2015年08月18日

必要なこと(真面目編)

 こんばんは、裏部長です。


 お暑うございます。八月も半ばをすぎ、挨拶としては「残暑お見舞い」の時期に入りましたが、みなさまいかがおすごしでしょうか。

 札幌は夏らしい日がつづき、昨日二週間ぶりに大学で稽古をしましたが、動くほどに汗ばみ、濡れてゆくような夜があるかと思えば、今日などは気温が二十度を下回るという、わけのわからない天候に見舞われています。


 こういうときこそ、たゆまぬ稽古が必要不可欠です。




 前回、空心館において稽古している(あるいは稽古できる)武術の種類を列記し、われわれは知らず知らずのうちにこれほど多くのものを学んでいるのだ、みたいなことを書きましたが、なぜそこまでの量を習得するのか、この点も理解しておかなければいけないと感じました。


 よく師匠は昔の武士を例にあげられますが、これはわかりやすい例で、べつにわれわれも武士道に生きようという外国人受けする思想をもつのではなく、あくまで実践面において武士の生き方を見ると、その稽古量の必要性が見えてくるというものなのですね。



 武士の表看板はやはり刀です。闘うとなれば、刀を抜いて構えあうわけです。だから当然、剣術は稽古しなければなりません。

 しかし、相手と向きあった際、毎回かならず抜刀した状態で構えることができるかといえば、そんな確約はどこにもありません。こちらがまだ抜いていない間に、相手がいきなりということも十分ありえます。

 だから、鞘に入った状態から抜刀し、相手を斬る、あるいは相手の攻撃に対応する術を知らなければなりません。なので、抜刀術、居合術が必要になります。


 さて、剣術と抜刀・居合術を得たところで、刃物はもういいかといえば、まだ十分ではありませんね。長いほうの刀がなかった場合、脇差で闘わなければならないため、このサイズの刀法も知らねばなりません。武士が生きていた当時、つねに大刀を手もとに置いておけるわけではありませんでしたから、シチュエーションによっては短い刃物で対応する必要があります。


 しかし、これを言いはじめると、では刀そのものがなかったら、という状況設定が出てきます。闘っていたときに刀が折れる、飛ばされてしまう、奪われてしまう。可能性はいろいろあるでしょう。しかし相手は武具をもっている。こちらも何かを用いて応戦したい。


 となれば、刀以外の武具の技が必要になってきます。杖や棒、挫、あるいはそれらのサイズで違う素材のもの。師匠が以前、ホームセンターに行くと武器になりそうなものがごろごろしていて、つかえそうなものを自然と目で追ってしまうという話をされていましたが、現代においてはさまざまなものが武具として利用できそうです。


 この展開をつづけると、ではこちらが素手になったら、という話も出てくるでしょう。よって、柔術がほしい。投げ、押さえ、関節技を極める。できれば、素手でこちらから攻撃する術もほしい。われわれであれば、そこに空手がいてくれるのでたいへん助かります。



 こんな風に、ありとあらゆる場面に対応できるようにと考えると、特殊なものでない限りは、やはりひと通りで習得しておかなければ、武術家としては不十分である、という話は説得力をもちます。現代のほとんどの格闘技や武道は、それ単体でルールをつくり、みんな同じ状況下で向かいあうため、ひとつのスキルを磨いてゆけばよいのですが、こと武術ということになるとすこし複雑になってくるわけです。


 何が複雑かといって、上記に書いた武術の大まかな種類は、単にそれをつかえるようになることが目的ではないのです。相手にその技で打ちかかられたとき、それへ対応できる自分をつくるために、つまり防禦の立場で処理できるようになることが目標なのです。刀で相手を斬ることができる、は第一段階で、そんな刀で斬りかかってきた相手を制するための受けの技、ここへ到達することがわれわれの第二段階なのです。



 いま“われわれの目標”と書きましたが、これはあくまでうちの師匠のもとではということです。空心館全体でも同様のスタンスなのかもしれませんが、詳しく確認を取っていないので、一応こう書いておきます。




 師匠が以前、稽古のなかで話していました。約束組手をしていて、自分と同等かあるいは下のレヴェルの人間の突きはなかなか当たらないのに、自分よりも先輩の突きはあたってしまう。それはなぜか。


 それは、その人のなかに相手の突きと同等のスキルがないから。相手と同じレヴェルの突きがつかえれば、その速度、角度、鋭さ、重さなどが自分の感覚のなかに定着しているので、対処できる可能性がある。しかし、自分のなかにそれがない場合、感覚としてわかっていないから、見当をつけて動くしかなくなるわけですね。あるいは力技で対応するしかなくなってしまう。しかし、うちでは相手の突きを受け入れるというスタンスを崩すことはありません。だからほとんど場合、入ってしまうのです。



 これが武術全般に言えるのですね。相手の攻撃に対処するためには、その攻撃を知らねばなりません。もちろん、ただ知っているだけではなく、自分もそれができなければ意味はない。だから、何だかんだで、あれだけ多くのことを学ぶ方向へ進んでゆくのです。


 こういった実技面での話があると、武士でなくてもさまざまなことを稽古しなければならないという気になってきますし、また実際に武具の技などをやってみると、当然ですが、素手の技のなかにはない怖さや迫力、術理があり、感心することしきりです。


 
 武術を武術としてやらねばなりません。稽古あるのみです。
posted by 札幌支部 at 20:17 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年06月06日

息を吐ききっているか

 こんばんは。裏部長です。


 すっかりご無沙汰をしております。季節は春から初夏へと移り変わり、われわれ札幌支部も、長年つかっていた1001教室から2006教室へと稽古場所を替え、日々汗を流しています。


 札幌はまだ暑いということはなく、さわやかな日がつづいています。本州では真夏のような暑さの上、地震なども起きていますが、みなさま元気でおすごしでしょうか。






 さて、先日のことです。



 ラフィラでやっている古武術講座の受講生の方が、こんな質問をされました。


知人に、どんなことを稽古しているのかと訊かれて、答えに困ってしまうのですが、何と答えたらいいですかね?


 ごもっともな質問です。空心館で長く稽古している人であればあるほど、この質問は難敵です。



 まあ、古武術講座においてはさほど空手は濃くやっていないし、基本的には体道メインの稽古なので、そのまま「体道をやっています」が正解だし、もっと大きく言えば、「武術をやっています」と答えるのが、無難かつ正しいところかと思います。



 しかし、重ねてその方は、


「流派を訊かれた場合は?」


 とおっしゃったので、この場合は仕方ない、実際にこれまでやってきた体道内の流派を言うしかありませんね、とわたしは答えました。できれば、体道というものを説明した上で具体的な流派名に話が進むのが理想的なのでしょうが、なかなかそこまでの労力を強いることはできませんので、あっさりと、この程度の返答で済ませてしまいましたが、この日のそんなやり取りが不思議と、わたしの胸に何日か残りました。



 そして、ふと考えたのです。



 われわれはいったい、どのくらいの武術を稽古しているのだろうかと。




 この場合、空心館において、というよりは、うちの師匠のもとで(札幌支部において)稽古できる武術はどのくらいあるのか、ということです。分類の基準は、「〜術」というふうに名乗れるもの、という単位で考えます。


 するとですね、ざっと、十項目あがってきたので、下に記してみます。


 1、空手
 2、柔術
 3、捕手術(挫術)
 4、杖術
 5、短杖術・半棒術
 6、棒術
 7、剣術
 8、抜刀術・居合術
 9、分銅や鎖など。
 10、太極拳など。


 こんな感じです。


 これまで裏部長が札幌支部において実際に習った技や、見せていただいたものを振りかえってみると、だいたいこの十項目におさまります。なお、ヌンチャク、トンファ、サイ、棍は空手に含みます。



 実際にこれらの技を稽古している人間には、上記のようなリストをつくること自体、あまり意味はないかもしれませんが、これだけのことを教われるんだ、稽古してゆけるんだと思うと、すこしうれしいのです。個々の技の数にしたら膨大な量になるものの、それらすべてで空心館の技というのは成り立っているのだと考えると、なんだか気合いが入るというか、ほどよい緊張を感じられて、日々に張りが出てくる気がします。






 さてさて、話題は変わりますが、最近ある方の稽古録のようなものを読みました。



 この方は、ある業界では泣く子も黙る大御所中の大御所なのですが、その武術稽古についてはここ十年ほどのことらしく、わたしが読んだのは、その方が稽古の内外で自分の師匠から受けた教えやことばを記した文章です。とても読みやすく、そして気持ちが澄んでゆくような内容でした。


 こんなことをわたしが言うのはほんとうに失礼で生意気だとは思うのですが、あれだけの位置にいらっしゃる方が、これほどまでに真面目に、真摯に武術と向きあって、考え、悩み、発見や成長に一喜一憂するさまは初々しくさえあり、微笑ましいものでした。ふだんそのような類の文章をまったくと言ってよいほど読まなくなったせいか、よけいに感動があったのかもしれません。



