2013年12月29日

花咲く場所で

 こんにちは。裏部長です。



 今年も残すところあと二日となりました。


 札幌支部では二十日の金曜日に、道新文化センターは二十六日の木曜日に、今年の稽古をすべて終了しました。とはいえ、札幌支部においては、稽古納めのあとに忘年会をするわけでもなく、今年最後だからといって大人数が集まるわけでもないので、あまり区切りをつけたという印象がありません。




 なので、今回のこの記事にも、あまり書くことは用意していません。





 裏部長個人のことでいえば、今年は、

体道的視点に回帰できたこと

 そして、

それでもやっぱり、すべての中心は空手であると気づけたこと

 などが大きな収穫でした。



 細かいことについては、各記事でいろいろと書いてきたのでここでは触れませんが、今年一年でかなりさまざまな面が変化した気がします。





 
 みなさんにとって、2013年の稽古はどうでしたか。


 何を得て、何に変化を見た一年でしたか。






 そんなことを発言しあう場としてのブログがあってもいいような気がして、今年はこんなところで裏部長は引っ込みます。






 2014年もみなさんと空心館にとって豊かな一年でありますように






 裏部長でした。


 よいお年を。


posted by 札幌支部 at 13:27 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年11月30日

伝統と創造

 おはようございます。裏部長です。



 札幌はすっかり冬の装いです。あまり頻繁に雪は降っていませんが、一度降った雪がつもり、溶け、それがまた凍って、いま道のあちこちで猛威をふるっています。自宅の駐車場など、荒々しいスケートリンク状態です。車の運転よりも、車まで歩くときのほうが危険なくらいです。



 みなさん、いかがおすごしでしょうか。





 と、書きはじめたはよいものの、さほど記すべきことはありません。やはり身近に師がいる環境というのは恵まれているようで、思いついたこと、疑問に感じたことなど、何かあればすぐに問いかけることができて、そしてすぐさま新しい視点や示唆をもらえるため、わざわざここに書くことが生まれてこないのです。



 最近のニュースとしては、稽古中に、師匠の奥様から、「型、上手くなったねえ」と褒められたことくらいでしょうか。普段、師匠も動きのよしあしは指摘してくれますが、手放しで褒めるということはほとんどないので、そのときは嬉しく、「ありがとうございます! そのことばを糧にして頑張ります!」などと意気込んでみたのですが、そう言った途端に動きを間違え、力み、ふらつくという失態をおかす始末でした。


 自意識過剰


 舞いあがるのもほどほどにしなくてはなりません。






 体道について言えば、稽古法のことでしょうか。ここ数週間、ぼんやりじんわり感じていたことなのですが、


体道は体道として稽古することに意味がある


 と思うのです。



 たしかに、あれだけ多くの流派の技を、ひとつの組織のなかで学べるというのは、とても貴重なことには変わりありませんが、しかし個々の内容をみると、それは古流の柔術であったり杖術であったりするだけで、ほかのどの道場にもない特殊な技法を駆使しているわけではありません。その流派として活動している道場へゆけば、多少の違いはあっても、ほとんど同じ動きが見られるはずです。



 体道のすごいところは、多種多様な古流の技を、体道のあのペース、あの雰囲気でおこなうことにこそあるのではないか。そう思えてなりません。



 たとえばそれは、三箇月でひとつの段階を終えるというペースであり、あるいは、どの流派のどの過程が重要である、または重要でないといった差別がないことであり、へんに流したり競ったりしない点であったりします。もちろん、教わった内容を自らノートなどに記すというやり方にも大きな意味があります。



 あれやこれやたくさんの技をやっていても、空心館で空手と体道をやっている人間が名乗れる流派は、『藤谷派糸東流』しかありません。天心古流や浅山一伝流の技をやっていても、それが表看板になることはなく、しかしだからこそ、体道のなかにある多くの技や流派に対して、われわれは同じ距離感で接することができます。どこかひとつに体重をかけることなく、「技は技」と考えることができるのです。



 ひとつの技や段階にこだわらず、つねに前進しつづける教授方法からも、そのように推測できます。







 
 大いに生意気ですが、最近思っていることをもうひとつ。



 以前、師範が、「沖縄から本土へ入ってきたとき、まだ空手は完成されたものではなかった」とおっしゃっていたのがどうも気になってしまい、自分で考えたり、師匠に問いかけたりもしてきました。師匠は、「琉球にあったティーと本土へ来てからできた空手を、まったく同じものだと考えるかどうかの視点」を示してくださいましたが、わたしはあえて、それをひとつの歴史と捉えた上で、あれこれと考えてみたのです。



 糸東流にはありがたいことに、ありとあらゆる空手の型があります。それらを稽古してゆくと、すぐに、型というのはとても限定的なものなのだなとわかりますひとつの型で、空手がもっているすべての技を稽古できるというものはありません。どうしてもその一部を伝えるのみになってしまいます。



 当然、琉球でティーを修行していた当時の武術家たちも同様で、自分の師のもっている型を教わり、ただひたすらそれを稽古していたのでしょう。型しかなかった当時、学べるのはその型のなかにある技だけだったわけで、師匠は、「いまのわれわれにはない、実戦で培った感覚がその不足している部分を埋めていたのではないか」と言っていましたが、単純に技の面だけで見れば、あきらかに偏っていたわけです。



 そんなティーの型を総浚いし、本土へ渡ってきた摩文仁賢和さんは、おそらく、藤田西湖さんら本土の武術家たちの技に触れて、大いにカルチャー・ショックを受けたのだと思います。実際に柔術などを習いもしていたといいます。



 もしこの時点で、琉球のティーが完成されたものであったなら、その型をすべて学んだ摩文仁賢和さんが、本土の武術家に教わることはなかったはずです。同じ武術家同士、対等な交流をしていたというのならわかりますが、摩文仁さんはあきらかに指導を受けているし、その後、新たに空手の型をつくったりもしている。きっと、それまで見たこともない数々の技に触れて、それまでのティーになかった要素を型のなかへ取り入れたいという思いにつき動かされたのではないでしょうか




 そして、糸東流が生まれました。


 次にそれを受け取ったのが、藤谷昌利師範です。




 藤谷師範の時代から、空手に体道が加わります。多種多様な柔術のほかに、杖、棒など、武具の技も入ってきます。これらもまた、それまでの空手にはなかった要素で、併せて稽古していれば当然、空手にもすくなからず影響を及ぼしてきたはずです。


 その深さ、広さ、濃さは、摩文仁賢和さんの比ではなかったことでしょう。





 そして現在の師範の代になります。するとここに、今度はが登場します。これもまた、それまでの空手にはなかったもので、そういう観点からいうと、師匠が本場で学んでこられた中国武術も、これまでの空手にはなかったものです。



 これらを総合的に学びながら稽古していて、空手が変化しないはずがありません。もちろん、空手は空手ですから、たとえ刀を学んだとしても、帯刀した状態で追い突きをすることはありえませんが、そういった表面的な技法での混入というより、エッセンスの融合がはかられて、これまでの空手にあった技が見えないところで装いを新たにしてくる。それは、見方を変えれば、琉球のティーにあったいくつもの穴を、数代に渡って、その時代の師範たちが埋めているような感じがします




 
 先日、師匠と、


伝統とは、古いものを受けとり、ただ継承してゆくことではなく、創造することではないか


 という話をしました。


 先代から渡された型や技を、ただくりかえしてゆくのが伝統なのではなく、そのつど生みだしてゆくことが重要なのではないか。つねにクリエイティヴである。創造。発見。それらが連なって、はじめて長い歴史と伝統が形づくられるようにわたしも思います。


 



 感性――あとは、それをどうやって表現するか。



 身体感覚のクリエイティヴィティ。



posted by 札幌支部 at 10:35 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年11月10日

上半身は技の形に嵌まる

 こんばんは、裏部長です。



 昨日は、月に一度の武道場稽古でした。広々とした畳敷きの空間は、普段ほとんどそういった場所で稽古していないせいか、自由な気がして、でもやっぱり、どことなく心もとない感じがします。「こんなに広くても、そんなにつかわねえよ」みたいなことを行くたびにいつも思います。


 さほど広大なスペースを要せずとも稽古ができるというのは、何ともありがたいことです。




 
相手からアプローチがあったとき、自分の身体がどういった反応を示すか


 それが大切であり、見つめつづけてゆきたいことだと、師匠はおっしゃいます。以前にも言われていたのかもしれないし、たまたま最近になってよく口にされているのかもしれませんが、わたしはどうも、このことばを聞くたびにハッとなってしまいます。



 師匠が目指す武術(空心館の武術、と言ってもよいのでしょうが)は、自分発信で、一方的に、パワーや気合いや根性に乗っかって相手を破壊するようなものではなく、あくまでも向こうから何かしらのアプローチを受けたときにはじめて発動するもので、だからこそ物理的なスピードや筋力や体力などさほど必要とせず、むしろ技の精度のみをあげてゆくことが求められます



 その道に立って修業をする者は、熟練した人間であればあるほど、つかい手であることが一般人には判断できなくなります。重厚かつ巨大な金属製の防火扉ではなく、精緻な彩色をほどこされた、ごく微細な襖を体内の奥深くに隠しもっているようなものだからです。常人にはわかるはずがありません。



 そこへ至るひとつのヒントが、先のことばに隠されているように思えてなりません。




 よく師匠は、「成長は螺旋階段をのぼるようなものだ」とおっしゃっていますが、あのお話に出てくる階段は、もうすでにだいぶ上までできあがっているような気がします。だから、われわれ稽古者は、上達したいと思ったらなるべく素直に、その階段に足をのせるべきなのではないか。そう考えたりもします。



 しかし、階段は螺旋状にまがっているので、いま立っているところから、その先はよく見えません。自分にだけスポットライトがあたっているとしたら、数段先は真っ暗なはずです。だから、修業の過程にいる人間はどうしても、


「このやり方でよいのだろうか」

「ほんとうに自分は前進しているのだろうか」


 と疑心暗鬼になりがちです。そうして、自分なりの道を勝手につくり出して、いつの間にか階段から姿を消してしまうのです。



 こう考えると、やはり純粋に、稽古をつづけることの大切さをあらためて感じることができます成長に必要なのは、わかった気になることでも、知識や情報を詰め込むことでもなく、素直に教えを受けつづけること。そのためには、つねに、できない自分から目を背けないことが重要だとわたしは考えます。



 稽古においてはいつも、“いまの自分ではできないこと”に挑戦していますから、つねに「できない」の連続です。とくに師匠は、ひとつのことができるとすぐさま次のレヴェルの話をされるので、できたことに安住してはいられません。稽古者はつねに、できない自分と向きあうことを求められます。



 その只なかに身を置いて、どれだけ柔軟に稽古できるか。できない自分をできないまま放置せず、いかに磨けるか。あたりまえのようですが、あたりまえのことほど、あたりまえにおこなうことは容易ではありません。





 何かを知っている人、頭に入っている人、ではなく、きちんとつかえる人、できる人へ


posted by 札幌支部 at 19:20 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年11月04日

わたしに

 こんにちは。裏部長です。




 くどいようですが、昨日のつづきです。



 今年に入って散々書いてきた、「相手とひとつになる」という感覚ですが、あれをどうして考えるようになったかといえば、その感覚で技をやったほうが失敗しないからで、つまりは楽なほうを取ったわけです。筋力や体力などをフル稼働させて、相手をどうにかするという手段がどうもしんどく、上手くゆかないことが多いために、なるべくそうならない方法論、身体のつかい方などを模索しているうちに、自然とあの感覚にたどり着いた、というのが実際でした。



