2016年07月24日

ただそれだけのこと

 こんにちは。裏部長です。


 七月も終盤となり、本州ではかなり鬱陶しい日々がつづいているようですが、皆様いかがおすごしでしょうか。札幌はいまだに真夏日がなく、日中はそれなりに気温は上がるのですが、夜になるととたんに肌寒くなり、半袖から出た腕をさすってしまう今日このごろです。





 今日はあらためて、ごくあたりまえのこんなことを。





 ふだんの稽古のなかで、空手をやるにしても体道をやるにしても、一貫して意識しているのは、「相手からのアプローチがあって技が生まれる」ということです。


 大きなブルドーザーのような重機でさまざまなものを圧してゆくような、なぎ倒してゆくような強さ、重さ、太さを求める人は多いでしょう。そういった状態の身体を目指して鍛えている人もいるでしょうし、伝わってきた教えとして、そのような肉体を追求する流派もあるはずです。



 しかし、われわれは違います



 わたしたちが稽古しているものは、終始一貫、どちらかといえば「受け」目線です。攻撃と防禦で言えば、後者ということになるでしょう。




 攻撃はみずからおこなうことができる、とても能動的な動作です。自分の裁量で、自分のタイミングで、自分の意思で、繰り出すことが可能です。しかし防禦は、自分で勝手にやったところで、それは防禦の動きをやったことにはなるかもしれませんが、防禦をした、ということにはなりません。


 防禦は、攻撃があってはじめて存在します。相手からのアプローチがあり、そこでようやく生まれるものなのです





 空手を習いはじめてすぐに、「相手を受け入れる。相手に突かせてあげる」という一事を教わります。これはとても大きなことで、空手にかぎらず、すべての技に通じている気がします。



 逆に言えば、このことさえ忘れずにいれば、大きく道を踏み外すことはない。わたしはそう感じています。






 稽古の過程にはさまざまな場面があり、そこにいるわれわれも機械ではなく人間ですから、さまざまな精神状態のときがある。もちろん、その振り幅を小さくしてゆくこと、変動しないこと、惑わされないことも、修業の目標なのですが、すぐにそこまでの境地には至れない。悩んだり間違ったりをくりかえします。



 ただ、上記の大切な一事だけは忘れてはいけない。


 この姿勢の上にすべての稽古が成り立っているのです。








 今日は、ふだんの稽古のなかでごくあたりまえに教えられていることについてあえて書きました。




 ただそれだけのことです。

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2016年06月12日

マリオネットの夜

 こんばんは。裏部長です。



 2016年も折り返し地点に近づき、世界はすっかり初夏で、青い空と強い風がなんとも心地よい今日このごろ、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 最近の札幌支部は、時期的なものでしょうか、すこし参加者がすくなくなっているものの、熱心な人はなお熱心に、それほどではない人もそれほどではない熱量をもって稽古をしています。時間は確実に進み、少年部に長らくかよってきていたHくんが中学生になりました。身体も大きくなりはじめ、札幌大学に来られたとき三十代だった師匠もいまやアラフィフ。


 そんなことを言っているうちに、今年も気づけば大晦日、なんてことになっている気がします。






 継続的に稽古へ参加していると、ふとした瞬間に、思いもよらない感慨に浸ることがあります。


 たとえば、体道の稽古のなかで、自分よりも後輩の人の受けをとっているとき。柔術の技で、師匠が傍らで見ていて、試されているのは捕をしているその人であって、わたしはただ受けをとっていればよいのですから、へんに頑なになることもなく、もちろん不真面目につきあうのでもなく、相手が滞りなく技ができるように、手首をもったり胸倉をつかんだり、突いたり打ったり刺したりするわけですが、そんななかでも、ふと思うことがあるのです。


技をやるとき、人はなんと多く無駄なことをしているのだろう


 段取りがわかり、動作の流れがわかり、結末までのテンポがわかれば、ある程度は動いてみせることができます。ひとりよがりにならないとか、力まないようにするとか、そういった点では各人の力量が現れますが、それはそれ、いまの自分のレヴェルでやればよいのです。それ以上のものは求めたとしても詮のないことなのですから。


 しかし、そうとわかっていても、人は技をやるとき、無駄に力み、無駄に大ぶりし、そうかと思えば収縮して硬くなり、窮屈になって苦しみます。そんな動作も我慢もまったく必要ないのに、してしまう。すればするほど悪循環で上手くいかなくなってしまうというのに、ほとんどの人はそうしてしまう。



 ああ、なんと切ない話だろう。相手を倒そうという意思があるからいけないのだ。こう崩して、こう押し込んで、こう落としたいという思いが邪魔をする。なくしてしまえばいい。自分のなかをからっぽにして、過剰に反応する筋肉もすべて剥ぎとって、骨格とそれを吊る糸だけのあやつり人形になってしまえばいい。そうして、技の動きをただ踊る。そうすれば、あんなに苦しまずに済むというのに。




 そんなことを思いつつ、またべつの日、空手をやる。突きをやる、蹴りをやる、あるいは型、約束組手。課題と向きあいつつ、汗を流すわけですが、ふいに、からっぽな自分は恐ろしいなと思ってしまうのです。


 からっぽにするということは、頭のなかも空洞化するわけで、脳がない状態です。考えることをなくしてしまう。ただやる。ただ動き、ただ突き、ただ技をやる。自分を、それをするためだけのガラスの器にしてしまう。考えるから余計に力み、余計に悩み、悪循環に陥ってしまう。ならば、そもそもの問題の源泉を止めてしまえばいい。


 しかし、どうだろう。技というのはつねに相手がいるものです。相手に力を伝えるものです。力を伝えるには、自分でその力を感じられなければいけないでしょう。その重さを、その速度を、じゅうぶん自分で把握し、認識した状態でなければ、それを相手へつかうところまで行けません。感じるということと、考えるということはどこかでつながっていて、どちらかを放棄すると、そこで成長が止まってしまうような気がしてくるのです。




 考えるから悩み、考えるから感じられる。己の肉体を人形のように扱えれば、硬さや不必要な重さからは解放されるけれど、血液は行き渡らない。神経が行き渡らない。そんな状態で、あの技ができるわけがない。



 

 先日、師匠とのあいだで、ある人形玩具の話が出たため、今回はそれに無理くりくっつけて書いてみました。なんだか妙に小難しい話になってしまいましたが、要は、ひと筋縄にはいかない、ということなのです。どちらか一方の考えと姿勢でよいのなら、みんなあっという間に成長して、世界は達人たちで覆われてしまうでしょう。


 このぐらつく舟を漕いでゆく旅路にいかに順応するか。結局はそういうことなのだと思います。


 裏部長でした。




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2016年02月28日

波紋

 こんばんは。裏部長です。


 なんだかんだで、二月もあと一日です。

 季節は春へと近づき、花の便りもちらほら届く頃あいとなりました。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。






 
 最近の稽古では、よくワン・ツーをやっています。



 約束組手というと、何よりもまず追い突きでありまして、それはいまも変わっていませんが、今年に入ってからはそこへ、すこしずつワン・ツーが入ってきています。




 こないだの稽古で、師匠が言ったことばが印象的でした。


これまでやってきたワン・ツーはワン・ツーではない。ワン・ワンだ


 面白い表現と指摘だなと感じました。そして、実際にその違いを目のあたりにすればするほど、たしかにワン・ツーというよりはワン・ワンなのでした。言い得て妙というのはああいう状況をいうのでしょうね。




 この稽古をきっかけに、師範のことばも思いだしました。札幌での稽古だったか、本部へお邪魔したときのひとコマだったか、記憶が定かではないのですが、ワン・ツーの話になったときに、


いまはあたりまえにワン・ツーと言っているが、これはもともと、刻み突き・逆突きである


 まあ、そりゃそうだと思うでしょう。たしかにその通りで、空手をやっている人ならは即座に肯けるはず。



 しかしね、先ほどの師匠のワン・ワン発言とつなげて、これはたやすく看過してはいけないことばだと思うのです。






 ワン・ツーというのはつまり、突きを二本立てつづけに出す動きのことですね。追い突き・逆突きというのと変わらない、コンビネーションの技のことです。


 この動きを考え、成長させてゆくには、いきなり全体を捉えるのではなく、追い突きのときがそうであったように、まず一本目の刻み突きを研究するべきです。約束組手で散々いろいろとたった一本の追い突きをやっているように、刻み突きにおいても、それ相応に掘りさげられる余地はあるはずです。


 一本目の刻み突きを磨き、変化させ、向上させてゆくと、当然ですが、それに隣接している二本目の逆突きも変わってゆかざるを得ません。現に、刻み突きの出し方、そのときの身体のつかい方を錬ってゆくと、おのずと逆突きも違ったものになり、結果、ワン・ツーという技が技としてようやく誕生するというわけですね。