 その方は稽古のなかで、ただひたすら自分たちがやっている型と向きあいます。あれこれと考え、思い悩み、そこへ投げこまれた師匠のことばでまた揺れ動き、そしてある日突然、「なるほど、そういうことなのか」となるわけですが、この型と向きあう過程で何度も出てくるのが、


身体の声を聴く


 という表現です。



 これ、「技の声を聴く」でも間違っていない気がします。つまり、ふだんわれわれがやっていることと何ら変わりないことなのですが、それはそんなふうに、違う方面でやってらっしゃる方の文章で触れると、再発見というか、再認識というか、そうだよなあ、それがいちばん大事なんだよなあという気持ちにさせられます。




 武術の技はストレッチなどの運動とは違い、相手がいることです。その動作を通じて相手に力を伝え、崩したりダメージをあたえたりしなければなりません。また、そう動く身体にならなければなりません。


 しかし、たとえば体道の技で、相手がこちらの手首をつかんでくる、胸倉をつかむ、袖をつかむ、そういった瞬間に、触れた相手の指や関節から、「あっ、緊張してるな」とか、「ちょっとイライラしているのかな」とか、逆に、「こちらからのアプローチを待っているのかな」とか、そんな心身の状態がわかってしまう。


 以前、師範の身体をつかんだときに、人のかたちをした浮輪に触れているかのようなイメージを得たということを書きましたが、そんなことを感じることができるというのは、相手とひとつになっているから、あるいは、ひとつになろうと自分のドアをオープンにしているからであって、そのような状態になっていないと、とても技や身体の声を聴くことはできないと思うのです。


 
 そんなふうな状態に自分の身体がなっているとき、技をやるときまって、自分ではなく相手の身体の状態のことしか自分の身体のなかには残りません。自分の腕を手をどうしようかではなく、相手の身体がどう崩れてゆくかだけがこちらの身体のなかに上映されるわけです。だから、そんな状態をもっと研ぎ澄ませて、豊かにして、それを率直に言い表せば、「崩した」「投げた」「突いた」ではなく、「そうなった」だけになってしまう。


 この領域の第一歩として、「身体(技)の声を聴く」−「自分を空っぽにする」ということがあるようにわたしは考えています。



 しかしそのためには、自分のなかにあるさまざまなこだわりを排さなければなりません。悟るために煩悩を捨てるみたいな話で、だからこれはなまなかなことではありません。そうしなさい、ハイわかりましたとできることではないわけです。



 でも、だからこそ稽古をする。だからこそ、日々稽古をつづける。そういうことなのでしょう。



 感じる心身がなければ、どんなに感動的な映画を観ても泣けません。笑える漫画、怖い小説、怪しげな舞台を見ても、心は動いてくれません。



 あの十項目のリストにある膨大な量の技も、その心身がなければただのテキストです。教わった、知っている、憶えている、というだけの、ただの知識です。




 焦らず、勇気とともに、まず深呼吸。


 そして、ゆったりと最初の一歩を。
posted by 札幌支部 at 20:51 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年03月15日

 こんばんは、裏部長です。

 
 すっかりまた更新が遅れておりますが、わたしを含め、札幌支部の面々は元気に活動しています。以前は火曜日と金曜日だったのが、昨年の十二月から、火曜日の稽古を月曜日に移しまして、装いも新たにおこなっております。最近ではわれわれのほかに、師匠のご子息などが参加される少年部、師匠の奥さまなどが集う婦人部ができ、いろいろ賑やかにやっています。



 ただ、みなさん忙しいのか、珍しいことに、今週はほとんど大人のいない稽古だったようです。斯く言うわたしも今週は行けずじまいで、昨日の武道場稽古へ顔を出したら、少年部のメンバーが教えてくれました。年度末ということで、みなさん大変なのでしょうね。ここ数箇月はすっかり盛況だったため、ほとんど大人が集まらない稽古というのはほんとうに久々のように感じます。



 そうそう。昨夜の武道場稽古も同様で、少人数の婦人部、少年部を除くと、なんと裏部長ひとりだけでした。六時からはじめて、少年部も婦人部も、七時半には切りあげるから、それからの一時間半ちょっと、わたしと師匠のふたりきりで、ひさしぶりに濃い稽古をつけていただきました。



 その内容たるや、とてもここに書ききれるものではないけれど、爽快感さえおぼえるほど、濃密な時間でした。大人数の稽古者がいると、賑やかで、たのしくて、また内容に幅が出るのでそれはそれで有意義だし、後輩たちの指導をすることも稽古のうちですが、やはりああして、いまの自分のレヴェルで教えを受けるということは、芯に響きます。そして、改めて、稽古をするということの重要性を確認させられます。



 裏部長は最近、この稽古をすることの意味みたいなことを考えます。

 

 技はつかえるようになりたいし、もっと深く理解をしたいとも思いますが、それは稽古をする過程で生まれる副産物であって、あくまでも結果です。何時間もかけて旅をし、行きついた旅館でゆったり温泉につかる、その温泉です。長い旅路があり、慌ただしいやり取りや風景や、はじめて口にする料理などがあったからこそ、その温泉は貴重な思い出になるのであって、いきなりポンと温泉だけ出されても、感動もへったくれもありません。



 よき師のもとでたのしく稽古ができている。その何と健全なことか。






 あと半月もすれば四月です。


 札幌の路面の雪は、もうほとんど解けました。


posted by 札幌支部 at 19:02 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年01月30日

本日の稽古

こんにちは、裏部長です。


本日の稽古ですが、急遽仕事のため参加できなくなってしまいました。申し訳ありません。


なので、お休みにしようかと思ったのですが、来たメンバーで稽古するのは構わないので、一応今日は自主練習の日ということにさせてください。


よろしくお願い致します。

posted by 札幌支部 at 16:19 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年01月01日

一輪の花から

 あけましておめでとうございます。裏部長です。



 2015年の幕があきました。


 本年も、みなさまにとって実り多き一年であるよう、心よりお祈り申しあげます。





 元日の札幌はよく晴れております。気温は低く、初詣の際にはあまりの寒さにかじかんで、おみくじをひらく手に力が入りませんでしたが、こういう気候のときこそ、天から降りそそぐ陽光がありがたく感じられるというものです。




 昨年末には(というか昨日ですが)、いささか攻撃的なことを書いてしまいましたが、結局のところ、自分が「傍観する人」ではなく「実践する人」として生きられる場所こそが真実であり、そこで自分だけの花を咲かせることができればよいのですね。




 気高く、華麗で、棘がある、そんな表現者になりたいと言った芸人がいました。


 自分たちは所詮、陰生植物だと言った小説家がいました。





 咲かせる花は人それぞれ――。





 今年もよろしくお願いいたします。




posted by 札幌支部 at 14:48 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年12月31日

明日へのインプット

 こんばんは、裏部長です。






 ある稽古の最後に、こんな話を聞きました。



 それは、師匠が学会で目にしたものだというのですが、イタリアで、両腕を失った男性に、事故で脳死状態となった別人の両腕を移植するという事例があったそうです。これはもう移植という次元を超えています。リアル・フランケン状態。映画のなかのような話です。


 もちろん、腕そのものはくっつくでしょうが、なかの血管まで結わいつけたとしても、神経そのものが通わなければ何の意味もありません。



 そこでおこなわれたリハビリは、とてもシンプルで、だからこそ興味深いものでした。



 とにかく、その移植した別人の手の指先でいろいろなものを触るだけだというのです。さまざまなものに触れて、それを正しく感じるということだけをするというのですね。もちろん物が違えば、大きい小さい、硬い柔らかい、冷たい熱い、いろいろな感じ方があるわけで、それをひたすらくりかえすリハビリ法だったというのです。


 こんなことをやりつづけていると、すこしずつ神経が通いはじめ、きちんと感じられるようになるというのだから、人間の身体というのは不思議なものです。そして、その師匠が目にした事例では、完全に神経が活きて、患者さんはナイフとフォークで食事をすることも、自分の子供を抱きあげることもできるようになったというのです。


 恐ろしさと微笑ましさの入り混じったエピソードで、それを聞いたときは裏部長もことばがありませんでしたが、師匠がそれを、「いかに相手を受け入れるかという、われわれの武術のスタンスに相通ずるものがある」と話を転じるにおよんで、深い感動を味わうことができました。




 そうなのです。そのものを、正しく、素直に感じて、受け入れるということの重要性。これこそが今年の大きなテーマであったような気がします。師匠不在時に散々書いてきた「相手とひとつになる」というあの話題もそうでした。


 この感覚と意識が明確になってゆくにつれて(もちろん現在も十分ではないわけですが)、技や動作そのものに対する見え方が違ってきて、これまで気づけなかったことも感性のネットに引っかかるようになりました。






