、そこからの反撃などなど。
 の話。前手は動かさない、指先もしくは手刀部分を相手の腕に沿わせ、その勢いを躰へ伝えて外す、相手の突きを弾かない、押さない、膝・腰・前手の揺れ、その体感etc.
 いくら待っても誰も来ず。汗もすっかり乾いてしまったが、それは動きとして激しい稽古をしなかっただけで、思い返せば高レヴェルの話ばかりであった。
 四時半、終了。雨のなかを帰る。


 「相抜け」というのは専ら古流の剣術のなかで使われる用語で、相手が攻撃してくる、それに対してぶつからず、まるでその脇を素通りするかのように抜けてゆく技法を云う。わが空心館においてもこの「相抜け」という技法は存在し、むろんのこと突きなどに対して行なう。まあ、稽古のなかにおいて正式にやるのは、その門人が二段か三段くらいの腕前になってからで、よって今日の話題はかなり高いレヴェルにあったわけだが、しかしそこから得られる示唆は、現在のわたしの動きへ影響を及ぼすに十分であった。

 今日教わったことはそれこそ口伝の名に相応しいほどの細かい話ばかりで、特にこの「相抜け」に関してはわたしも、今はまだ感覚的ないし視覚的に捉えているだけなので、それをそっくりそのまま文章にするのは難しいのだが、ただその中にあって、先日の『矛盾』の話とリンクする部分があったのでそれをご紹介したい。
 わたしが矛盾だと云ったのは腰の使い方であった。これまではとにかく突くときは腰を目一杯ふって(まわして)突けと教えられ、実際そうしてきたわけだが、ある時期になると今度は「腰を廻さずに突け」と云われるようになる。こんなの矛盾してるッ!と書いたわけだが、その廻さない腰とそこから生まれる動作およびその威力ないしスピードは計り知れないものがあるというのだ。

 腰を振ると、振りきるのに時間がかかる、腰を振っているわけだからそれだけの幅ができる、大きく振り出せばも出てしまう、突きは腰の動きとリンクするわけだから、出した腰のほうの拳で突こうとすると、また大きく振りもどさねばならない。相手の攻撃に対する受けにおいても同様で、たとえば相手がこちらの中段(水月)へ追い突きをするとして、これを、こちらは構えた足の位置をほとんど変えず、上半身(または膝までの下半身)をやわらかくつかって正中線を外し、突きを逃がす。このとき、右腰は後ろへ逃げているわけだが、そこからその腰を相手の右体側へ入れ、相手の斜め後方へそのまま抜けてゆく。これがいわゆる「相抜け」なのだが、これまでの「腰を振って突く。腰をまわして受ける」という動きをもってこれをやれば、動作がどうしても大振になり、相手とぶつかることになる。これは実際にやってみればすぐにわかることだ。
 では、相手の側面へ自分の躰すべてを通りぬけさせるにはどうしたらよいか。それは、「腰を廻さない」ことだ。腰を切らないと云ってもよい。つまりは構えた状態の腰の形をほとんど変えに、後ろ足をいわゆる抜き足差し足のようにして斜め前へ差しいれるようにして抜ければ、相手とぶつからずに済み、結果、「相抜け」となる(理論上はそうであるが、この技は相当な修練が必要で、茶帯風情が興味半分でやる技ではない)。
 つまり、これまでやってきた、目一杯腰をきって行なう突きや受けの速さもしくは威力を前提にしたうえで、今度は腰を切らない、廻さない。行なう動作としてはただ、腰全体を前へ押し出ということくらいだ。これをする。
 この腰の使い方ができれば、空手におけるほとんどの動作が様変わりする。
 その順番はこうだ。まず突いてくる相手へ対する受けが変わる(「相抜け」の要領。腰のふりを徐徐に小さくしてゆく)→受けが変わると反撃の仕方も変わる腰をまわして突かない腰の前進で突く)→反撃が変わるとン・ツー、つまり刻み突き・逆突きのコンビネイションが変わる(いちいち腰を切って突かない。逆突きで腰の前進を)→ワン・ツーが変わると逆突が変わり、逆突きが変わればい突が変わる追い突きの変化がいちばん難しい。この突き方における腰の使い方を変えられれば相当なものだ)。
 
 なんとも説明不足で、今日の稽古を見ていなければまったく解らぬような文章で申し訳ないが、そんなこんなで、腰の使い方ひとつで突きがまるっきり変わってしまうのですね。突く位置とか、それは当たればいいのか当たって倒れなくちゃ意味がないのか、なんてことは超越しちゃって、腰の使い方が自由になってくれば(上記のように使えるようになったら)、拳が当たれば腰を入れて突きこむ、当たらなかったら腰は出さず、次の攻撃につかう、なんて話になってくる。
 つまり、自由自在なのです。はあ、早くそんなレヴェルになりてえなグッド(上向き矢印)

 わたしの今日の収穫は、「相抜け」に関する知識を得たことと、自分のえと受け方のコツを仕入れたことです。前者はただ参考にするだけの話ですが、後者は明日にでも試しながら吸収したいものです。全身足の底から指のさきまで柔らかくつかって受ける、なかなか出来るものではありませんが、そろそろ私はそれをやらねばならぬようです。
 
 今日はさびしい稽古になりましたが、明日からはおそらく、活気と熱意にあふれた後輩諸君がこぞって稽古に参加してくれることでしょう。そして稽古のあとはこぞって、このBlogにその日の感想や疑問なりを書き込んでくれることでしょう。
 この意味、わかってください、いい加減・・・・・・もうやだ〜(悲しい顔)

 では、明日稽古で。雨が降らないことを祈る裏部長でした。
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2006年08月27日

藝人たるもの記憶で語れ

 さくら〜ふぶ〜きの〜・・・というわけで、いいですなあ。24時間テレビ。みんなは見てるかな?平成教育委員会なんか見てるんじゃないの?WOWOWで「夢人島Fes.2006」?だめだめ!世界を愛で救うんだからexclamation最後はみんなでサライを唄うんだからexclamation×2
 しかし、それにしてもあの武道館の客席はどうにかならんのかね。よーく見るまでもなく、何処も彼処もKAT-TUNのファンばっかりじゃないか。あの六人を見るためだけに押しかけてる輩じゃないか。みんなでチャリティを、みんなの愛で世界を・・・・・・なんて云っていながら、最終的にジャニーズのコンサート状態でどうにか盛り上がっている態を装ってる。あれさえなければもっと番組の評価も上がるのだろうが、なんとも残念である。

 さて今日は稽古がなかったので、そのご報告はなし。ただその代わりと云ってはなんだけども、少しだけをさせてください。
 それは昨夜のBlog。自分の書いた文章にはいくつかがありました。約束組手は中段追い突きだけではなく、その前に上段への刻み突きを左右やりましたし、移動稽古のなかでは、相手の中心をとる対人稽古もやりました。これはまったくもって私の失念というかド忘れというか、さほど集中もせずに書いたための結果であり、数えきれないほどのひとの眼にふれるBlogに書くこむには甚だ軽率であったと想います。改めてここに陳謝いたします。
 ただ意見なんかはあのままで、撤回する必要はないと想います。ま、あれで怒るひとなんざいないと思いますがね。

 でもね、こういうことはよくあるのよ。自分はなんでも記録を見ずに記憶で書くタイプなので、あとで読み返すと辻褄があっていない箇所がたくさん見つかる、ということは日常茶飯事なのです。
 しかし、それが藝人というものだといいます。ラジオで有名な日高晤郎さんも常常云っておられますが、知識は知識として吸収して、そして一度忘れてしまうのが本当なのです。吸収して呑みこんで、あとは躰に残った感覚で藝にむかいあうのです。
 われわれの場合、その藝とは武藝、つまり武術ですね。考えてもみてください。武術が必要になるときなんてえのは、ふいに訪れる実戦の場でしょう。街なかで突然、見ず知らずのひとに襲われる、そんなときに防衛のために用いるのが武術です。そんなときに、いちいち知識や記録に頼ってたたかえますか?
「ちょっと待って。いま確認してくるから」なんて云って、自分でつけている技のノートを読み返しながらたたかう人はいません。ポカンとして見守ってくれる敵は映画や漫画のなかにしかいません。

 まあ、あまり意識しているわけではないですが、私はそんな理由で、武術においても文章においても、記憶でやるようにしています。いわば感覚、気持ですね。だから昨日のBlogのように事実が抜けていたり、順序が合っていなかったりすることもあります。そんな記事を見つけたら見つけ次第わたしのほうで、あとできちんと訂正します。
 だから門弟諸君はもちろん、このBlogをご愛好されている方は、毎日かかさず読んでね黒ハート(結局、宣伝かよッ!)

 明日からは新たな一週間。九月からは稽古時間などが変わり、曜日も「月、水、木、金、土」の週五日となり、夏休み中は午後五時から七時まで、夏休み明けからは通常どおり午後六時から八時までになります。
 北海道の冬はきびしい寒さが当たり前ですが、そんななかでも弛まぬ稽古を続けてゆきましょう。
 最近、またダイエットをはじめた裏部長でした。
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2006年08月26日

武術であるということ

 うー、うー、うー。ああ、思いつかない!駄目だ、おれには無理だー!!
 というわけで、今夜からアニメ台詞でのあいさつを中止します。ごめんなさい、もう思いつきません。勢いでこんなことを始めましたが、よくよく考えてみると、私はアニメそんなに詳しくないのよ。みんながすぐにそれと判るような台詞なんて知らないもの。ね、この苦しみわかってよ。
 ま、わたしのそんな書き出しに興味を持ってくれているひとなんかいないと思うので、独断で今日からふつうのあいさつに変えさせてもらいます。

 今夜から始まった二十九回目の「24時間テレビ」、メイン・パーソナリティはいま人気のKAT-TUNということで前評判もたかく、そのせいですっかり影が薄くなっておりますが、フジテレビ系列では女子のバレーボールが凄いですよ(まあ、こっちもジャニーズは絡んでおりますが)。今年の全日本はつよい!よく拾うし、それによく防ぎますよ、相手のアタックを。ここまで粘り強くなるにはそりゃ大変な苦労をされてきたのでしょうね。応援したいものです。

 さて、今日も稽古をしていたので、まずはそのご報告から。


2006年8月26日(土)晴れ。薄れてきたとはいえ、やはりまだ暑い。
 午後二時半、札幌大学1001教室にて空手の稽古。参加者は、苫小牧っ子のHと有望なる後輩・S呂。もちろん師匠も参加。
 基本は受けまで。すぐに移動稽古へ移る。追い突き、逆突き、追い突き・逆突き、前蹴り・廻し蹴り、横蹴り、相手を前に立たせて、五連続(刻み突き〜前蹴り〜逆突き〜一歩踏み出て下段払い〜逆突き、相手の前足を刈ってから上段追い突相手の前手を足で払って上段追い突、同じ払いからそのまま横蹴り
 後半は型。Hは「平安初段」、わたしとS呂は「腕秀」をやる。
 ここで師匠は早退。残りの時間は約束組手(利き手による中段追い突き)。Hは現状維持といった感じ。S呂はなかなか安定してきている。突きの焦点、腰の引き、足の運び、少しづつではあるが矯正されているのではないだろうか。しかし、試しに受け側をそのまま下がらせ、相手にどんどんと突かせる稽古をすると、二本目以降は突きが定まらない。これは皆おなじことで、二本目三本目がきれいに突けるまでにはまだ道が長そうだ。
 四時過ぎ、散会。


 本当は、今日のBlogではこれといって書くことはない。何故といって、今日の稽古で得たものがほとんど無かったからだ。刺戟がなかった、とも云える。後輩たちにとってはどうだったかわからないが、私にとっては基本も移動も型も約束組手も、すべてが現状維持であった。よって、そこに新たな発見や研究心をかきたてられるような刺激はない。無論、それを受けて書く内容もないわけだ。せっかく愉しみに読んでくれてるひとには申し訳ないが、たまにこういう稽古はある。上へ上へとつづく階段の、そのステップに立ち止まって、ひと息いれてるようなこんな時期には、こうした感じの稽古も仕方がないのだろうとおもう。みんなにも経験があるんじゃないかな。