 何度も書いているようで申し訳ありませんが、「相手とひとつになる」というのは、違う表現をすると、


自分をなくす


 ということになります。



 自分で相手を崩そう、捌こう、投げよう、押さえよう、あるいは、突こう、蹴ろうと思っておこなう以上、動作の性質はどこまでいってもひとりよがりで、タイミングがずれたり、相手が抵抗したり、反発したり、堪えたりした途端に上手くいかなくなってしまいます。



 相手と自分とが技を前にして向かいあっているとき、分離したまま技をおこなおうとすると、相手は、誰からどんなアプローチをされているか、瞬時に感じとれてしまいます。だから反発が可能になり、こちらの意図したようには崩れてくれません。頑張られてしまうのです。



 しかしそれが、「ひとつになる」感覚のなかで、実際にそうできた場合、技のなかに相手も自分も溶けてしまって、どちらがどうという認識がなくなってしまうため、技の渦中に巻きこまれた相手は、誰からどんな力をどんな風に加えられているか、瞬間的には判断できません。なぜなら、自分もその技の一部になっているからで、回転するジャングルジムの鉄棒が一本だけ止まろうとはしないように、相手もまた勝手に自分の意思で動くことができなくなるのです。




 これはわたしの場合、体道を通して得られた感覚でした。もちろんまだ完全ではありませんが、すごい発見だと興奮しました。そしてたしかに、その感覚や認識の上に立って技を見れば、どうして力む必要があるのかとさえ思うようになりました。




 さて――。




 この「ひとつになる感覚」をベースに置き、空手も体道も稽古してゆくと、すべての出発点は自分ではなく相手にあるような心持ちがしてきます。自分発信で、自分の好きなように動くことを否定し、白紙にし、すべては相手からのアプローチではじまるように動きたい。感覚を徹底化させると、自然と身体はそう思うようになります。



 わたしも、ここ二箇月ほどはそうしていました。ひとつになる対象を、相手そのものはもちろん、動くときに揺れる空気や、相手が攻撃した瞬間に起こるほんのわずかな身体のブレにさえ同調しようと。そのために障害となるものを自分のなかから消そう、排除しようとさえ努めました。



 それがすこし過剰になっていたようです。技や相手という存在とひとつになるには、自分のなかに何かが満ちていては難しい。空っぽにしなければ、受け入れることはできない。そこまで考えて、なるべく何も入っていない状態で生活してみようと思い立ったわけです。



 たしかに、この試みは悪くなかったのかもしれません。自分のなかに何かを成し遂げる力や要素がない以上、逆立ちしたって技を自分の手でおこなうことはできないわけで、それでも技を完成させようと思えば、自然と、相手とひとつになり、技の力そのものをつかうしかない。



 昨日書いた、「技の声を聴きたい」というのは、そういった状態に自らの肉体や精神を置いたときに、自然と湧きあがってきた想いでした。不純物を取り除き、ナチュラルかつニュートラルな状態に自分を保つことができてはじめて技と対話できる。そうできない自分がもどかしい。そう感じていました。




 しかし、いまはすこし違う考えのなかにいます。




 たしかに技の声は聴きたいし、聴こえるようにならなければ、次のステップへは進めない気がします。ただし、声というのは、発する存在がある一方で、それを受け取る存在もなければ、空中に溶けて消えてしまいます



 そうです。技が発する声を、きちんと聴く存在が必要なのです



 そして、それはほかの何物でもない、この自分なのです。




 これはあくまでもわたしのいまの考えで、間違っているかもしれません。諸先輩方には、ご指摘等、あればよろしくお願いします。




 ここで言う「自分」とは、従来の「自分」ではなく、相手とひとつになるという例の感覚や意識を有した状態の「自分」でなければなりません。つまり、きちんと技の声に耳を澄ますことのできる状態の「自分」ですね。


 従来の、その感覚をもっていない「自分」で技の声を聴こうと考えると、それは、未熟な自分の尺度の技の正否を見極めるようなもので、たいへん危険です。青い果実を青いまま収穫して食し、青臭い味をおいしいと信じ込むことを、稽古者はたびたびしてしまうため、ここはつねに自らを戒める必要があります。




 ともかく、声には聴き手が必要です。そして、それを聴きたいのは自分なのです




「誰が聴くの!?」

「自分でしょ!!」



「いつ聴くの!?」

「…………」




 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 16:08 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年11月03日

あなたを

 おはようございます。裏部長です。


 十一月に入り、紅葉の美しい季節になりました。札幌では雪虫が飛びはじめ、早くも冬の気配です。みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 
 最近の裏部長はいたって健全です。


 考えていることがいくつかあり、しかしそれらはどれも未知の領域にあるので、苦悶とまではいいませんが、自分の中身が根こそぎ塗りかえられてゆくような不安とたたかっています。




 たとえば、散々書いてきた「相手とひとつになる」という感覚。その感覚があたりまえになりつついま、今度はそれを攻撃にもつかえなければおかしいと思うようになり、しかしそう容易くは応用できず、わたしはいま、そこで葛藤しています。





もっと正しく、もっと豊かに、技の声を聴きたい

 
 ここ数日、わたしがしずかな闘志を燃やして、渇望している想いです。





 まったくとは言いませんが、やはりまだ自分の動きや身体はひとりよがりで、いつも何かに拠っている。不安定な状態が怖いから、つねに何かを演じて、その威光を借りているようなところがあります。しかし、それは自分ではない何かで自分のなかを埋め尽くして、強く逞しい人物を演じているようなもので、すぐに無理が生じます。




 ただ無造作に、そこにあるもの。


 それが答えのような気もするし、甘えのような気もするし……。



posted by 札幌支部 at 11:21 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年10月13日

かけがえのない夜に

 こんばんは。裏部長です。三連休、いかがおすごしですか。



 この週末、札幌大学では大学祭が開催されていて、校内施設をつかうことはできません。よって札幌支部も例年どおり、金曜日の稽古をお休みにしたのですが、その代わりに、ちょっとしたイヴェントを催しました。


 というのも、後輩たちが、「一度、師匠を囲んで飲み会のようなことをしたい」としきりに提案し、またそれを受けて師匠も、「わたしの帰国報告会ということなら」みたいな話になって、札幌支部では珍しく、稽古以外の目的で門弟たちが顔をあわせることになったのです。



 この日、天気はあいにくの雨でしたが、さほど強いものではありませんでした。


 集合は稽古開始時刻と同じく、午後六時。


 大学の構内ではすでに屋台が出ていて、中央棟前には小さいながらも立派なステージが組まれ、まばらな観客を前に、大学のマスコットキャラクターが愛嬌をふりまき、チアガールたちがアクロバティックな演技を披露しています。



 三々五々集まり、そこへ師匠も合流し、徒歩で移動します。うまいこと雨はあがって、全員の胸に、普段はあまり見られないような、軽い高揚感のようなものが生まれ、そのわずか数分の移動中もそこここで会話が生まれていました。


 会場は、〔Champ.な〕という洋食屋さんで、この日はわれわれで貸切状態でした。各自席につき、飲みものを注文すると、あとはコースに従って随時、フレンチ(?)の料理が運ばれてきます。



 われわれはそれらを優雅に、ときに貪欲に片づけながら談笑していました。



 この会食の場を埋めたのは、師匠とそのご家族のほかに、部長裏部長、最近もどってきたS呂くん、S浦くん、昨年栃木に行ったO塚くん、O澤くん、I藤くん、札幌大学OBのA田くんとH田くん、在学生のK村くん、そしてK先生と、師匠御一家を除いても、なんと十一名という大所帯でした。


 師匠も驚かれていましたが、札幌支部にもこれだけの人数が集まるようになっていたのです。



 食事は二時間ちょっとで終わり、われわれは店を出ましたが、何やら全員が興奮さめやらぬといった顔つきで、結局そのままふたたび大学へもどり、師匠の研究室でさらに話すこととなりました。師匠のパソコンで稽古の映像などを見ながら、緊張感などまるでないリラックスしきった雰囲気のなか、雨にぬれた肌寒い秋の夜はふけてゆきました。




 わたしは部長とともに、午後九時五十分くらいに研究室を辞して帰途につきましたが、なんとも不思議な、いままでにない心地よい時間をすごせた気がしました。何より、参加した全員がたのしそうにしていたのがよかった。そして、誰もがみな武術に熱心であることもうれしかった。



 帰途、部長と、「来年の春で、俺たちが入門して丸十年になるね」と話し、いくらか感慨に浸っていました。空心館札幌支部へ集い、稽古をするようになって、もうそんな時間が経とうとしているのです。


 それはたかが武術かもしれないし、それは単なる趣味かもしれないけれど、わたしはやっぱり、それはかけがえのないものだと思います。趣味はなかなかお金にはならないし、腕前をあげたところで、社会的地位が向上するわけでもないけれど、でも、それは大切な生きがいになってくれるはずです。




 わたし自身がすでにそうなっているので、この意見は譲れません。

posted by 札幌支部 at 21:14 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年09月29日

廻廊

 こんばんは、裏部長です。


 師匠が帰国されて約一箇月が経ちました。昨年の八月末、師匠が参加される最後の稽古には、普段では集まらないような人数がつどい、ほとんど送別会の様相を呈していましたが、復帰時はわりかし淡泊な雰囲気で、現在もいつもと変わらないのんびりとした札幌支部です。最近で変わったことと言えば、少年部へつき添っている子どもたちのお母さん方が稽古へ参加されるようになったことくらいでしょうか。


 内容の面では、新しく導入されたものと、刺戟をあたえられたものと、二種類あって、前者は師匠が中国からもち帰った養生法などで、稽古の際には太極歩とあわせておこなっています。空手ではなかなかやらない身体のかたちや動作の速度は、あきらかに異質で、だからこそよい勉強になります。


 後者の刺戟というのは、おもに空手において師匠の指導が復活したがために走る、氷上の亀裂がごときものです。この一年間も決して怠けていたわけではありませんが、やはり師匠がいるのといないのとでは緊張感が違い、また指摘される箇所も多岐にわたるため、ごくふつうのメニューをおこなっていても刺戟があるのです。ひさしぶりにさまざまな課題が出されて、わたしを含め、後輩たちもきっとこれまでにないやる気を見せていることでしょう。




 個人的なことで言えば、何度もここに書いてきた「相手とひとつになる」という例の考え方にさらなる飛躍が見られました。もちろん、それをもたらしてくれたのは師匠で、不在時にわたしが個人的に考えつづけてきたこととその教えとが融合した瞬間が、つい数週間前にあったわけです。



 それがどんなジャンルの武術であれ、相手に作用し、相手をどうにかする技である以上、ひとりよがりでは不完全です。何度も書いてきたことですが、突きや蹴りを受けてダメージを喰らうのも、投げられたり押さえられたり絞められたりするのも、自分でなく相手なので、技においては、かならず相手をどうにかしなければならず、自分としては、そのために最大限の努力をすべきであることは、わざわざ言及するまでもない話です。


 しかし、稽古においてあらかじめ動きが指定され、その枠のなかで相手を制さなければならないとき、人はどうしても、勝手に自分だけで動いてしまうものです。体道がその最たる例で、いや空手においてさえ、攻撃は攻撃、防禦は防禦と、いつの間にか割りきって、自分のことしか考えずに稽古をしていることが多い。