 その上で、今年、裏部長が発見したことのひとつが、これです。



武術をやっている人のなかにも、素人と玄人は存在する





 それでお金を取っていれば玄人、とか、キャリアの長短、武術家としての意識の高低などによって判断できるような、そういった意味の素人玄人の話ではありません


 本質的、根源的に、武術の玄人になれない(あるいは素人の域から脱することのできない)人が世のなかにはいて、それらのことについて自覚していない場合が多い、ということです。それが、武術をやっている人のなかにもいるので厄介なのです。




 簡単に、武術以外で例をあげれば、歌舞伎ファンという方がいらっしゃいますね。年間に何度も歌舞伎座へ行ったり、本やらDVDやらも大量に揃えて、演目や役者の家系や公演スケジュールを把握して、それ中心に一年を送っているような人がかなりの数いらっしゃいます。それは単なる演劇ファンの域におさまらず、すでに没した名優たちの過去の演目についても熱く語れるような、ある種のマニアの方々です。


 こういった人たちはたしかに詳しい。演目や出演者や年代のことを細かく憶えていて、それが湯水のように出てくる。話しはじめたら止まらない。愛情もあるし、情熱も傾けている。


 しかし、だからといって、こういう歌舞伎マニアの方たちが、実際に自分でも歌舞伎ができるかというと、決してそうではありません。あたりまえですが、観るの専門で、演る専門の人ではないのですから。



 こういった根本的な姿勢は、求める対象の内容にも影響します。



 たとえば、昔のある歌舞伎役者は声がとてもよく通った、それは歌舞伎座の外にまで届いて、だから向かい側にあるお店では、その声を聞いて、いまどの幕をやっているかがわかったというエピソードがあります。それだけ遠くまで通る発声を身につけることが、武術でいえば技を身につけることと同義だったわけです。


 このエピソードを前にしたとき、歌舞伎マニア(素人)と歌舞伎役者(玄人)の反応はふたつにわかれます。素人の方は、「それはすごい」と感嘆するでしょうが、玄人は違います。なぜなら、彼らは実際に自分でそれをやらなければいけない立場だからです。できるかできないか、あるいは、どの程度の深さでそれができるか、が勝負なのであって、手離しで感嘆することはありえないのです。




 同じことはすべての業界に言えます。




 電車マニアは、自分の愛する電車や路線については異常なほど詳しく知っているが、自分で車輌を運転することはできない。アイドルの追っかけは、すべての歌の振りつけを憶えているが、彼女たちほどかわいく魅力的には踊れない。落語ファンは好きな噺を諳んじていて、話そうと思えば話せるが、こういったお素人衆が得意になって演る落語ほどぶざまなものはない。本業の噺家がもっとも軽蔑する類のものである、云々。




 つまりね、武術という世界のなかにいて、いまも実際に何かをやっている人であっても、本質的に、歌舞伎役者ではなく歌舞伎マニアの域を脱することのできない人がいるのです。本人は武術に対して真面目で、情熱があって、懸命にアプローチしているのですが、残念ながら、「やる人」ではない武術を「たのしむ人」「好きな人」ではあっても、「実践する人」ではない




 こういった人たちには、たとえば稽古のなかで、師匠が技の解説をしたときなどにも特有の反応が起きます。



 それは、歌舞伎の発声と同じ話で、われわれ実践する側の人間は、それが出来るか出来ないかが問題であって、もちろんその前には、理解できるかできないかの段階があるわけですけども、結局はやれるようになりたいので、反応はおのずと、「いずれは自分もそれをやる」という側に立ったものになります



 しかし、本質的に素人の方は、師匠とその教えとを、自分の外に放置してしまうのです。つまり、自分がそれをやる、あるいはやりたいという視点がゼロで、客観的に、その教えや技を分析しはじめるのです。美術館で、かかっている油絵を他の客と同じように眺めているようなものです。その絵のなかに入る、もしくはその絵を描く張本人にならなければならないのに、自分だけを蚊帳の外に置いて、傍観してしまうのですね。



 だから、本質的素人は、武術に対してあまり切実さをもっていない気がします。武術の技そのものを、ただたのしんで見ていられる。自分ができるかどうかが関係ないから。その技がすごければ「すごい!」と言い、スピード感にあふれていたら「速い!」と驚くだけで、そこと自分とをつなげようとは思わない



 それが、いまも実際に何かの武術や武道をやっている人のなかにもいるのです。



 もちろん、能力やキャリアの違い、腕の差といったものもあるでしょうし、長くやっていなければ気づけないこともあるので、若いころは青くて当然だと思うのですが、それでも、本質的に「武術をやる人」は違います。それは、札幌支部で十年間、いろいろな人を稽古の場で見てきた上でそう感じます。


 みなさんは、どう思いますか。






 最後の最後に、すこし堅苦しいことを書いてしまいました。お許しを。


 それではみなさま、よいお年を。
posted by 札幌支部 at 17:25 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年12月28日

黒白

 おはようございます。裏部長です。




武術に対する姿勢が硬すぎる

 と、先日の記事で書きましたが、その原因はよくわかっているのです。



 いきなり話は飛びますが、わたしは『AIKI』という日本映画が好きでした。大東流合気柔術と出逢う青年のお話です。映画としてはあまりレヴェルの高くない作品でしたが、師範とその青年との関係がなんとも好ましく映り、ひそかに憧れてもいたほどです。


 ひとことで言えば師弟関係ということなのですが、江戸時代然とした堅苦しいものではなく、一定の礼儀や尊敬は保ちつつも、日常のなかにある稽古と、それを通じて交わされる絆のようなものがこの映画にはあって、何度も言いますが映画としてはいまひとつだったものの、好きな作品のひとつでした。



 この映画を観た二年後に、わたしは師匠と出逢いました。その技に触れ、そして師事することを決め、あの日からもうちょっとで十一年が経とうとしています。



 思えば、紆余曲折ありながらも、この十一年間は師匠の技や武術に対する考え方などを学ぶ日々でした。それまで合気道などの経験はありながらも、空手に関してはずぶの素人で、右も左もわからなかったのだからそれはあたりまえのことで、また、この人を師と仰ぐ以上、考え方から何から、できればすべてを吸収したいと思うのは当然の成り行きです。むしろそうしていない人は弟子失格でしょう。



 だからひと筋にやって来たし、これからもその姿勢は変わりません。


 いや、今後新しい変化に対応してゆくためにも、変えるべきではないと思うのです




 現在の札幌支部にはさまざまな稽古者が集っていて、その年齢もまちまちですが、みなさん熱心で、純粋に稽古をたのしんでいて、これまでにはなかった様相を呈していますが、その参加者のほとんどが武術経験者で、なかには現在も継続してやってらっしゃる方もいます。少年部のメンバーや、太極拳などを習いに来られている婦人部の方たちを除いて、空心館一本でやっているのは裏部長と部長くらいなものではないでしょうか。


 好奇心が旺盛でなければ新しいものには出逢えず、また新たな発見もない。ならば、そうして空心館以外にも貪欲に活動し、他流派の武術に触れ、見識を広げることは間違いではないと思います。それで、武術に対する理解が深まるのなら何を否定することがありましょうか。



 しかし、わたしが信じているのは、厳然たる事実です。


その時間内に、掘れる穴の深さは決まっている



 いまスコップをもって、目の前の地面を掘ってゆくとします。ある人はとにかく一点に目標を決めて、もてる体力や時間をすべて費やしてその点のみを掘ってゆき、またある人はいくつかポイントを決めて、それらを同時進行的に掘り進めてゆくことに。修業とは、高みに登ってゆくイメージもあれば、こうした深さを感じるものでもあるような気がします。


 もしその人が五つのポイントを選び、順々に掘っていったとして、その穴の深さはどうなるでしょうか。たしかに数は掘れるでしょう。しかし、みな同じ深さです。費やせる時間や体力には限界があるのです。「いつも120%の気合いでがんばります!」と意気こんでみたところで、掘れる深さは決まっています。


 ひとつの穴に絞った人はどうでしょう。


 言わずもがなですね。あの人が懸命にいくつもの穴を駈けまわっているあいだに、ひとつの穴を何十メートルも掘り進めることができました。




 これ、以前にも書いた話かもしれません。重複していたら、ごめんなさい。




 単純な道理です。もてる力を一点に集中したほうが深く掘りさげることができる。人間はロボットではないし、コンピューターのような処理能力も有していません。寝たり食べたりしなければ活動できない、理解するにも会得するにも、いろいろと時間のかかる厄介な生き物です。


 そんな人間であるわれわれがすることです。自然、限界と限度があります。




 もちろん、多くの穴を掘ることがいけないわけではありません。しかし、裏部長の信念を中心に置くならば、いくつかの穴を巡りながらも、片やで深い穴をひとつもっておくべきでしょう。そして、その穴をさらに深く掘り進めることにすべての力を費やすべきでしょう。


 地面を深く掘ってゆけばいろいろなものに出くわします。水が出てきたり、硬い岩盤にぶつかったり、鉱物が見つかったり、ときには石油や化石が発見されるかもしれません。それは深く掘りさげた人にしか見えないもので、地上にいる人間がいくら創造力をかきたてて想い描いても、片鱗にすらたどり着けない、ある種の異世界です。実際にそこへ行った人しか目にすることが叶わない世界なのです。