 といって、吸収したものがなかったというわけでもない。先日、師匠にお渡しした、ある護身術の本に関して、たとえば相手がナイフのような武器を持っていた場合のこちら側の構えについての教えなどは、今日はじめて聴いた内容もあり、云い換えれば今日の稽古がなければ知りえなかった知識だとも云えるので、その点はよかったと思う。しかし、それは知識の習得であって、武術的技術の修得ないし向上ではない。だって武術って感覚でしょ?躰でおぼえて、躰で行なうものでしょ。だったら、知識を得ただけで喜んでちゃいけない。知ったつもり、巧くなったつもりになってちゃいけない。

 そんな厳しいことを自分自身に云いながらTVをつけると、黄色いTシャツが眼にはいった。毎年恒例の24時間テレビ。今年のテーマは「絆」だそうだ。振り仮名は「キズナ」となっているが、これは間違い。絆とは、相手と自分をつなぐ気持の「綱」という意味だから、仮名をふるなら「キヅナ」とするべき・・・・・・あっ、また知識が出た。こんなこと知っててもなんの徳にもならない。
 24時間テレビでは毎年、九時過ぎに二時間ほどのドラマが放映される。今年はKAT-TUNの亀梨和也主演で、全身の骨が溶けるという難病にかかった少年の実話をドラマ化したという。
 配役といい、題材といい、まさに24時間テレビらしいと思うが、しかしこれらのドラマを見るたびに、わたしは勿体無いとおもう。せっかくのゴールデン・タイム、しかも24時間テレビという特別な枠で二時間、TVドラマとしては好条件といえる環境なのに、どうして毎年ドラマらしくないドラマを作るのか?お泪ちょうだいの題材ばかり選ぶのか?
 これは故・伊丹十三監督も云っておられたが、障害とたたかう人たちを応援するといって、難病にかかって死んでしまった誰かをドラマに描くのは、フィクションの性格として不成立である。難病の恐さや、それと闘い、悲しくも死んでいったひとを描けばなにかを伝えられると思っているのかもしれないが、その深刻さを伝えたいのなら、実際にいまその病気と闘っているひとを追ったドキュメンタリーを作ればよい。そのほうがリアリティがあるし、また逆にフィクションとしてどうしても製作したいのなら、実話にはない何を加えなければならない。
 たとえば、大雑把にいって、「ただの悲劇にしない」「深刻にしない」「病気や障害を全面に出さない」「お泪ちょうだいにしない」「娯楽性をもりこむ」「悲劇による泪ではなく、ハッピーエンドを迎えたその感動で泪をさそう」・・・・・・これらを全うすることがフィクションとしての二時間ドラマを成立させる間違いのない方法だろう。製作者たちは考えてもらいたいとおもう。

 どうしてこんなことを書いたかというと、このフィクションらしさというようなものが、おなじく武術にもあると思ったからだ。つまり、武術らしさというものである。それは突きにも、蹴りにも受けにも、投げ技などにもあるもので、私たちはそんな武術らしさを学ぶために稽古をする。刺戟があろうがなかろうが、発見があろうがなかろうが、日日の稽古を続けるのである。

 実はこれ、最近怠け癖のある自分に対して云っている言葉なのです。左肘の痛みがいまだ治らず、満足な稽古ができないために、フラストレイションが溜まっているのでしょう。読んでくれたひとは、あんまり気にしないでね。
 こんなときには言葉を励みにしましょう。日本伝天心古流拳法初目録のなかにあった歌を最後に書いておきます。

  「稽古には 清水のすえの細々と 絶へす流るる 心こそよき

 心を改めたい裏部長でした。
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2006年08月25日

見る―真似る―盗む

 ったく、気障な野郎だぜ。おれだよ、裏部長だよ・・・・・・飛ばねえ豚はただの豚だ。
 たまにはハードボイルドに始めてみました。新作『ゲド戦記』はあまりお客が入っていないようです。まあ、そんなことはどうでもいいですが。
 改めましてこんばんは。ようやく北海道の夏も終わりにさしかかってきました。風も涼しいし、気温もさほど上がらなくなってきて良い天気です。もうすぐ秋が来ます。
 さて今日は師匠不在ながら稽古をしてきたので、そのご報告を忘れないうちにやっときましょうか。


2006年8月25日(金)晴れ。よい日和である。
 午後二時過ぎ、札幌大学1002教室にて空手の稽古。参加者は部長と有望なる後輩・S呂、中国拳法のS浦。師匠は不在。
 本日借りた教室にはプロジェクターがあり、ヴィデオなどを見ることができるため、まずは私が持ってきた過去のVTRなどを見る。一本は今年の三月、わたしと師匠のみで行った栃木遠征の稽古風景。最後に師匠と、おなじく本部道場師範代のY氏との組手を中心に見る。S呂、あらゆるところで感嘆の息をもらす。
 次に、平成三年というから今より十五年前の映像。これは師範ともうひとりの師範代で、うちの師匠の上に位置するI氏、現在は指導もされている長身のO氏の三名が、空心館にしかない技法(通称「技」)を演武しているVTRで、部長などもじっくり見たことのないI師範代の突きなどを見る。
 少し遅れてやってきたS浦。NHKで三年ほど前に放送された中国武術大会のヴィデオや、つい先日の演武大会のDVDなどを持参する。これらも見る。S呂、しきりと競技者たちの高い跳躍力と柔軟性に驚く。
 気づくともう四時になろうとしている。慌てて支度をし、稽古開始。
 基本は受けまで。そのまますぐに約束組手へ移る。
 最初、わたしとS呂、部長とS浦、次にわたしとS浦、部長とS呂の組み合わせでおこなう。
 S呂、先ほどのVTRで見た師範代たちの動きをイメージして突いてくる。これがなかなか良い。視覚的に得たイメージを体内で具現化し、真似してみた結果、これまで出てこなかった速さやテンポなどが自然とにじむようになったのだ。見るということはよい稽古になる。
 S浦には、極力相手とぶつからない受け方を指導する。
 五時過ぎ、あれやこれやと談笑してから散会する。


 「藝は盗め」とよく云う。落語などでもどうだし、芸者の世界でもまともに教えてくれる師匠などいやしない。みんな、蔭から師匠の動きを見、それを真似するところから修行をはじめるのだ。
 武術も「武藝」というくらいだから、やはり多分にその要素はあると思う。つまり、盗むということが上達に繋がるといえるわけだ。盗むとは真似ることであり、真似るためには師匠の動きを見なければならない。これは簡単にできるようで、そうそう容易いものではない。そんなことが大切だなんて、気づいていないひとも多くいるのではないだろうか。
 私は師匠のもとへ入門したとき、同期で入った部長にライバル心を持っていた。なぜなら彼は高校時代、空手部に所属して競技モノながら空手をやっていたわけで、突きにしても蹴りにしても私より数段巧かった。正直まったくと云ってよいほど敵わなかった。わたしはそれが口惜しかったから、自宅に帰ってからも毎日欠かさず自主稽古をした。そしてそれ以上に、師匠の動きや言葉、その一挙手一等足をもらさぬように観察した。
 それが現在に繋がっている。今日S呂にはやってみたが、たとえばVTRの中にあったY師範代の追い突き、I師範代の追い突き、O先輩の追い突き、師匠の追い突きをわたしは真似してやることができる(ただの物真似だが)。こんなことが出来るようになったのも、師匠の真似をするようになってからだ。

 武術において、見る―真似る―盗む、という過程はとても重要である。なかなかやれるものではないが、門弟諸君は日頃から励んでもらいたい。稽古のなかで師匠がやっている動き、その手の形や膝の曲がり具合、指先の柔らかさ、突いたあとの姿勢、声の出し方、視線の送り方・・・・・・自分以外のたれかへ師匠が指導をされているときも油断してはいけない。稽古で師匠が発した言葉はすべて自分のためである、そう想って修練しましょう。

 明日は師匠も参加しての稽古。部長がいないので、S呂くん、休まず来てください。
 裏部長でした。


 
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2006年08月24日

反射してますか?

 こんばんは、裏部長であります。あっ、とうとう現れたな!コラッ、待てい、ルパ〜ン!!
 というわけで、今日もアニメの台詞からスタートです。誰のセリフかはもうわかってるよね。そう、あのひと。あの警部。どんな目に遭っても決して死なないタフなおじさんです。追われているほうも大変ですが、追うほうはもっと大変でしょうね。そのうち走りすぎて死んじゃいますよ、きっと。

 さて、今日は木曜日。木曜日といえば体道稽古ということで、まずはそのご報告から。


2006年8月24日(木)晴れ。気温、たいぶ下がってそろそろ夏バテが来そうな日和。
 午後二時過ぎ、札幌大学1001教室で体道稽古。参加者は部長と、苫小牧出身のHのみ。師匠は会議のため、少し遅れて到着。
 部長は日本伝天心古流拳法免許之位から「小手担」「後抱取」「後取」の三本、Hはおなじく天心古流の初伝中段之位から「両山嵐」「片山嵐」「鉈裏投」の三本を、わたしは浅山一伝流体術から「込之抱」「帰投」「山脈取」の三本を教わる。
 Hらが「両山嵐」という技に苦戦する。これは、合気道でいうところの四方投で、相手がこちらの両手を前から自分の両手でもってつかんでくる、そこから相手の腕のしたを掻い潜るように回転し、相手をエビゾリに反らせてそのまま前へ投げてしまう技だが、どうも投げる段になって相手の崩しがうまくゆかぬ。原因はいろいろとあるのだが、その対処法がいまいちよく見えず、師匠もしばし苦慮。
 最終的には、捕りの動きも未熟ながら、それ以上に、受けのほうが妥当な受身の方法を知らず、また床がコンクリートのため怖がり、無意識のうちに投げられまいぞという姿勢になっていることが流れを滞らせている原因であると解った。
 われわれの柔術の稽古はまず型ありきで、特別に受身だけを稽古するということはない。私なんぞは合気道をやっていたときに厭というほど畳のうえを転げまわっていたから何ともないが、柔術関係の経験がほとんどない後輩たちにはやはり難儀なのだろう。師匠もこれからはその指導方法を考えるといっていた。
 稽古後、わたしが興味を持っている或る総合護身術の本を師匠へわたし、意見を乞う。師匠、そのなかに載っている技の連続写真を見て、すぐさまその問題点、技の不成立を指摘される。
 五時過ぎ、終了。


 受身の問題に関してはすでに以前にもこのBlogに書いたが、とても難しい話である。わたしは合気道をやっていたときに受身はうるさいほど教わったし、ふだんの稽古のなかで当たり前のように飛んだり倒れたりしていたから、空心館の体道稽古をはじめるに当たっても、たとえそこがコンクリートの床であったとしても、あまり悩むことなく受身をとることができたが、わたし以外の門弟、つまり後輩たちのなかには、そういった経験をしている人間がほとんどいない。受身の稽古をしていない人間が多数いるのである。
 受身とは、ただ投げられるとか押さえられるという「動的役割」だけのものではない。相手の技をうけて自分の躰が傷ついたり、それによって致命的な怪我を負わないためにおこなう防衛手段のひとつであり、これも立派な武術の技だといえる。そんな経験を抜きにいろいろな技を稽古したのでは危ない。これは気づかねばならぬ問題であった。
 
 しかしながら、本部道場でもとりたてて受身だけの稽古をやっているわけでもないし、そのせいで怪我をしたとか、技がどうしてもできない人間が出ているわけでもないから、師匠がその修行システム(受身や構えなどの初歩的指導はやらず、実際の技や型のなかから学んでもらう)を踏襲したのはなにも無謀なことではない。むしろそこには先達たちの修行の証があるわけで、そんな達人たちへ近づきたいのなら私たちもそれに従うべきなのだが、要はその稽古方法ではないのであろう。
 大切なのは、「反射できているか」、これに尽きる。