 柔術などをやっていて、それでは技が決まらないように、きちんと相手を崩さなければ武術としては不合格で、そのためには、おのれを滅し、百パーセント受け入れるつもりで、相手を感じる必要があるとわたしは考えました。自分でどうにかしようという思いこみがあるせいで技が成立しないのならば、その自分というやつを消してしまって、すべて相手でやってみる。すると、どこに力が入っているか、相手がどうしたいと思っているかが、わずかな接点から伝わってきて、それをキャッチできるからこそ、落ちついて技をおこなえるのではないか。


 これは理論というより実感をあえて理屈づけて明文化したもので、すくなくともわたしは、この姿勢で稽古に臨み、できなかったことができるようになりました。だからきっと、決して間違った考え方ではなかったと思うのですが、師匠の指摘によって、それはまたべつの顔を見せはじめたのです。



 師匠は言いました。「相手とひとつになる前に、技と同調しなくては」と。




 わたしが件の、『相手とひとつになる理論』を打ちたてたとき、次の課題として自分のなかに置いたのは、「ひとつになることが難しい性質の相手やその攻撃に対しても、やはり同様にひとつになるためにはどうしたらよいか」ということでした。


 空心館の空手は、たとえば追い突きなどにおいて、きちんと相手の懐のなかにまで身体を運び、反発することなく、突き抜くことをしています。これは言うなれば、攻撃側も、相手とひとつになる要素をもって突きを出していることになり、だからこそわたしは、受けをする立場において、空心館の突きを題材に、相手とひとつになる動きを実践できたのです。


 しかし、攻撃してくる人間がすべてそのような、反発原理をもたない突きや蹴りを出すとはかぎりません。いやむしろ、空手の業界ではそちらのタイプのほうが多く、素人であればなおさらでしょう。容易に同化させてくれない場合がほとんどなわけです


 もちろん、どのような性質の相手にも対応できなければ技として不十分だし、武術とは言えないでしょう。だからわたしは、今後の課題として、そういった反発原理にもとづいて攻撃してくる相手をも吸収し、同化するための方法論や感覚を見つけようと心に誓ったのですが、案外あっさりとその解答は手もとへ落ちてきました。



 それが先の師匠のことばです。



 相手と対峙するとき、自分と相手のあいだには技があります。武術においては、まず、この技に自分自身を同調させることが重要だと師匠は説きます(師匠はこのとき「同化」ではなく「同調」という表現をつかいました)。そして、技そのものと自分が上手くあわさったあとで、そのなかに相手を入れてしまう。これができれば、相手の攻撃がどんな性質のものであれ、対処は可能になるというのです。



 想像すれば簡単な話です。柔術の技を例にとると、その技のなかでは、相手の攻撃に対し、こちらの受けや捌きがあり、崩れが生じ、その結果、投げや押さえによって相手を制するという結末が待っているわけですが、まずこの技に自分自身を同調させる。つまり、自分がその動作を手順にそっておこなうというよりは、自分が技の動作そのものになって、技の外に自分をこぼれさせないような状態をつくる。そこまで同調させられれば、自分=技となるわけで、そしてその技のなかには、攻撃してきた相手を最後に制してしまう流れがあらかじめ組み込まれているため、その渦中に相手を入れることができれば、おのずと結果は見えてきます



 巧く書かれた脚本とすばらしいキャスト、監督の手腕が光る良質な恋愛映画のようなものです。ドラマティックな出逢い、愛らしいやり取り、しかし切ないすれ違い、衝突、泪……このままふたりは離ればなれになってしまうのかと思わせておいて、最後の最後にハッピーエンド。観客は、うるんだ眸の向こうにエンディング・ロールを見て劇場を出ます。


 そんな良質な作品をスクリーンにかけることができさえすれば、あとは劇場にお客さんを入れるだけでいいわけです。そこまでお膳立てができれば、あとは勝手に、観客は泣いたあと笑顔になって、誰か自分にとって大切な人のことを考えて帰途についてくれます。



 技と完全に同調した人の動きは、美しい。もう一年以上前のことになってしまいましたが、昨年の六月に栃木へ行った際、空手の稽古の前に師範がすこしだけ型を見せてくださいました。あの瞬間、道場にいた誰もが動きを止め、息を呑み、そして型が終わると誰ともなく嘆息をもらしていたのも同じことだし、師匠が李自力さんの太極拳を見て、美しいよりも「怖ろしい」と漏らしたのも同じことです。


 そこまで完璧に技と同調している人というのは、言うなれば、技がある以上無敵みたいなものです。だって、技というのは相手を制する結末をすでに有しているのですから、そのものとして動けるということは、そのなかに入れ込まれてしまったが最後、こちらには抵抗の余地が残されていないということで、そう考えると、師匠のことばどおり、師範などの動きは、きれいな上に、やはり怖ろしいのです。




 この観点に立ち、姿勢を新たにすると、空手の型をやっていても体道をやっていても、とても新鮮な印象を受けます。いかに同調することが難しいかいかに自分でやってしまっているかが、考え方をすこし変えるだけで見えてきます。


 しかし、完全に同調はできないものの、技をやっているとき、自分と技の距離感はかぎりなく零に近くなるため、そこから先はむしろ持論の方向へ展開してゆけるのではないか、とも考えられます。つまり、自分=技をやっている人なので、そんな自分は次にどうするべきか。答えは簡単で、あとは攻撃してくる相手と同化するだけでよい、となります。先の、技のなかに相手を入れてしまうというのを、あえて持論をベースに言うとこういうことになり、きっとそれが、今年に入って意識するようになった技の理屈だったのでしょう。



 ようやく溜飲が下がりました。





 それにしても怖ろしいのは、先達たちの遺された教えです。師範が以前コメントに書いてくださった、「拳を鍛えたり筋肉を鍛える時間があれば技を覚えなさい」という先代のことばは、そっくりそのまま、今日書いたことを示唆しているように思えてなりません。


 無駄を省き、徹底的に洗練されたそれらの教えを、われわれは長い時間をかけて解凍し、刻み、溶かし、ときには培養して、咀嚼しなければならない。それこそが武術ならば、修業に、金や名誉や排他的な意思表示など必要ありません。





 この身と心さえあれば。

posted by 札幌支部 at 20:42 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年08月31日

非力だから見つけられる

 こんにちは。裏部長です。



 木曜日の道新文化センターでの話です。


 先週の講座で、すでに今月分の十本の技を教え終えていたので、今週からは復習期間になります。とはいっても、何度か休まれている受講生もいるので、空手の基本、移動をやったあと、わたしは各グループをまわり、抜けている技を補填する作業に入りました。


 この日は八名の受講生があり、それを、三名、三名、二名の三グループに分けて稽古しました。最初の三名のグループは、一名のみ技が抜けているだけで残りの二名はすべて習っているので補填はすぐに完了。男性のみの二名のグループも、新規の方がひとつだけ抜けていたのでこれもすぐに完了。最後の女性三名グループは残念ながらひとつ取りこぼしてしまいましたが、まだひと月あります。どうにかなるでしょう。


 そんな作業をする合間、わたしは教室内が見渡せる場所を行ったり来たりして、それぞれの稽古ぶりを観察していました。片や真剣に、片や黙々と、あるいは和気藹々と稽古をされていて、復習にあてた一時間弱はあっという間にすぎていってしまいます。


 このとき、ふとわたしはこんなことを思いました。「この講座は女性が多いんだなあ



 まあ、わざわざ回想するまでもなく単純に女性の受講生が多いのです。現在、水曜日のラフィラ教室は全八名のうち六名が女性、木曜日の教室においては、全十二名のうち九名が女性です。講座をはじめた当初は男性のほうが多かったのですが、ここ数年はすっかり女性の天下です。


 この現象を見て、わたしは、「武術にかぎらず、武道や格闘技をやりたいと思う男性は、自らの肉体を思う存分つかうような動きがしたいのだろう。いくつもの技を、淡々と、地味に反復して稽古するようなものは退屈なのに違いない」と思ってきました。


 しかし、いまはちょっとだけ違う見方をしています。



 武術というのは基本的に護身術で、その技をおこない自らの生命を守ることができれば、相手が重傷を負おうが、半身不随になろうが、知ったことではありません。柔術を見ればわかるように、技の最後に腕を折る、後頭部を床に叩きつける、目を潰すなど、かなり残酷な結末が用意されていますが、技をおこなう人間はその結末までが勝負なわけで、やり終えた瞬間、相手にどのようなダメージがあたえられているかまでは斟酌しないのです。


 ただし、だからといって、自分がやりたい動きを自分がやりたいようにおこなうだけでは技はきまりません投げられたり、押さえられたり、崩れたり、絞められたりするのは、自分ではなく相手だからです。技を成功させ、護身を完了するには、きちんと相手を動かさなければなりません


 何度かこれまでにも書いてきましたが、『相手とひとつになる』、『相手を主役にし、自分はその補助をするくらいの心持ちで技をおこなう』ということがどのようなかたちであれ出来ないかぎり、技はかからず、武術としては成立しないでしょう。それは体道が教えてくれたことです



 道新文化センターに女性の受講生が多いのは、大多数の女性が男性にくらべて非力だからです。もちろん、それは体力や筋力の面においてです。自らのパワーで、無理やり相手を崩すことができないからこそ、技の力を頼りにする。このスタンスからすべてをスタートさせているので、空手をやっていても木刀を扱っていても、つねに真剣に、つねに柔軟に、技の習得を目指してくれます。


 拳で、胸でも肩でもいい、軽くパンと叩かれたとします。これに対し、「全然痛くない」「だからどうした」「やるのかこの野郎」ではいけないのです。そういうリアクションしかできない人は技を見失います。それがどんなに軽い攻撃であったとしても、「痛いなあ」と思える繊細さがないかぎり、いつまで経ってもひとりよがりの遠吠えです。


 しかし、こと男性においてはこの感覚がわかりづらいのです。とくに、ある程度の若さ、筋力、体力、肉体を有し、あるいは過去に武道や格闘技などの経験がある人においては、小さな刺戟に対して、受け入れるリアクションを取ることが難しく、どうしても反発してしまいます。寄り添い、懐柔する前に破壊しようとしてしまうのです。そして、そういったタイプの人に、「非力になれ」とどんなに強く訴えてもできるわけはありません。なぜなら、人間は普段から筋肉に力を入れて生活する生き物だからです。


 
 だからこそ、「型でやる」しかないのです。足を出すのか引くのか、受けをするのは右手か左手か、どのタイミングで受けるのか、その瞬間の相手との距離や角度はどのくらいか、など、これでもかというほど細かいポイントまで指定された動きを、とにかく純粋にやること。足を引かなければならないときに出してしまったり、相手が倒れないからといって無用な痛みをあたえてしまったり、自分勝手に事態の打開をしようとした瞬間、技は消えてしまいます。あとに残るのは、衝突の不協和音と、やってやったぜという自己中心的な達成感のみです。



 体道において柔道の乱捕りのような稽古をしないのは、技のなかに物騒な結末が含まれていて、大怪我につながる危険性があるからだとこれまでは考えてきましたが、それだけではなかったのですね。修業者をあえて型稽古のなかに閉じ込めることで、自分勝手な力の発散をさせず、技の動きしかできない状況下へ置くことによって、半強制的に感覚の習得を促す効果があった。だから、最初から自分の肉体なり筋力なりに自信のある人は体道をやりたがらないわけです。誰が悪いわけではない、もともとそういった性格のものだったのです。