 だから、修業という以上はそこを目指したいし、ひとつの穴を深く掘りさげて、そういったものに一度出逢っておけば、違う穴を掘る際にも大いに役立ちますね。まったく同じというわけではないでしょうが、掘ってゆくうちに、ああそうだ、これくらいのときに水が出てくるんだよなあ、そうそう、このへんで岩盤とぶつかって苦労したよ、おおっと、こっちじゃダイヤモンドの原石が見つかったよ、こいつは大発見だ……というふうに、新しい穴を掘ってゆくにもとても好都合なのです。



 逆に言えば、どうしてもそうやっていくつもの穴を開拓したいのなら、一本深い穴をまず掘るべきです。そして、それがある程度の深さになるまでは浮気しない。浅い穴しか掘ったことのない人間が、たとえ河岸を替えたところで、掘れる穴の深さは知れています





 またまた話は飛びますが、最近の裏部長は、街なかを移動するとき、追い突きで歩いています


 もちろんそれは、「あの人はふだん歩くときもナイファンチンだった」「ていうことは横歩きか」「そんなわけあるかい」というあの話と同様で、左右交互に突きをくり出して歩いているわけではありません。おもに腰まわりを追い突きのつかい方(横回転ではなく、いま取り組んでいる縦回転)を応用して歩いているのです。コートなどを着ていると、周囲に怪しまれずにおこなえてとてもたのしいです。


 こうして、日常のなかで技の動きができる、むしろ日常と技とが融合している、という状態になれたのも、ひとりの師につき、ひたすらに信じて稽古をしてきたおかげだと思っています。そして、そのひとつの穴のなかで、技を磨きつづけているからこそ、新しい次元を垣間見ることもでき、外を歩きながら追い突きの身体づかいができるようにもなるのです。





 ある人が言いました。


私は井のなかの蛙だ。大海の広さは知らない。しかし、誰より空の高さは知っている







 ただ、信じることです。




posted by 札幌支部 at 11:24 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年12月26日

磨くこと、そして、信じること。

 こんばんは、裏部長です。


 今年も残すところ、一週間を切りました。すっかり師走です。札幌は今日、昼ごろに大雪警報が出て、先ほども、街なかでホワイトアウトしそうなほどの吹雪になりましたが、いまは落ちついています。


 過酷な季節になって参りました。みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 
 すっかり更新が滞っていましたが、札幌支部も裏部長も元気に活動しております。今週の月曜日に札幌支部としての稽古が終わり、水曜日で道新文化センターの講座も終わり、一段落といった感じです。



 前回の記事で、もう今年の総括のようなことはしてしまったので、とくにまとめることもないのですが、あらためて書けば、今年は裏部長にとって、

「武術の多様性を学ぶ一年だった」

 と言えます。



 一月と六月に栃木の本部道場にお邪魔し、師範をはじめ、お馴染みのみなさまとの稽古があり、七月には名古屋の稽古にも寄せていただき、数年ぶりのM田さんとの再会、そしてT技術顧問との初対面など、目まぐるしい一年でしたが、それらの出来事を通して、深く反省したのは、

武術に対する姿勢が硬すぎる

 ということでした。



 もっと柔軟に、もっとニュートラルに、また今年の流行に沿って言えば、もっとありのままに、素直に武術と向き合い、稽古が出来るようになれば、きっといまの何倍も面白く、また何倍も深いところへ行けるような気がしました。すでにその先へと行ってしまっている先達たちと直接触れあえたことがとてもよい刺戟になりました。



 空手の突きひとつ、体道の技ひとつからもう一度見直し、決めつけることなく、いい気になることなく、真摯に稽古をしてゆくことの必要性をこれほど感じた年はありません。よい体験でした。



 

 ……と、かなり優等生な発言をしてしまいましたが、これ以外にもあれこれと感じたことはあります。そのほとんどは、誰かから教わったというより、自ら直面するなかで感じ取ったもので、これらのことについてはまた後日、あらためて書きに来ます。



 とりあえず、今日はここまで。


 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 20:19 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年10月28日

本日の稽古

こんにちは、裏部長です。


本日の稽古ですが、師匠不在の上、わたしも仕事の都合がつかず、参加できなくなってしまいました。


なので、大変申し訳ありませんが、今日はお休みにさせてください。



よろしくお願い致します。

posted by 札幌支部 at 13:17 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年10月26日

満足するには早すぎる

 おはようございます。裏部長です。ご無沙汰をしております。



 十月もあと一週間ほどで終わり、今年も残すところ二箇月となりました。思いかえせば、今年は一月に単身栃木へゆき、六月には札幌支部として本部道場へ遠征、翌七月には名古屋での稽古に参加し、技術顧問のTさんや奈良支部のM田さんとお会いすることができました。栃木のY師範代とTくん、猛獣Mさんとは二度、師範とは年に三度もお会いしたのは今回がはじめてです。


 裏部長としては、なんとも不思議な一年でありました(まだ終わっていませんが)。




 
 夏が終わり、秋が来て、そして北海道ではもう冬の便りです。今週の火曜日の天気予報に雪のマークがつきました。身にしみる寒さがすぐそこまで迫ってきています。






 さて、札幌支部では、以前までよく顔を出していたメンバーがあまり来られなくなり、淋しくなったかなと思いきやそれと行き違うように、また新たなメンバーが参加するようになり、さらに新たなメニューも出てきて、それなりに賑やかです。



 新しい人が入ってくると、うちでやっている武術の大前提とでも言うべき、ごく基本的なことから説いてゆくわけですが、それを耳にすることは、長く稽古している人間にとっても有意義なことで、あらためて日々の自分を反省させられる想いです。





 たとえば、師匠がよく言われる「物差しの目盛り」の話。攻撃の技をプラスとするならば、防禦の技はマイナスであり、プラスがひとつ増えれば、同時にマイナスもひとつ増えるはずで、どちらかに偏るべきではない。また稽古の進め方として、体道のように、ごく単純に、技数を増やしてゆく(定規の長さを伸ばしてゆく)方法のほかに、ひとつの目盛りを半分に、三等分に、さらには十分割、二十分割してゆく(一センチを一ミリ刻みにする)方法もある。



 空心館で空手と体道を同時進行で稽古していれば、黙っていても技数は増えてゆきます。空手の型も、体道の技も、すぐに大台を突破します。またそれらの技はつねに攻防一如であるため、上記の物差しの話でいえば、プラスの方向にもマイナスの方向にも、瞬く間に広がりが生まれることになります。




 一方で、師匠はよく成長のプロセスを「螺旋階段」に例えます。各段階で直面する課題は、じつはつねにループしていて、白帯のころに取り組んでいたことを次のレヴェルでおこなうのが茶帯で、同じ題材をより高い次元で体現しようとするのが黒帯だ、というように、まるで螺旋階段をのぼるように成長してゆく。だから、たとえ同じ追い突きという技においても、段階が違えば、生まれる感覚も見えている景色もまるで違う




 さらに、すでに習った技でも、成長の過程においては感じ方がすこしずつ変化してきて、教わった当初は想像すらしなかった軽さ、重さ、怖さ、鋭さ、一体感などを、もう何年も前に習った技のなかで見出すことができる。だから、入門してすぐに教わった天心古流拳法の技などを稽古していても、いまだに新しい発見がある(この場合の発見とは、技法的なことではなく、あくまで感覚的なことです。つまり、技の外見は変わらず、結末も同一ながら、それを実践している自分の内面が変化している、ということです)。





 プラスとマイナスの両方向へ無限に広がる線路の上に、天をつくような、どこまでも伸びる螺旋階段があり、また地上に刻まれた技のさらに奥には、表面的な理解しか求めていない人には存在すら目にできない、地下の世界が多種多様に展開されている


 いささかSF的な発想かもしれませんが、その世界観は、まるで架空の世界の武術の王国です。ごく一部の人しか訪れることのできない、時の砂に包まれた異次元の世界。そこで、さらに創造性をもって武術と向き合い、既存の技をさらなる高みへもちあげようとする先導者のあとを、われわれは追いかけているわけです。





 途方もない旅ですが、これをこそ旅だと定義するなら、旅人はそう多くはいないはずです。武術の王国の存在すら信じられない人に、いくらこと細かくその情景を説明しても信じてもらえないでしょう。見えない人には一生見えない世界なのです。だからこそ、たとえかすかにではあったとしても、その片鱗が見えたのなら、全力で追いかけるべきだと、裏部長も最近になってようやくそう思えるようになりました。





 いま見えているゴールは、まだゴールではない。



posted by 札幌支部 at 11:40 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年08月12日

足あとを見れば

 こんばんは、裏部長です。


 お盆、または夏休み、いかがおすごしでしょうか。





 去る七月二十日、名古屋でおこなわれた体道稽古に、師匠&ご子息とともに参加してきました。まだ梅雨の明けきらぬ名古屋ということで、暑さや湿気を恐れていたのですが、存外それほど気温も上がらず、涼しくはなかったけれど、体調を崩すことなく身体を動かすことができました。