        「反射してますか?」 

 これは映画監督の溝口健二さんがよく俳優たちにかけていた言葉です。その意味がわかるでしょうか。
 俳優たちは演技をするとき、台本にあるセリフをおぼえて現場に臨みますね。そのとき、たとえばひとつの部屋のなかに五人の男女がいて、これから始まる夏休みの計画について、あれやこれやと話し合っている・・・・・・こういった場面があるとして、彼らは「用意、スタート」の声とともに、一斉に話しはじめるわけです。
 もちろん喋るのは台本に書かれているセリフです。決められたことばを決められた順番で決められた感情にのせてしゃべる、これが彼らの仕事であるわけですが、ヴェテランや有能な俳優以外はどうしてもこれが段取になってしまう。何気ない会話のシーンなのに、どういうわけか、学芸会で演技をしている高校生のように、決められた順番に従って話している、といった雰囲気になってしまうのです。
 これは無理もありません。なにせ喋ることばも順番も決められているわけですから。俳優たちの心のなかでは、「Aが喋ってBが笑って、Cを黙らせてDが突っ込んだあとに俺のセリフだ」なんていうナンバリングがされていて、演技をしながらその順番を待っているのです。そして自分の番が来ると、待ってましたとばかりにその短いセリフを嬉嬉として云うのです。
 これが当たり前なのです。実際にやってみればわかります。そうしないと長いシークエンスなど演じられるものではありません。それは、仮に「プロフェッショナル」と呼ばれているひとたちでも同様です。

 しかし、これって変じゃありませんか。だって、日頃わたしたちはそんなこと考えて喋っていないもの。数人で集まって世間話をしているとき、あいつが喋ったから今度はおれが、なんて計算をして話すひとはいないでしょう。ただ単純にひとの話を聴き、頷き、たまには驚いて、そのうち自分の意見が思いついたので、「でも、それってさ」なんて云いながら割り込んでゆく。
 これが当たり前です。つまり、相手のことばに対し、無意識のうちに「」をしているわけです。
 溝口さんはこれを俳優たちに確認したのです。「あなた、ちゃんと反射してますか」ってね。

 今日の稽古で出た受けの話をうけて、私はふいにこんな話を思い出してしまいました。あんまり関係はないかもしれないけど、武術における捕りと受けの関係も、考えずに反射できる間柄でありたいものです。

 明日は師匠不在のため、自主的に稽古します。来られるひとはぜひ来てください。
 裏部長でした。
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2006年08月23日

スーパーな男

 おっす、おら裏部長手(チョキ)(ネタが尽きたので、今日からはアニメ特集です)。
 いよいよ札幌支部の本丸ともいうべき師匠の書き込みがありましたね。ようやく形が整ってきました。やっぱり師匠が書いてないと締まりません。それに、なにかあればすぐに答えてくれるということがわかれば門弟諸君もどんどん質問などができるでしょう。
 有意義なBlogになりそうです。

 師匠がおすぎさんへ宛てた回答などは興味ぶかいですね。まあ、そのほとんどは日頃の稽古で教わっている内容そのものですが、たとえば、稽古においては、受けのときは受け100の突き0、攻めるときは突き100の受け0という比率でやってみろ、とかいう言葉は、当たり前のようでなかなか気づけぬものです。受けのときは相手の攻撃すべてを呑みこむような心持で構え、突いてゆくときは構えた時点でガラッとスウィッチを入れ替えて火の玉のようになって相手の懐へ飛び込んでゆく・・・・・・そんな稽古を心がけたいものです。
 
 さてさて、私はというと、今日は仕事終わりに友人と会い、札幌シネマフロンティアで映画を観てきました。
 観たのは、『スーパーマンリターンズ』(アメリカ映画2006)。云わずと知れたあのシリーズの続編で、五年前に突然いなくなってしまったクラーク・ケントことスーパーマンが地球へ帰ってくるところから物語は始まります。
 正直なところ、私はあまり期待をせずにいたのですが、観てみてびっくり!まあなんと面白かったことか!まさに圧巻です。呆れるほど愉しく、アクション・シーンでは開いた口が塞がらないほどの迫力におもわず笑ってしまいました。綻びのないCGやVFXをふんだんに使い、前シリーズなんかは足下にも及ばないほどスケールの大きな作品になっています。あんな映画を作られたんじゃ、日本映画など、逆立ちしたって太刀打ちできません。

 しかし、みなさんは知っていましたか?私もあんまりこの手の作品には詳しくないので今日はじめて知ったのですが、スーパーマンは空を飛べるだけではないのですよ目
 まず彼の眼からは光線が出ますー(長音記号1)赤く細いが強力な光線がビューってなもんで凄まじく出る。空から降ってくるコンクリートの破片だとか地表だとか、そんなものは軽く貫いてしまうほどの光線が、両眼から出のです。
 加えて、すこし強く息をはけば、それは冷気となり、迫り来る焔なんぞをあっという間に消してしまう。水に濡れてもすこし飛びまわれば乾く。スーツの下にあの全身タイツみたいな恰好をしているのに、いつも汗ひとつかいていない
 そんなこと以上にわたしが驚いたのは、彼に透視能力があることです。あのひとはどんなものでも透かして見ることができるのです。だから、好きな女性が家のなかで料理をしているところやエレベーターでビルの屋上へ上がってゆくときなんかも、まるでレントゲンのように見える。その倍率もあいつのサジ加減ひとつですから、もっとその度合いを強くすればもちろん彼女のアレなんかも見えちゃうわけで・・・・・・黒ハート

 いやあ、いいですな〜グッド(上向き矢印)こういうヒーローものの映画を観ると、男の子なんぞはやっぱり「俺にもこんなチカラがあったらなあ」なんて考えるものですが、今日のわたしもそんな風でした。もし自分にスーパーマンの能力すべてが備わっていたらどんなに良いだろう。あんな風に空がとべて、あんな風にいろんなものを覗き見、じゃなくって透視できればどんなに愉しい人生が送れるだろう。そんなことを想ったわけです。
 しかし、たぶん無理でしょうねえ。いやよしんば明日、朝起きてわたしがクラーク・ケントになっていたとしても、恐らくスーパーマンにはなりますまい。だってスーパーマンはヒーローだもの。正義の味方だもの。市民たちの英雄はその能力を悪用したりせず、ちゃんと毎日おこたらずに困った人たちを助けるわけでしょう。だからヒーローなんで、力を得たそばから銭湯とか女子校へ行って、あんなことやこんなことをしようなんて考えている人間は、きっと悪魔に魂を売り渡したデヴィルになってしまうのです。その躰は醜く変形し、ガラガラとしただみ声でヒロインをいたぶるような小悪党に成り下がってしまうのです。

 そんなことを想うと、スーパーマンも楽ではありませんね。私たちはやっぱり普通の人間でゆきましょう。超人的な能力なんてない、だから毎日、地味な稽古でもつづけて、武術を修行する人間でゆきましょう。そのほうが合っているのです。やれ体力が続かないだの、やれ肘がまだ痛いだのとブツブツ云いながら今日も胴着をきて汗を流す。そんな毎日でゆきましょう。

 明日は体道稽古です。
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2006年08月22日

怠惰はカラダのためならず

 こんばんにゃん、裏部長でやんす。ああ、そろそろ挨拶の仕方もネタが尽きてきた・・・・・・。
 今日の札幌は、雨が降ったとおもえばすぐに晴れて、傘をしまったらまたポツポツ降ってくるという、なんとも不安定な天気で、過ごしやすいんだか湿気が鬱陶しいんだか、よくわからない一日でした。やっぱり、暑くてもいいから少しはカラッとしている天気がいちばんですねぴかぴか(新しい)

 おすぎさん、ランキングの順位が少しづつ上がっているそうで、何よりです。ただ、まだそのページの最初にないのが口惜しいな。次のページに行かなきゃ見らんないんだもの。できるなら、ランキングの画面になった途端にわれわれのBlogのタイトルが眼に入るようにしたいものです。
 突き(攻撃)と受け(防禦)の比率に関しては、近いうちに師匠から回答があるでしょうが、私としては最初は五分五分、しかしそのうち、受けのウェイトが攻撃を凌駕してゆくような気がします。
 師匠の構えを見てください。両手ともに開いています。あれは防禦の構です。私たちのやっているような、拳を握る構えはまだ撃(反撃)の余地を残している構ですね。相手の攻撃を受けるか捌くかして、そして握っているほうの手で反撃を加えるわけです。
 それが普通なわけですが、レヴェルが上がってゆくうちに、基本的にはちらから仕掛けないようになります。あえて突きこむ隙を見せて相手に攻撃させ、それを捌いて制してしまう。投げてもよし、押さえてもよし、もちろん改めて拳を握って反撃してもよし。
 結局、受けというものが反撃(攻め)をも含んでしまって、パッと見、受けだけになります。
 おそらく、それが理想なのでしょう(あまり真剣に受け止めないでね。間違ってるかもしれんからがく〜(落胆した顔)

 さて、今日も稽古をしてきたので、とりあえずそのご報告から。


2006年8月22日(火)曇りときどき雨。中途半端な天気である。
 午後二時半、札幌大学1001教室にて空手の稽古。参加は、苫小牧出身のHのみ。ひさしぶりの参加である。
 基本稽古ひと通り(其場突き〜横蹴り)。
 移動稽古(追い突き、逆突き、逆突き・前蹴り、逆突き・逆突き、追い突き・逆突き、足を出して刈る・そのまま追い突き)。裏部長、不覚にも基本稽古の時点で体力を使い果たし、フラフラのていでどうにか附いてゆく。
 後半は型。Hは「平安初段」を、わたしは「腕秀」を。
 わたしの課題は、猫足立である。前足の位置、後ろ足の向きなどをかなり厳密に直される。そろそろ黒帯が近づいてきているため、自然とその指摘内容も細かくなる。
 四時過ぎ、終了。小雨のなか、散会。


 猫足立ちにおける課題の対処法としては、出す前足はこれまでより外へ、蟹股ふうに出してみる(思い切って股間をひらくイメージ)、後ろ足(膝)を真正面へ向ける、その形で受けたり突いたりしてブレない位置をさが・・・・・・などがあるだろうと思われる。しかしこれらはいづれも私の体内の感覚なので、しごく不明確で、うまく出来ているかは未だわからない。

 しかしまあ今日の稽古はしんどかったもうやだ〜(悲しい顔)なにせ基本稽古を最後までやったのは久しぶりであったし、暑さも加わって、移動を始めるころにはすっかりヘロヘロになっていたのである。だからそのあとの稽古はついてゆくのが精一杯で、正直あまり良い内容ではなかったとおもう。
 こういう稽古を経験すると、やっぱり「怠惰はカラダの毒である」と痛感する。怠けた結果はほとんどの場合、下半身に出る。足腰の鍛錬というものは一様にして辛いもので、自主稽古などでは避けてしまう傾向がつよい。自然、あっという間に衰えてくる。その成果が今日のような稽古につながってしまうのである。
 大東流の名人と謳われた佐川幸義さんなども云われているように、武術の基礎は下半身にあるという。どんなに柔らかく、ほとんど筋力を使わないような技をやるにしたって、下半身の盤石なる強さがなければ威力は出ない。
 こりゃ、また気を引締めねばならぬ。

 さて、師匠からの連絡のおかげで、札幌支部のほとんどの門弟諸君はこのBlogの存在を知ったようです。これからドシドシ新たな書き込みが増えることでしょう。わたくし裏部長は、意地でも毎日書き込もうと決意しておりますが、みんなもいろいろと書き込んでやってください手(チョキ)手(チョキ)
 明日は稽古休みです。
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2006年08月21日

ああ、矛盾。

 どうもみなさん、こんばんみ。裏部長です。甲子園での話題には触れないでください。負けた試合に興味などありません。勝敗を決している以上、「よくやった」などという慰めは必要ない、ただのキレイごとです。そんな言葉は彼らには要らないのです。

