2018年02月18日

手は差し伸べられる

 おはようございます。裏部長です。


 二月も後半に入り、各地ではまだまだ寒さや雪の被害が伝えられているようですが、おとなりの国では、氷点下のなかで熱いたたかいが繰り広げられています。時差の問題がなく、TVでの放送も見やすい時間帯なのでありがたいことはありがたいのですが、その分、ふだんのオリンピックより盛りあがっていないような気がするのはわたしだけでしょうか。


 そんな如月、みなさまいかがおすごしでしょうか。






 さて、先日の空手の稽古での話――。



 その日もいつものように、師匠、札幌大学のI先生、中国から来られているRさんほか、太極拳をしているTさんやIさん姉妹、そして栃木のHさんと、中国色と女性率の濃いメンバーだったのですが、稽古としては、基本を軽めにやって、その場での受け・突きなどをしたあと約束組手となりました。


 ふだんはもちろん中段追い突きをおもにおこなうのですが、この日はまず、互いに正対した状態で、一方はその場突きをし、もう一方は左右に沈んでこれから体を外し、まっすぐ突きを出すという動きをやり、つづけて、刻み突きに対して後ろの手をまっすぐ差し伸ばす動きをやりました。


 札幌支部ですごすわれわれにとってはどちらもおなじみの動きではあります。


 しかしこのとき、後者の技を説明する過程で、師匠が、「この崩れが生まれれば、そこからこんな風な投げにも発展させられる」と見せた技を目にして、中国から来られているRさんは驚きを――大仰に言えば、感動と興奮をおぼえたようなのです。


 Rさんいわく、

その動きは太極拳のなかのある技に似ているが、この技はかなり高度なもので、できる人はほとんどいない。私も読み聞きして知ってはいるが、自分ではできないし、できる人を見たこともない

 ということなのでした。



 この夜の稽古と、また別日の稽古もさらに費やして、師匠としては、その技の感覚の片鱗でもRさんにつかんでもらって、お土産として中国へもち帰ってもらえればと、あれやこれや手をかえ品をかえ実践してみたわけですが、みなさまもご存知のように、そう易々と身につけられる技ではありません。


 斯くいうわたしたちですらまだできないものです。これからきちんと取り組んで、できるように励まねばならない技なのです。


 ですから片鱗と書いたのですが、その領域の、この場合は受けの技ですね、この受け技を実践できるようになるまでには、もちろん突きの、攻撃のレヴェルも上げなければならず、その過程にはいくつものステップがあります。


 空手のかの字も知らない素人の状態から空手をはじめたわたしとしては、入門から十四年経って、これまでを振りかえるとほんとうに多くの段階を踏んできたのだなあとあらためて感じます。いまその受け技を考えるときに、前提となっている突き、攻撃を獲得するまでにも長い時間がかかりました。そしてこれからの技たちも、いまの状態の上に立って、さらに稽古を重ねることでしか習得できないのだろうと想像します。


 しかし、その成長の手がかりやヒントは、すでにわれわれの前へ提供されているということを、いまあらためて意識する必要があると思うのです


 現に、上記の受け技はこの日にはじめて教わったものではないのです。以前にもやったし、指導もしてもらいました。もちろん一朝一夕にできるものではないから、そのときに感覚をつかんだわけではなく、これから時間をかけて向きあってゆくものなのですが、目の前にはすでに差しだされていたわけです。



 この技には限りません。

 いくつもの教えが、その片鱗が、すでにわたしたちの前にはある。

 日々の稽古のなかでこれをやりすごさないこと。意識をもって、課題をもって、稽古すること。




 われわれが手にしようとしているのは、あの長い歴史をもつ中国武術のなかでもかなり高いレヴェルに匹敵するような技なのだと考えれば、おのずと腰も据わるというものです。





 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 10:04 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年01月29日

基準と感覚

 こんばんは、裏部長です。


 明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。




 とはいえ、2018年がはじまってすでに一箇月が経とうとしています。この間、寒波が来たり大雪が降ったり、日本全国津々浦々、ひっちゃかめっちゃかになっているみたいですが、札幌はさほど悪天候ということもなく、例年どおりに寒い一月をすごしております。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。




 
 今年に入り、裏部長が考えたことのひとつが今日のタイトル、つまり、

基準と感覚

 です。



 たとえば体道のなかで技をやっているとして、捕と受の動きがあるわけですね。教わる際、われわれはまず自分の動き、捕のほうの動きをおぼえ、把握し、実践できるようくりかえし練習します。