 名古屋には体道を稽古されている道場が二箇所あり、月に一度、そこへ栃木から師範が教えにゆかれるというので、今回はそのタイミングにあわせて札幌から参加したわけなのですが、奈良からは奈良支部のM田さんが来られ、また初対面となるT技術顧問もいらっしゃるというので、いろいろと初もの尽くしの一日でした。






 まず、名古屋のみなさんへ。


 急な参加、失礼いたしました。師匠にくっついて、何だかあたりまえのような顔をして現れてしまいましたが、現地のみなさんには現地のみなさんの、日常の稽古があり、そのなかには各自検討したり取っ組み合ったり閃いたりする課題があって、それらの壁に挑むための貴重な時間と空間のはずなのに、そこへわれわれが闖入することで、したいことができず、不完全燃焼を起こさせていたとしたら、すみません。


 わたしも、ふだんの稽古には自分なりの課題なり想いなりをもって参加し、通常のメニューをおこないながら、自分と向き合うことを必要としているので、すこし申し訳ない気持ちがありました。邪魔をしていなければ幸いです。





 T技術顧問へ。


 稽古をつけていただき、ありがとうございました。T技術顧問の提示される技は、何もかもが新鮮で、特異で、異形でした。根から不器用な裏部長は、即座に呑みこんで咀嚼できるわけもなく、ただ茫然と見ていることしかできませんでした。初対面の自分に、なごやかに、真剣に接してくださり、ありがとうございました。





 M田さんへ。


 何だかんだで、直接触れあう稽古をする隙間はありませんでしたが、数年ぶりの再会にもかかわらず、あれだけ気楽に話すことができ、リラックスして夜まですごせたのは、M田さんがそういう空気をつくってくれたからだと思っています。また、車中で伺ったお話からはいろいろなことを学べた気がします。それだけでもじゅうぶん、わたしにとっては勉強になりました。ありがとうございました。






 師範には、六月に栃木でお会いして以来、一箇月ぶりの再会で、今回も技をかけていただき、受けを取らせていただきました。


 その合間合間、師範はそこに意味や示唆を含ませての発言だったかもしないし、逆になんの教えでもなく当然の指導をされただけかもしれませんが、いくつかのことば、そしていくつかの動き(あるいはその瞬間)から、何個か感じとれるものがありました。


 二箇所目の道場で、師範が模範を見せ、師匠が指導し、そしてわたしが受けを取るというような、貴重なローテーション現状も見られ、またそこで稽古をされている方たちのくだけた雰囲気がなんとも心地よく、たのしく汗をかくことができました。


 いつもありがとうございます。






 今回の名古屋行で感じたことはいろいろとありましたが、いまはまだ自分のことばになっていないので、ここに記すことはしません。


 ただ、ひとつ明らかなのは、


武術の多様性を知った


 ということです。





 得たい境地は同じかもしれないが、そこへ向かう道は幾通りもあって、一様ではない。



 そんなことを感じられた一日でした。





 お世話になったみなさまに感謝申しあげます。



 ありがとうございました。



posted by 札幌支部 at 19:42 | Comment(1) | 裏部長の日記

2014年07月05日

技をやりなさい

 おはようございます。裏部長です。




 もう何年も前のことですが、たしかT技術顧問が、「長いこと稽古をつづけてきて、振りかえってみたら誰もついてきていない」と書かれていたのを、どういうわけか最近よく思いだします。



 これはおそらく、単純に稽古を長年継続している人自体がすくないということのほかに、自分と同じレヴェルで武術をやっている人間が圧倒的にすくない、ということをおっしゃっていたと思うのですが、どうでしょうか。




 生意気ながら、裏部長もすこしこのところ同じようなことを感じていまして、武術家として歩こう、武術と向きあおうと心に決め、実践し、研鑽をつづける人のなかに生まれている感覚は、そうではない人には到底理解できないものなのですね。当人は、いま現在の自分の感覚の上に立って、さらに前へ前へゆこうとしているからさほど感じませんが、その鋭敏さ、豊かさは並大抵のものではなく、未熟な稽古者にはもちろん、ましてや一般の方には、どんなにことばを尽くして説明してもわかるはずがないのですね。



 もちろん、武術家が武術をやるのですから、それを他者へ説明する必要などなく、ただ稽古すればよいのです。もし説明するのなら、師匠のように、きちんとその相手のレヴェルを見極め、その人が理解できる段階にまで下りてきて語るべきでしょう。学校の先生でもある師匠だからそれが可能で、だから我々もついてゆけているわけで、いまもし師匠が師匠のレヴェルで感覚的な話をされたら、弟子たちのほとんどはちんぷんかんぷんになってしまうはずです。



 これは修業の内容や質に比例して深刻化します。だから、師匠はもちろん、師範やT技術顧問の苦労はいかばかりかと思います。



 しかし、裏部長はちょっと割りきって、そこは、玄人と素人、演者と観客くらい違うもので、ラインを引いてしまってもいいのではないかと考えています。同じ空間で稽古をしていたとしても、そこには舞台と客席くらいの違いがあり、距離があり、見ているもの感じているもの目指すものも大いに異なっているのだという認識で向きあったほうが、逆に誤解や混乱が生まれずに済むような気がします。





 あ、そうそう。舞台と客席といえば、先日とても興味深い話を聞きました。





 師匠がある方の舞いを観ていたときのことです。


 舞いというくらいですから、台詞のある舞台演劇などとは違い、声を出すわけでもなく、物語を説明するわけでもない。しかしストーリーは存在していて、舞台にいるその人は自分の身ひとつでそれを表現するというのですね。


 驚いたのは、登場人物が身を投げるシーンだったと言います。観ていた師匠は、心のなかであぁっと声をあげたそうです。なぜなら、


まるで自分が奈落の底へ落ちてゆきそうに感じたから


 だそうです。




 これ、すごい話だと思いませんか。




 シンプルな舞台装置の演劇や、能や落語のように、背景を単純化した状態で演者が単身で演じ、そこにないものを見せるという芸能はたしかにあります。しかしそれらの場合、観客は演者やその周辺に、実際にはない物や色や音を感じたり見たりするのであって、自分がそうなってしまう感覚に陥るわけではありませんね。座布団に坐っているおじさんが女にも子供にも見えたり、能面が泣いているようにも笑っているようにも見えたりするのとはすこし異なります。



 師匠の分析では、演者が自分の力で観客にそういった錯覚を感じさせたのではなく、観客が勝手にそう感じてしまう状況をつくり出していたのではないか、ということでしたが、なんとなく想像はできるところです。





「あの人は○○の鑑だ」


 などというときの鑑は、向かいあっているこちらの姿を映して見せてくれる存在という意味です。こちらが緊張し、相手を怖がっていればその通りに見え、やさしく、朗らかな人だと思って接すればその通りにやわらかくなる。そういう状態の人が達人なのだという話をよく聞きますが、先の舞いの人はこれと同じことをしていたのでしょう。



 真にニュートラル


 これはかなり究極の領域です。




 当然、武術をやっている以上はそんな領域を目指したいわけですが、ここまで考えてくると、もはやそこへ至るには、修行僧のようなことをしなければいけないような気がしてきます。


 なぜなら、ほんとうの意味でニュートラルな状態は、煩悩を一ミリグラムも有していない、悟りの境地に似ていると感じるからです。



 
 先のT技術顧問のことばと同様に、あるいはそれ以上に、藤谷師範のことばも最近よく反芻します。



 以前、師範がコメントに書いてくださった、


拳を鍛えたり筋肉を鍛える時間があれば技を覚えなさい


 ということばは、シンプルだけれど、やはり重い。



 座禅をして悟りをひらいた人に、どうすれば悟ることができますかと訊いたとして、おそらく返ってくる答えはただひとつ、


坐りなさい


 だけでしょう。



 これを我々のほうに置き換えるならば、


技をやりなさい


 ということになります。




 技をやるしかないのです。悟りをひらきたいのはわかる、その熱意も姿勢も評価しよう、しかし悟りをひらくために教えることは何もない自分でその境地に達しなければならないそれ以外に道はない。武術も同様に、自分で稽古をし、自分で学び、自分で感じて、身につけてゆくほかないのですね。ただ技をやる、やれるようにするという空間、その渦のなかに埋没して、純粋に探究してゆく以外にはない



 相対的な強さよりも絶対的な巧さ――上記のような、技をやるというだけの渦のなかに入ってゆけば、相手がどうのこうのという意識は消え失せ、その技ができるかどうか、理解し、感じられるかどうかだけの話になってゆき、気づけば、一般の方には想像すらできない深みにまで達することができわけですが、それをせず、いつまでも相対的なものの考え方に立脚していると、武術としての進化より、その人にとってあまりよくない、ネガティブな現象が次々と起きてしまうようです。