 さて、本日夕方に札幌支部の門弟諸君へ、師匠からこのBlogでの書き込みマナーが通達されたと思いますが、これらは必ず守ってください。厳守ですよ、厳守。誹謗中傷は断じていけません・・・・・・という私からして、たま〜にそんな風なことを書いてしまいますが、みんなは真似しちゃだめだぞ。するんだったら表現に気をつけなさい。明らかにそうと判る書き方をしちゃいけないよ。やれ「○○の空手は使えない」とか「××っていう武術家はヘタクソだ」なんていう表現はいけません。書くんなら、読んで数分してから「あの野郎、ひでえこと書きやがって」とづいて憤慨するような文章にしなくちゃ(って、しちゃダメだぞexclamation

 冗談はそのくらいにして、お盆あけ最初の稽古をしてきたので、その内容をざっとご報告しましょうかねぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)


2006年8月21日(月)晴れ。まだ夏の暑さは消えぬ。
 午後二時半、札幌大学1002教室にて空手の稽古・・・・・・とは云っても、開始時にはわたしと師匠しかおらず、そのうち、以前から師匠とも交流のあった中国拳法家のOさんが来られて、師匠の関係された本の内容に対するいろいろな質問を受けたので、前半はその応答にあてる。
 の話、立ち方の話、足を刈るということ、崩すということetc.
 そうこうしているうちに、有望なる後輩・S呂が来たため、通常の稽古にもどる。
 基本稽古は其場突き、前蹴り、受け四種まで。それからはその場にて、体捌き・内受け・逆突き、猫足立ちになりつつ上段受け・内受け・下段払い・逆突き、足を前に出して猫足立ちになりつつ内受け・下段払い・逆突き、前後への両足のスクロールと両手の揺れ、その場での追い突き。
 後半は約束組手。わたしはS呂と、師匠はOさんと組む。
 上段への刻み突きに対して、前手の捻りで受ける。わたしは左ひじの、いわゆる「武術的成長痛」がいまだ治らず、四苦八苦のていで突く。
 上段への逆突きを、前手の返しで外へ外す。私だけこれが巧くできなかった。課題になる。
 終了間近、S呂が悩んでいる中段追い突きの指導を師匠にお願いする。師匠もこのBlogに書き込んだ彼の苦悩に満ちた文章を読んでいるらしく、すぐに引き受けて指導してくださる。
 S呂に関しては、突きが逃げないようにする、もっと分の腰を相手の股間へぶつけるように踏み込むなどのポイントが与えられる。端から見ていると、さほど悪くはないようだ。あと少し
 ついでに私も見てもらう。現在の形から脱皮するには、少しレヴェルは高いが、腰の回転で突くのではなく、あくまで腰全体の押し出でもって前へ突くようにすべし、というのだが、これがなかなか難しい。今すぐできる必要はないが、すこし研究してみたい。
 五時、終了。S呂と、最近ガソリンの値段が高いねえ、などという話をして帰路につく。


 中国拳法家のOさんとは、ご自分でもお弟子さんを抱えておられる方で、数箇月前に師匠と出会い、実際に稽古へ来られるのは今日が二度目である。後半はわたしたちの稽古に参加もされた。その研究心たるや頭がさがるほどである。
 
 悩みに悩んでいるS呂も、もしかしたら光が見えてきたのかもしれぬ。彼自身、空手のキャリアは長いのだから、決して遠回りはしていないはずだ。本当にあと少し。気張ってもらいたい。

 当のわたしとしては、上段逆突きに対する技と追い突きに課題が出た。こういった、その日の稽古でうまく出来なかった技をわたしは自宅へ持ち帰り、自分でいろいろと稽古してみるのだが、ここ数箇月はなかったことだ。「出来ない」と悩むことはたしかに辛いが、しかしそれがないと上達しない。
 しっかり努めてみたい。

 さて、今日のタイトルにある「矛盾」と何か・・・・・・と云って、こりゃ何てことはない、武術修行にはよくある、方向性の転換とでも云うべきものなのだ。
 つまりね、例えば逆突きひとつ取って見ても、最初はガッシリ腰を廻して突けと云われるわけ。腰の回転でもって拳を放り出せ、ってね。だから最初のうちは、これでもかってほど腰をフルに振って逆突きを突く。当分のあいだはそればっかり。だからこっちも、それが正解だと想って、一所懸命にやるわけよ。腰まわりの贅肉が捩れて落ちちゃうんじゃないの?ってくらい腰を廻すわけ。
 でもね、あるときからこう云われるわけ。

「じゃあ、次は腰をまわさずに突いてみて」

 これを矛盾と呼ばずになんと呼ぼうかexclamationこれまではとにかく腰を振れ、腰を出せと云ってきたのが、今度は出すなと云う。今日の追い突きでもそう、腰を中華料理屋にあるターン・テーブルのように廻して突けと云われてきたのが一転、今度は回転させず、腰自体をそのままの形で前へ出せという。いきなりこんなことを云われたら、そら有望なる後輩・S呂でなくても混乱します。「今まで自分がやってきたことは何だったんだ」と不安になります。
 ああ、矛盾・・・・・・っていうのは、そういうことです。

 しかし、それは武術の階段を一段のぼることでもあります。大股に踏み出しても足が簡単には届かない、高い高い階段のステップに、その足先をかけることなのです。登りきるのはしんどいことですが、しかしその高みに立ったとき、それまで見たことのなかった景色が見えるでしょう。悩み苦しんでいた昨日までの自分がちいさく見えることでしょう。
 だから、私たちは闘わなくてはいけないのです。ちょっとだけ理不尽な、そんな矛盾の連続と。

 なんだか、自分で自分を励ますような文章になってしまいました。べつに落ち込んでいるわけじゃないので、心配しないでください。いなくなっても探さないでください(誰がいなくなるかッexclamation

 明日も稽古あり。参加できるひとは奮って来てください。
 自主稽古に余念のない裏部長でした。
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2006年08月20日

荒療治!!

 ハイハイどうも、裏部長です。今日の駒苫VS早実戦、みんな見た?私はすっかり最初から最後まで見てしまいました。白熱したねえ。いつまで経っても勝負がつかないんだもの。結局、十五回までやっても勝負がつかず、明日再試合となりましたが、見ているこっちはなんともいえないモヤモヤが残った上に、三時間以上もTVに集中していたため何もすることができず、あっという間に日曜日の夕方を迎えて、なんだかガッカリといった感じでありました。
 明日こそは勝ってもらいたいものです。

 さーて、このBlogを律儀にきちんと読んでくれているひとならばご存知のことでしょうが、現在わたくしこと裏部長は左ひじの痛みに苦しんでおりまして、毎日、悶悶として過ごしておりますが、昨夜その痛みに対しての良い治療法を思いついたので、ほかにあまり書くこともないので書いておきます。

 それは、荒療治です。今までは突くと、なんとも云えない痛みが肘を走り、そのたびに稽古を中断したり、内容を変えたりしておりましたが、これでは何の解決にもなりません。そこで、多少痛みを感じても構わず、まるでまったく痛くなんかないんだよ〜んといった心持で、バッシバッシと突いてしまうのです。其場突きはもちろん、左ですから刻み突きなんかをバンバン突く。そうすると、どうでしょう。少しづつではありますが、肘の痛みが薄くなってゆくではありませんか。自分のやろうと考えている突きに近づいているじゃありませんか。
 躰のどこかが痛いと感じたときはふつう、あまり無理をしないほうが良いのでしょうが、しかし突きや腕に関しては、現在のわたしのように痛みを抱えたまま突きの稽古をすると、腕が伸びきる前(肘が痛みを発する前)に力をいれてその威力を軽減させようとしてしまい、突きの稽古としてはあまり良くない結果となってしまいますから、むしろその考えをひっくり返して、痛みのことなんか忘れ、テンションをあげてやってしまうほうが良いのです。汗をダラダラかきながら、ドッシンドッシン突いてやればよいのです。

 まだ肘の痛みが完全にひいたわけではないので、上記のやり方が正解かどうかは責任もてませんが、試したいひとがあればどうぞ。気張ってやってみてください。

 明日からはまたすこし暑くなるそうです。夏の最後の抵抗です。
 私たちもそのパワーに負けないよう、元気を出してゆきましょう。

 
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2006年08月19日

100:0

 こんばんは。裏部長だよ〜ん。おすぎさん、毎度毎度、Blogの管理ありがとうございます晴れ文章の数もどんどんと増えてきて、ようやくBlogらしくなってきました。ランキングのほうも徐徐に・・・・・・って、そんなに上がってないのねもうやだ〜(悲しい顔)世間はそんなに甘くはないのですねもうやだ〜(悲しい顔)

 ま、気にせず。ランキング目当てのBlogじゃないですからね。気にせず行きましょう手(チョキ)手(チョキ)

 部長はいまの自分自身のなかの「感覚」を書かれていましたが、こういう表現というのはとても大切だと想います。とかく感覚だとかイメージなんてものは、てめえの内ですっかり勝手に納得して終わっちまうことが多く、それを誰かに伝えて再確認するなんていうことは、師匠のような教える立場にならない限りほとんど無いことですが、これをすることによって、さらにその理解は深まります。表に出してみて初めて、「アレ、これでいいのかな?」なんて考えさせられることもあります。人間なんて不確なもんですから。

 だから部長に限らず、他の門弟たちもどんどん自分の「感覚」を文章にしてください。拙くても構いません。べつに学校の作文じゃないんだから。いま想っていることを想っている通りに書いてみてください。
 ・・・・・・と云って、気づけば大多数の門弟たちがこのBlogに関して、まだその存在すら知らない可能性があることに最近気づきましたexclamation至急、連絡を廻さなくてはなりませんね。

 さて、おすぎさんは師匠と李自力先生のことを書いておりましたが、その文章にもあった通り、こういった師範方に出逢えるということはなかなかあるものではありません。わたしは勝手に、こういった師匠方を「本物」などとは安く呼ばず、重みをこめて「本格」と称していますが、そういった方方に直接会うことができるなんざ、まさに、一生にあるかないかです。そういった先生方に出会えず、誤った道を本格と信じて邁進してしまっている人人がたくさんいることを、門弟諸君もよ〜く知っていることでしょう。
 これは「」です。縁がなけりゃ、どんなに欲していても出逢えない。少しでも縁があれば、厭でも近くにやってくる。出身国ということからいえば、あの札幌大学でのシンポジュウムにおいて、李先生ははるばるシナからやってきたのです。
 縁は、国境を越えるのです

 そんな貴重なる縁のおかげで出逢うことができた我が師匠、瀧元誠樹より教わったことのなかで、弟子入りして数箇月ころに聞いたアドヴァイスでいまも忘れずにいるものがあります。
 あれはたしか体道の稽古時だったと想いますが、師匠が技の解説をする、その動作の理由を述べられたときに、ふと、

武術においては、楽して勝ちたいわけだ。その動作(技)をしたときに、相手と自分とのあいだに、勝率のバランスがあってはまだいけない。70:30で勝っても90:10で勝っても、相手に少しでも勝つ可能性があっては武術として不成立。本当の武術では、常にこちら側が100%で勝っていなければならない

 こんなことをおっしゃった。後輩諸君も、ちゃっかり私がその受け売りをしているので聞いたことがあるかと想うが、これを聴いたときわたしは驚きました。正直云ってショックだった。まさにカルチャー・ショックの感があったのです。
 だって、そんなことは、それまで真剣にやっていた合気道のなかでも聞いたことのなかったから。厳しい武術のなかにしかない教えだったからなのでしょう。すっかり甘い武道の世界にはまっていた私にはとてつもないほどの刺戟になったのです。