 ワン・ツーとひと息に言ってしまえば、馴染みのあることばですが、これをまず「刻み突き・逆突き」に分解し、その一本目、刻み突きを単体でまず考えること。そこに変化が生まれ、身体の動きが質的に変わったら、そこではじめて二本目の逆突きをつけて、また新たに考えてみる。すると、二本目の逆突きも変化してくる。ただしここで安心していけないのは、二本つづけてやってみて逆突きに手ごたえが出はじめると、今度はあれだけ意識して取り組んでいた一本目の刻み突きがおろそかになり、ただ手を出しているだけになってしまいがちです。ここをさらに注意して、一本目の刻み突きも、二本目の逆突きも、両方きちんと活きた攻撃としてのワン・ツー、正真正銘のワン・ツーを目指していかなければなりません






 と、わかったようなことを書きましたが、これが今後の、わたしの課題でもあります。忘れないように、ここに記しておきました。



 さて、これからどうなることやら……。



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2016年01月31日

body to body

 おはようございます。裏部長です。




 みなさん、明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申しあげます






 と言いつつ、一月も今日が最後です。今年も、すでに十二分の一が終わってしまいました。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 
 さて、最近読んだ小説に面白い解説がついていました。



 それは新潟を舞台にした物語で、巷で言うところのいわゆる「毒親」のもとで暮らす女子高生ふたりが、抑圧され、精神的に虐げられる日々のなかで鬱屈し、ついにはそれが爆発して事件が起こる、という内容のものでしたが、ときに理不尽なことを強い、ときに他人のような態度を取ることさえある「毒親」に、なぜ彼女たちは抵抗できなかったのか、それについて解説で触れているわけです。


 臨床心理の世界では常識のようですが、わたしは知りませんでした。なんでも、母親と娘の関係は、たとえば母親と息子、あるいは父親と息子または父親と娘の関係とは異なり、さまざまな意味で根深いものがあるというのです。


 どうして根深い関係となるのか。


 それは、おたがいに女性だから、なのだそうです。女性は男性とくらべて、日常的に自分の身体の内部へ目を向けることが多い。月経があり、それにともなって熱っぽさ、だるさを感じたり、便秘になったり、貧血気味になったりと、変化が多く、それらの動向をつねに感じながら生活しているというのですね。


 自分の身体の内面へ気を向け、アンテナを張って感じながら生きている女性に、母親がいろいろなことを教えてゆきます。刻みこむように、なじませるように、いろいろなことを。それは、男の子が受けるよりも深く浸透し、根づいてゆきます。


 こんな生活を五年、十年とつづけてゆけば、両者の関係は強靭なものになり、多少のことでは離れなくなってしまう。だからこそ、傍目から見れば異常なほど理不尽な目に遭っていても、その子本人は抗えず、反発する意思はあっても、最終的には母親の思いに沿う行動を取ってしまうらしいのです。




 はあ、そんなものかと感心して読んでいましたが、ふとこんなことを考えました。



 道新文化センターでやっている古武術講座に、女性受講者が多いのはなぜだろう?




 これまでは、男性は仕事の関係でスケジュールが取りづらく、転勤などで札幌を離れることもあるから、なかなか長いあいだ継続して来ることは難しい、だから女性のほうが多く、長年やっている方もいるのだ、と思ってきましたが、これ、いちがいにそういうことではないのかもしれません。


 女性だって仕事をしているし、なかには家庭をもち、家事をし、その上で時間と体力をやりくりして来ている方もいます。男性ばかりが事情を抱えて、困難のなかで参加しているわけではないのです。



 ならば、なぜ女性のほうが多いのか。

 これは、もしや、女性特有の、自分の内面へ向ける感覚のせいかもしれません。




 体道の、とくに柔術をメインにやっていて、長くつづけていると、技の内容を把握し、憶え、その通りに動くことにはしだいに馴れてゆきます。先日も、捕手術のグループが一段階を終えましたが、細かいポイントでもうすこし向上できるところはありつつも、全体としては小馴れた印象で、危なげなく演武されていました。全員が体道連盟の黒帯を締めている、ヴェテランのチームです。


 しかし、長くやっていて、技を習い憶えることに馴れてきても、それで技が上手くゆくとは限りません。あたえられた動きの通りにやってみせたからといって、技がかならず極まるわけではない。ロボットのように、プログラミングされた“正しい動き”をしてみても相手に効かない場合があります。


 そんなときはどうするか。

 動きから離れて、自分の内面と、そして相手の内面へ感覚を向けるようになるのです



 これは、「相手とひとつになる」などと、これまで散々書いてきたアレに通じる話で、別段特殊なものではありません。自然と、技をやってゆくなかでそうなってゆくだけで、意図しておこなっているものではないのですが、面白いもので、この感覚は、わかる人にはわかるがわからない人には何十年経ってもわからないもので、ここに気づけるかどうかが、体道を面白がれるかどうか、ひいては、武術をたのしめるかどうかにつながるのだとわたしは思っています。



 その内面へと向かう意識、感じ取ろうとするアンテナ。これらは、もしかすると、男性的な感性より女性的な感性のほうが得やすいものなのかもしれません。



 とはいえ、「じゃあ、これまでの武術の歴史のなかで、達人と呼ばれた武術家のなかに女性がすくないのはどういうわけだ?」と訊かれるとぐうの音も出ません。女性の武術家もたしかにいたことはいたでしょうが、名前や逸話が残っているのは圧倒的に男性が多く、それはきっとこれからも変わらないのでしょう。

 
 武術を表だってやるのは男性で、女性はそれを主として生活していなかった、と言えばその通りでしょう。しかし、わたしはさらにそこへもう一点、意見を置いてみたい。




 武術を極めるには、女性的な感性のほかに、男性的な才覚が必要なのではないか?



 


 稽古をするなかで、不思議な感慨に襲われることがあります。


 相手と向き合い、技をおこなう際、この手、この足で何でもできてしまう、もっと言えば、この指、この皮膚ですべてやれてしまうなと感じるときがあったと思いきや、どんな技でも、相手と自分とのあいだにはかならず何かが介在してしまう、拳があり、腕があり、刀や杖があったりする、それらが鬱陶しい、邪魔だ、そんなものがなくても、自分と相手の身体と身体、心と心だけでことが済むではないか、それ以外に必要なものなどありはしない、そんなことを感じて、手離しで技がやれてしまう瞬間に出合うこともある。


 あれは何なのかなあ。不思議で仕方ありませんが、その感じにとらわれたとき、わたしはものすごく心地がいい。幸福なのです。あれは、いったい何なのかなあ。







 そんなこんなで、いろいろございましょうが、今年もよろしくお願いいたします。


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2015年12月31日

山が見えたならそれは山

 こんばんは、裏部長です。



 大晦日です。あとすこしで2015年も終わります。


 この冬、札幌では十一月に大雪が降ったり、そうかと思えば暖冬で、今月は雪がすくなかったりと、いろいろありましたが、今日も比較的おだやかな天気で、落ちついた年末年始をすごせそうです。



 今年は、九月に札幌で師範をお招きしての特別稽古があり、十月には師匠にくっついて、奈良と名古屋での稽古にも参加しました。

 札幌支部としては、稽古場所が数年ぶりに二号館地下へと移り、婦人部に顔ぶれが増え、変化らしい変化はそれくらいで、あとはいつも通りの毎日でした。




 最近の出来事で言えば、札幌大学の教員でもあるIさんが茶帯を締められたことくらいかなあ。とても喜んでいらっしゃって、その様子がなんとも微笑ましくて、自分も茶帯や黒帯をもらったときはあんな風に感激していたなあと、わずか数年前のことをなつかしく思いだしてしまいました。



 修業は一生だ、とか、鍛錬に終わりはない、なんてことばをもち出す必要もないほど、裏部長にとって、稽古は日常のなかにあります。

 何か目に見えるわかりやすい目標を立ててそのためにするものではなく、ただするものです。

 そのなかで会得するもの、体得するもの、発見するもの、実践するもの、さまざまありますが、それは稽古してゆく過程で得られたものであって、それらを得ようとして稽古しているのではないということ。

 むしろ、何か用意や努力をするのなら、その不断の稽古をするために必要なことをするべきで、わたしが今日までの一年で痛感したのは、この一事です。





 平地にいるなら平地を歩くように。


 山があるのなら山を登るように。


 川があるのなら川を渡るように。





 歩みつづけるためには、そうするにふさわしい速度があり、息づかいがあり、気持ちがあるはずです。

 それはしかし、実際に長くつづけてゆくなかでしか見つけられないものだと感じました。

 だから、焦ったり、詰め込んだり、反対に怠けたりする日々はもういらないのです。



 

 明日からの一年が、みなさまにとってよりよい日々、そしてよりよい稽古で満たされますように。






 裏部長でした。


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2015年10月20日

あなたの家

 こんばんは、裏部長です。


 今月も残すところあと二週間弱となり、来月になったらなったで、今年もあと二箇月ということになり、あらためて時間の流れの速さを痛感します。札幌ではそろそろ雪が降るでしょう。秋に浸れるのもあとわずかです。