 たとえば何か相手と技をやるとして、自分が捕をする。しかし、いくらやっても上手くゆかない。


 こうなった場合、さまざまな原因は考えられるものの、基本的には、自分の腕の未熟さを見つめる必要があり、我々はたいていそうしています。それは、技をやるという渦のなかに生きているので、技ができているかどうかだけの判断で状況を見るからなのですが、相対的な尺度で生きている人はそうではないのです。


 つまりね、相手のせいにしてしまうのです。自分が技をしようとしたとき、相手が力を入れた、逆に抜いた、体格差がありすぎる、向こうが有段者だったから、などなど。自分自身が技をつかえるようになりたいという思いが第一にあって稽古している人間ならば、できなかった自分をまず反省すべきところを、相対的に立ち、相手に勝つか負けるかという尺度で技と向きあっている人は、上手くできなかった原因をまず相手に認め、この上で、それでも技ができるように腕をあげなければならないという、偽物のポジティブ思考を発揮して自己完結してしまうのです



 できるはできる。できないはできない。ただそれだけで、できない人はできるように努力し、稽古を重ねればよいのです。稽古とは、修業とはただそれだけのことで、言い訳もお愛想も、本来は不必要なものなのです






 と言っても、これだって裏部長のいまのレヴェルで感じることであって、ここに来ていない人にとっては、ちんぷんかんぷんの先輩の苦言くらいにしか聞こえないはずです。そうしていつしか、先輩の苦言が老人の小言になり、振りかえってみると、追いかけてきている人はほとんどいないという有様になるのでしょう。




 

 いや、だからこそ!




 舞台の上で、たったひとりでも舞いつづける人の表現は、尊いのです。



posted by 札幌支部 at 10:31 | Comment(1) | 裏部長の日記

2014年06月28日

素肌

 こんばんは。裏部長です。



 師匠のもとへ入門してから十年が経ちましたが、これまでの稽古を振りかえってみると、意外に、空手よりも体道を濃くやってきたのではないかと、最近ふと考えます。


 2008年以降は体道のみの稽古日は設けず、現在もありません。武道場での稽古は新設しましたが、月一回ですし、一週間に二回の稽古では、おもに空手をやっています。こうして見ると空手がメインで体道がサブのように感じられなくもないのですが、裏部長の場合は道新文化センターでの古武術講座があるため、後輩たちとはすこし境遇が異なるのです。


 木曜日の講座は2008年から、水曜日のほうも翌年の2009年からスタートして、現在もつづいています。週に二度の大学での稽古のほかに、この古武術講座での稽古があり、もちろんこちらでは体道がメインです。そんな月日を、もう六年以上つづけているわけです。



 そのせいかどうかはわかりませんが、気づくと、体道を中心にした物事の考え方をしていることが多いです。





 師匠はつねづね、


技はコミュニケーションである。相手と一緒に技をつくる


 ということを言っています。


 これを受け、自分なりに解釈し、追求した結果、昨年わたしは、


相手とひとつになる


 ということを言いはじめ、それをテーマにして稽古を進めていました。





 師匠がいて、なおかつ裏部長もいる場では、基本的に、上記のテーマがつねに根底にあり、その上で指導がなされているわけですが、ひとつの場所で何年間もやっていると、同じテーマ、同じ指導法を用いていても、できる人とできない人がわかれてしまうことがあります。


 年齢、運動経験の有無、体力、筋力、器用か不器用か、などという条件の違いはたしかにあるでしょう。しかし、かならずしもそれらに当てはまらず、できてしまう人とどうしてもできない人が生まれてしまうこともたしかで、何が違うのだろうと考えさせられていました。



 この疑問に、最近になってちょっとした回答を出すことができました。



 キーワードは、【皮膚感覚】です。





 四月から道新文化センターラフィラ教室に、Oさんという男性の方が参加されました。身長はわたしよりも高く、体格もよく、腕なんかもけっこう太い。しかしこのOさんは、武術や武道の経験はまるでなく、運動らしい運動もされたことがないというのです。だから、稽古をはじめる前はすこし自信なさげでした。


 しかし、いざはじめてみると、初心者に抱く危惧などまるで不要であったと思えるほど覚えがいい。真剣に稽古され、また真面目にノートも書いていらっしゃるので、その努力があってこその結果ではあるのでしょうが、単に、きちんと記憶してきているというだけではなく、稽古をしているその瞬間においても、こちらの要求に適切にこたえられる柔軟性をもちあわせているのです。


 言い方をかえれば、浸透率が高い。技の、というより、身体感覚の吸収がとても早い


 どうしてかなあと訊いてみれば、このOさん、なんと介護の仕事をされているというのです。つまり、日常的に生身の人間にその手で触れているわけです。もちろん、仕事だからといって、システマティックにできる類のものではありません。抱えたり、起こしたりする最中に相手が何か反応を示すかもしれない、痛みや苦しみを訴えるかもしれない、それらにも瞬間的に反応して、力を緩めたり腕の角度を変えたりしなければならない仕事です。


 おそらくそのお仕事の日々が、Oさんへ自然と、武術にもつかえる皮膚感覚を養わせたのではないか。わたしはそう考えています。




 この場合の皮膚感覚とは、自分の皮膚で察知する感覚、というだけではなく、相手の皮膚と自分の皮膚が触れたその瞬間、身体の表面や内部に生じる感覚のことです。これがあるかないかで、技の質はまるで変わってしまうと思うのです。




 もちろんこれは体道だけに限定されたものではありません。相手と自分とが触れあうところで生まれた感覚をじゅうぶんに味わえたなら、それをもって、刀や棒、杖などの武具を扱えるだろうし、空手のように、物理的に離れた場所から突きを飛ばす、あるいは飛ばされるという場面においても、その感覚さえあれば応用は可能なはずです。


 本部道場へ行ってY師範代の突きなどを受けてみると、拒絶されていない、分離していない、当たれば痛いし苦しいのだけれど、決して反発していない、言うなれば、血のかよった攻撃であることがよくわかります。




 しかし、どんなに懇切丁寧に指導し、実際に技を見せたり掛けたりしてみて説き明かしても、いつまで経っても技の理合いを呑みこめず、ただ力まかせに無理やり相手を倒そう、痛めようとしてしまう人が過去に何名かいらっしゃいました。そのなかには、何年間も熱心に武術を稽古し、現在も熱意をもっているという人もいらっしゃいました。


 細かく書くと個人攻撃のようになってしまうので省きますが、きっと彼らには、いま言っている皮膚感覚が欠如していたのでしょう。たとえ柔術に類するものをやってきた人であっても、この皮膚感覚を大切に稽古をしてこなければ話は同じです。古流の柔術経験者や合気道系武道経験者と体道をやったことがありますが、驚く、というよりちょっと引いてしまうほど力まかせでした。何をそんなにいきり立っているのだろうと不思議に思えるくらい無理やり技をおこなおうとするのです。



 おそらく、たぶんにこの皮膚感覚というのは、攻撃よりも防禦の要素を重視し、投げる押さえる絞める固める打つ突く蹴るといった、技の動作だけではなく、その動作をするなかで生まれる一体感、力を感じない、あるいは不要だと感じる瞬間を大事にしているかどうかで決まるのだと思います。それをせず、ただの勝ち負けや型をやるだけの稽古では、わたしがいま言っているような皮膚感覚はきっと生まれません。





 先日の栃木遠征、初日の体道稽古のとき、柔道のように組んだ状態からの投げ技を師範に見せていただきました。わたしはそのとき受をとったのですが、組んだ瞬間にいろいろな情報が師範の身体から自分の身体へ流れこんできて、すこし面喰らいました。


 奥襟と袖をつかんで向かいあっただけで、師範の身体のどの一点にも力みのないことがわかったのですとにかく軽い。それは、小柄な人に触れたときの軽さとはまるで違っていて、もっと言えば、そこに誰もいないかのようなのです。人型のフォルムはあるのだけれど、なかには何も入っていない。


 そんな状態なので、捨て身に投げられたときは、自分でも驚くほど気持ちよく飛んでゆけました。無理に、力をつかっておこなうことなく、技だけで、しかも、無駄なものがまるでない身体でおこなった技というのはあそこまで爽やかに相手を投げてしまえるものなのですね。すごかったです。





 この皮膚感覚がすこしでも芽生えた人は、一方的にまくし立てるようにしゃべったりはしないでしょう。その感覚が鋭敏であるということは、自分から押しつつも相手から押されることにも対応できなければならないわけで、表現をかえれば、怖れをもっているはずなのです。その怖れをもっている人が、自分の意見ばかりをならべ立てて、相手の話を聞かないなどということはありえないはずです。




 今日ふと、「手押し相撲」ならぬ「手押され相撲」というのを考えてみたのですが、もしかしたら皮膚感覚を養うのにつかえるかもしれません(体道をやれる人は体道で養えばいいのですが)。



 今度、師匠に聞いてみます。



posted by 札幌支部 at 20:04 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年06月23日