 これはどういうことかと云えば・・・・・・。
 たとえば相手がこちらの脳天めがけて打ちこんでくる、これは刃物による斬りこみでも同じことですが、これを受け止めずにかわして捌くとします。そのとき、相手に対し、こちらは左足を軸にして躰をひらき、相手の打ちのラインから躰を逃がしつつ相手の腕をコントロールし、そこから床へ押さえ込んでゆく。これを坐ってやれば、日本伝天心古流拳法居取之位一本目「双手背之極」になります。
 このとき、どうして左足(坐った場合は左ひざ)を基準に躰をひらくのか。どうして受け止めてはいけないのか。押さえ込み先行ではなく、捌きが先行なのはなぜか。相手の打ちに対して、こちらは右腕で上段受け、左拳で相手の脇腹へ当て身を同時に入れるのは・・・・・・etc.
 それらへの回答は、すべて上記の一文で済んでしまいます。
 そう、そうしなければ、100%の確立で勝ちを得られない、違う云い方をすれば、負けてしまう、やられてしまう可能性が出てきてしまうから、でしょう。
 武術というのもそういうものなのです。これは空手にも、剣にも棒にも柔術にもいえます。

 こんな貴重な教えを、あっさりぽろっと与えてくれるような師匠に出逢えたことをわたしは誇りに想います。みんなもそう想ってください。
 師匠はどうか知りませんが・・・・・・(まさか、嫌ってはいないでしょうわーい(嬉しい顔)

 来週からはまた稽古が再開されます。みんな、夏バテと夏カゼには十分気をつけてくださいよ。
 裏部長でした。
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2006年08月18日

反省。

 どうも、裏部長です。今日は気温こそ低かったけど、なーんかジメジメした天気で、風の通らないところにいると地獄でしたもうやだ〜(悲しい顔)カンカンに暑いのもきついけど、こう晴れきらないのも厭ですなあ。

 さーてさて、部長はなんとも部長らしい書き込みで、なんかBlogらしくなってきましたねわーい(嬉しい顔)Blogってのは日記だからね、ああいう日常のその日にあったことなんかを気軽に書くのがいちばん良いのでしょうが、でもね部長、わたしは何も、好き好んで武術のことばっか書いてるわけじゃないんだよ。ここは一応、日本武術研究所空心館札幌支部のBlogでしょう。タイトルに、札幌大学で空手と体道を稽古している〜って書いてるでしょう。そこに引かれて覗きにくるひともいるわけじゃない。「アレ、ここって何だろう」ってな具合に興味を持ってくれるかもしれんでしょうが。
 そんなときにだよ、あんまり武術と関係ないことばっかり書いてあったんじゃ、「ああ、ここは大学によく有りがちな仲良しサークルなんだ」なんて軽く見られて、二度と来てもらえないかもしれんでしょう。
 だから、わたくし裏部長は裏部長なりに、多少むりっくりにでも考えついたことを武術に結びつけて、毎日毎日書いているのです。ただの武術バカではないのです。結構たいへんなんだから、違うことを毎日書くっていうのは。ウソだと思うんなら部長も毎日書いてみなさいよ!いつかネタがなくなっちまうから!

 あっ、つい我をわすれてカッとなってしまいましたふらふら部長、このことは忘れてください。べつに怒ってるわけではありません。あしからず。

 あっ、そんなことを書いていたら、すっかり今日書こうと想っていたこと忘れちゃった!!チクショー!なんのための前置きだったんだか・・・・・・。

 というわけで、また明日来ます。裏部長でした。
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2006年08月17日

裏部長、成長痛に苦しむ!

 クー!暑いねえ晴れお盆を過ぎたらもう夏の暑さもクール・ダウンするかと思って油断してたらまだ暑いもんね、まいっちゃうよバッド(下向き矢印)今日なんか手稲区で三十四度を記録したっていうじゃない。夏休みを謳歌している学生諸君はたのしいかもしれんけど、勤め人はたいへんよ。特に営業やってるひとなんか、こんな日でも長袖ワイシャツにスーツ、上着アリなんだから。見てるこっちが暑くなっちゃう。
 まあ、そんな夏に対する愚痴を云っても仕方がないので、グチグチ云うのはこのへんにしておきましょう。
 こんばんは、裏部長です手(チョキ)札幌支部のお盆休みも、週末も入れたらあと3日。来週の月曜日からはまたアツ〜イ稽古がはじまります。門弟諸君は体調にじゅうぶん気をつけて、できれば大人数で参加してください。

 とは云うものの、かく書くこのわたしが本調子じゃないもうやだ〜(悲しい顔)別に風邪をひいてるわけでも、怪我をしたわけでもないんだけど、どうもちょっと乗りきれない状態なのです。

 わたしを苦しめているのは、「成長痛」です。これは痛いよお。表現できないほど痛い。でも激痛ってほどじゃないから「痛い!」って叫ぶわけにもいかないし、かと云ってただ黙って耐えるのも辛いし、という、なんとも厄介な痛みに現在、わたしは悩まされているのです。
 ・・・・・・なんて、「成長痛」と云ってもわたしの背がいまも伸び続けているわけではなく、痛みを発しているのはわたしの肘です。原因はそう、突きパンチなのです。

 ウチでは、空手の突きの理想は、腕をゴムや紐のような柔らかいもののようにつかい、その先に拳という石ころを結びつけて、それを放るように突くことを云いますが、これに近いことを日頃からしようしようと稽古していると、ある時点から、飛んでゆく拳に引っぱられて腕が伸びきる感覚を得ることができます。現にそんなときは、肘がパキッと音を発します。腕がいっぱいいっぱいに伸びきっているのです。
 こんな突きができるようになると、肘が痛くなります。それまで精一杯伸ばすということをしてこなかった部位がバスッと引っぱられるのですから、こりゃ痛いわけです。
 わたしもかなり前からその痛みを感じるようになりました。痛くなるのはきまって右肘。右利きですから、当たり前といったら当たり前なのですが、突きのレヴェルが上がるたびにその痛みと附き合わなければならぬため、これもまたちょっとした修行であったわけです(ここから私はこの痛みを「武術的成長痛」と呼ぶようになりましたひらめき)。

 しかし、どうでしょう。現在わたしを悩ましているのは右肘の痛みではありません。

 いま痛いのは左肘です。こんなことは初めてです。もしかしたら左の突きがレヴェル・アップしたのかな・・・・・・なんてことを想えば嬉しくもなりますが、たしかなことはわかりません。判明していることは、その痛みがいっこうに消えないため、其場突きさえ満足に稽古することができないふらふらという現状のみです。

 札幌支部の門弟諸君はそんな痛みを感じたことはないかな?あまりありすぎても困るけど、まったくないのも考えものです。自分の躰に訊いてみてください耳耳

 明日は雨で、まーたジメジメするそうです。もうすでに外がバシャバシャいっています。
 今夜は寝苦しそうです。
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2006年08月16日

武術と実戦

 武術をはじめる動機にはさまざまなものがある。健康のため、美容のため、最近治安がわるいから、護身のために、喧嘩に強くなりたい、虚弱体質を改善したい、などなど。おそらく札幌支部に集まる門弟諸君もそういった理由のいくつかのために、日日しんどい稽古を続けているのでしょう。
 かく云うわたしも、最初はあまり真面目とはいえない動機で武道の修行へ入りました。あれは高校生のころだったなあ・・・・・・。
 あっ、挨拶をわすれてました。こんばんは、裏部長です。すっかり想い出に浸ってしまって自分の世界に入っていました。
 今日はそんな、みんなはあまり聞きたくはないような私の武道遍歴をスタートに、武術と実戦性について書いてみましょう。

 私がはじめて武道とか武術というようなものに興味をおぼえ、実際に稽古をするようになったのは中学生のころ。始めたのは少林寺拳法(日本のやつ)です。動機は、なんともお恥ずかしい、幼いころからよく観ていた香港映画、つまりカンフー映画でした。身軽に、華麗にとびまわり、眼にも止まらぬ蹴りや突きをくりだす映画のなかの武術家たちにあこがれ、彼らがやっているもの=少林寺拳法だという安易な考えをもって近所の児童会館でやっている道場へ入門したのです。
 しかし、これは一年ももちませんでした。同じく中学からはじめた学校での部活のほうが忙しくなってしまったため、自然フェイド・アウト式に稽古へは顔を出さないようになりました。
 わたしの武道熱がふたたび燃え始めたのは、高校へ入るか入らないかというころ。きっかけはまたも映画。憧れたのはスティーブン・セガールです。彼は合気道をはじめ、空手や剣術など、日本の武術を修行し、それをどうにかこうにか映画のアクションに活かそうとしているハリウッド俳優で、私は彼の『グリマーマン』という映画を観てすっかりファンになってしまったのです。
 そう、今度は合気道です。高校入学と同時に、札幌合気道会へ入門しました。これは長くつづき、大学三年になるまでやっていました。
 大学三年になるとき、わたしは合気道で初段をとりました。いわゆる黒帯です。かねがね考えていた計画に従い、わたしはさらに合気道を深く理解するため、合気道以外のことも稽古したいと欲しました。
 それならば合気道っぽいものじゃないほうがいいだろう。私はそう想い、空手のような打撃系武術と、同じヤワラでも古流の柔術(「○○流」と名乗るような)の道場を探しました。しかし、これがあまり無い。特に北海道内にはほとんど無いのですね。わたしは悩みました。

 そんなときです。ふと見た母校(札幌大学)のHPで、瀧元先生のことを知ったのは。師匠は空手もやってる古流の柔術はやってる、剣も杖も棒も半棒も・・・・・・といった具合に、私にとってはこの上なく好都合なひと、だったわけです。

 紆余曲折を経て、わたしは現在のこの空心館札幌支部裏部長の座(?)に至ったわけですが、その修行のなかにあって常に考えていることはただひとつ。
 それは、その技が実戦につかえるか、ということです。なんだかんだと云っても、いざというときに使えないのであればどんなに綺麗な型もわたしにとっては無意味です。精神を鍛えるため、だとか、健康のため、だとかいう理由でわたしは武術をやりたくない。これには他の門弟諸君も賛同してくれることでしょう。
 やはり護身術にならないといけない。だから私は空手や柔術など、素手でおこなう武術が好きです。ふだんの生活のなかでそれらをどうやって使ったら身を守られるか、そんなことばかりを考えて生きています。

 さて今夜のテーマは「武術と実戦」です。師匠から伝えられている技の数数はすばらしいもので、修行者のレヴェル次第でいかようにも実戦に応用できると想っておりますが、それはさておき、実戦とはどういうものでしょうか。
 街なかでのカツアゲ、喧嘩、酔っ払いにからまれる、通り魔や引ったくりに遭う、女性のかたはチカンにあう・・・・・・それらのときに私たちの持っている武術的スキルが活用できるか、ということはまたの機会に譲って、もしそういった場面に陥った場合、こういった対処法があるそうです。

 相手が武器を持っているとき、たとえばそれが刃物のような短いものの場合、こちらはベルトや棒などの長柄をつかい、また相手の武器を持っているほうの腕や手を取ろうとしない。こちらの手は反撃につかうべく出さず、攻撃は躰さばきのみで避ける。十分に間合いをとる。
 もし長い武器を持っている相手には、さらに十分な間合いをとって、こちらはボールペンなどの短い、手に隠れるような武器をもつ。そして、あいた間合いに飛び込んで相手の弱い部位(眼や喉など)を刺す。

 つまり、十分な間合いと、不用意に手を出さないこと。できれば日頃からボールペンなどを持ち歩いていればそれで十分に護身用具の役割は果たせます。また刃物をもつ相手には手の甲を見せないようにしましょう。手の甲を斬られてしまうと腱が切断され、手自体がつかいものにならなくなってしまいます。これは海外の傭兵たちがならう構えの常識です。

 ああ、なんとも無計画にとりとめもない文章を書いてしまいました。わたしも現在、武術と実戦技術の関係やその研究を勉強中のため、こんな有様になってしまいました。まあ、覚え書、のようなつもりで読み飛ばしておいてください。

 明日からはもっときちんとしたものを書くつもりです。裏部長でした。
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2006年08月15日