 さて、先週の三連休、師匠にくっついて、奈良名古屋の稽古に参加してきました。奈良は初、名古屋は二度目の参加でした。前者は奈良支部の道場で、われわれのほかに、師範T技術顧問M田さんとにかくランニング姿が爽やかなMさんがいらっしゃり、二日に渡り二度、胴衣を着る機会がありました。



 いろいろなことを教えていただき、見せていただき、感じさせていただきました。師範がいてT技術顧問がいて、師匠もM田さんもいるので、さながら体道連盟首脳会議の様相を呈していましたが、ほどよい緊張感で、なごやかにすごすことができました。


 また奈良から名古屋へ向かう道中では、師範からさまざまなお話を伺うことができ、勉強になりました。ああいう場で、もっと気のきいた質問や相槌が出せればよいのですが、不器用な人間で申し訳ありません。ボキャブラリー豊かな人間になりたいものです。



 師範、T技術顧問、そして奈良支部のみなさん。お世話になりました。

 濃密な稽古はもちろん、お食事もおいしく、奈良観光もできたし、伊賀で忍者屋敷も見学できて、たのしい三日間でした。

 ありがとうごさいました。





 あいもかわらず、教わったことを具体的に書くことはしませんが、今回の稽古で感じたことをひとつ挙げるとすれば、それは、


ひとつのことを極めんとする人間の姿勢


 とも言うべきものでした。これは大いに勉強になったし、反省もさせられました。





 以前にこのブログでも書いたかもしれませんが、ある人が、ともに仕事をしている年若いスタッフに、一週間ぶりに顔をあわせた際、いつもこう尋ねるのだという話があります。


君は、この一週間で何を学んだ?


 その人たちが会って仕事をするのは、週にたった一度なのです。今日の仕事のあとは、互いに一週間離れているわけで、その間にどんなことをしたのかと問うているわけです。



 勉強といっても、べつにそれほど重いものを要求しているのではなく、こんな本を読んだとか、どこかへ旅に行ったとか、こんな人に話をきいたとか、その程度のことでよいのです。いけないのは、何もせず、変化も求めずにただ時間をすごすことで、怠けていた人に対しては烈火のごとく怒るのだと聞いたことがありました。




 今日のブログの冒頭で、今年も残すところ二箇月ちょっとだと書きました。師匠ともよく、年末が近づいてくると交わす話題で、みなさんもそうでしょうが、こういう話をしたときに、焦りや不安、虚しさ、恥ずかしさ、怒りなどを感じる人は、きっと、自分で納得できるほどの何かをし得なかったからなのではないでしょうか



 目標をもち、実践し、努力し、悩み、苦しみながらそれでも前進し、たとえ満足はできていなくても、何かしらの結果を出せた人は、一年の終わりを前にして、ただ焦ったり、不甲斐ない自分を恥じたりはしないはずです。むしろ誇らしささえ感じることでしょう。俺はこの一年こんなことをやった、達成してやった、来年はもっとがんばってこんなことをしてやろう、もっと先へ進んでやろうと、新たな熱意をおぼえているはずです



 これは何も武術に限った話ではありません

 ただ単に、今回の遠征のなかで、わたしが師範や、師匠や、T技術顧問や、M田さんらに対して、みなさんの武術に対する姿勢を見て感じたことを自分なりに書いてみただけです。




 それが仕事である人もいるでしょう。武術である人もいるかもしれないし、人間関係かもしれないし、芸術であるかもしれない。それぞれに、自分で勝負する世界があって、でもほんとうに、一年が終わるごとに決し悔いることなく、むしろ胸を張って生きてゆけるほど、いつもきちんと取り組めているかどうか




 情けないことに、わたしは過去に何度も、虚しい年越しをしたことがあります。なんにもない年末、手応えのない年明け、そして心晴れない正月。口惜しさも恥ずかしさも呑みこんで、見て見ないふりをする。忘れてしまう。


 でも今回、諸先輩方を見て、あらためて気持ちが引き締まりました。





 自分が生きてゆきたいと強く想っている世界で進んでゆくためには何が必要なのか。願っているだけ、想像しているだけではいけないのです。熟考し、実践し、その歩みをさまたげる要因を振り払い、愚直に、ただ前だけを見つめて、継続してゆくこと。その過程で、もし熱意が消えてしまったら、それは自分にとって大したものではなかったという証明で、もしまだやり足りないと感じて心身がうずくなら、やればいい。



 そうして生きてゆくことが、ほんとうの意味の「前進」なのではないでしょうか。




 わたしも、わたしの道を、絶対に諦めたくないです。


 みなさんは、どうですか。


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2015年09月26日

人間は食べたもので出来ている

 秋の夜長、いかがおすごしでしょうか。

 裏部長です。



 シルバーウィークも終わり、来週後半からはもう十月がはじまります。北海道は夏が短いと言われていますが、秋もそう長くはつづきません。趣きのある、豊かな季節にしたいものです。




 さて、去る九月十九日、札幌大学研修センターにて、師範をお招きしての特別稽古が開催されました。


 札幌支部御用達の、何の変哲もない、コンクリート床の教室ではなく、きちんと畳の敷かれた武道場を借りきっての稽古。イヴェント要素の多い一夜でした。




 今回は、われわれ札幌支部のためというより、道新文化センターで古武術講座をとっている方達のために開催した特別稽古でした。


 木曜日の講座は2008年から、水曜日の講座は2009年からおこなわれていて、どちらもすでに六年以上つづいているものです。開講当時からかよってこられている方もいれば、その方達に負けず劣らず熱心に稽古されている方もいて、せっかくならそんなみなさんにも師範の技に触れていただきたい。そんな主旨が、今回の稽古にはあったのでございます。




 結果から申しあげると、盛況な一夜でした。道新文化センターのメンバーだけでも十名以上が参加され、そこに札幌支部のメンバーも加わって、トータルで二十名ほどの参加がありました。ふだんの稽古ではあまり見ない人数でしたね。




 毎度のことながら、稽古のなかでどんなことをしたのか、そのなかで師範がどんなことを教えてくださったのかは、ここには書きません。それは、あの日、稽古に参加していたみなさんだけの財産だから。ある人はただただ師範の技の素晴らしさに圧倒されたかもしれないし、またある人は、師範の話されるエピソードやその所作のあれこれに、ひそかな感動をしていたかもしれない。そこから得られる印象や教訓は人それぞれで、だからこそ学ぶということにつながるのですから、あえて、ここで認識を共有する必要はないのです。






 裏部長個人の印象でいえば、「シンプル」、そして、「濃さ」ということですかねえ。




 冒頭、メンバーによって稽古の内容をわけてスタートしました。


 道新メンバーは師匠とともに八段錦や太極拳をやり、われわれ札幌支部メンバーは、師範指導のもと、空手の基本をやったのですが、その合間に、いろいろな動きや技の解説をしていただくわけです。非常に貴重な時間だったのですが、師範から提示されるものは、つくづく肯かざるを得ないようなものばかりでありながら、あとで冷静になって考えてみると、

「その動作を技としてつかおうと思ったら、そうするよりほかにないよなあ」

 と思うものばかりだったのです。



 つまり、突きにしても蹴りにしても受けにしても、その動作が技としての力を有するためには、それ相応のつかい方や理合があります。当然それらはすでに師匠からも伝えられているものばかりではありながら、徹底していなかった面もあり、深く反省しつつも、結局すべての事柄は、とてつもなくシンプルなものばかりなのだと感じるしかなかったのです。ぐうの音も出ないとはこのことで、そこをきちんと見据えられる目と感覚があれば、大きく道を踏み外すこともないだろうとさえ思いました。




 あらかたのことは、もう何度も、実際に、すでに教わっていることなのです。




 空手の基本が終わり、師範に型を審査していただき、道新メンバーからもひとり体道の審査をしてもらったあとで、ようやく全員が合流し、師範主導のもと後半の(メインの)稽古がはじまったわけですが、ここでも裏部長、幸運なことに、師範の受けをほとんど取らせていただきました。流れ上、師範に投げられるだけでなく、師範を投げる場面もあり、なかなか得がたい貴重な体験をさせていただきました。



 この時間のなかで、わたしは幾度となく師範の身体に触れたのですが、そのとき受けた印象はいままでにないものでした。


 以前は、「空っぽ」「人のかたちをした浮き輪」「どこにも澱みがなく、力みもない」という印象があり、ここでもそれを書いてきましたが、今回はまるで違いました。



 師範の身体は、ものすごく「濃かった」のです。




 そりゃね、もともと薄いなんて思ってはいなかったのです。しかし、実際に接近し、実際に触れてみたとき、目のあたりに感じたその濃度は、想像していた以上のものでした。



 そのとき感じたものをそのまま記せば、色は真黒でした。それも、とにかく濃厚な黒。奥を見通してみたくてもまるでわからないほど濃く、粘っこく、深い黒。そのなかに巻きこまれたら最後、きちんと受け身を取らなければ、腕の一本や二本あっという間だなと、今回はじめて感じました。にこやかに笑いながら動いているのだけれど、内部で動いているものは絶妙に残酷なのです