 最近、何をやるにしても体道を中心に考えている自分がいます。それで空手も変化しました。感謝です。







 さて――。


 本日、師匠が帰国されます。


posted by 札幌支部 at 12:06 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年08月25日

 おはようございます。二日連続の裏部長です。



 空手の約束組手において、重きをおいて稽古しているのは中段追い突きです。これは空心館の代名詞のようなもので、非常に重要な技です。ただ足を出して、同じ側の腕を伸ばし、相手の水月を突くだけのシンプルな動作ながら、奥深く、やればやるほど異なる印象を得ることができます。


 この中段追い突きに対して、防禦の側の人間は、基本的には中段内受けをすることになっています。もちろん、ここで言う受けとは、相手の腕を打ち払ったり止めたりするものではなく、内受けをしながらおのれの体を逃がすかたちのものです。動作が完了したとき、受けをした人間の前手は、相手の肘か二の腕あたりに触れているはずです。


 しかし、上記の状態はごく初歩のころのもので、相手が身体をじゅうぶんに運んで、深く突き抜けるようになると、その腕にこちらの前手を触れさせたままでいることは難しくなります。それに、拳だけではなく身体全体で入ってこられるので、ややともすると衝突が起きてしまいます。


 それほどの段階になったら、防禦の側の人間は、手で受けなくなります。つまり前手は構えたままの位置に浮遊させておき、体のほうだけ追い突きのラインから外すのです。相手の踏みこむ度合にもよりますが、こうして避けると、こちらの前手は相手の背中に抜け、懐のなかに相手がすっぽりと入るかたちになります。



 当然、相手はただ避けられるために突いているわけではないので、稽古を重ねるにつれて工夫がなされます。この受け方をしている人間は、しだいに胴体を突かれるようになるでしょう。そうならなければ、突く側の人間に進歩がないということになってしまいます。


 工夫、とひとことで言っても、それは数年単位のもので、決して生易しい話ではありません。突いても避けられる、当たらない、かすりもしないという稽古のくりかえしを経て、ようやく拳が相手の胴体へ触れはじめる。長い修業の日々が必要です。


 だからこそかもしれませんが、防禦をする側の人間は、相手の中段追い突きが変化し、実際に当たるようになったとき、はじめて、あの初歩のころにやった中段内受けのことを深く考えるようになるのです。斯くいうわたしがそうでした。



 狙われるのは中段ですし、人間なのでどんなに真剣にやったところで突きがぶれないことはないので、拳がきちんと水月にあたることは稀です。それに、突き手よりも受け手のほうが格上だった場合、その追い突きがどんなに重く鋭くても、あまり怖くはありません。多少喰らったところで痛くも痒くもないのです。


 ならばどんな場面においてなら、じゅうぶんな必要性をもって中段内受けをせざるを得なくなるのか。ここ数年の稽古のなかで、わたしはふいにそんなことを考えました。わざわざ前手をつかってまで相手の突きを受けなければならない状況とは何か。


 わたしの出した答えはふたつで、ひとつは相手が未熟な場合です。身体の運び方、腰のつかい方など、諸動作の指導をしなければならず、また突きそのものがかなりぶれるので、防禦としては大きく広く受けなければなりません。


 そしてもうひとつは、相手の突きが、前手で防禦しなければいけないほど強力になったときです。悠々と避けることも、胴体で受け止めることもできない怖い突き。これが飛んできたときはじめて、ごく標準的な意味で“受ける”必要が出てきます。つまり、前手を防波堤にし、その蔭に逃げこむのです。



 ここで攻防の役割を逆転させて考えるに、追い突きをする人間は、精度があがり、重さも増して、おのれの突きが怖いものとなり、相手が思わず前手をつかって受けてしまうまでは、二本目を突かなくてよいのかもしれません。一本目の追い突きがそこまでのレヴェルに達していないのに、二本目や三本目やまして蹴りなどに走っていては、いつまで経っても追い突きそのものが変化しません。相手に前手で受けられるような追い突きができるようになってはじめて、その次の攻撃を考えるべきではないでしょうか。




 しかし、言うまでもなく、攻撃は多種多様です。中段追い突きに限定したところで、人によってその趣きは大いに異なります。力が抜けている人、入っている人、突きっぱなしの人、すぐに引く人、腰を落とす人、跳ねる人、拳の大きさや腕の太さだって三者三様です。防禦をする側の人間は、それらすべての攻撃に対応しなければなりません


 腕や拳に限らず、攻撃の種類や攻撃者の体格の違いなどに注目した場合、体道を見よということになるのかもしれません。あれだけ多くの技があるのは、それだけレパートリーを有していないと、さまざまな相手に対応できないという研究結果の現れでしょう。捕の人間の体格にも対応しているようなところもあります。


 しかし、空手の約束組手において、防禦の側にまず許されているのは中段内受けです。攻撃も一律なら、防禦も一律。つねに内受けという技でもって、十人十色の追い突きを捌かなければならないのです。これは思っている以上に難易度が高い話で、われわれは白帯のころから、そんな無理難題の前に立たされていたわけです。



 わたしの現在の見解としては、「受けの動作を固定してしまう」ということです。それも、ただ同じ動きをするというだけではなく、その受け方をすれば、相手がどんな追い突きであったとしても同一の結果に導くことができる。そんな受け方をするしかないと考えています


 自らの体を逃がして、突きのライン上から外れる受け方では、前手をつかってもつかわなくても、相手の追い突きが硬度をもった直線的なものであった場合、避けることができます。しかし、相手がほどよく脱力し、鞭のような紐のような突きをしてきた場合、拳は当たってしまいます。しかも、こちらは横へ体を逃がしている最中に突きを喰らってしまうので、威力を吸収したり呑みこんだりすることができません。逆に、最初からその場を動かず、相手に中段を突かせる。そして、その突かれたポイントだけで威力を吸収し、上半身を撓ませる。この、昨年来やっている受け方をすると、相手の追い突きがどんな性質のものであれ、こちらの水月に当たるという結果はつねに同じなので、そこさえ対応できれば、結果は同一のものになります。



相手はこちらの身体を目がけてくるのだから、待っていて、届いた攻撃を捌けばいい」とは、師匠のことばです。標的たる自分自身をニュートラルに保ち、そこへ届いた攻撃に柔軟かつ迅速に反応し、あるいは反応させられることで、つねに均一に近い結果をもたらす。その姿勢が致命的な隙を消し、適度な遊びを有している以上、枠内で攻撃してくる相手の突きは無駄足に終わり、その均衡を破るためには、攻撃者はエキセントリックな手に出ざるを得なくなります。しかし、そんな攻撃はほとんどの場合、じゅうぶんな威力を発揮しないものです。




 たった一本の追い突きでここまでのことを考えたり実践できたりする稽古は、わたしにとって驚異です。師匠が、「追い突きがあればいい」とおっしゃっていた意味が、すこしずつわかってきたような気がします。


posted by 札幌支部 at 11:03 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年08月24日

いかに自然であるか

 おはようございます。筋肉痛が約二日後に出るようになった裏部長です。

「これが老いというやつかーッ!」

 と、ショックのあまり心のなかで叫んでしまいました。




 火曜日の稽古で柄にもなく、あることを空手の稽古のなかで根をつめてやってしまったのです。その結果、稽古の翌日に背中の右側が痛くなり、そのさらに翌日には左足が奇妙な悲鳴をあげ、現在に至っています。


 週に四度も胴衣を着ていたってそんな痛みに襲われることのない裏部長は、水曜日の夜、寝返りを打てないことを悟り、「これはもしや腰をやったか!?」と冷や汗を流し、木曜日に左足が石のように固まってしまった瞬間においては、「アキレス腱をやったか!?」と気が気ではありませんでしたが、どうやらただの筋肉痛だったようです。



 裏部長は中学生のころに左膝の靭帯を痛め、合気道をやっているときにそれが悪化し、昨年には痛烈な打撲の結果、右手の人さし指が完全に曲がらなくなりました。左手は無事ですが、右手はきれいな拳を握ることができません。


 こんな有様だからなのかはわかりませんが、ここ最近は空手をやっていても体道をやっていても、不自然な動きや無理のある身体づかいをすると、かならずどこかに痛みが出るようです。逆に、すべてにおいて無理のない、自然な状態で動けているときは、たとえば空手の組手である程度烈しくやり合ってもまるで平気なのです。



 先日の稽古で柄にもなくがんばってしまったというのは、じつは空手のでした。普段はしない過度の締め、絞りをおこない、頑なにやってしまったのがいけなかったのでしょう。手痛い筋肉痛を抱えた裏部長は、水曜日のラフィラ教室の際、拳法図のある技で、相手の脇腹へ当て身を入れる瞬間、右手の人さし指が痛むことを知り、それらの動作が自分にとっていかに不自然なものであるかを知ったのです。



 ここ最近の約束組手において、気持ちよく動けているとき、裏部長はほとんど拳を握っていません。そう意識してやっているのではなく、握れないのです。もちろん手をひらいているわけではありませんが、完全な拳、というかたちにはならず、掌で空気を包んでいるような状態です。


 そんなかたちで突いたら逆にこちらの手が痛くなるだろう。最初は裏部長もそう思っていました。しかしいつからか、そう突いたほうが力みも淀みもなく、むしろ強力に突きぬけられるようになったのです


 この突きには力みがまるでなく、以前書いた「全放出の突き」と言えるかもしれません。これをしていると、肘も肩も自由になり、速さも増します。動作のなかに締めが存在しないので、滞りなく突けているとき、腕全体が太くなります。


 そしてここが肝心なところですが、突きがここまで変化すると、それを出す前段階の移動部分も変わり、すべての動作中の身体感覚も変わり、ひいては受けも変わってくるのです。あえて抽象的なイメージを用いれば、太い幹をもつ巨木が、大きくひろげた枝に無数の葉をつけ、ありとあらゆる強さの風になびいて揺れているような感じです。軸そのものは緩みませんが、腕や脚は適度にほどけ、遊ばせることも限定することも暴れさせることもできるのです。





 一昨年、本部道場へお邪魔したとき、Y師範代が、「稽古をつづけた者勝ちだよ」というようなことをおっしゃっていました。どんなに隆盛をきわめても、稽古をやめてしまったのでは成長が止まってしまう。最後までつづけた者しか高みにはのぼれない、という意味だったのでしょうが、わたしはいま違う印象をもっています。


 中年をすぎ、初老と呼ばれる年齢になってもまだ、十代や二十代の若い世代の人間と同じ量の稽古をつづけられる身体づかいとは何か。筋肉を増強し、ランニングなどをして体力を維持し、がむしゃらにただ数だけを稼ぐような足し算の修業では、いつか若い人に負けてしまうでしょう。師範や師匠のように、無駄を削ぎ落とし、技だけが残ってゆくような修業は武術家の理想です。しかし、わたしがY師範代から受けた印象はそれとも違い、むしろ掛け算のようにさえ思えるのです。




 性格や思想、体格や感覚にいたるまで、人は多種多様で、全員がまったく同じ経路をたどって成長してゆくわけではないとしたら、果たしてわたしに合った道とはどんなものだろうかと、雷鳴とどろく曇り空の下で考える裏部長でした。



posted by 札幌支部 at 10:48 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年08月09日