小さなことからコツコツと

 どうもどうも、御晩です。裏部長です。ようやく夏の暑さも落ちついてきて、過ごしやすい今日この頃ではありますが、みなさま如何お過ごしでしょうか。
 さて、昨夜までは長ーい、長ーいわたしのBlogに面喰って、札幌支部の部員ほとんどが沈黙するという事態に陥ってしまったため、今夜はことば少なに、以前聴いた師範のお話を載せるだけにしておきましょう。

 それはまだ師範が学生のころの話。空手部に入ったばかりだから、政彦少年の腰には白い帯、諸先輩方は茶帯なんぞを締めております。その階級の差を見てもわかるとおり、新人の彼と先輩たちとのあいだには実力の差があり、組手などをするとまるで相手になりません。政彦少年も負けん気を見せて頑張りますが、やはりキャリアの差。そうそう簡単には歯が立たない。
 冬。ちょっとした理由で、冬の期間(たしか冬休みの間だったとおもう)は師範や先輩方が稽古に来ない。よって特殊な稽古はできないわけだが、しかし政彦少年のような熱心な生徒は来る。寒かろうが雪が降ろうが来るわけで、来て、数名が集まればやはり動きたくなるでしょう。
 この師範不在の冬のあいだ、政彦少年たちは其場での基本稽古と型ばかりを修行しました。ほかにすることがないので、馬鹿のようにただそれだけを続けたのです。ときどき「今日は蹴りの本数を増やしてみよう」とか、「今日は突きに絞って稽古してみよう」とか、その日ごとにテーマを決めて稽古したりもしました。
 そして、冬が終わり、訪れた春。師範がもどってくる、先輩たちも稽古に来る。通常の稽古の終わりに、またあの組手がはじまる。
 と、どうしたことか。数箇月前まではまるで歯の立たなかった先輩たちの攻撃がウソのようによく見える。捌ける。反撃もおもしろいくらいに決まる。この間、政彦少年は基本稽古と型しかやっていなかったのに、それだけでこれだけの成果が出たのです。
 そのうち、あっという間もなく、政彦少年に敵う部員はほとんどいなくなりました。そのときからの印象が、現在も師範をしてこう云わしめているのです。

「基本と型。これさえやってりゃ間違いなし!」

 どんなもんでしょう。私はこの話を師範ご本人から伺ったときは、自分の自主稽古に光を見た気がしたものです。なんだかんだと云って、札幌支部の門弟たちも自宅での稽古というものをしたことがあると思いますが、上記の話を忘れず、これからも励んでください。其場突きだけでもいいんです、型の復習だけでもいい。特別なことは必要ないんです。ただ、いつも稽古でやっている地味な動作の反復だけでよいのです。

 小さなことからコツコツと、です。大学でやる稽古の場では、自主稽古で養った動きの成果を試すくらいの心持がほしいものです。そうやって自分自身を駆り立てることと、不用意にプレッシャーをかけることは違います。適度に自己を叱咤して、これからも充実した稽古にしてゆきましょう。
 出来れば毎日、これくらいの文量にしたい裏部長でした。
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2006年08月14日

藤谷派糸東流拳法空手道紹介A「突き」

 はいはーい、裏部長ですよ。このBlogもようやく少しづつではありますが賑わってきましたね。慾を出せば、もちろん部外のひとにも読んでもらいたいけど、部長も云っているとおり、やっぱりまずは札幌支部のみんなに書き込んでもらいたいな。どんなことでもいいんだから。別に武術に関することでなくても、その日に会ったひとのこととか、友達といっしょに行った場所のこととか、これは「日記」だからね。そんな他愛もないことでいいんです。くだらないことでもいいんです。どうでも良いことから会話がはじまり、それが輪になってゆくのですから。

 さて、今週いっぱいは稽古もないので、この間に当支部において修行している各流派について説明しておきましょうね。ちなみにここで紹介する事柄のほとんどは、現在わたしたちと共に稽古している門弟たちにとっては周知のことばかりでしょうが、あくまで部外の方にもわかるように書きますので、復習程度に読んでおいてください。


 日本武術研究所空心館はその本部道場を栃木県におく、比較的ちいさな組織である。創設者で、初代所長の藤田西湖(1900〜1965)甲賀流忍術十四世、つまり本当の忍者であった。幼少期より、同じく忍者の祖父(十三世)からさまざまな術を学び、またその人生のなかでは、南蛮殺到流大円流杖術一伝流捕手術などを修行し、その師範となった。
 藤田のもとには数数の武術流派の資料やら巻物やらが集まった。伝書類は太平洋戦争の戦火にも焼かれず、無事に戦後を迎えたため、彼はそれらを世に出す使命をおのれに感じ、その出版組織として日本武術研究所を設立した。現在、古書屋や一般の書店において、「藤田西湖」の名で販売されている武術関連の書物は、その出版活動の成果である。

 藤田の弟子のなかに、藤谷昌利がいた。彼の経歴については過去のBlogに書いたのでそれを参照してもらいたい。
 藤谷は藤田につき、さまざまな武術を稽古した。また糸東流の空手も修行した。のち(ここからは記憶が定かではないため、誤っていたらあとで師匠に補修してもらいたいが)、武徳会において空手部と古武術の部がわかれるに際して、古武術のほうを「体道」と証し、藤谷はその両方の責任者を兼ねた。
 途中に名前だけの人間がひとり入っているが、藤田から正統な教えを受けた藤谷は、日本武術研究所空心館三代目所長に就任。その弟子に現在の師範、瀧元昌嗣(本名「政彦」)がいる。

 瀧元政彦(1946〜)は学生のころに、友人につき添って学校の空手部へ入り、その後はすっかり愉しくなってしまい、谷派糸東流の空手を修行していた。その組織のなかに藤谷がおり、そこに少しづつ師弟関係が築かれてゆく。藤谷派を名乗るようになってからも、体道の稽古をするようになってからも、政彦の師範に対する忠心は変わらなかった。
 藤谷が死するとき、全日本体道連盟師家(師範の座をつぐ者)として、組織のなかでは若い立場にあった政彦を指名したのもその関係があったからであろうか。古参の人間たちは異議を申し立て、どんどんと組織から去っていったが、政彦は亡き先代の想いを引き継ぎ、空手のほうは師家を継がず、体道のみの責任を受けついで現在に至っている。
 われらが瀧元誠樹はそんな現師範のご子息である。


 私たちが修行している空手、「藤谷派糸東流拳法空手道」を紹介するには、やはりその稽古内容をご紹介するのが手っ取り早いでしょう。そこから同流の特徴が見えてくるはずです。


 まず基本稽古(其場基本、などともいいますね)。全員その場から動かず、一定の立ち方(ウチでは内八字立ち)でさまざまな動きを稽古します。

 其場突き:左右の拳でもって、ちょうど自分のヘソの前あたり(中段)へ交互に突きます。部長がいちばん好きだと書いていた、あの其場突きです。われわれの道場ではこの其場突きは稽古のはじめに必ずおこなう動作で、すべての技の根幹をなしていると云っても過言ではないほど重要なものです。動作自体は初心者も師範もおなじわけですが、躰の使い方、呼吸や腕、腰、膝の意識など、その質やレヴェルは各段階によってかなり違います。見るひとが見れば、この動きだけでそのひとの腕前が判ってしまうことでしょう。

 前蹴り:これは基立ち(半身になり、片足をさげて構える)。まずは両足それぞれを高く振り上げる動作をし、膝を腰前へひきつける動作をし、それから前蹴りを蹴ります。おもに行なうのは中段。上へ蹴り上げるのではなく、あくまでも前方にいる敵の躰を前へ蹴り刺すように動かします。

 受け四種:ただ単に「受け」とも称します。前屈立ちになり、下段払い・外受け・上段受け・内受けの四種類を、続けて稽古します。ここでの立ち方は足腰の鍛錬にもなります。

 廻し蹴り:前蹴り同様、膝のひきつをやってから蹴ります。つかう足の部位は前蹴り同様、足の裏の親指のつけ根あたり(上足底)で、決してK-1などでやっているような、足の甲で蹴るようなことはありません。こうすると、相手がただ構えているだけでその脇腹に蹴りが入りませんし、なおかつ甲にはツボがあるのです。蹴るたびにこちらも痛くなるのでは堪りません。だから上足底で蹴ります。こちらもおもに中段のみ。

 刻み突き:また内八字立ちにもどって、両手を胸のまえに出して構え、そこから自分の顔(顎)の高を突きます。ここでは力まず、なるべく脱力して、腕の伸びを活かして突き、腕が伸びきったその反動で拳をもどすようにします。

 裏拳打ち:同じ立ち方、同じ構えから左右の顔の高さへ裏拳打ち。ここでも腕のスナップを利かし、拳をもどすのではなく反動で戻ってきてしまうようなイメージで稽古します。

 横蹴り外八字立ほどに立ち、横へ構えて足刀で蹴る。膝の高さや腰の高さなどに蹴りわける。

 一応ここまでが基本稽古。これらのほかにはたまに、手刀打ち(二種)、掛け受け打ち落とし振り突などの動作も稽古するが、ベイシックなものとしては上記のメニューが不動になっています。
 ここから今度は「移動稽古」。右足を出して右拳(同側の足と拳)で突く追い突き、その逆(たとえば左足と右拳)の逆突き、これらを上段・中段と続けて突く追い突き・逆突き、それにツー・ステップを入れる・・・・・・など、其場の基本稽古でやった内容を今度はうごきながらやるわけです。コンビネイションのなかに蹴りを入れることもあれば、たくさんの動作を畳み掛けるようにおこなう、通称「五連続」なる動きもあります。

 そして約束組手。われわれの道場では自由組手とか試合のようなものはしません。何故しないかって、まあ、する必要があまりないから、ですかね。これに関してはおいおい詳しく書きたいと想っていますが、つまり段階の問題もあるでしょう。競技をメインとしている空手組織(たとえば学校の空手部など)では、とにかく試合に出てもらわねばならぬため、ズブの素人でも入ってきたらすぐに組手をやらせますね。基本もなにも出来ていないのに、とにかくグローブをつけさせるわけです。ウチらのように、やれ突きはどうだの、やれ受けのこうしなきゃいけないだのと、細かいことを云っていたのでは時期が遅れてしまいます。それはそれで当然の方法です。
 しかし、私たちがやっているのは武術としての空手ですから、明日にでも試合に出られる人間になる必要はないのです。とにかくグローブつけてバシバシ叩き合う必要はないのですね。日本における中国武術の第一人者、松田隆智さんが興味ぶかいことばを紹介されています。
 中国にて、他派の武術家が連打連撃、奮迅跳躍するような組手をおこない、実戦練習をしているころ、八極拳をまなぶ者たちは、明けても暮れてもひたすら馬歩による稽古(同じ立ち方でじっとしているだけの稽古)を続けていた。心配になった修行者のひとりが、「老師、私たちは彼らに勝てるでしょうか」と問うた。これに、あの劉雲樵先生はただひと言、こう答えた。

    「木魚の連続音は、梵鐘(寺の鐘)の一撃音で消える

 まさに云いえて妙です。私たちの修行しているその理念そのものと云ってもよい、素晴らしい言葉です。
 つまりそのようなワケで、われわれは試合をせず、攻撃側の動作を決めてからおこなう約束組手をその組手のメインとします。その内容はいろいろとありますが、終始一貫しておこなっているのが、中段追いです。
 何故この追い突きか、といえば、それは変化がしやすいからです。稽古としては相手の水月めがけて、全身全霊でとびこみ、突きを放ちますが、腕があがってくると意識せずとも腰がもどり、それに引っぱられて突き手が引かれ、同時に逆の手が前へ出ます。つまり二本目の突きにつながるわけで、ここまでくると、一本突くということがすでに二本の攻撃になってしまいます。
 空心館ではこの中段追い突きをとても重要なものとして捉え、稽古しないことは稀です。もっといえば、初心者からヴェテランまで、寝ても醒めてもこの追い突きばかりです。好い加減、飽きるほどです。
 しかし、興味ぶかいデータがあります。空心館で組手といえば約束組手、それもこの中段追い突きくらいしか稽古していなかった門弟と、習いはじめから自由組手をやらせている競技空手の選手では、もし経験の年数がおなじであればあるほど、そこに雲泥の差が見えるそうです。実際に彼らを相手にしてまったくヒケを取らなかった諸先輩方をわたしは何人も知っています。
 それだけに奥が深い。とても深いのです。ですから私たちは、明日も明後日もこの追い突きを稽古するのです。これにいま苦しんでいる有望なる後輩・S呂にもそれを強いるのはそのためです。これが扱えるようになればたいしたものです。格段にそのレヴェルは上がることでしょう。