 

 このほかにも、あの二時間ちょっとの稽古でわたしが感じたことはいろいろあって、書いてゆけば長くなってしまうのですが、今夜はこのあたりで終わっておきましょう。



 参加された道新文化センターのみなさん、お疲れさまでした。札幌大学でおこなう稽古へ参加されるのは今回がはじめてで、そこに師範もいらっしゃって、戸惑うこともあったでしょうが、たのしんでいただけたのなら幸いです。

 札幌支部のメンバー、もっと多く参加できなかったのかい。そりゃ忙しいのかもしれませんし、興味が失せちゃったのかもしれないけれど、師範が来てるんだぜ。十年ぶりの来道なんだぜ。顔を出すくらいでも、もっと集まってもよかったんじゃないのかい。




 ともあれ、学ぶことの多い一夜でした。



 師範、ありがとうございました。


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2015年08月22日

向かい風が教えてくれる

 こんばんは。裏部長です。


 先日は、唐突にネガティブ裏部長で失礼いたしました。どうにかもち直し、夏バテにもならず、元気にやっておりますので、ご安心ください。




 
 さて、日々の稽古で大切にしていることといえば、一体感です。技との一体感、人との一体感。空手をやるにしても体道をやるにしても、あるいはそれ以外のことをやるにしても、つねに一体になろうとしている自分がいます。


 もちろん、なぜそう欲するかといえば、一体感が生まれたときに技が上手くゆくからで、違和感や齟齬が点在していると、何をやってもどうにもなりません。身体も心も、どちらもつねにニュートラルでいなければ、どこかでかならずズレが生じます





 札幌支部では約束組手をする際、あまり迅速苛烈な攻防をしないもので、きちんと一本の突き、それに対する受けの動きに集中して稽古をすることが多いのですが、わたしの場合、ほとんどのケースで、相手が後輩になるので、受けているときにすこし余裕ができます。


 ただ受けているだけだと、相手の突きはあたらないし、こちらもほとんど得ることなく、一瞬ですべてが終わってしまうので、こうしたときにこそ、例の一体感を気にするようにしています。




 料理をしていて、何かを煮ていたとして、あるいは揚げ物をする際に油を熱していたとして、求めている温度に達したかどうかを、手をかざしてはかる料理人がいますね。


 あんな感じで、わたしは約束組手のとき、相手と向きあっています。


 言うなれば、


身体をかざす


 というような感じでしょうか。




 受けの場合には、当然ですが、相手が突いてくるから受けるわけで、一時期はそれを顕著におこなおうと、体に接触があってから、その勢いを借りて受けるということをわざとらしくやっていたこともありました。しかし、そこまでしなくても、この質の受けはできるはずなのです。


 身も心も相手にかざして、感じるように立つ


 相手が歩んできて、突きをだす。それを受ける。



 接触があろうがなかろうが、きちんと感じられていれば、きちんとその突きに対する受けになっているし、これの面白いところは、同様の感覚で、こちらが突く際にも応用できるという点です。


 攻撃をするのだから、こちらから一方的に、エネルギーを放出するがごとく突く、では、やはり不完全です。こちらから攻める際にも、当然、相手に身も心もかざしてゆく。相手の家を訪うようにその扉へノックするかのように突きにゆく。すると不思議なもので、入らなかった突きも入るようになったりするのです。





 なんだかこんな風に書くと、いささか大仰なように見えますが、われわれは日常の端々で、この「身体をかざす」ということを、ごく自然に、あたりまえのようにやっているのですね。



 外へ出る。おっ、今日は湿気がすくなくて風が気持ちいいなと感じる。昨日と同じTシャツ姿で家を出た途端に、うわっ、寒っ、もう長袖でいいんじゃんと思う。そんなことが生活のあちらこちらにあり、わたしたちはそのとき、ほとんど一瞬で、風の冷たさ、あたたかさ、やわらかさ、鋭さ、重さ、などを感じて、それに対して感情をもっているわけです。



 わざわざ空に向かって手を掲げなくても、風の質感を、われわれは身体で見つけることができるのです。




 目にも見えない、手にもつかめない風すら感じられるのです。実体があり、見ることも、触ることもできる人体に対してそれができないはずはないし、たとえ接触しなくても、感じることは可能なはずです。




 いつも通りの稽古をいつも通りやっていたって、学べることはあります。それを可能たらしめるのは、ニュートラルな自分です。空っぽで、芯だけを失わない、自分自身だけです




 裏部長でした。

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2015年08月18日

必要なこと(本音編)

 またまた裏部長です。最近の更新のすくなさを取りもどすかのような連続投稿!



 先ほど偉そうにわかったようなことを長々と書きましたが、あのなかに偽りはありません。現に札幌支部においても裏部長においても、そのような意識が芽生えてきているし、面白味も感じはじめています。すこしずつ、世界が広がってゆくような期待感さえあります。


 しかしですね、本音を言えば、わたしはもっと空手をやらねばと感じています。


 もともと空手などとは縁遠いところから師匠のもとへ入門したせいかもしれないし、ただ単に、うちでやっている空手が好きで、もっと上手くなりたい、一本でも納得のゆく突きを出したいなどと考えているだけかもしれませんが、どっちにせよ、まだまだ圧倒的に空手の詰めが甘い気がしてなりません。


 体道も、それ以外の武術も、やはり空手が根幹としてしっかりできていてはじめて習得できるものだと感じています。もし空手があやふやなままなら、それらの技もハリボテのようになって、結局はいつか水泡に帰すような気がしてならないのです。



 いかんなあ。稽古不足なのか、意識不足なのか。まだまだ、いかんなあ。



 来月には、師範が札幌に来られるというのに……。



 ひさしぶりに、ネガティブな裏部長でした
posted by 札幌支部 at 20:31 | Comment(0) | 裏部長の日記

必要なこと(真面目編)

 こんばんは、裏部長です。


 お暑うございます。八月も半ばをすぎ、挨拶としては「残暑お見舞い」の時期に入りましたが、みなさまいかがおすごしでしょうか。

 札幌は夏らしい日がつづき、昨日二週間ぶりに大学で稽古をしましたが、動くほどに汗ばみ、濡れてゆくような夜があるかと思えば、今日などは気温が二十度を下回るという、わけのわからない天候に見舞われています。


 こういうときこそ、たゆまぬ稽古が必要不可欠です。




 前回、空心館において稽古している(あるいは稽古できる)武術の種類を列記し、われわれは知らず知らずのうちにこれほど多くのものを学んでいるのだ、みたいなことを書きましたが、なぜそこまでの量を習得するのか、この点も理解しておかなければいけないと感じました。


 よく師匠は昔の武士を例にあげられますが、これはわかりやすい例で、べつにわれわれも武士道に生きようという外国人受けする思想をもつのではなく、あくまで実践面において武士の生き方を見ると、その稽古量の必要性が見えてくるというものなのですね。



 武士の表看板はやはり刀です。闘うとなれば、刀を抜いて構えあうわけです。だから当然、剣術は稽古しなければなりません。

 しかし、相手と向きあった際、毎回かならず抜刀した状態で構えることができるかといえば、そんな確約はどこにもありません。こちらがまだ抜いていない間に、相手がいきなりということも十分ありえます。

 だから、鞘に入った状態から抜刀し、相手を斬る、あるいは相手の攻撃に対応する術を知らなければなりません。なので、抜刀術、居合術が必要になります。


 さて、剣術と抜刀・居合術を得たところで、刃物はもういいかといえば、まだ十分ではありませんね。長いほうの刀がなかった場合、脇差で闘わなければならないため、このサイズの刀法も知らねばなりません。武士が生きていた当時、つねに大刀を手もとに置いておけるわけではありませんでしたから、シチュエーションによっては短い刃物で対応する必要があります。


 しかし、これを言いはじめると、では刀そのものがなかったら、という状況設定が出てきます。闘っていたときに刀が折れる、飛ばされてしまう、奪われてしまう。可能性はいろいろあるでしょう。しかし相手は武具をもっている。こちらも何かを用いて応戦したい。


 となれば、刀以外の武具の技が必要になってきます。杖や棒、挫、あるいはそれらのサイズで違う素材のもの。師匠が以前、ホームセンターに行くと武器になりそうなものがごろごろしていて、つかえそうなものを自然と目で追ってしまうという話をされていましたが、現代においてはさまざまなものが武具として利用できそうです。


 この展開をつづけると、ではこちらが素手になったら、という話も出てくるでしょう。よって、柔術がほしい。投げ、押さえ、関節技を極める。できれば、素手でこちらから攻撃する術もほしい。われわれであれば、そこに空手がいてくれるのでたいへん助かります。



 こんな風に、ありとあらゆる場面に対応できるようにと考えると、特殊なものでない限りは、やはりひと通りで習得しておかなければ、武術家としては不十分である、という話は説得力をもちます。現代のほとんどの格闘技や武道は、それ単体でルールをつくり、みんな同じ状況下で向かいあうため、ひとつのスキルを磨いてゆけばよいのですが、こと武術ということになるとすこし複雑になってくるわけです。