 この場面では、ほんとうにさまざまな動作があります。


 足を引く、出す、手を伸ばす、上げる、体をひらく、鎮める……などなど、とにかくいろいろな動きのつながりのなかで技は進行し、相手を崩したり投げたり制したりする結末へと向かってゆくのですが、どうしてもこのとき、最初は自分の身体やその感覚を重視して動いてしまうのですね。


 たとえば足を引き、体をひらくとします。とはいえ、その足を、その半身を、どの程度引いたりひらいたりすればよいのか、すべてを数値や角度であらわすわけではないので、みな各自に任されるわけです。しかし、当然のことながら、自分のなかにある感覚に照らした動きをしているだけでは独りよがりです。たいていの場合、その動作は相手に響かず、技は上手くゆきません。


 自分の感覚に従って動くということは、悪く言えば、自分の好きなように動けるということです。自分の好きなだけ足を引き、自分のやりたいように体をひらく。それらがたまたま上手い具合に技にハマるということもないわけではないでしょうが、確率的にはかなり低い話です。


 そして、わたしは、そのやり方で実践しようとして上手くいっていない人たちを多く見てきました。



 この場合の改善点は何か。


 そのひとつとしてわたしは、「基準」ということをもち出してみるのです。



 つまり、その技の核は何か、肝の部分は何かをまず見極めること。その上で、相手を崩すために、相手へ力を伝えるためにどこが重要なのかを知り、それを成立させている箇所はどこか、それらを構成している自分の動作は何か。ここを押さえることができれば、そこさえ守ればよいのです。そのポイントさえ揺るがせにしなければ、技の全体像はおのずと整ってくるはずです。


 これが「基準」です。技のなかの心臓部、あるいは血管、神経のようなものです。これを知り、把握し、その「基準」がきちんと成立しているような動作を心がければ、技の様相はおのずと変わってきます。


 そしてほとんどの場合、この技の「基準」は、かならず相手との関係性のなかにあります


 自分の身体のなかの感覚にはありません


 技において必要な感覚とは、この「基準」を踏まえた動作をくりかえし稽古し、積み重ねたなかで獲得される感覚であって、自分の体内から自分の手で導き出すものではない


 裏部長は、現時点ではそう思っています。




 技の具体例を示せないので、いささかわかりづらい文章になりました。ご了承ください。


 裏部長でした。




posted by 札幌支部 at 18:58 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年12月30日

葦を揺らす風

 こんばんは。裏部長です。



 あと一日とちょっとで、2017年も幕を下ろします。

 巷ではさまざまなことが噂され、凄惨な事件、悲しい事故、世界規模の懸念など、長時間の報道番組を埋め尽くす出来事の数々がこの国を覆っているようですが、そんなあれこれとは無縁に、自分のペースで、自分らしく生きられる今日この一日をありがたく思えるわたしは、すっかりおじさんになってしまったのでしょうか。


 今年も大詰めです。みなさま、いかがおすごしでしょうか。




 年末には稽古納めがあり、年始には稽古初めがあります。

 旧い年から新しい年へ、決意をもって、目標をもってつき進むことは必要でしょうが、なんだか今年はそんな年末感があまりありません。年が変わったからといって何かを捨てるわけではなく、どこかを無理やり変えるわけでもない。

 もちろん、現状維持でよい、とも思っていません。

 来年はいまよりも前に、もっともっと上に、自分を鍛えて成長させてゆきたいと強く思います。しかし、その気持ちはすでに胸のなかにあるため、わざわざ何かをしてそれを表そうとはしていないだけなのかもしれません。



 まだまだ学ぶことはあるし、手にしたいものもあるし、ステップアップしてゆきたい。



 今年は後半に、月刊『秘伝』において師匠の対談記事が掲載され、体道連盟や藤谷師範のことも紹介されました。組織の規模を拡大することはべつに望むところのものではありませんが、自分たちが学んでいることがもそっと多くの方に知られ、愛され、気にかけてもらえるようになれば、それはとてもたのしい未来です。有望な人材も自然と集まるでしょう。