 稽古の最後はです。各段階に応じた型を稽古します。馴れてきたらその各動作を約束組手風に、分解して稽古もします。

 とまあ、こんな感じで毎日われわれは汗を流しているわけですが、その内容から、もうその特色はわかりましたね?
 そうです。空心館では、メインは「突き」なのです。それも追い突き、その精度をあげるのは其場突です。これが核になっています。本当に、寝ても醒めても、です。蹴りもやらないわけではありませんが、技術としてはすこし高度なものなので、門弟たちのレヴェルがある一定度に達しないうちはあまりやりません。また実戦的にも、多く用いることのできる手段は「突き」です。だから、どうしても突きの動作が稽古の大半を占めてしまいます。

 ああ、気づけば長長と書いてしまいました。べつに私もヒマなわけじゃないんだけど、書き始めると止まらないもので・・・・・・。みんなもヒマなときでいいですから読んでおいてください。
 さて、明日からは体道のほうも紹介してゆきますが、これは部長も書いているとおり、札幌支部のみんなは書き込みなさい!そして出来れば、なにか質問などを書きなさい!なんか一方的に書いているのも疲れます。わたしが知っていることであれば何でも答えるので、訊きたいことがあったら遠慮なく訊いてください。せっかくのBlogなんだから、相互的なものにしようよ。そのうち私のネタも尽きちゃうんだから。

 ではまたあした。ひとり淋しい裏部長でした。
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2006年08月13日

「不可は不能ではない」

 言葉がまったく力を持たない瞬間があります。それは、受けとる側の人間に、その言葉を受けとる余力のないときです。「死んだって何も始まらないじゃないか!」「ご両親が悲しむよ」「現実の苦しさから逃げるつもりか」etc...これから自殺しようとしている若者たちにそれらの説得がほとんど効かぬように、人間にはあるとき、自分のまわりがまったく見えずに、他者の言葉さえも聞こえぬ瞬間というのがあるのです。

 しかし、その反対もあります。つまり、「ことば」しか頼りにならない瞬間です。人間は強い部分と脆弱な部分を合わせ持っています。少しの加重でフラフラと揺れる桟橋のように、微妙なバランスをとりながら生きていますから、ときにはボロボロになってしまうこともあります。悩み、葛藤、出口のない暗闇。まるでゴールの決められていないマラソンを走らされているかのようなその苦しみは、実際に陥った人間でなければわかりません。屈強なアスリートたちも、「○○km先のあのゴールまで走れ」とその距離が設定されているからこそ完走できるのであって、「基本的にゴールは決めてないけど、とにかく走って」と云われただけならば、決して走りきることはできないでしょう。

 つまり、そこには希望が必要なのです。人間は希望なしでは生きられません。それは「夢」と云いかえても良い。志とも、熱意とも云えるものです。それらが無ければ何人も、たとえ一日たりとも生きられない。
 その希望はときとして言葉に託されます。問題がある、その解決方法も知っている、それをするためにいま何が必要なのかもわかっている、しかし出来ない・・・・・・という苦しみのなかにいる誰かに対して、与えられるのは希望をふくんだ言葉だけなのです。

 そこで私は今日、このBlogを読んでくれているすべての人のなかの、現在あることに悩み苦しんでいる方方へこのことばを渡します。

             「不可は不能ではない

 三国志に出てくる言葉です。「人間ができないと想っている大半のことは、実は本当にできないのではなく、ただやっていないだけである。出来ぬからできない、のではなく、やらぬからできないの」。
 思えば私たちの、その毎日の生活のなかで、どれほど勝手に「不能」だと決めつけ、諦めていることがあるでしょうか。判断するのはいつも自分であるから、いくらそこに改善の余地が見えていても、続ける苦しさを想って、「まあ、これくらいでいいか」と見切りをつけてしまう。そんなことが、顧みればたくさんあるような気がします。

 挨拶が遅れてしまいました。こんばんは、裏部長です。今日から当支部もお盆休みへ入り、稽古は一週間ほどないので、稽古報告以外のことを書こうと想ったのですが、たまには少しカタく、こんな話を書いてみました。
 人間、たった一行の文章や言葉だけでも、そこから生きる力を得るものです。わたし自身は人間的にも、武術をやっている修行者としても甚だ未熟で、稽古のなかで悩んでいる後輩たちに対しても、満足なアドヴァイスをしてあげることができません。教えてあげられるのは師匠からの受け売りと、そしてこんな小さな言葉くらいです。
 少しでも彼らの助けになればと、そう願っています。

 では最後に、日本伝天心古流拳法居取之位の目録、いわゆる「切紙」のなかにおいて、日本武術研究所四代目所長であり、現師範である瀧元昌嗣師範よりいただいた歌を最後に紹介して、今日のところはやめておきましょう。
 これからの修行に、この言葉たちが活かされますように。

 「怠らず 行かば千里の果も見む 牛の歩みのよし遲(おそ)くとも

 裏部長でした。
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2006年08月12日

稽古は口伝なり。

 おばんどすえ、裏部長どすえぇ〜。今夜は京都風にしてみました。今ごろ京都は暑いんだろうなあ。ホラ、あそこは盆地だから。夏はたいへんですよ。地獄のような暑さになる・・・・・・ってTVで云ってました。現在も残っている「町屋」にはそのような気候に対応するいろいろな工夫が施されており、先達たちの生き方を学ぶことができるそうです。
 加えて京都は冬もつらい。寒いってもんじゃない。まるで凍てつくような寒さ・・・・・・らしいとTVが云ってました。
 京都はどうして、夏暑く冬寒いか知ってる?わたし?もちろん知ってますよ。
 盆地だから。

 さてさて冗談はそのくらいにしておいて、本日も稽古があったので、そのご報告をまずはやってしまいましょう。


2006年8月12日(土)晴れ。気温はさほど高くなく、風もある。爽やかな日和である。
 午後二時半、札幌大学1001教室にて空手の稽古。参加は有望なる後輩のS呂のみ。師匠は昨日までのモロモロの用事のせいで、全身筋肉痛、疲労困憊のご様子。
 基本は其場突きから横蹴まで。手廻しをし、其場での受け捌き、それに逆突きや前蹴りの反撃をくわえて動いてみる。
 約束組手。主に上段への刻み突き、およびそれに逆突きをくわえた所謂「ワン・ツー」とこれに対する受け技を稽古する。また、ただの逆突を、手を添えただけで止めたり、掌底と指先をつかって軌道をはずしたりといった、繊細な技もやる。逆突きも、腰の回転で突くのではなく、前へ前へという動で突くようにする。突きとは最後、相手に当たりこちらの拳が返った瞬間を云う。そこまでは引き手を引かない。今までは引き手を引いてから突きを出していたが、これからは変える。
 吸う息、吐く息を利用した追い突きを師匠に見せてもらう。私もS呂もその威力とスピードに、苦笑いしか出ぬほど圧倒される。
 最後に型。「腕秀」をやって終了する。


 今日のこの稽古報告を見て気づかれたことはないだろうか。
 そう。昨日までの稽古報告とくらべて、書き方が支離滅裂、整っていないのだ。読みくらべてもらえればよく解るはずだ。昨夜までのは、何をやってそのあと何をやって最後に何をした、という流れが明確に書かれているが、今日のはそうではない。
 これは何故かといえば、そのように整然と書くことが困難なくらい、内容の濃い稽古だったから、ということに尽きる。いやあ本当に、今日は学ぶことが多すぎるほどにあった。
 例えば約束組手の冒頭でいろいろとやった刻み突きへの受け技。最初は前手をひらき、その指先(おもに人差指)を相手に向けた状態から、その方向角度を変えずに回転させ、相手の突きをはずして反撃に移る動きなども、こうして順序だけ書くことはできるが、そのなかで与えられた教えはほとんど書くことができない。すべては感覚的なものだからだ。
 もちろん師匠が云った言葉そのものを記すことはできる。「突きは最後、拳を返すところだけを云う」とか、「捌くこちらは動かぬ石、相手はそこへ流れてきた小川だ。自分はじっとしていても向こうは勝手に外れて流れてくれる」とか、それらは日本語であるから、一応はたれでも理解はできる。しかし、これらの言葉や報告に書いた技の動き、その要点については、今日の稽古に関してはわたしとS呂しか、その本当の理解を得ることはできない。

 稽古は口伝であると思う。口伝とは、その字のまま、「口で伝える」技術である。口伝えであるから当然、その場にいた人間しか教わることができない。その内容を文章にして書籍化しても、実際に習った人間とは理解の深がちがう。これはどうしようもないことであるが、それを今日のような稽古で実感すると、改めて自分たちのやっていることが藝事のひとつであるということを思い知らされる。
 しかし、口伝の怖さは、それら教授されたものは記録に残されるのではなく、あくまで記憶、身体の感覚に残されるということだ。人間の感覚というものほど不確かなものはない。その日の体調その日の気分、そんな些細なものによっても左右されるわれわれの感覚でおぼえた技術を武術においてはすべてという。本当の意味で躰にしみついたものこそ、咄嗟に出てくる技となるのだ。

 そう考えるとやはり日日の弛まぬ稽古、技の研鑽というものが大切におもわれる。一度おぼえたあの感覚を忘れぬため、何度も何度も稽古して身につけてみたい。どんなに苦しくとも、それが武術であるというのなら。
 それが全てであるというのなら

 来週一週間はわれわれもお盆休みということで、稽古はナシ。再開されるのは21日からだ。
 躰と感覚が鈍らないよう、今日からわたしも励まねば!
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2006年08月11日

論理は続くよ、どこまでも。

 はいさーい、裏部長だよ。毎日毎日あんまりにもおなじ書き出しじゃ飽きると思って、今日は沖縄風にあいさつしてみました。沖縄の方、別にふざけてるわけじゃないから怒らないでね。
 ここ数日はTVでも台風のニュースをやってたけど、北海道の夏はそんなことお構いなしといった感じですっかりご陽気。適度に風もふく、心地よい夏日が続いております。
 さて今日は師匠が不在ながら一応は稽古をしてきたので、まずはそのご報告からいたしましょう。


2006年8月11日(金)晴れ。裏部長、不覚にもすこしだけ夏バテ。
 午後二時半、札幌大学一号館一階談話室にて後輩たちの到着を待つが、いっこうに誰も来ない。師匠は不在であると知っていたから、もしこのまま一人も来なかった場合、私はトボトボとさびしく帰ってしまえばいいのだが、その見極めがむつかしい。なにせ遅刻してくるやつもいるからである。

 二時四十分すぎに、S浦が来る。彼は中国拳法のひとで、今は太極拳(北海道代表にも選ばれた)をメインにやっているが、長拳八極拳形意拳などさまざまな中国武術に精通している青年である。私どもの師匠とは縁あって数年前から交流し、今では札幌支部の一員でもある。
 彼と談話室で文字どおり談話をしていてもそのあとが続かない。まあ二人で稽古してもいいのだが、できればもう一人くらいほしいと慾を出し、もし三時までに来なかったら今日はナシにしてしまおう、と、すっかり怠け癖を出してしまう。
 三時、案の定たれも来ず。S浦が出場した武術大会のDVDを持参しているというので、パソコンのある六号館へ行って見ようということになり、私たちは一号館を出た。
 しかし六号館はどこもかしこも鍵がかかっていて入れず。路頭に迷うかたちでそのまま中央棟までもどる。
 このとき、遠くからあの有望なる後輩・S呂くんが駆けつける。訊けば稽古に対する意慾が見えたため、そのまま教室へもどる。