Ability

 こんばんは、裏部長です。


 すっかり更新が滞り、先日おこなった栃木遠征のことも書かずじまいでしたが、裏部長ならびに札幌支部は元気です。あいかわらず、ほそぼそと稽古に励んでいます。




 今回の遠征は、師匠のほか、大学生のKくん札幌大学OBのAくんと、師匠のご子息、そしてわたしという、これまでにない新しい布陣で向かいました。


 行ったメンバー以外にもいろいろとはじめて尽くしで、たとえば飛行機は世にいうLCCというやつで、たしかに狭かったけれど内装が新しくて思いのほか快適だったこと、初日の体道稽古には外国人の方が飛び入りで参加されたこと、山の上にある神社と石仏のある寺を見物したこと、Y師範代のご子息Tくんが働く店にサプライズ訪問したこと、そして、札幌支部の遠征としてははじめて、稽古中にカメラを廻さずにいたこと。


 いろいろと刺戟的な三日間でした。先輩としては、初参加の後輩二名が、稽古のあとに目を輝かせて興奮していたことが何よりうれしかった。まるで、はじめて栃木に来たときの自分を見るような、しかしあのころのわたしはあきらかに、いまの彼らほど理解も実践もできていなかったなあという、すこし切ない想いも去来しました。



 師範をはじめ、本部道場のみなさまには今回もたいへんお世話になりました。


 ありがとうございました。






 さて、今回も技の内容などについては記せませんが、遠征から帰って一週間ちょっとのなかで、わたしが考えたり気になったりしたことをふたつ書いておきます。





○「どういった動きが身体のなかに沁み込んでいるか


 これは先週の火曜日、つまり、遠征後最初の稽古が終わったあと、談話室のなかで師匠が発したことばです。



 目の前にひとつの技、ひとつの動きがあったとき、それをどのように受け取り、理解し、吸収した上でどのようなかたちに変換し、自分のものとして表現するかは、その人がどのような修業をしてきたか、そのなかでどんな技をどのように考え、錬りあげ、稽古してきたで決まる――そんな意味がこの一文にはあります。



 怖いことばです。それまでの日々が間違っていれば、たとえ貴重な技が目の前にあっても見ることはできない。逆に、どんなに時間がかかったとしても、一本の道を素直に歩きつづけた人間には、かならずや見えてくるものがある。それは、昨日今日の話ではなく、十年、二十年、三十年と稽古をつづけてはじめて実現することでしょう。しかし、唯一たしかなことではないでしょうか。



 まっすぐな稽古は、裏切らない。






熱意と行動


 先日、最終回を迎えたTVドラマ『弱くても勝てます〜青志先生とへっぽこ高校球児の野望〜』で、ヒロインに恋するあまりストーカーとなり、それを理由に無理やり野球部へ入らされるも、いつの間にかたのしくなってしまい、三年生が抜けたあとはレギュラー選手として歩きだす、不思議な髪型の少年を演じた桜田通という俳優は、昨年の三月から八月までのあいだ、単身イギリスへ留学をしていました。



 まだ二十代前半の若い俳優です。以前は仮面ライダーもやっていた人です。それがなぜ急に半年間も(厳密には、もろもろのトラブルなどあり、合計一年半ほど)仕事を休止してしまったのか。



 それは、彼自身が自分を変えようと思い立ったからです



 小学生のころから仕事をしていて、母親には溺愛され、事務所は大手で、私生活でいやなことがあれば仕事を理由にいくらでも逃げられる日々。それはぬるま湯の人生で、いつからか、こんなことではいけない、このままでは芸能界で生きてゆけなくなると危惧したそうです。


 だから、決して逃げられず、甘えることもできない海外を選んだ。ホームステイをし、向こうの学校にかよい、馴れない英語や料理、ひとりぼっちの孤独にも耐える毎日を送り、そしてそのなかで、彼はこんなことを悟ったそうです。



海外で得た僕のアビリティーは、行動したら叶う可能性が上がるってことなんです。もちろん行動しても叶わないことがあるのも知ったけど、可能性は上がる」(『さくらだ』より)



 二十二歳の青年に教えられたような気がします。




 わたしも以前から、願うものに対しては、理性よりも感情で動くようなところがあり、そういった行動こそ本物だろうといまも信じています。


 行動できない以上、想いはその程度のものです。願いが強すぎて、居ても立ってもいられない人は、こまごまとした言い訳などせず、ごたくも並べず、とっとと行動しているはずです。個人的なことを書けば、わたしは、言っているだけで実行しない人を信用しません。好きにもなりません。



 それは、斯くあらんとする自分を支える信念でもあります。







 桜田通さんのブログ(http://ameblo.jp/dori-s/)、ときどきぶっ飛んでいてたのしいです。興味のある方は読んでみてください。




 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 19:53 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年04月26日

気持ち的には3センチ

 こんにちは、裏部長です。



 四月も終わりに近づいてきました。札幌でもすっかり春らしい陽気で、大学の構内にはまだすこし雪は残っているものの、最高気温が二十度をこえる日もちらほら出てきています。あの冬の寒さが嘘のようです。


 そのせいかどうかはわかりませんが、どうも毎日ぼんやりしてしまいます。春眠暁をどうたらこうたらというやつなのでしょうかね。とにかく、どういうわけか思考が鈍く、霞を喰って生きるどころか、わたし自身が霞になってしまったかのように、身体が妙にふわついて困ります。



 以前は春になってもそんなことはなかったのに、どういうことでしょうかねえ。これもやはり、老いというやつなのでしょうかねえ。




 先日、こんなことがありました。


 稽古へ行こうと思って、すでに胴衣を入れたリュックサックへ体道のノートをおさめようとしたところ、なかにあるはずの膝のサポーターがない。最近はほとんど痛むことはありませんが、裏部長は膝に小さな爆弾を抱えているので、用心のためにも、リュックサックのなかにはつねにサポーターを入れているのです。


 それがない。ないはずはないのですが、どこを探しても姿が見当たらない。


 どうしたものだろう。なぜないのだろう。もしかして先日の稽古のとき、教室に置き忘れてきたか。いやいや、そんなことは――と散々考えて、身を起してみると、目の前の棚にちょこなんとのっています。


 ノートを入れるために、一度出したのですね。


 自分で。つい数十秒前に。




 ……




 これが老いというものなのでしょうか。






 さて、稽古の話です。



 ここ最近、空手のほうではやはり突きを考えています。これまでとは大幅に違う身体づかいの上で、しかし、これまでに培ってきたことすべてを放出するような突きを稽古中です。そうすることで、相手との間合いの意識や、突きそのものの印象が変わり、容易ではありませんが、面白いです。



 昨夜は大学院生のOくんと約束組手をし、追い突きのほかに、珍しくワン・ツーなどもやりましたが、不思議な手ごたえがありました。あくまで主観的なものですが、ワン・ツーのときなど、九十年代なかばに、師匠が栃木へ帰省された折、師範がカメラをまわす前で、I師範代に対してやっていた突きのような雰囲気が数度あらわれた気さえしました。



 なんともマニアックな話で申し訳ありません。



 もちろん、そうは言っても、やはり一番しっくりくるのは追い突きです。昨日は、一本目の突きはもちろん、そこからの二本目、三本目の動きがこれまでと違っていて、やっていて自分で驚きました。なるほど、そうか、一本の追い突きが変わっただけであれだけ大きな違いが現れるのかと、わずか数本の約束組手でさえも感動をおぼてしまったほどです。







絵筆を執らなければ画家ではない



 それがどんなに面倒でも、時代遅れでも、不便であっても、絵筆を握らなくなった画家はもはや画家ではない。時代に照らしあわせて、流行や利便性を追求すれば、ほかにもっと効率的な手段が見つかったとしても、その手で、その指で、実際に絵筆をとり、キャンバスへ向かうのが画家の生き方であって、その道をつき抜けた先にしか、表現の極地は存在しない。




 そんなことを思う裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 12:09 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年03月22日

燃える躰

 おはようございます。裏部長です。


 三連休、いかがおすごしでしょうか。




 すっかり更新が滞ってしまいましたが、札幌支部も裏部長も、いたって元気です。本州では、やれ春だやれ花粉だと言っている時期に、こちらはまだ雪が降っていて、また新年度直前ということもあり、稽古への参加人数は減っていますが、それなりにたのしくやっています。



 あと一週間とすこしで、もう四月です。




 と、書きはじめたはよいものの、とくに記すことはないのです。もちろん、稽古はおこなっているので、そこで得たこと、学んだこと、収穫したことを書くことはできるのですが、どれもただの報告になってしまうので、なかなか文章にならないのです。というか、そのような内容の文章を書く気がどうしても起きないのです。



 これは、ある意味では裏部長にとって貴重な変化だと言えなくもないです。なぜなら、以前はそういった報告だけでもじゅうぶん書けていたし、充実感もあったのですから。しかし、いまはない。「師匠がこんなことを言っていた」とか、「突きに関して、こんな助言を受けた」などと書いたところで、それは単なる報告で、わたしのことばではない。自分ではないのです。