 何が複雑かといって、上記に書いた武術の大まかな種類は、単にそれをつかえるようになることが目的ではないのです。相手にその技で打ちかかられたとき、それへ対応できる自分をつくるために、つまり防禦の立場で処理できるようになることが目標なのです。刀で相手を斬ることができる、は第一段階で、そんな刀で斬りかかってきた相手を制するための受けの技、ここへ到達することがわれわれの第二段階なのです。



 いま“われわれの目標”と書きましたが、これはあくまでうちの師匠のもとではということです。空心館全体でも同様のスタンスなのかもしれませんが、詳しく確認を取っていないので、一応こう書いておきます。




 師匠が以前、稽古のなかで話していました。約束組手をしていて、自分と同等かあるいは下のレヴェルの人間の突きはなかなか当たらないのに、自分よりも先輩の突きはあたってしまう。それはなぜか。


 それは、その人のなかに相手の突きと同等のスキルがないから。相手と同じレヴェルの突きがつかえれば、その速度、角度、鋭さ、重さなどが自分の感覚のなかに定着しているので、対処できる可能性がある。しかし、自分のなかにそれがない場合、感覚としてわかっていないから、見当をつけて動くしかなくなるわけですね。あるいは力技で対応するしかなくなってしまう。しかし、うちでは相手の突きを受け入れるというスタンスを崩すことはありません。だからほとんど場合、入ってしまうのです。



 これが武術全般に言えるのですね。相手の攻撃に対処するためには、その攻撃を知らねばなりません。もちろん、ただ知っているだけではなく、自分もそれができなければ意味はない。だから、何だかんだで、あれだけ多くのことを学ぶ方向へ進んでゆくのです。


 こういった実技面での話があると、武士でなくてもさまざまなことを稽古しなければならないという気になってきますし、また実際に武具の技などをやってみると、当然ですが、素手の技のなかにはない怖さや迫力、術理があり、感心することしきりです。


 
 武術を武術としてやらねばなりません。稽古あるのみです。
posted by 札幌支部 at 20:17 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年06月06日

息を吐ききっているか

 こんばんは。裏部長です。


 すっかりご無沙汰をしております。季節は春から初夏へと移り変わり、われわれ札幌支部も、長年つかっていた1001教室から2006教室へと稽古場所を替え、日々汗を流しています。


 札幌はまだ暑いということはなく、さわやかな日がつづいています。本州では真夏のような暑さの上、地震なども起きていますが、みなさま元気でおすごしでしょうか。






 さて、先日のことです。



 ラフィラでやっている古武術講座の受講生の方が、こんな質問をされました。


知人に、どんなことを稽古しているのかと訊かれて、答えに困ってしまうのですが、何と答えたらいいですかね?


 ごもっともな質問です。空心館で長く稽古している人であればあるほど、この質問は難敵です。



 まあ、古武術講座においてはさほど空手は濃くやっていないし、基本的には体道メインの稽古なので、そのまま「体道をやっています」が正解だし、もっと大きく言えば、「武術をやっています」と答えるのが、無難かつ正しいところかと思います。



 しかし、重ねてその方は、


「流派を訊かれた場合は?」


 とおっしゃったので、この場合は仕方ない、実際にこれまでやってきた体道内の流派を言うしかありませんね、とわたしは答えました。できれば、体道というものを説明した上で具体的な流派名に話が進むのが理想的なのでしょうが、なかなかそこまでの労力を強いることはできませんので、あっさりと、この程度の返答で済ませてしまいましたが、この日のそんなやり取りが不思議と、わたしの胸に何日か残りました。



 そして、ふと考えたのです。



 われわれはいったい、どのくらいの武術を稽古しているのだろうかと。




 この場合、空心館において、というよりは、うちの師匠のもとで(札幌支部において)稽古できる武術はどのくらいあるのか、ということです。分類の基準は、「〜術」というふうに名乗れるもの、という単位で考えます。


 するとですね、ざっと、十項目あがってきたので、下に記してみます。


 1、空手
 2、柔術
 3、捕手術(挫術)
 4、杖術
 5、短杖術・半棒術
 6、棒術
 7、剣術
 8、抜刀術・居合術
 9、分銅や鎖など。
 10、太極拳など。


 こんな感じです。


 これまで裏部長が札幌支部において実際に習った技や、見せていただいたものを振りかえってみると、だいたいこの十項目におさまります。なお、ヌンチャク、トンファ、サイ、棍は空手に含みます。



 実際にこれらの技を稽古している人間には、上記のようなリストをつくること自体、あまり意味はないかもしれませんが、これだけのことを教われるんだ、稽古してゆけるんだと思うと、すこしうれしいのです。個々の技の数にしたら膨大な量になるものの、それらすべてで空心館の技というのは成り立っているのだと考えると、なんだか気合いが入るというか、ほどよい緊張を感じられて、日々に張りが出てくる気がします。






 さてさて、話題は変わりますが、最近ある方の稽古録のようなものを読みました。



 この方は、ある業界では泣く子も黙る大御所中の大御所なのですが、その武術稽古についてはここ十年ほどのことらしく、わたしが読んだのは、その方が稽古の内外で自分の師匠から受けた教えやことばを記した文章です。とても読みやすく、そして気持ちが澄んでゆくような内容でした。


 こんなことをわたしが言うのはほんとうに失礼で生意気だとは思うのですが、あれだけの位置にいらっしゃる方が、これほどまでに真面目に、真摯に武術と向きあって、考え、悩み、発見や成長に一喜一憂するさまは初々しくさえあり、微笑ましいものでした。ふだんそのような類の文章をまったくと言ってよいほど読まなくなったせいか、よけいに感動があったのかもしれません。



 その方は稽古のなかで、ただひたすら自分たちがやっている型と向きあいます。あれこれと考え、思い悩み、そこへ投げこまれた師匠のことばでまた揺れ動き、そしてある日突然、「なるほど、そういうことなのか」となるわけですが、この型と向きあう過程で何度も出てくるのが、


身体の声を聴く


 という表現です。



 これ、「技の声を聴く」でも間違っていない気がします。つまり、ふだんわれわれがやっていることと何ら変わりないことなのですが、それはそんなふうに、違う方面でやってらっしゃる方の文章で触れると、再発見というか、再認識というか、そうだよなあ、それがいちばん大事なんだよなあという気持ちにさせられます。




 武術の技はストレッチなどの運動とは違い、相手がいることです。その動作を通じて相手に力を伝え、崩したりダメージをあたえたりしなければなりません。また、そう動く身体にならなければなりません。


 しかし、たとえば体道の技で、相手がこちらの手首をつかんでくる、胸倉をつかむ、袖をつかむ、そういった瞬間に、触れた相手の指や関節から、「あっ、緊張してるな」とか、「ちょっとイライラしているのかな」とか、逆に、「こちらからのアプローチを待っているのかな」とか、そんな心身の状態がわかってしまう。


 以前、師範の身体をつかんだときに、人のかたちをした浮輪に触れているかのようなイメージを得たということを書きましたが、そんなことを感じることができるというのは、相手とひとつになっているから、あるいは、ひとつになろうと自分のドアをオープンにしているからであって、そのような状態になっていないと、とても技や身体の声を聴くことはできないと思うのです。


 
 そんなふうな状態に自分の身体がなっているとき、技をやるときまって、自分ではなく相手の身体の状態のことしか自分の身体のなかには残りません。自分の腕を手をどうしようかではなく、相手の身体がどう崩れてゆくかだけがこちらの身体のなかに上映されるわけです。だから、そんな状態をもっと研ぎ澄ませて、豊かにして、それを率直に言い表せば、「崩した」「投げた」「突いた」ではなく、「そうなった」だけになってしまう。


 この領域の第一歩として、「身体(技)の声を聴く」−「自分を空っぽにする」ということがあるようにわたしは考えています。



 しかしそのためには、自分のなかにあるさまざまなこだわりを排さなければなりません。悟るために煩悩を捨てるみたいな話で、だからこれはなまなかなことではありません。そうしなさい、ハイわかりましたとできることではないわけです。



 でも、だからこそ稽古をする。だからこそ、日々稽古をつづける。そういうことなのでしょう。



 感じる心身がなければ、どんなに感動的な映画を観ても泣けません。笑える漫画、怖い小説、怪しげな舞台を見ても、心は動いてくれません。



 あの十項目のリストにある膨大な量の技も、その心身がなければただのテキストです。教わった、知っている、憶えている、というだけの、ただの知識です。




 焦らず、勇気とともに、まず深呼吸。


 そして、ゆったりと最初の一歩を。
posted by 札幌支部 at 20:51 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年03月15日