今日と来週の稽古について

こんにちは、裏部長です。


今日の稽古ですが、仕事のため私が参加できません。なので、お休みにさせてください。


来週は、火曜日をお盆休みとし、金曜日は通常通り稽古をおこなう予定です。


よろしくお願い致します。


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2013年08月07日

10日の稽古について

こんにちは、裏部長です。


今週の土曜日に予定していた武道場稽古ですが、参加人数が極端に少ないため、お休みにします。


よろしくお願いします。


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2013年08月04日

地球の本棚

 おはようございます。裏部長です。



 どうでもいい話ですが、春先から、大学へ車でゆくようになりました。アナログ人間を自称する裏部長も、交通の便利さには抗えなかったようです。汗っかきなので、夏場はとても助かっています。


 移動手段が変わり、進むスピードも変わると、おのずと見えてくる風景が違ってきます。交差点で信号待ちをする高校生。歩きながらあわてて化粧をなおす老婆。大学生たちは無遠慮に自転車で道路を横断し、夜にはランニングをする人をよく見かけます。みな、日中に忙しさを抱えながら、それでも体重を減らすために努力しているのですね。


 先々週の金曜日、花火大会がありました。会場の近くに自宅があるわたしは、帰りの交通渋滞を考慮して、この日ばかりは以前のように、地下鉄とバスで大学へ向かったのですが、正門前に降りたってびっくり。なんと、ついこないだまであったコンビニエンス・ストアがなくなっていたのです。いえ、そればかりではありません。正門前にあった〔不二家〕の店もなくなり、すっかり空き店舗と化していました。


 これには驚きのあまり立ち止まり、しばし呆然としてしまいました。


 思いもかけない風景は人を立ち止まらせます。そして、これまでには感じることのなかった印象を、その胸のうちに芽生えさせ、その人が望むと望まざるとに関わらず、心を惹きつけてやまないのです。





 以前、体道の稽古をしていたときのことです。


 後輩が天心古流の「肘詰」をやっているのだけれど、どうも上手くゆかない。相手の肘の上に自分の肘を置くところまではなんの問題もない、というか、誰がやってもできるのですが、そこからがいけない。何度やっても、相手を下へ潰してゆくことができないのですね。


 わたしはほとんど感覚的な人間なので、こういった場合、まず技をかけてもらうことにしています。実際に受の立場でその威力を味わってみるのです。


 このときも後輩に「肘詰」をかけてもらいました。身体の向きや形は間違っていない。この技が上手くゆかない最大の原因は、力が肩まわりにわだかまってしまうことですが、どうやらこの後輩もその傾向にあるらしい。だから、指導をする立場としては、力の渋滞を解いて、下へ下へと、まるで水が滴るように流してゆけるよう説明すればよかったのですが、このときわたしはふと思ったのです。


 この技をやるとき、どうしてほとんどの人が力の渋滞を起こすのだろう?


 たしかに、力がわだかまりやすい体勢ではあります。しかし、こうも高い確率で多くの人がそうなってしまうのには何かべつの理由があるのではないか。人の肉体は均一ではなく、またその内面的な感覚も一様ではありませんが、もしかすると共通する穴があるのではないか。わたしはそう考えたのです。


 と言ったところで、じつはすぐに見つかりました。その原因は、技のはじめの瞬間の、捕の側にあったのです。


 この「肘詰」という技では、胸倉をつかまれた捕が受の手をとり、身体をつかいながらその腕を返すところからはじまります。肝心なのはそのときの、腕を返そうとする捕の右手です。ここに不要な力みがあったのです。技のはじまりであるこの場面において、捕が受の右手首を強く握って返してしまうと、いわゆる裏骨法のような形になってしまい、かなり痛い。痛みを感じると、受は即座に反応し、その腕は無意識のうちに緊張し、すぐさま硬直してしまいます。捕が腕を返しきり、肘の上に肘を置いたとき、それは人間の腕というよりも鉄橋のような硬さをもっていることでしょう。


 技の熟練度がさほど高くない人間がそんな腕を前にして、滞らせずに、力を下へ下へと流してゆけるわけがありません。きっと、肘をのせた瞬間に、「あっ、これいかねえな」と感じるはずです。


 つまり、すくなくともこのときの後輩は、自ら技をしづらくしていたのです。その証拠に、腕を返す過程において極力がんばらず、力まずにおこなうと、要は相手の腕に余分な緊張をあたえていないため、思いのほかあっさりと「肘詰」をきめることができました。


力で技をやるんじゃない。技が力を生むのだ


 これは大原則だけれど、ある程度修業を積んだ人間でないかぎり、技の力と言われてもちんぷんかんぷんで、わからない。だからこそ最初のうちは、自分の感覚や意見を滅して、素直に、ただ純粋に技の「かたち」を指定された通りにやらなければならない。正しい形が技になり、その技が力を生んでくれるのですから


 しかし、体道の技が教えてくれているのは、そうした「かたち」ばかりではなく、その「かたち」をおこなう行為そのものを通してしか発見できない、汲み取れない感覚でもあり、いやむしろ、この感覚のほうこそ重要なのではないか。わたしは最近そんな風に考えるようになりました。技の動作など表面的なものにすぎない。肝心なのは、技の稽古を通して、動作の奥底から湧きあがってくる目に見えない感覚で、だからこそあれだけ多くの技数が必要なのではないでしょうか。


 掘る鉱脈が多ければ多いほど、湧きでる資源は豊富なはずです。





 を抜く際のことについて、二点気づいたことがありました。


 ひとつは抜刀時の右手と左手の関係性。元道新文化センター受講生のO氏より譲られた模造刀をつかっていたとき、刀を抜く右手とその角度を調節する左手とが、分離しているようで分離していない、まるで夫婦手のような連動を見せた瞬間がありました。感覚のなかで、神経がつながった感じです。


 わたしはまだほとんどと言ってよいほど刀の稽古をしていませんが、あれくらい繊細な領域で肉体と向きあい、感覚と対話することができたらどんなに面白いことでしょう。いつか自分の身体にきちんと合った刀を買って挑戦してみたい。


 あと抜き打ちのときの刀の動きが、真上から斬りおろすときと、角度が違うだけでまったく同じ理論に基づいたものになっているのだということも、いまさらながらの発見でした。要は、手よりも刀が先に走る。この一条に尽きるのでしょう。





 空手についても、二点。


 よく、「あの人は歩いているときもナイファンチンだったよ」という証言が本に載っていますが、あれは歩き方というより腰の話なのではないか。内歩進初段の、騎馬立ちのときの腰。あの吊っているような状態の腰をキープしたまま歩くことは可能です。肉体的にもかなり楽です。


 三戦で立つということにも最近はまっています。上半身はほとんど力まず、下半身だけの締めで立つ。すると、体内に明確な軸、というかができる。いわゆる体幹というやつでしょうか。この幹を置いた上で其場突きなどをすると、腕にはほとんど力を入れずとも速く鋭く拳をとばすことができます。


 この二点もまた、表層的な技法よりもそれを通して得られる感覚だと言えます。形のないものだからこそ、ありとあらゆる動作に応用できる。






 師匠が以前、「自分は欲張りかもしれない」と書かれていました。武術家として生きる以上、何かひとつのことだけをしているのでは不十分で、「何かされているのですか」と尋ねられたら、「武術をしています」としか答えようのない状態が好ましいのだと、そのために、武術の幅を広げるためにいまも修業をつづけているのだと、そう記されていました。


 わたしはあの文章を読んだとき、欲張りだと思えるほど広範囲に稽古できる人は限られていて、たとえ学ぶことができたとしても、それらすべてをきちんと理解し、吸収できる人はかなりすくない、師匠はその数すくない武術家のひとりなのだから、べつに欲張りでもいいではないかとさえ思ったものです。大量のデータをダウンロードしたくても、パソコンの容量がすくない人は、したくてもできないのですから。



 しかし、最近はなんだか違う印象をもつようになりました。



 もしかしたら師匠は、何物にも規定されない存在になりたいのではないか。空手をやっている空手家、柔術をやっている柔術家、剣術をやっている剣術家など、規定をした瞬間に発想は制限され、技に対する柔軟かつ自由なアプローチができなくなります。枠を設けたほうがそりゃ楽です。一定のルールのことさえ考えていればよいのですから。しかしそれは、やはり一定のルールに縛られるということでもあります


 誰かの名言に、「“俺は誰にも媚びない”と宣言することもひとつの媚びだ」というものがありました。表明したとたんに、おのれを規定され、可能性を制限される。師匠はそうなりたくなくて、ありとあらゆる技に通じようとしているのではないか。



 もちろん真意は師匠の胸のうちです。計り知れないものがあります。



 しかし、ひとつだけたしかなことは、斯く言うわたしが、そのような心境になりつつあるということです。どこかのカテゴリーに安住したいと思って身を寄せてみるけれども、すぐに息苦しくなる。すべての根底には空手があるが、じゃあ空手だけでいいのかと問えば、やはりそうではない。






 物理的には存在しない無数の本棚が、所蔵される書物を無言のまま待っています。


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2013年08月03日

夏休み期間中の稽古日程

 おはようございます。裏部長です。


 夏休み期間中の稽古日程が決定したので、お知らせします。


 8月2日から9月27日まで、札幌大学1001教室にて、毎週火曜日と金曜日の夜6時から通常どおりおこないます。いまのところ休みはありませんが、お盆などの時期については、参加者をあらかじめ募った上で実施を検討します。


 第2土曜日におこなっている武道場での稽古も同様です。参加希望の方は、6日あたりまでにご連絡ください。その時点での参加人数によって、こちらも実施を検討します。



 よろしくお願い致します。
posted by 札幌支部 at 08:56 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月28日

立ち止まるための雨

 こんばんは、裏部長です。


 つい数日前、道新文化センターで講座を終えたあと着替えていると、受講生の方から、「空心館では忍びになるための修業をしているのか」と訊かれました。この日はいつものように空手の基本と移動をやったあと、拳法図の技の前に、木刀を用いて抜刀などの稽古もしたので、きっとそう思われたのでしょう。


 わたしは、「たしかに、日本武術研究所をつくったのは藤田西湖という忍びだったけれど、われわれもそのあとにつづいて、忍びの修業をしているわけではありませんよ」と答えましたが、そう話しながらも内心では、なんだか懐かしい興奮のようなものを感じていました。


 たしかに、そのような想いをもって稽古に臨んでいた日があったなあと、学生時代の記憶を反芻していたのです。



 わたしがまだ大学生だったころ、稽古の日数はいまよりも多く、たしか空手は週に三回、そのほかに体道のみの稽古が一回、加えて、土曜日の午前中に武具の技を教えてもらったこともありました。教室では天井が心配なので、胴衣姿にスニーカーを履いて校舎の裏の芝生のところへ行って、法典流の十型などをやったのです。部長の眉間に杖があたり、出血したため、急遽稽古が中止になったこともありました。


 夏休み期間中などはどうしても稽古人数が減少するため、空手の日でもそのときのメンバーしだいで内容を変えることがありました。教室の電灯をつけず、窓から差しこむ夕日だけでじゅうぶん明るい時刻、師匠とふたりきりだったため、法典流の分銅や鎖の技を教わったこともありました。鋼の短棒(?)が木刀をはじき、その側面に赤い錆びがついたことも、分銅という武具がおもいのほか怖ろしいものであると知ったことも、いまとなっては懐かしい思い出です。



 しかし、いつからそんな風に、わたしは多様性のあるものとして稽古を捉えなくなってしまったのでしょうか。



 正直なところ、道新文化センターで先のように尋ねられるまで、わたしのなかに、忍びになるための修業と誤解されても仕方のないほど多彩な稽古をしているという自覚は消え失せていました。自分自身が日常的に触れているもの、つまり、もっとも高い頻度で稽古をしているのが空手と体道(おもに柔術)だったせいかもしれませんが、しかしこの講座では刀の動きもやるし、札幌大学武道場での稽古では、杖も棍もやっています。


 それなのに、どうしてわたしのなかにその認識が薄れかけていたのでしょう?