 

 こんなことはわざわざ記す必要はないもので、おのれの内に抱えていればよいだけの話なのですが、ブログを更新するための苦肉の策としてあえて書くとすれば、最近どうも、充実する稽古とそうではない稽古にわかりやすく分別されるようになってしまった、ということがあります。



 あきらかにこれは、裏部長本人の問題で、師匠や稽古環境がどうのこうのということではありません。ただし確実に、稽古のよしあしがわかれて、前者のときは身も心も軽く、引き締まり、膨張し、空へ浮きあがってゆきそうなほど気持ちが和やかになるのにくらべ、後者のときはストレスでしかなく、肉体はただ疲弊し、感情は暗い影を落として、二時間の稽古を徒労と言い換えたくなる。今日のこの数時間を、または入門からの十年間を、わたしは何のために送ってきたのかと思い悩み、握っている拳をあわてて解くような夜もあります。




 こうしてあらためて書くとなんだか病んでいる人みたいですが、べつに鬱ではないので安心してください。




 要は、自分のなかで、「今日はいい稽古ができた」と「今日はまるで駄目な稽古だった」の違いが厳然として出来てきたということで、しかしもちろん、よいと感じる稽古ばかりではないし、そんな風に思える稽古ばかりをしていたからといって、成長が約束されるわけでもない。だから稽古者としては、そのあたりに上手いこと折り合いをつけて、決して偏らず、あまり思いこみすぎずに、たのしく日々を送ることができなければいけないわけです。



 よいときの感覚も、だめなときの感覚も、どちらも自分のなかにあるのです。よかったときは、身体の芯が赤く燃え、無尽蔵のエネルギーさえ感じるのに、だめなときは、汗はかいているのに冷たく、肉体の根っこは水びたしで、どんなに動いても、皮膚の表面だけがプスプスと音を立てて腐蝕しているような感覚にさえなってしまう。





 自分で考え、自分で採るということができない限り、今後も、これ以上もない気がします。



posted by 札幌支部 at 08:56 | Comment(1) | 裏部長の日記

2014年02月18日

本日

本日、悪天候のため、稽古中止します。


裏部長
posted by 札幌支部 at 13:59 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年02月07日

本日の稽古について

おはようございます。裏部長です。


札幌支部の本日の稽古ですが、師範不在の上、私も仕事の都合で行けなくなってしまったため、申し訳ありませんが、中止にさせてください。


なお来週は、火曜日は祝日のため稽古はお休みです。金曜日は実施予定ですが、急遽変更になることも考えられます。


中止にするときだけ、あらためて連絡をまわします。


よろしくお願い致します。
posted by 札幌支部 at 10:49 | Comment(1) | 裏部長の日記

2014年01月27日

武当式の八段錦

こんにちは。

先週末の土曜には、久しぶりに奈良・田原本の支部道場へ行ってきました。
M田君とM本君との再会と稽古は楽しかったです。

ただ、あいにく二人とも体調不良に見舞われたために、武当式の八段錦と中国での武術の様子を語りながらの稽古になったので、もしかすると二人は消化不良だったかもしれません。
まぁ、次を楽しみにしましょう。

ということで、件の八段錦についてです。
武当山の武当道教功夫学院にいたときにも書いていたかもしれませんが、ここで習った八段錦は、これまでに知っていたものと動きが違います。
その詳細は省きますが、私にとっては、軸の再確認、腰を要とすることの再確認、体側部の伸展が利点となっています。

養生のための身体操法として習ってきましたので、体側部の伸展が、経絡への刺激につながっているのかなぁ、と感じつついますが・・・きちんと調べずに今に至っています。
心地よさが実感としてあるので、この感覚を頼りにしています。

それでも、日本に戻ってきてから、私のかかわれるところでは、この八段錦を披露し、簡単に説明しながら実践してきていますが、おおむね好評です。


腰の上にある上体を安定させて腰のひねりや移動が、運動の基本の一つとなっているわけですが、ゆったりと状態に無理な力みを生じさせずに行うこの運動は、本当にいいなぁ、と思います。
じっくりと30分くらいかけて行うと、日によっては温泉上がりのような昂揚感もあり、心地よさが広がります。


関係する本も一冊見つけて購入してきているのですが、早い機会に読み解いて、もう少し理もたつようにしておきたいと思います。




posted by 札幌支部 at 12:55 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年01月18日

上手く笑えるために

 おはようございます。裏部長です。



 寒波はなおも日本を覆い、札幌も連日の真冬日です。ここ一週間ほどガスのつきが悪くて、部屋が寒く、昨日ガス会社に来てもらい、処置をしてもらったはいいが、昨夜から今度は原因不明の水漏れが発生し、先ほど再度ガス会社へ連絡した裏部長です。


 いま、その担当者の到着を待ちながら、寒い部屋でこのブログを書いています。





 さて、寒波が猛威をふるっていた先週末、わたしは単身、栃木へ飛び、本部道場の稽古へ参加してきました。栃木も寒く、夜になると凍えるほどでしたが、師範をはじめ本部道場のみなさんがあたたかく迎えてくださったおかげで有意義な二日間をすごすことができました。



 まだ暑かったいつかの九月に、はじめてひとりで伺ってから二年とちょっと。あのころは自分を変えたいという強い想いがあり、希求の人となって栃木へ向かったわけですが、今回は違いました。そういった目的や先入観などをすべて置いて、まっさらな状態で本部道場の稽古に触れ、そのとき自分は何を想い何を感じるのか、そういったことをはかりたいという心持ちでいたのです。



 本部道場のみなさまにはほんとうによくしていただき、気をつかっていただいて、恐縮至極です。師範には滞在二日目の朝から夕方まで、つきっきりでさまざまなお話を聴かせていただきました。武術のことはもちろんですが、師範の青春時代のお話などはとても貴重で、単に道場で技を教わる以上の味わい深い時間をすごすことができました。



 心より御礼申しあげます。ありがとうございました。






 さてさて、どうにも部屋が寒いので、久々にどうでもよい持論を展開して体温をあげてみます。




 最近、裏部長は、


武術における出処出自が、その人の現在や未来にすくなからず影響を及ぼすのではないか


 ということを考えています。




 つまり、いまは同じ道場で同じ流派の技を同じように稽古している仲間であっても、どういうきっかけで武の道に入ったのか、それ以前はどんなことをし、どんなものに感動したり興奮したりしていたのか、そういったことは十人十色で、厳密に見ればひとりとして同じ背景はないでしょう。

 

 そしてその背景が、稽古者の現在や未来を色づけるひとつの要素になっている。そんなことをぼんやり考えたりしているわけです。




 札幌支部で言えば、部長やS呂くん、医学生のIくん、札大卒業生のAくんなどは、“空手の人”でした。実際に試合にも出た経験があり、いまだに空手に対する熱意は消えません。それぞれ稽古に臨む姿勢の色は違いますが、みな熱心で、ある意味ではとても元気な人たちです。



 片や、たとえば大学院生のOくんは研究の分野から稽古へ入ってきたし、がっちりとした体型のO澤くんは現在も並行して野球をやっているスポーツマンです。いちばん若いKくんは、たしか過去に少林寺拳法や柔道の経験があったらしく記憶していますが、現在は空心館の稽古を皮切りに、広く武術に対する興味をもちはじめている人です。



 これらの人々が集い、稽古がはじまると、やるのは空手の基本であり、移動であり、約束組手であり、型であるわけで、そこに体道が加わっても加わらなくても、基本的におこなう内容に変化はありません。師匠のもと、各段階で得られる術理などを学び、ひたすらくりかえし、修得を目指すのみです。



 しかし、これは推測ですが、これら札幌支部の稽古者が全員、まったく同質の内容や結果に歓びを見出すとはどうしても考えられないのです。性格や人間性などを踏まえた上での「多様性」がそこには存在していて、同じ風景を見ていても出てくる感想はおのずと異なったものになる。



 それらを最大限に考慮して稽古をする必要は、あるとも言えるしないとも言える気がします。稽古とは、そこにある武の大原則を学ぶことであり、稽古者によって姿を勝手に変えてよいものではないはずですから、教わる人間が「これは自分に合わない」と感じたが最後、道場の側が変わる必要はなく、彼がそこを去れば済む話なので、上記のような指摘は単なる甘えに映ってしまうことでしょう。滅私ということがある程度できなければ、技芸の習得などできようはずもないのですから。



 ただ。そうは理解した上で、それでもわたしは「多様性」と「武術における出処出自」ということをいまは考えてしまうのです。むしろそれらを踏まえた上で自分の動きや稽古への姿勢を見つめ直したほうが、有意義な日々を送れるような気がするのです。






 今日書いたことは、先日のわたしの記事とは相反する内容です。支離滅裂な裏部長ですみません。


 こういった心境の変化が、新しい自分へ生まれ変わる契機になることを願っています。



posted by 札幌支部 at 10:56 | Comment(0) | 裏部長の日記