 開始は三時半。テキパキとやる。
 其場での基本は前蹴りまで。手廻しをし、その技の確認をし、昨日のBlogに書いた受身の話をし、それから約束組手へはいる。
 利き手による中段追い突き。S浦は八極拳の勢いと太極拳の突を融合させたような動きで、なかなか良い。素早く動けているのは無駄なところに無駄な力を使っていないためで、日頃から套路(型)をしっかりやっている賜物であろう。
 一方のS呂はガマンの稽古。彼はもともと松濤館流の空手をやっていた。ここに詳しくは書かないが、いろいろな事情を経て、今は私どものところで修行をしているが、キャリアとしてはそちらの流派のほうが長いため、癖というものがどうしても抜けない。それが活かせるものであれば別に良いのだが、残念なことにそのほとんどがウチの空手としては障害になってしまう。
 だからいろいろと補修をしてゆくわけだが、彼の場合、特に突きにいろいろと葛藤が生まれているという。突きそのものは云うに及ばず、その出発点である構え自体にも矯正の手を加えているから、彼にしてみれば違和感のあることばかりだ。
 しかし、成長が停滞しているわけではない。彼はあきらかに成長している。変化がそこに見える。今はガマンをつづけ、蔭ながら励まし続けて、その感覚をつかんでもらうしかない。
 五時、終了。いろいろと話をして散会とする。


 S呂がやってきた空手にはたぶんに競技の色がある。例えば、右足を前方へ踏み出しながら右拳で突く「追い突き」。われわれは相手の水月(鳩尾)へ攻撃するため、全身の威力をそこへ集中させるべく、踏み出す足を相手の構えの内側へ入れるが、彼は外側に出していた。そう習ってきたし、そのほうが力いっぱい突けるという。つい先日も、自分はそのやり方のほうが巧くできそうだから変えてもいいかと提案されたことがある。
 これには私もいろいろと考え、師匠と協議をしたうえで正式に回答をしたが、彼がそう考えたのも無理はない。筋道を立てて論理的に考えているつもりでも知らず知らずのうちに私見私慾がまじり、論理が暴走してしまうことがよくあるのだ。

 その最たる例は空手の歴史そのものであろう。空手はもともと琉球(沖縄)にしかなかった。明治以降、本土へ伝わり、大学の空手部を中心にして爆発的に普及してゆくわけだが、ここでその稽古方法もしくは試合方法にちがいが出てくる。
 つまり一方では、空手はをもとにして修行し、拳を鍛え、突くことを日日稽古しているもので、その攻撃力は計り知れない。いくら防具をつけたところで、ルールを拵えたところで、試合でやりあっては危険である―――だから「寸止め」にしよう、ということになった。その流れが現在の競技空手スポーツ空手の流れである。
 それとは逆の道を進んだひともいた。上記の流れを見て、空手は敵を倒し自分を守る術だ、相手を倒す技術を学んでいるのにその成果を試す試合の場で寸止め、当てずに勝敗を決めるなどとは言語道断、ぜひにも実際に当てる直接打撃制のルールをつくり、相手をきちんと倒せた者を勝者とするようなトーナメントを行なおう―――これがいわゆるフル・コンタクト系、極真カラテなどに代表される流れである。

 これら二つの流れはいづれとも論理としてはまったく間違ったものではありません。いわゆる筋道というものが通っています。
 寸止め空手のほうは、その技術が殺傷性を持っているから当てる試合はできない、しかし修行の成果は試してみたい、よって当てずに勝敗を決めるルールを作ろう、と考え、フルコンのほうはそれを受けて反撥し、実際に当ててみなくては成果がわからんだろうと、当てるルールを採用した。どちらも誤ってはいないのです。
 しかし、論理は暴走するものです。出発点こそ正しかったものの、その後の両者はすっかり当初の姿を失ってしまいました

 寸止め空手は、どこの部位にどの攻撃がどのような精度で入ったか若しくは入っていなかったかを審判が判定し、ポイントを与えてその勝敗を決します。つまり、実際に当てて倒してしまってはいけないし、寸止めをしつつも「きちんと突きました!」「バシッと蹴りましたよ!」とアピールをしなくてはならない。だから異様に大きな声を出す。入った、ということがよく見えるように大げさな動作をする、ボクサーのようなステップを踏む(武術としてリズムを取ることは決してやってはいけないことのひとつ)、武術的に攻める理論がありませんから、などせず、ほとんど相打のように攻撃をしかける、躰が居つ・・・・・・。
 フル・コンタクト空手は、当てることがメインになってしまった。とにかく当てて相手を倒せばそれでよい。つまり、空手でなくても良くなったわけです。空手の純粋な型に含まれる技やその威力をメインとせず、あくまでも試合におけるどつきあいでその強さを測るため、攻撃力をアップさせるためには筋力トレーニングをする、筋肉を鍛えて攻撃力をあげようとする、身体的にも優れている外国人選手が台頭してくる、当てては危ないというので金的蹴りや顔面への突きがルールで禁止される禁止されたら攻撃される心配がなくなるのでその部位を守ることをしなくなる、空手の構えが消えてゆく、あるひとはボクサー風に構える、あるひとはまるでムエタイの選手だ・・・・・・。

 論理は暴走するものなのです。本土に空手が渡ってきた当初、若者たちはみんな純粋なる向上心でもってその稽古方法を模索しました。彼らのなかには共通の、「空手をもっと巧く」という想いしかなかったはずなのです。それが、ちょっとした考え方のズレが生じ、それがエスカレイトして現在のようになってしまいました。安全性を第一に考えた寸止め空手は、空手の武術を失わせ、ポイントを奪い合うスポーツになりました。実際に殴りあうフル・コンタクト空手は、空手の持っている殺傷力を全面に押し出そうとして、かえって空手らしさを失ってしまいました。

 このような暴走はわたしたちの日常にも潜んでいます。自分ひとりでは判断できないことばかりです。そんな不安に耐えて優れた技法を伝えてくれた先人たちのように、私たちもゆっくりと歩いて行きたいものです。
 夏バテではなく、ただ単に寝不足だったと気づいた裏部長でした。 
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2006年08月10日

受身って、なに?

こんばんは。すっかり御馴染みの裏部長です。今日の札幌は、まあ暑いことは暑かったけど風も吹いていて久しぶりに爽やかな夏でした。やっぱり北海道の夏はこうでないと、ね。
 さて今日は体道の稽古があったのでそのご報告を・・・・・・とその前に、そもそも「体道」とは何であるか、これをご説明しなければなりませんね。

 体道とは、いわゆる「古武術」のことで、云うなれば当団体で修行している種種の古流武術(柔術、棒術、杖術、挫など)の総称といえるでしょう。これを詳しく説明するには、日本武術研究所の歴史とその創設者・藤田西湖についても書かなければならぬため、今日はパス!またの機会に譲るとして、まあ今夜のところは、体道=古武術、くらいの認識で読んでやってくださいな。

2006年8月10日(木)晴れ。
 午後二時過ぎ、札幌大学1001教室にて体道稽古。参加者は部長と大学院生のH(今日からイニシャル表示にしてみます)。
 師匠が四時までにあがらねばならぬため、急いで稽古をはじめる。
 部長は日本伝天心古流拳法免許之位から「打込両翼」(うちこみりょうはがい)を、大学院生のHは同流初伝上段之位から「颪」(おろし)、「小手取」(こてどり)の二本を教わる。
 私は浅山一伝流体術中段之位より「前肩取」「釣鐘」の二本を。
 師匠、四時に早退。残ったわれわれは大学院生のHに合わせて、日本伝天心古流拳法居取之位十二本の復習をしてから終わる。

 表記にするとこれだけの稽古であるが、これが実に濃密であった。というのも、ただ単に各流派の技を教わるだけでなく、そこから見えてきたある問題とその解決理論が、武術というものを考えさせてくれたからである。

 武術を修行されている方のなかで特に柔術関係を稽古されているひとは、当然「受身」というものをやりますね。投げられたり倒されたり押さえられたりしたときに取るあの受身です。前まわり受身や飛び受身など、その名称と種類はいろいろとありますが、みなさんはこの受身という動作をどのように捉えているでしょうか。

 たとえば本日わたしが教わった「釣鐘」という技。相手が腰を落とし、わたしの腰めがけてタックルをしてきます。私が足をさげて逃げぬように太腿あたりをバシッと抱え、一瞬持ち上げるようにして躰を浮かし、一気に頭から地面へ突っ込んでゆく、あのタックルですね。これでくる。
 さあこっちは倒されてはかなわぬ、と瞬時に姿勢を低くし、前傾姿勢になる。相手の動きを下へおさえこみ、動かなくなったときにすかさず金的蹴、その足をもどすタイミングで相手を自分の後方へ投げ捨てる
 これが「釣鐘」という技の流れですが、このとき問題になったのは、投げる捕りの人間ではなく、投げられる受けの人間のほうでした。

 つまり、受けの人間は、タックルして行ったら押さえられて金的を蹴られてそこから投げられることを見てやられて知っていますので、徐徐にその動きを察知して投げられないように動こうとしてしまう。相手の技に反応してしまうんですね。これは別段ふしぎなことではなく、そのひとの反射能力が高い証拠でもありますが、しかしそんな反応変化をしていては稽古にならない。これは古流の型としての稽古で、柔道の乱捕りとはちがいます。相手がこう来たから自分はこう、と変化するものではなく、投げならで、さえなら押さで相手を制さなくてはなりません。相手が投げられたくないばっかりに反応し、型にない動をしたのならこちらもそれに反応して・・・・・・ね?いつしか技はどこかに行ってしまいます

 そこで今夜の課題です。「受身って、一体なんだろう」。
 たしかに昨今の合気道などが抱えている問題、いわゆる八百長のような、きちんと投げられてもいないのに自分から飛んでいってさも綺麗に投げられたかのように見せる行為はいけませんが、しかし黒田鉄山さもおっしゃっているように、「古流の柔術では、自分から進んで受けをとる」ものなのです。
 なぜならば、そうしないと自分の躰があぶないから。さきほどの「釣鐘」、受けは投げられたくない、つまり自分の躰の安全を保持するためにふんばり堪えてしまったわけですが、そう来た場合こちらとしては無理に投げようとせず、相手の背中や無防備な後頭部、脇腹などを攻撃するでしょう。そのうち受けの全身は血まみれになり、血反吐を吐かもしれない。そこまでして、ようやく抵抗の力が失せたところで投げる。武術としてはどこもおかしくない方法論です。
 さて、このとき、あっさり投げられた場合とガマンした場合とではどちらが受けのダメージを喰いとめてくれているでしょうか

 どーんとタックルをする、相手がそれを受け止めたと思うや否や躰をひらき、勢いをそのままに投げ捨てた、このときに投げられていれば、形としては「投げられた」ことに変わりはなくとも受けの躰にダメージはほとんどありません。受身自体がきちんとできていればいるほど左様です。
 一方、投げられまいとして踏ん張り、頑張ったケースではどうでしょう。無防備なあちらこちらを殴られ蹴られ、ボコボコにされた挙句、結局は投げられてしまっています。最終的に相手が受けの抵抗力をうばい、投げたから受身をとった、ではすでにのです。本当なら、死んでいるかもしれません

 また返し技をするという方法論をもって考えてみても、受身をさせられる、のではなく、あくまで受身をとる。受動的にではなく、あくまでも能動的に身を守る動作を心がけることで、受身の動きそのものが相手への反撃になることもあるのです(投げられるときに相手の衣服をつかんで逆に投げる、かわされた勢いをつかって回転し、そのまま相手の背中や頭部を蹴る、等等)。
 そう考えてみると、ヤラセのような「受けてあげる」受身はいけませんが、ある程度であれば自分から受身をとるという意識で動いたほうが、より技の研鑽につながると思うのですが、あなたはどう思われますか?

 これは今日ここに書いた内容ほど簡単な問題ではありません。みんなも考えてみてください。
 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 22:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 裏部長の日記