 考えてみるに、ここ数年の裏部長は、先に書いた空手と体道の、それも空手のほうに強く惹かれていたせいではないかと思うのです。空心館のなかには空手のほかに、柔術をはじめ、刀、杖、短杖(半棒)、杖、棒などの武具をあつかう側面があり、聞けば師匠らは手裏剣も投げられるというほどで、やっていないのは弓くらいなものです。札幌支部にいるわたしも、その一端には触れさせていただいていますが、意識のなかでは、ここ数年は空手のなかに立ち止まっていたような気がします


 それについては、以前書いたことと重なるためあえて記しませんが、要は、単に知っている人から出来る人への脱皮をはかりたかったのです。稽古の内容として空手はその大部分を占めるもので、だから逆に言うと、この空手が充実していないと、そのほかの柔や刀や杖の技術をいくら吸収しても満足はできない。むしろ、それら空手以外の技に通じるにはまず、大黒柱たる空手をもっと深めなければならない。わたしはそう考えてここ三年ほどをすごしてきました。


 師匠が中国へ行かれてからの約一年で、わたしが気づき、発見し、そして吸収できた内容はここに書ききれないほどあります。受けが変わり、突きが変わり、蹴りも変わりつつある。そして、それを日々おこなう肉体そのものも変化を見せはじめている。こんなことはいままでになかったし、またそれらの変化が今度は体道に飛び火し、そして体道で得られた変化がまた空手に帰ってきたりもして、とてもたのしい。師匠のもとへ入門して約十年。空手と体道は、いまが一番たのしいです。


 多くの技法について、あれやこれやの知識をもつことをよしとせず、実際に理想とする技術をやれる人間になりたかった。そのための選択として、ときには立ち止まることも必要ではないでしょうか。立ち止まるからこそ、ひとつの穴を深く掘り進めることができ、また目移りしていないからこそ、自分について、あるいは自分をとりまく周囲の環境について、冷静に判断することができる。


  
 すべてはなのかもしれません。自分で採用したと思っている道も、じつはすでに誰かとの出逢いによって、そこに生まれた縁によって選ばされたものなのかもしれない。だからいま、たとえばわたしが、空手を捨てて柔術一本で生きると宣言してみても、いや体術はすべてやめて、刀の道をゆくと決意してみても、そこに縁がなければ、一夜のむなしい夢と消えてしまうでしょう。そして、また次の日には大学へゆき、胴衣を着て、「じゃあ、其場突きからいきましょう」と言っているに違いないのです。


 きっと、そこにはこれまでのどの瞬間よりも面白がって、嬉々として汗を流している裏部長がいることでしょう。







 今夜の札幌は雨です。


posted by 札幌支部 at 20:20 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月20日

なぜ力む必要があるのですか?

 こんばんは。裏部長です。



 たった一瞬の感傷でも、それが心を揺れ動かしたり、それまで目に触れなかった風景に気づかせてくれたりすることは、そう頻繁に訪れる機会ではありませんが、変化を渇望する人間にとってはありがたいものです。それこそ、たった一個の単語が自分のなかの世界を変えてしまうというのは、奇蹟にも似たすばらしい体験だと思います。


 体道で技を習った際、自らのことばでその内容をノートに記しますね。あれは、体道の教科書が市販されていないということもありますが、重要なのは、そうやって自分の文章で内容をまとめることにより、さらなる理解と技法の定着を促す作用なのです。ことばできちんと表現できたとき、たいていの場合はその技自体もほどよくこなせるようになっているものです



 最近、ある本を読んでいて、「反発原理」ということばに出逢いました。その瞬間、わたしのなかに立ちこめていた靄が一気に晴れ、伊丹十三さんの表現を借りれば、長いあいだ目の前にあって視界を遮りつづけていた曇りガラスが割れて、その向こうから光が差したような思いさえ感じたほどです


 この「反発原理」ということばを用いると、どんなことが表現できるか。以下に裏部長なりの理解を書いてみます。



 一般的な空手の道場においては、稽古のなかで自由組手をする、あるいは試合に出て組手をするということがほぼあたりまえのようにおこなわれています。それが伝統派とよばれる寸止め空手であれフルコンタクト空手であれ、ほとんどの稽古者がこの環境のなかで日々を送っていることでしょう。若く、血気さかんで、なおかつ強さにあこがれる心のもち主であれば、当然です。


 あえて表現を変えて言うならば、組手は、相手と「攻防をする」ということになりますが、この攻防というのが意外に厄介な代物なのです


 攻防の「攻」は、自分発信でおこなえる行為です。自分のタイミングで、自分のやりたい攻撃を、自分のやりたいようにおこなえる。もちろん、それを相手がさせてくれるとはかぎりませんが、行動の選択は自由にできます。しかし、一方の「防」はそうはいきません。こちらは、相手の攻撃があってはじめて稼働する行為ですから、自分勝手におこなえない。相手ありきの行動なのです。


 なので、空手にかぎらず、打撃の要素をもつ武道や格闘技において自由組手をおこなうと、決まって選手たちからは「攻防」の「防」の字が消えてしまい、「攻」一色になってしまいます。つまり、攻撃のやり合いになってしまうのです。試合の映像などで、膠着状態になっている場面をよく見ますが、あれは両者が攻撃しようとしてぶつかり合っているわけで、どちらもその立場を変えないため、事態がにっちもさっちもいかなくなっているのです。


 どちらもが攻撃一色になってしまったふたりは、言わば同じ磁極を向きあわせた磁石のようなものです。つまり、どう工夫したところで反発しあってしまう。両者くっついたところからはじめても、離れたところから急いで接近しても、反発した関係性はいつまで経っても変わりません


 この状態において、相手に勝とうと思ったら、何よりもまず先手必勝です。相手がこちらの磁石を弾いてしまう前に、突進して、とにかく攻撃あるのみ。弾かれる前に弾いてしまわなければ、自分が負けてしまいます。多少バランスを崩そうが、受けがおろそかになろうが、とにかく攻撃! ということになるでしょう。


 わざとらしい言い方に見えるかもしれませんが、わたしは何もそういった空手を否定しているわけではありません。むしろ、そのような方針で強さを求めている場においては、上記のように、受けよりもとにかく攻撃、寸止めならばポイントの取れる速さを、フルコンタクトなら的確にダメージをあたえられる部位の選定を、というふうに考えるのは、論理的にみても科学的にみてもまったく矛盾のないやり方です。その方法論を採りたいのならまったく問題なく実行できるでしょう。




 しかし、肝心なのは、そうした反発した状態の技や身体を、われわれは獲得したくないという点なのです




 天心古流に「両手裏投」という技があります。相手がこちらの両手首を両手でとる、こちらはその状態のまま身体を回転させ、最終的には倒し、腕の急所を攻める技ですが、習った当時わたしはかなり苦労した記憶があり、いま札幌支部で稽古している後輩たちも一様に苦悩していたものです。

 
 この技において陥りやすいのは、前半の、それも動作の出発地点にあります。つまり、身体を回転させて相手を崩そうとしても、突っ立っている相手のせいでこちらの身体が思うように動かないのです。


 いま冷静に考えると、あの技が上手くできないとき、決まってそこには反発原理が隠れていたように思います。つまり、反発しているというのは、「自分」と「相手」というふたつの存在がそこにあって、「自分」が「相手」を押しているという状態なので、相手からすると、自分を押そうとしている対象が容易に把握できてしまうわけです。押されている人間はその力に逆らおうとしてしまうため、自然とそこには反発しあう力が生まれてしまっていたのです。


 逆に、あの技がなんの違和感もなくできるようになると、そこに「自分」と「相手」というふたつの存在はなくなり、言わば、相手と自分がひとつになった、一個の輪があるのみです。捕の人間はその輪をただ廻している(正確に言えば、自分もその輪の一端となって廻っている)感覚になり、受の人間は、誰かに押されているという感覚を失うので、抗う対象をも見失い、笑ってしまうほどたやすく崩れてくれます。



 いま裏部長が理想として考えているのは、あの「両手裏投」のときの感覚なのです。あの感覚で、空手の受けはもちろん、突きすらもやれないだろうか。そう考えはじめているのです。




 そもそも、反発する突きとはどんなものでしょうか。


 文章で書くとなんとなく小難しい質問のように見えますが、答えは簡単です。それは、

相手のなかへ入ってこない突き

 です。


 ん? それが答え?


 そう思われた方もいらっしゃるでしょうが、現時点でもっとも的確な表現を、もっとも簡潔に述べるならば、わたしはそう答えます。



 われわれはごく当然のこととして、相手の懐のなかまで身体を運んで追い突きをします。それは単純な技術論で、運んだ足が相手から遠いと、届いたとしても拳は相手の身体の表面を叩くだけになってしまう。その距離感で突きこもうとすると、前傾姿勢になり、バランスが崩れてしまう。できれば自分の軸を崩さず保ったまま、さらに突きこんで、拳が相手を貫通するようにしたい。


 だから、まずは相手の懐のなかまで足を運び、腰を入れ、その上で拳をとばすようにしています。わたしもそう最初から習ってきたし、当然そちらのほうが論理的にも優れた突きの身体運びなのですが、じつは、この動作に、“反発しない突き”の要諦が隠されていたのです。


 とはいえ、これは理論立てて説明するほどのことではありません。試しに相手へ向かって、深く踏みこまずに追い突きをしてみてください。拳が相手へあたった瞬間、反作用が自分の身体へもどってくるのがわかるはずです。そしてそのとき、突きを喰らった人間はほんのわずかでも、イラッとしたはずです。つまり、動きそのものが反発しているため、その動作によって衝撃と痛みを受けた人間の心のなかにも、反発しようという感情が生まれてしまうのです


 ではその次に、普段どおり深く足を運び、たった一本でいいので、ドーンと突きぬけるようにやってみましょう。もちろん、拳の照準は相手の水月にあて、実際にそこを突いてください。しかし、身体はあくまで突進モード、追い突きの感覚も、相手にあたればよいのではなく、あくまで貫通させるイメージでおこないましょう。


 まったく違う感覚が、突いた側にも突かれた側にも生まれるはずです。




 突きがそうならば蹴りや打ちだって同じ話だし、攻撃にある理論はそのまま防禦にも応用できなければほんとうではないのだから、この反発しない感覚を用いて、相手の突き蹴りを受けることも可能でしょう。いや、そうできるように稽古するのが理想でしょう。裏部長はそう考えています。


 そして、空手でそのように実地検証ができたならば、今度はそれを体道へもってきて稽古することも可能でしょう。相手と反発しないというのは、同じ磁極をむけて弾きあっていた磁石の一方が、その性格を一変させたようなものです。N極どうしで反発しあっていたところで、こちらがS極になってあげる。すると、いままで反発していたふたつの磁石が瞬く間にくっつき、ひとつになってしまいます