 こんばんは、裏部長です。

 
 すっかりまた更新が遅れておりますが、わたしを含め、札幌支部の面々は元気に活動しています。以前は火曜日と金曜日だったのが、昨年の十二月から、火曜日の稽古を月曜日に移しまして、装いも新たにおこなっております。最近ではわれわれのほかに、師匠のご子息などが参加される少年部、師匠の奥さまなどが集う婦人部ができ、いろいろ賑やかにやっています。



 ただ、みなさん忙しいのか、珍しいことに、今週はほとんど大人のいない稽古だったようです。斯く言うわたしも今週は行けずじまいで、昨日の武道場稽古へ顔を出したら、少年部のメンバーが教えてくれました。年度末ということで、みなさん大変なのでしょうね。ここ数箇月はすっかり盛況だったため、ほとんど大人が集まらない稽古というのはほんとうに久々のように感じます。



 そうそう。昨夜の武道場稽古も同様で、少人数の婦人部、少年部を除くと、なんと裏部長ひとりだけでした。六時からはじめて、少年部も婦人部も、七時半には切りあげるから、それからの一時間半ちょっと、わたしと師匠のふたりきりで、ひさしぶりに濃い稽古をつけていただきました。



 その内容たるや、とてもここに書ききれるものではないけれど、爽快感さえおぼえるほど、濃密な時間でした。大人数の稽古者がいると、賑やかで、たのしくて、また内容に幅が出るのでそれはそれで有意義だし、後輩たちの指導をすることも稽古のうちですが、やはりああして、いまの自分のレヴェルで教えを受けるということは、芯に響きます。そして、改めて、稽古をするということの重要性を確認させられます。



 裏部長は最近、この稽古をすることの意味みたいなことを考えます。

 

 技はつかえるようになりたいし、もっと深く理解をしたいとも思いますが、それは稽古をする過程で生まれる副産物であって、あくまでも結果です。何時間もかけて旅をし、行きついた旅館でゆったり温泉につかる、その温泉です。長い旅路があり、慌ただしいやり取りや風景や、はじめて口にする料理などがあったからこそ、その温泉は貴重な思い出になるのであって、いきなりポンと温泉だけ出されても、感動もへったくれもありません。



 よき師のもとでたのしく稽古ができている。その何と健全なことか。






 あと半月もすれば四月です。


 札幌の路面の雪は、もうほとんど解けました。


posted by 札幌支部 at 19:02 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年01月30日

本日の稽古

こんにちは、裏部長です。


本日の稽古ですが、急遽仕事のため参加できなくなってしまいました。申し訳ありません。


なので、お休みにしようかと思ったのですが、来たメンバーで稽古するのは構わないので、一応今日は自主練習の日ということにさせてください。


よろしくお願い致します。

posted by 札幌支部 at 16:19 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年01月01日

一輪の花から

 あけましておめでとうございます。裏部長です。



 2015年の幕があきました。


 本年も、みなさまにとって実り多き一年であるよう、心よりお祈り申しあげます。





 元日の札幌はよく晴れております。気温は低く、初詣の際にはあまりの寒さにかじかんで、おみくじをひらく手に力が入りませんでしたが、こういう気候のときこそ、天から降りそそぐ陽光がありがたく感じられるというものです。




 昨年末には(というか昨日ですが)、いささか攻撃的なことを書いてしまいましたが、結局のところ、自分が「傍観する人」ではなく「実践する人」として生きられる場所こそが真実であり、そこで自分だけの花を咲かせることができればよいのですね。




 気高く、華麗で、棘がある、そんな表現者になりたいと言った芸人がいました。


 自分たちは所詮、陰生植物だと言った小説家がいました。





 咲かせる花は人それぞれ――。





 今年もよろしくお願いいたします。




posted by 札幌支部 at 14:48 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年12月31日

明日へのインプット

 こんばんは、裏部長です。






 ある稽古の最後に、こんな話を聞きました。



 それは、師匠が学会で目にしたものだというのですが、イタリアで、両腕を失った男性に、事故で脳死状態となった別人の両腕を移植するという事例があったそうです。これはもう移植という次元を超えています。リアル・フランケン状態。映画のなかのような話です。


 もちろん、腕そのものはくっつくでしょうが、なかの血管まで結わいつけたとしても、神経そのものが通わなければ何の意味もありません。



 そこでおこなわれたリハビリは、とてもシンプルで、だからこそ興味深いものでした。



 とにかく、その移植した別人の手の指先でいろいろなものを触るだけだというのです。さまざまなものに触れて、それを正しく感じるということだけをするというのですね。もちろん物が違えば、大きい小さい、硬い柔らかい、冷たい熱い、いろいろな感じ方があるわけで、それをひたすらくりかえすリハビリ法だったというのです。


 こんなことをやりつづけていると、すこしずつ神経が通いはじめ、きちんと感じられるようになるというのだから、人間の身体というのは不思議なものです。そして、その師匠が目にした事例では、完全に神経が活きて、患者さんはナイフとフォークで食事をすることも、自分の子供を抱きあげることもできるようになったというのです。


 恐ろしさと微笑ましさの入り混じったエピソードで、それを聞いたときは裏部長もことばがありませんでしたが、師匠がそれを、「いかに相手を受け入れるかという、われわれの武術のスタンスに相通ずるものがある」と話を転じるにおよんで、深い感動を味わうことができました。




 そうなのです。そのものを、正しく、素直に感じて、受け入れるということの重要性。これこそが今年の大きなテーマであったような気がします。師匠不在時に散々書いてきた「相手とひとつになる」というあの話題もそうでした。


 この感覚と意識が明確になってゆくにつれて(もちろん現在も十分ではないわけですが)、技や動作そのものに対する見え方が違ってきて、これまで気づけなかったことも感性のネットに引っかかるようになりました。






 その上で、今年、裏部長が発見したことのひとつが、これです。



武術をやっている人のなかにも、素人と玄人は存在する





 それでお金を取っていれば玄人、とか、キャリアの長短、武術家としての意識の高低などによって判断できるような、そういった意味の素人玄人の話ではありません


 本質的、根源的に、武術の玄人になれない(あるいは素人の域から脱することのできない)人が世のなかにはいて、それらのことについて自覚していない場合が多い、ということです。それが、武術をやっている人のなかにもいるので厄介なのです。




 簡単に、武術以外で例をあげれば、歌舞伎ファンという方がいらっしゃいますね。年間に何度も歌舞伎座へ行ったり、本やらDVDやらも大量に揃えて、演目や役者の家系や公演スケジュールを把握して、それ中心に一年を送っているような人がかなりの数いらっしゃいます。それは単なる演劇ファンの域におさまらず、すでに没した名優たちの過去の演目についても熱く語れるような、ある種のマニアの方々です。


 こういった人たちはたしかに詳しい。演目や出演者や年代のことを細かく憶えていて、それが湯水のように出てくる。話しはじめたら止まらない。愛情もあるし、情熱も傾けている。


 しかし、だからといって、こういう歌舞伎マニアの方たちが、実際に自分でも歌舞伎ができるかというと、決してそうではありません。あたりまえですが、観るの専門で、演る専門の人ではないのですから。



 こういった根本的な姿勢は、求める対象の内容にも影響します。



 たとえば、昔のある歌舞伎役者は声がとてもよく通った、それは歌舞伎座の外にまで届いて、だから向かい側にあるお店では、その声を聞いて、いまどの幕をやっているかがわかったというエピソードがあります。それだけ遠くまで通る発声を身につけることが、武術でいえば技を身につけることと同義だったわけです。


 このエピソードを前にしたとき、歌舞伎マニア(素人)と歌舞伎役者(玄人)の反応はふたつにわかれます。素人の方は、「それはすごい」と感嘆するでしょうが、玄人は違います。なぜなら、彼らは実際に自分でそれをやらなければいけない立場だからです。できるかできないか、あるいは、どの程度の深さでそれができるか、が勝負なのであって、手離しで感嘆することはありえないのです。




 同じことはすべての業界に言えます。




 電車マニアは、自分の愛する電車や路線については異常なほど詳しく知っているが、自分で車輌を運転することはできない。アイドルの追っかけは、すべての歌の振りつけを憶えているが、彼女たちほどかわいく魅力的には踊れない。落語ファンは好きな噺を諳んじていて、話そうと思えば話せるが、こういったお素人衆が得意になって演る落語ほどぶざまなものはない。本業の噺家がもっとも軽蔑する類のものである、云々。




 つまりね、武術という世界のなかにいて、いまも実際に何かをやっている人であっても、本質的に、歌舞伎役者ではなく歌舞伎マニアの域を脱することのできない人がいるのです。本人は武術に対して真面目で、情熱があって、懸命にアプローチしているのですが、残念ながら、「やる人」ではない武術を「たのしむ人」「好きな人」ではあっても、「実践する人」ではない




 こういった人たちには、たとえば稽古のなかで、師匠が技の解説をしたときなどにも特有の反応が起きます。



 それは、歌舞伎の発声と同じ話で、われわれ実践する側の人間は、それが出来るか出来ないかが問題であって、もちろんその前には、理解できるかできないかの段階があるわけですけども、結局はやれるようになりたいので、反応はおのずと、「いずれは自分もそれをやる」という側に立ったものになります



 しかし、本質的に素人の方は、師匠とその教えとを、自分の外に放置してしまうのです。つまり、自分がそれをやる、あるいはやりたいという視点がゼロで、客観的に、その教えや技を分析しはじめるのです。美術館で、かかっている油絵を他の客と同じように眺めているようなものです。その絵のなかに入る、もしくはその絵を描く張本人にならなければならないのに、自分だけを蚊帳の外に置いて、傍観してしまうのですね。



 だから、本質的素人は、武術に対してあまり切実さをもっていない気がします。武術の技そのものを、ただたのしんで見ていられる。自分ができるかどうかが関係ないから。その技がすごければ「すごい!」と言い、スピード感にあふれていたら「速い!」と驚くだけで、そこと自分とをつなげようとは思わない



 それが、いまも実際に何かの武術や武道をやっている人のなかにもいるのです。



 もちろん、能力やキャリアの違い、腕の差といったものもあるでしょうし、長くやっていなければ気づけないこともあるので、若いころは青くて当然だと思うのですが、それでも、本質的に「武術をやる人」は違います。それは、札幌支部で十年間、いろいろな人を稽古の場で見てきた上でそう感じます。


 みなさんは、どう思いますか。






 最後の最後に、すこし堅苦しいことを書いてしまいました。お許しを。


 それではみなさま、よいお年を。
posted by 札幌支部 at 17:25 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年12月28日

黒白

 おはようございます。裏部長です。




武術に対する姿勢が硬すぎる

 と、先日の記事で書きましたが、その原因はよくわかっているのです。



 いきなり話は飛びますが、わたしは『AIKI』という日本映画が好きでした。大東流合気柔術と出逢う青年のお話です。映画としてはあまりレヴェルの高くない作品でしたが、師範とその青年との関係がなんとも好ましく映り、ひそかに憧れてもいたほどです。


 ひとことで言えば師弟関係ということなのですが、江戸時代然とした堅苦しいものではなく、一定の礼儀や尊敬は保ちつつも、日常のなかにある稽古と、それを通じて交わされる絆のようなものがこの映画にはあって、何度も言いますが映画としてはいまひとつだったものの、好きな作品のひとつでした。



 この映画を観た二年後に、わたしは師匠と出逢いました。その技に触れ、そして師事することを決め、あの日からもうちょっとで十一年が経とうとしています。



 思えば、紆余曲折ありながらも、この十一年間は師匠の技や武術に対する考え方などを学ぶ日々でした。それまで合気道などの経験はありながらも、空手に関してはずぶの素人で、右も左もわからなかったのだからそれはあたりまえのことで、また、この人を師と仰ぐ以上、考え方から何から、できればすべてを吸収したいと思うのは当然の成り行きです。むしろそうしていない人は弟子失格でしょう。



 だからひと筋にやって来たし、これからもその姿勢は変わりません。


 いや、今後新しい変化に対応してゆくためにも、変えるべきではないと思うのです




 現在の札幌支部にはさまざまな稽古者が集っていて、その年齢もまちまちですが、みなさん熱心で、純粋に稽古をたのしんでいて、これまでにはなかった様相を呈していますが、その参加者のほとんどが武術経験者で、なかには現在も継続してやってらっしゃる方もいます。少年部のメンバーや、太極拳などを習いに来られている婦人部の方たちを除いて、空心館一本でやっているのは裏部長と部長くらいなものではないでしょうか。


 好奇心が旺盛でなければ新しいものには出逢えず、また新たな発見もない。ならば、そうして空心館以外にも貪欲に活動し、他流派の武術に触れ、見識を広げることは間違いではないと思います。それで、武術に対する理解が深まるのなら何を否定することがありましょうか。



 しかし、わたしが信じているのは、厳然たる事実です。


その時間内に、掘れる穴の深さは決まっている



 いまスコップをもって、目の前の地面を掘ってゆくとします。ある人はとにかく一点に目標を決めて、もてる体力や時間をすべて費やしてその点のみを掘ってゆき、またある人はいくつかポイントを決めて、それらを同時進行的に掘り進めてゆくことに。修業とは、高みに登ってゆくイメージもあれば、こうした深さを感じるものでもあるような気がします。


 もしその人が五つのポイントを選び、順々に掘っていったとして、その穴の深さはどうなるでしょうか。たしかに数は掘れるでしょう。しかし、みな同じ深さです。費やせる時間や体力には限界があるのです。「いつも120%の気合いでがんばります!」と意気こんでみたところで、掘れる深さは決まっています。


 ひとつの穴に絞った人はどうでしょう。


 言わずもがなですね。あの人が懸命にいくつもの穴を駈けまわっているあいだに、ひとつの穴を何十メートルも掘り進めることができました。




 これ、以前にも書いた話かもしれません。重複していたら、ごめんなさい。




 単純な道理です。もてる力を一点に集中したほうが深く掘りさげることができる。人間はロボットではないし、コンピューターのような処理能力も有していません。寝たり食べたりしなければ活動できない、理解するにも会得するにも、いろいろと時間のかかる厄介な生き物です。


 そんな人間であるわれわれがすることです。自然、限界と限度があります。




 もちろん、多くの穴を掘ることがいけないわけではありません。しかし、裏部長の信念を中心に置くならば、いくつかの穴を巡りながらも、片やで深い穴をひとつもっておくべきでしょう。そして、その穴をさらに深く掘り進めることにすべての力を費やすべきでしょう。


 地面を深く掘ってゆけばいろいろなものに出くわします。水が出てきたり、硬い岩盤にぶつかったり、鉱物が見つかったり、ときには石油や化石が発見されるかもしれません。それは深く掘りさげた人にしか見えないもので、地上にいる人間がいくら創造力をかきたてて想い描いても、片鱗にすらたどり着けない、ある種の異世界です。実際にそこへ行った人しか目にすることが叶わない世界なのです。



 だから、修業という以上はそこを目指したいし、ひとつの穴を深く掘りさげて、そういったものに一度出逢っておけば、違う穴を掘る際にも大いに役立ちますね。まったく同じというわけではないでしょうが、掘ってゆくうちに、ああそうだ、これくらいのときに水が出てくるんだよなあ、そうそう、このへんで岩盤とぶつかって苦労したよ、おおっと、こっちじゃダイヤモンドの原石が見つかったよ、こいつは大発見だ……というふうに、新しい穴を掘ってゆくにもとても好都合なのです。



 逆に言えば、どうしてもそうやっていくつもの穴を開拓したいのなら、一本深い穴をまず掘るべきです。そして、それがある程度の深さになるまでは浮気しない。浅い穴しか掘ったことのない人間が、たとえ河岸を替えたところで、掘れる穴の深さは知れています





 またまた話は飛びますが、最近の裏部長は、街なかを移動するとき、追い突きで歩いています


 もちろんそれは、「あの人はふだん歩くときもナイファンチンだった」「ていうことは横歩きか」「そんなわけあるかい」というあの話と同様で、左右交互に突きをくり出して歩いているわけではありません。おもに腰まわりを追い突きのつかい方(横回転ではなく、いま取り組んでいる縦回転)を応用して歩いているのです。コートなどを着ていると、周囲に怪しまれずにおこなえてとてもたのしいです。


 こうして、日常のなかで技の動きができる、むしろ日常と技とが融合している、という状態になれたのも、ひとりの師につき、ひたすらに信じて稽古をしてきたおかげだと思っています。そして、そのひとつの穴のなかで、技を磨きつづけているからこそ、新しい次元を垣間見ることもでき、外を歩きながら追い突きの身体づかいができるようにもなるのです。





 ある人が言いました。


私は井のなかの蛙だ。大海の広さは知らない。しかし、誰より空の高さは知っている







 ただ、信じることです。




posted by 札幌支部 at 11:24 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年12月26日

磨くこと、そして、信じること。

 こんばんは、裏部長です。


 今年も残すところ、一週間を切りました。すっかり師走です。札幌は今日、昼ごろに大雪警報が出て、先ほども、街なかでホワイトアウトしそうなほどの吹雪になりましたが、いまは落ちついています。


 過酷な季節になって参りました。みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 
 すっかり更新が滞っていましたが、札幌支部も裏部長も元気に活動しております。今週の月曜日に札幌支部としての稽古が終わり、水曜日で道新文化センターの講座も終わり、一段落といった感じです。



 前回の記事で、もう今年の総括のようなことはしてしまったので、とくにまとめることもないのですが、あらためて書けば、今年は裏部長にとって、

「武術の多様性を学ぶ一年だった」

 と言えます。



 一月と六月に栃木の本部道場にお邪魔し、師範をはじめ、お馴染みのみなさまとの稽古があり、七月には名古屋の稽古にも寄せていただき、数年ぶりのM田さんとの再会、そしてT技術顧問との初対面など、目まぐるしい一年でしたが、それらの出来事を通して、深く反省したのは、