 この「ひとつになる」ということ、ものすごく重要なポイントだとわたしは思うのですが、どうでしょうか。



 先ほどの「両手裏投」の輪のように、相手も自分もそこにいない、いやもっと言えば、そこに自分はなく、相手と技だけがあるような状態で動くことができれば、これまでに稽古してきた技法はまったく違った顔を見せはじめるはずです。そして、その感覚を会得できさえすれば、どこへ行っても、何をしていても、つねに技とともにあると言えるような人間になれるのではないでしょうか。


 いささか大仰ですが、憧れるにはじゅうぶんすぎる境地で、そしてきっと、師範や師匠はすでにそうなっていらっしゃるのでしょう。そうでなければ、その下で稽古をつづけるわたしが、たとえなかば理論段階の話だとしてもこのようなことを考えられるはずがありません。





 返す返す、凄い話です。登れば登るほど、これまで見えなかった高い山が目の前に現れてくる。雲に覆われていたその山は、ある程度の高さまで登らなければ見ることさえ叶わない。地上にいる人間には姿さえ拝めない。





 凄い世界です。


 しかし、やっぱり面白い世界です。





posted by 札幌支部 at 20:43 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月15日

 こんにちは、裏部長です。


 海の日、いかがおすごしでしょうか。暑すぎて海にすら行く気が起こらない? 同感です。大汗をかくのは道場のなかだけでじゅうぶんだと思う今日このごろ、あいかわらず扇風機しかない部屋のなかで裏部長はパソコンに向かっています。




 先日、稽古論めいたことを書きましたが、フェアであるというのはもっと簡単に言うと、「われわれはさまざまな形を学ぶ稽古をしているのだ」という一文に集約される気がします。空手にせよ体道にせよ、わたしたちは先人たちの伝えたいくつもの形(型や技と言っても構いません)を学んでいます。いや、それらを学ぶことしかしていないし、武術の稽古というのはそれ以外にありえないとも言えます


 たとえば、体道のなかに出てくる天心古流の「附身」。受が中段追い突きで来るのに対し、捕は掛け受けや裏拳打ちなどをし、足を払って倒して極めるという技ですが、これを習っているとき、わたしたちは「附身」という技の形(内容)を教わっているのであって、それが実戦でつかえるかどうかの議論も、実戦でつかうためにはどうしたらよいだろうかという検証もしてはならないのです


 要は、捕の人間が技の内容を把握し、その通りに身体を動かせるようくりかえしおこない、最終的に自然なやわらかさをもって相手を制することができるように練習している最中に、受の人間が、空手の組手でやるような本気の追い突きをしていったのでは、稽古が破綻してしまいます。捕は手首をとれない、はたまた突きが鋭すぎて喰らってしまう。そのあげく、「この技は実戦でつかえない」と烙印を押してしまう。


 これ、武術稽古にありがちな瞬間で、この上ない愚行です。なぜなら、そのときのわたしたちは、「附身」という技の形を学んでいるのであり、それを実戦でつかうための応用をしているわけではないからです。実戦ということになれば、体道のときのように自然体で相手の攻撃を待つ必要はないし、動きの連続性に鑑みて、当て身などを省略することもありえます。受が、技をされるために動くのではなく、純粋にこちらへダメージをあたえようとして追い突きをしているのに対し、捕だけが馬鹿正直に、体道の「附身」という技をその形どおりにやろうとしていたのでは、アンフェアです。均衡はすでに破られているのです。



 
 いま札幌支部に来られている稽古者のなかに、以前われわれとは縁のないある道場にて剣術などを学んでいた方がいます。この方が先日、わたしが試案していたある技を見て、「そのような技は実戦でつかえない」というような発言をされました。非常に考えさせられるお話で、勉強になりました。


 その日、わたしは拳法図のある技を後輩につきあってもらって検証していました。受が帯刀した状態から抜きざま斬りつけてこようとするのに対し、捕は一歩出ながら右手でその右手首を制し……という技です。拳法図のなかにはこの系統の技がいくつか出てきます。


 たしかに、いままさに抜刀しようとする人間に向かって、丸腰の人間が素手で押さえにゆくという技は、一見すると非常識で無謀な行為に思えるかもしれません。それは、刀の扱い方を知っている人間であればあるほどナンセンスに感じるはずです。


 しかし、何度も言うようですが、われわれは形を学ぶ稽古のなかにいます。先達たちが残していったそれらの技を、まずは吸収する段階にいるのです。もちろん、技の有意性を検証することは、武術家としては当然の姿勢でしょうが、それは武術家と言える人間のする行為で、わたしたちのような修業段階の稽古者がたやすく手を出すべきものではありません



 それに、実戦でつかうためにはどうしたらよいかという応用の稽古をしないのには、もうひとつ大きな理由があるように思えてなりません。先の拳法図の技を例にとって説明しましょう。



 受はすでに両手を刀の上にのせている、つまりあとは抜くだけの状態になっていて、かたやの捕は一歩を出してようやく手の届く位置に立っています。そして、受が刀を抜こうとした刹那、瞬時にとび出して押さえようというのですが、この場合すくなくともふたつの問題点があります。

 
 ひとつは間合いです。捕が一歩を出してようやく手の届くという距離感は、どちらかというと受のほうの間合いです。つまり、捕からするとすこし遠い。実戦でこの技を成功させようと思ったら、まずはこの間合いを調整しなければなりません。要は、間合いを詰めるか、安全圏まで大きく後退するかですが、今回は相手の手首を押さえなければならないため、前者を採るしかありません。捕は技をはじめる前に、相手を間合いのなかへ入っておく必要があります。


 次に、動きを起こすタイミングです。受が抜刀するのに合わせて動いたのではやはり遅い。捕は、相手の心のなかにこちらへ対する敵意を見つけ、その敵意のあとで受の手が刀へ伸びはじめた瞬間に動いていなければ間に合いません。


 現代のわれわれはもちろん、江戸時代の侍たちでさえ、両手を刀の上にのせてつねに臨戦態勢のまま外を歩くことはありません。その体勢は刀を抜く寸前にできあがるものであり、当然のことながら、その体勢をとる前には「こいつを斬ろう」という思いのほうが先に発生します。斬ろうと思うから手が動くのであって、手が動いてから斬ろうと思うのはただの狂人です。まともな人ではありません。


 なので、この拳法図の技を捕の側から見て、実際につかえるものとして検証する場合、間合いを調整し、相手のなかに攻撃を意を見つけ、手が刀へ向かった瞬間に押さえてしまうしかない。裏部長はそう考えます。



 しかし、です。


 
 こういう応用をしはじめると、とてつもなく怖ろしい現象が起きはじめます。それは目に見えず、音もなく舞いあがる綿ぼこりのように、軽やかに、しかし着実に浸食して、わたしたちの思考を腐食させます。


 先の問題点とその解決法では、捕が技を成功させるためには受のなかに攻撃の意をまずは見つけなければならないと書きました。それくらい繊細に、相手の呼吸などにも気を向けて動かなければやられてしまう。これは武術全般に言えることでしょう。しかし、そこまで踏みこんで考えはじめると、考察と検証のスピードは衰えるどころか加速して、そしてついにはこんなことまでも疑いはじめてしまいます。


そもそも、どうして相手は自分のことを斬ろうと思ったのか


 現代社会においてはもちろんですが、たとえこれが江戸時代であったとしても、丸腰の人間に刀をもった人間が一方的に斬りつけるということは異常です。道場内で稽古をするときや、たがいに納得した上で立ちあう際には抜刀することもあったでしょうが、往来で、むやみやたらと刀を抜くことはありえません。もしそういった事態が現実に起こると仮定するならば、先にこちらから手を出したか、あるいは相手がほんとうに狂人であったかのどちらかでしょう


 つまり、先の拳法図の技の実戦性を疑いはじめた途端、そのシチュエーション自体も検証せねばならず、もし自分から攻撃をしかけたのであれ、向こうがとち狂った異常者であったのであれ、その環境のなかに入ってしまった自分をこそ、まずは戒めなければなりません。前者であればおのれの好戦的な性格を、後者であれば危機回避能力をまず見直し、反省し、改める必要があるでしょう。


 そして、一度そうして疑いはじめたのなら、拳法図や体道だけでなく、空手も同様の目線で検証しなければ嘘になります。相手のことが憎くないのにどうして組手で中段追い突きができるのか。ふだん誰かを一方的に痛めつけたいわけではないのに、なぜ突きや蹴りを稽古するのか。そもそも、どうして拳を握るのか……と、ここまで考えを延長させた瞬間、わたしたちは稽古する意味を見失ってしまいます。




 なぜ拳を握るのか。なぜ突きや蹴りや打ちや受けを学び、約束組手で本気の追い突きをくりかえし稽古するのか。どうして体道の技をやる際に、相手を打ったり突いたりつかんだり抱きついたり刀で斬りかかったりするのだろうか。


 すべての答えはここにあります。


わたしたちがしているのは、さまざまな形を学ぶ稽古だから




 空手の其場突きでも追い突きでも、それが武術の技だから稽古できるのであって、相手へ恨みを晴らすためにやるのであれば、わたしなどはすぐに身体が動かなくなってしまいます。逆に、其場突きという形、追い突きという形を稽古しているのだという認識があれば、べつに誰かを憎く思っていなくても、実際に拳をぶつける対象が目の前にいなくても、われわれは自分ができる最大限の突きをすることができます


 一般的に、空手の経験者のなかにはこの考え方が稀薄なように見受けられます。札幌支部にも、これまでに幾人も空手経験者が来られましたが、約束組手などをすると、身体はまっすぐ前を向いたまま、手だけで横によけた人間を突いてしまうということが頻発し、また受けを取る人間が下がったりすると、突く的に拳が届かなくなってしまうので、身体そのものが止まり、追い突きどころの騒ぎではありません。


 これは、ほとんどの空手修業者が自由組手や試合を中心に稽古している証拠で、つまりは拳で撲ったり足で蹴ったりする対象がないと思いきり攻撃できないのですね。言い方を変えると、それは相手に翻弄されているわけで、攻撃してくる寸前にこちらが前に出たりすると、もうそれだけで動きが止まってしまう。当然、突く対象がないひとり稽古では、其場突きも追い突きも満足にできません。


 もちろん、ひとくちに空手といってもその活動の場は多種多様で、われわれのように試合などへまったく関わらず、ただ純粋に技だけを稽古しているほうが珍しい昨今にあっては、このようなことを書いても共感されにくいでしょう。その違いをじゅうぶん理解した上で、同門以外の人とは向きあうべきです。






 裏部長が考える稽古論でした。
 


posted by 札幌支部 at 14:20 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月06日

基準と無欲

 おはようございます。裏部長です。



 最近つくづく、「自分は無欲だなあ」と感じます。べつに聖人ぶるわけではないのですが、ほんとうに物欲がなくて、どうしてだろうとあらためて考えてみますと、なんてことはない、裏部長はただ、興味があるものか自分が実際につかうもの以外にあまり熱くなれない性格だったのです。


 たとえば、先月ひさしぶりに武術関連の書籍を買って読みました。なんと三冊も。一冊は形意拳についての本、もう一冊は中国拳法全般についての本、そして最後は空手の本でしたが、とても興味深く読みました。いくつか収穫があったし、何よりもそうして他流儀の情報に触れることが久方ぶりであったために、とても新鮮な時間でした。師匠のもとへ入門するまでは、手に入るかぎりの武術関連書籍を読みあさり、そのつど一喜一憂していましたから、あのころのことを思いだして、なんだか懐かしささえ感じました。