武術に対する姿勢が硬すぎる

 ということでした。



 もっと柔軟に、もっとニュートラルに、また今年の流行に沿って言えば、もっとありのままに、素直に武術と向き合い、稽古が出来るようになれば、きっといまの何倍も面白く、また何倍も深いところへ行けるような気がしました。すでにその先へと行ってしまっている先達たちと直接触れあえたことがとてもよい刺戟になりました。



 空手の突きひとつ、体道の技ひとつからもう一度見直し、決めつけることなく、いい気になることなく、真摯に稽古をしてゆくことの必要性をこれほど感じた年はありません。よい体験でした。



 

 ……と、かなり優等生な発言をしてしまいましたが、これ以外にもあれこれと感じたことはあります。そのほとんどは、誰かから教わったというより、自ら直面するなかで感じ取ったもので、これらのことについてはまた後日、あらためて書きに来ます。



 とりあえず、今日はここまで。


 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 20:19 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年10月28日

本日の稽古

こんにちは、裏部長です。


本日の稽古ですが、師匠不在の上、わたしも仕事の都合がつかず、参加できなくなってしまいました。


なので、大変申し訳ありませんが、今日はお休みにさせてください。



よろしくお願い致します。

posted by 札幌支部 at 13:17 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年10月26日

満足するには早すぎる

 おはようございます。裏部長です。ご無沙汰をしております。



 十月もあと一週間ほどで終わり、今年も残すところ二箇月となりました。思いかえせば、今年は一月に単身栃木へゆき、六月には札幌支部として本部道場へ遠征、翌七月には名古屋での稽古に参加し、技術顧問のTさんや奈良支部のM田さんとお会いすることができました。栃木のY師範代とTくん、猛獣Mさんとは二度、師範とは年に三度もお会いしたのは今回がはじめてです。


 裏部長としては、なんとも不思議な一年でありました(まだ終わっていませんが)。




 
 夏が終わり、秋が来て、そして北海道ではもう冬の便りです。今週の火曜日の天気予報に雪のマークがつきました。身にしみる寒さがすぐそこまで迫ってきています。






 さて、札幌支部では、以前までよく顔を出していたメンバーがあまり来られなくなり、淋しくなったかなと思いきやそれと行き違うように、また新たなメンバーが参加するようになり、さらに新たなメニューも出てきて、それなりに賑やかです。



 新しい人が入ってくると、うちでやっている武術の大前提とでも言うべき、ごく基本的なことから説いてゆくわけですが、それを耳にすることは、長く稽古している人間にとっても有意義なことで、あらためて日々の自分を反省させられる想いです。





 たとえば、師匠がよく言われる「物差しの目盛り」の話。攻撃の技をプラスとするならば、防禦の技はマイナスであり、プラスがひとつ増えれば、同時にマイナスもひとつ増えるはずで、どちらかに偏るべきではない。また稽古の進め方として、体道のように、ごく単純に、技数を増やしてゆく(定規の長さを伸ばしてゆく)方法のほかに、ひとつの目盛りを半分に、三等分に、さらには十分割、二十分割してゆく(一センチを一ミリ刻みにする)方法もある。



 空心館で空手と体道を同時進行で稽古していれば、黙っていても技数は増えてゆきます。空手の型も、体道の技も、すぐに大台を突破します。またそれらの技はつねに攻防一如であるため、上記の物差しの話でいえば、プラスの方向にもマイナスの方向にも、瞬く間に広がりが生まれることになります。




 一方で、師匠はよく成長のプロセスを「螺旋階段」に例えます。各段階で直面する課題は、じつはつねにループしていて、白帯のころに取り組んでいたことを次のレヴェルでおこなうのが茶帯で、同じ題材をより高い次元で体現しようとするのが黒帯だ、というように、まるで螺旋階段をのぼるように成長してゆく。だから、たとえ同じ追い突きという技においても、段階が違えば、生まれる感覚も見えている景色もまるで違う




 さらに、すでに習った技でも、成長の過程においては感じ方がすこしずつ変化してきて、教わった当初は想像すらしなかった軽さ、重さ、怖さ、鋭さ、一体感などを、もう何年も前に習った技のなかで見出すことができる。だから、入門してすぐに教わった天心古流拳法の技などを稽古していても、いまだに新しい発見がある(この場合の発見とは、技法的なことではなく、あくまで感覚的なことです。つまり、技の外見は変わらず、結末も同一ながら、それを実践している自分の内面が変化している、ということです)。





 プラスとマイナスの両方向へ無限に広がる線路の上に、天をつくような、どこまでも伸びる螺旋階段があり、また地上に刻まれた技のさらに奥には、表面的な理解しか求めていない人には存在すら目にできない、地下の世界が多種多様に展開されている


 いささかSF的な発想かもしれませんが、その世界観は、まるで架空の世界の武術の王国です。ごく一部の人しか訪れることのできない、時の砂に包まれた異次元の世界。そこで、さらに創造性をもって武術と向き合い、既存の技をさらなる高みへもちあげようとする先導者のあとを、われわれは追いかけているわけです。





 途方もない旅ですが、これをこそ旅だと定義するなら、旅人はそう多くはいないはずです。武術の王国の存在すら信じられない人に、いくらこと細かくその情景を説明しても信じてもらえないでしょう。見えない人には一生見えない世界なのです。だからこそ、たとえかすかにではあったとしても、その片鱗が見えたのなら、全力で追いかけるべきだと、裏部長も最近になってようやくそう思えるようになりました。





 いま見えているゴールは、まだゴールではない。



posted by 札幌支部 at 11:40 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年08月12日

足あとを見れば

 こんばんは、裏部長です。


 お盆、または夏休み、いかがおすごしでしょうか。





 去る七月二十日、名古屋でおこなわれた体道稽古に、師匠&ご子息とともに参加してきました。まだ梅雨の明けきらぬ名古屋ということで、暑さや湿気を恐れていたのですが、存外それほど気温も上がらず、涼しくはなかったけれど、体調を崩すことなく身体を動かすことができました。



 名古屋には体道を稽古されている道場が二箇所あり、月に一度、そこへ栃木から師範が教えにゆかれるというので、今回はそのタイミングにあわせて札幌から参加したわけなのですが、奈良からは奈良支部のM田さんが来られ、また初対面となるT技術顧問もいらっしゃるというので、いろいろと初もの尽くしの一日でした。






 まず、名古屋のみなさんへ。


 急な参加、失礼いたしました。師匠にくっついて、何だかあたりまえのような顔をして現れてしまいましたが、現地のみなさんには現地のみなさんの、日常の稽古があり、そのなかには各自検討したり取っ組み合ったり閃いたりする課題があって、それらの壁に挑むための貴重な時間と空間のはずなのに、そこへわれわれが闖入することで、したいことができず、不完全燃焼を起こさせていたとしたら、すみません。


 わたしも、ふだんの稽古には自分なりの課題なり想いなりをもって参加し、通常のメニューをおこないながら、自分と向き合うことを必要としているので、すこし申し訳ない気持ちがありました。邪魔をしていなければ幸いです。





 T技術顧問へ。


 稽古をつけていただき、ありがとうございました。T技術顧問の提示される技は、何もかもが新鮮で、特異で、異形でした。根から不器用な裏部長は、即座に呑みこんで咀嚼できるわけもなく、ただ茫然と見ていることしかできませんでした。初対面の自分に、なごやかに、真剣に接してくださり、ありがとうございました。





 M田さんへ。


 何だかんだで、直接触れあう稽古をする隙間はありませんでしたが、数年ぶりの再会にもかかわらず、あれだけ気楽に話すことができ、リラックスして夜まですごせたのは、M田さんがそういう空気をつくってくれたからだと思っています。また、車中で伺ったお話からはいろいろなことを学べた気がします。それだけでもじゅうぶん、わたしにとっては勉強になりました。ありがとうございました。






 師範には、六月に栃木でお会いして以来、一箇月ぶりの再会で、今回も技をかけていただき、受けを取らせていただきました。


 その合間合間、師範はそこに意味や示唆を含ませての発言だったかもしないし、逆になんの教えでもなく当然の指導をされただけかもしれませんが、いくつかのことば、そしていくつかの動き(あるいはその瞬間)から、何個か感じとれるものがありました。


 二箇所目の道場で、師範が模範を見せ、師匠が指導し、そしてわたしが受けを取るというような、貴重なローテーション現状も見られ、またそこで稽古をされている方たちのくだけた雰囲気がなんとも心地よく、たのしく汗をかくことができました。


 いつもありがとうございます。






 今回の名古屋行で感じたことはいろいろとありましたが、いまはまだ自分のことばになっていないので、ここに記すことはしません。


 ただ、ひとつ明らかなのは、


武術の多様性を知った


 ということです。





 得たい境地は同じかもしれないが、そこへ向かう道は幾通りもあって、一様ではない。



 そんなことを感じられた一日でした。





 お世話になったみなさまに感謝申しあげます。



 ありがとうございました。



posted by 札幌支部 at 19:42 | Comment(1) | 裏部長の日記