 せっかくよみがえった新鮮な感動なので、できれば持続させてみたいと思い、その後何度か大型書店を訪れて新たに武術関連の本をさがしてみましたが、しかしこれが面白いことに、もう一冊も手を伸ばしたいと思えるものがないのです。


 もちろん、藤田西湖さんの本などは、欲しくても値段が高くてなかなか手が出ないという事情があるので、この場合には除外していますが、それ以外の書籍に対してはまるで関心がもてないのです。例の三冊を選びとったとき、読了したときの感触はまだ新鮮さを失わずにこの胸のなかで生きているのに、書店へ行き、実際に書棚の前に立ってそのラインナップを目にした途端、一気に熱は冷めて、結局は何も買わずに帰るはめになってしまいます。


 要は、買いたい、読みたいという欲そのものがもう存在していないのですね。先の三冊については、たまたま内容に惹かれただけであって、他流儀の情報を何がなんでも知りたい、吸収したいと思っていたわけではなかった。書店にならんでいる本たちにはいっさい罪はなく、裏部長個人の問題だったのです。



 こういうことは稽古のなかにも反映されてきます。



 この春から稽古へ復帰しているS呂くんと話していたときに、「今後は蹴りもやりたい」という話題になりました。彼は、本部道場へ行ったときに、われわれがY師範代に稽古をつけていただいていたとき、端で蹴りをやっていた他の有段者の動きを横目で観察し、「うわあ、すげえ蹴りしてんな」と思ったそうで、栃木訪問から六年が経った現在でもその印象を鮮烈におぼえていました。


 彼は、「自分は欲張りなので、すごい動きを見ると、自分もやってみたいと思うんですよ」と言っていました。当然、空手をやっていれば突き以外にも魅力的な動きはあるし、それに、彼のように身長が高く、脚も長い人は、その武器をおおいに活用したいと思うでしょう。本部の猛者たちのえげつない蹴りを目にしたとあればなおさらです。


 だから、師匠が帰国したのちは、積極的にアピールして蹴りを学んでもよいのではないか、ただその受けをとるのが裏部長ということになるといろいろと痛い目を見そうなので、なんとも言えないなあ、などと昨夜も話していました。札幌支部ではあまり蹴りをやってこなかったので、有段者が増えるであろう今後は、すこし稽古メニューに変化があってもよいのかもしれません(当然それは師匠の判断ひとつです)。


 しかし、です。空手の稽古としてそれらの動作が必要だったとしても、裏部長自身としては、べつだん蹴りそのものに興味はありません。なぜなら、つかう場面がほとんどないからです。これが空手の試合に出るとか、日常ストリートファイトをしている人間ならば、突き以外にも習得したいと思うかもしれませんが、裏部長は基本的に温和な一般市民なので、競技をやることにも他人を攻撃することにも興味がありません。ただ純粋に、稽古をしているだけなのです。


 なので、稽古のなかで使用する動き以外にはあまり興味を示せません。蹴りも、基本や移動のなかで出てくるからやっているだけで、強力な蹴りを出してやろう、それで相手をノックアウトしてやろうという考えはまるでない。だから、蹴りが得意であるとも不得意であるとも言えない。たとえ稽古のなかで、裏部長の蹴りを喰らって痛がっている人がいても、嬉しくともなんともないのが現状です。


 追い突きについてはまったく違います。空手の、もっと言えばすべての稽古の根幹にあるこの技は、約束組手で毎回つかうということもあって、とにかく気にしています。あれやこれやさまざまな注意点をさらいながら、いまの自分に可能な最大限の追い突きができているか、ほとんど毎日考えているくらいです。


 やっぱり、ここにも性格が関係しているのでしょう。自分が、面白そうだなあ、知ってみたいなあと思うことには能動的に接近し、この人の弟子になりたいと思えば入門し、学びたいと欲すれば何年間でも喰らいついて離れない。まるでスッポンのようですが、これは裏部長の現実で、元来そうした性格であるにもかかわらず、師匠についてもうそろそろ丸十年が経ちます。



 空心館における裏部長の興味の対象には、もちろん体道が含まれます。これがあったから現在までつづいているようなもので、体道をやってきたからこそ見えた風景があり、会得できた感触があり、また生まれた出逢いもあります。道新文化センターでの講座もそうです。今週から新たな三箇月がはじまり、水曜日は八名、木曜日は十二名の受講者の方がいます。これまでにある程度の期間ここで体道をやった人数は相当なもので、何名か有段者も生まれています。


 自分の稽古はもちろん、師匠について指導をする場面にも顔を出すようになり、いまはひとりで留守を任されたりするなかで、純粋に体道をやっているからこそ気づけたことというのがいくつか増えてきました。しかし、いま裏部長のなかにあるそれらの内容は、たぶんに観念的で、実際に技をやってみれば具体性を帯びてくるのですが、文章にするとなんとも抽象的で伝わりづらいと思うので、あえて書かないでおきます。それに、これは稽古を継続してきたなかで見つけたことでもあるため、安易に公開することは望ましくないかもしれません。


 ただひとつだけ、注意点を書いておきたいのです。



 体道を稽古する際、受と捕はつねにフェアでなければならない。裏部長はそう考えます。正しい形が技になる技が力を生む。そのための稽古であり、体道であるため、柔道の乱捕りや空手の自由組手のように技をおこなうことはできないし、不適合である。技のなかに散りばめられたコツやエッセンスを慎重に抽出し、咀嚼し、吸収しなければ意味はありません


 だから体道を稽古する際には(もちろん空手においても同様でしょうが)、自分本位に動いてはいけないし、また向かいあう両者はつねにフェアな状態になければなりません


 昨夜、後輩のIくんやOくんに天心古流の「後抱取」を教えました。あれは受が背後から捕の身体を抱きかかえるところからはじまる技ですが、基本的に、捕が技をやっている最中、受は両手で抱きついたまま動きません。ただその両手が外され、最終的に押さえこまれるのを待つばかりです。


 これ、たしかに、攻撃としては不自然かもしれません。相手に危害を加えようと近づいてきた人間が、こちらの身体に抱きついたままじっとしているはずはなく、引っ張ってもちあげようとしたり、タックルのように前へ倒そうとしたり、あるいは、空いている足で蹴ったりすることも考えられます。それが攻撃としてのリアリティであり、微動だにしないのは非現実的です。


 しかし、ここが重要な点ですが、受がそのような攻撃のリアリティをもち出して、抱きかかえる以外の動きをした場合、捕もそれに応じないわけにはいきません。捕は素直に「後抱取」をやろうとしているのに、受だけその技からはみ出した動きをしていると、稽古のバランスが崩れて、いつまで経っても何も上手くいきません。それはまるでジャンケンをする際、すでにグーを出している相手になんとかチョキを出して勝とうとしているようなものです


 技において両者がフェアであるというのは、捕が所定の動作をして技をおこなおうとしている時点においては、受もその技が指定している動作以外におこなうべきではないということで、そんなことはおかしい、実戦で相手がじっとしているわけがない、というような意見は、実戦においては真理でしょうが稽古においてはナンセンスです。その理屈でストリートファイトをするのならまるで問題はありません。しかし、その理屈で体道をやろうとすると途端に時間は紙屑のようになり、汗は不快な粘着質を帯びて、心を蝕んでゆきます。



 これらのことを痛感して裏部長が心にとめたことは、空手はもちろんですが、こと体道においては、きちんとした指導者なしに稽古をすべきではないという一点に集約されます。ある程度経験を積んだ有段者が、内輪で技の確認なり復習なりをするのなら問題はないでしょうが、さほど理解の及んでいない段階の人間が集まって稽古をしようとすると、かならず技のバランスは崩れ、気づかぬうちに意味のない時間をすごすことになります。それでもいいのだと言う人はそれで構いませんが、裏部長はいやです。そんな稽古を、後輩たちにも、道新文化センターの受講生の方たちにも受けてもらいたくないし、見たくもありません。



 武術というのは多様性を孕んでいるため、稽古の仕方ひとつで、それがケンカ術になり、健康法になり、思想や哲学にもなったりします。だからこそいくつもの流派や技が生まれてきたわけだし、裏部長もこうして、ひとつの道場で約十年もお世話になれているわけです。多様性に感謝です。師匠のように、洋の東西を問わず、さまざまな武術に触れ、学び、交流するやわらかさ、懐の深さ、寛容さをもっていてもよいのかなあと思います。


 ただ、多様性があるからこそ、学ぶ以上は、その道場においておこなわれている技の内容や術理、目標とする感覚などを最優先にしなければならないという気もします。師匠も、現在中国の猛暑のなか、指導者について武術を学んでいるそうですが、当然そこではそこでやっている技法をそこでやっている原理に則って稽古しているはずです。自分は空手と体道の師範なのだ、自分の動きはこうだ、などと自己主張することはありえないはずです。技自体の有意性ということのほかにも、その技を稽古する意味というのが存在するのだということを、ひとつの道場に属し、ひとりの師について修業をするわれわれは決して忘れるべきではありません。



 そして、それを悟った人間は、まだ理解できない段階の者へ、きちんと伝える義務があるはずです。



posted by 札幌支部 at 10:06 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月04日

濁流のなかに見えるもの

 こんにちは。裏部長です。



 以前何度かご紹介したことがあると思いますが、画家の早川剛さんが展示会をおこなうということで、宣伝させてください。


世代を超えて2人展vol.3 鳥垣英子・早川剛


 七月八日から十三日までの約一週間、東京のK's Gallery(〒104-0031東京都中央区京橋3-9-2プラザ京橋ビル3F TEL03-5159-0809、FAX03-5579-9004、Eメール kgallery@eagle.ocn.ne.jp、ホームページ http://ks-g.main.jp/)というところで開催されます。




 裏部長は残念ながら伺えないのですが、もし東京へ行く機会のある方はぜひ足を運んでみてください。




 大多数の人間が美しいと言うものを見て自分も美しいと言うのはたやすい。しかし、表現者が全身全霊を込めて、命を削って描きあげた渾身の一作のなかに、ただ目を向けるだけでは見えてこない美を発見することは難しい。だからこそ、そこから湧きあがってきた感動は何物にも代えがたいのではないでしょうか。




 こんな季節だからこそ、暑さにまかせて未体験の衝撃を。


posted by 札幌支部 at 12:35 | Comment(0) | 裏部長の日記

2013年07月01日

7月の稽古日程

 こんばんは、裏部長です。


 7月の札幌支部の稽古日程が決まったので、お知らせします。


 今月も、札幌大学1001教室にて、毎週火曜日と金曜日の夜6時からおこないます。先月下旬に、師匠の奥さまとご子息がひと足早く帰国され、現在は火曜日の稽古のほうへ来られています。少年部二名、いたって元気で、とてもにぎやかです。


 また武道場での稽古は、今月からふたたび第2土曜日にもどり、13日の夜6時からということになります。参加者の顔ぶれにもよりますが、最近は通常の稽古時に体道を多くやっているので、武具の技に時間をさくかもしれません。


 なお、もうすぐ大学は夏休みに入りますが、一応その期間中も稽古を実施する予定です。来月以降の予定については、また確定したのちお知らせします。



 よろしくお願い致します。
posted by 札幌支部 at 19:00 | Comment(0) | 裏部長の日記