 2018年はそんなこれまでにない変化が生まれ、前進できる一年になりますように。

 裏部長も、自分らしいペースで、それでも上を目指します。




 空心館のみなさま、そして、武術に生きるすべてのみなさま。


 よいお年を。あなたらしい新年をお迎えください。


 裏部長でした。



posted by 札幌支部 at 17:45 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年11月11日

鉱脈

    部屋に暖房を入れる季節となりましたなあ〜





 おはようございます。裏部長です。


 長らく更新を怠っていましたが、わたしも札幌支部も、みな元気にやっております。

 夏が終わり、すっかり肌寒くなって今日までのあいだに、すでに何度か雪が降りました。もちろん、まだ積もるほどではありませんが、最高気温がひと桁という日があたりまえになり、吐く息も白いです。



 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 さて、まずは最近の札幌支部についていくつか。


 紅一点Hさんが栃木から来られて札幌大学の学生となり、札幌支部でともに稽古をはじめてずいぶん経ちました。彼女はわれわれのほうと合わせて空手部の練習にも参加し、定期的に試合へも出場しているので、大変だと思いますが、当人はどこ吹く風で、いつも飄々とたのしげに顔を出してくれます。


 栃木で、Y師範代のご子息Tくんに接したときにも思いましたが、ほんとうに空手が好きで、心から武術を愛し、稽古している人というのはこういう風に生きられるものなのだなあと、わたしなどは日々人知れず驚いている次第です。単に若いというだけではないエネルギーを感じます。



 十月からはさらに、中国からのお客さまも加わりました。


 Rさんといって、向こうの大学で武術を教えている方です。半年の期限つきで札幌大学へ来られて、武術の伝承について研究をされるということで、師匠のもとで日本の武術にも触れたいと、最近はほぼ毎回稽古に参加されています。


 空手も体道もともにやり、Rさんからは中国の養生体操や武術の動きを教わります。いわば武術の異国間交遊、駅前留学ならぬ、教室内武術的留学です。


 その動きの多彩さもさることながら、三十代後半であそこまで武術を知り、理解し、研究しているRさんには感嘆するばかりです。打てば響くように、訊いたそばからこたえてくれる、見せてくれる、提供してくれる師匠のような存在はじつは稀で、わたしたちはそんな師匠に学んでいるせいか馴れてしまっていますが、あのようにふだんの会話のなかで提示された疑問やテーマ、質問に対して臨機応変に回答をするというのはなまなかなことではないのです。Rさんはそれをやっていらっしゃる。いるところにはいるものなのです。





 そして、去る十一月三日から五日までの三日間、札幌支部は奈良遠征へ出かけてきました。


 今回の参加者は、師匠とそのご子息おふたり、札幌大学のIさん、紅一点Hさん、そして今回が初参加の大学四年生Kくんとわたしの七名。いつにない大所帯で伺いました。


 初日の金曜日は奈良支部の通常の空手稽古に混ぜていただき、M田さんとM井さんに手ほどきを受けました。わたしは、奈良支部の道場へ来たことはありましたが、通常の稽古に参加するのははじめてだったので、新鮮でした。基本も移動も札幌支部にはないメニューが多く、それでいて約束組手は、受ける側が固定される本部道場式ではなく、札幌支部でも採用されているローテーション式でと、なんとも言えない折衷感がありました。


 M田さんと組手で本格的に向き合うのはおそらく、M田さんが札幌へ来られたときに大学の教室でおこなった稽古が最初で最後、今回が二度目でして、M井さんとははじめてでした。厳しさと個性。しかし、それらは決して押しつけがましくなく、気づかせてくれる時間でした。ここが空いていると上段を突かれてしまうよ、ここを疎かにすると蹴りが入るよと、ことばではなく動きで示してくださったような気がしました。



 二日目は午前中から。


 少年部の稽古に混じり、動いていると、全日本体道連盟のT技術顧問が来られました。そこからは技術顧問につきっきりで指導をしていただきました。


 わたしが同氏にお会いするのは今回が三度目です。過去二回の稽古で、断片的に指導をされたことはありましたが、きちんと正式に教わるというのはやはり今回がはじめてでした。


 技術顧問は指導内容のレジュメを手ずから作成され、人数分プリントアウトまでしてきてくださり、九時すぎから昼食をはさみ午後四時半まで、みっちりたっぷり教えてくださいました。


 あまりに濃いものを大量に嚥下したため、お腹も頭もいっぱいいっぱいで、M田さんいわく「もうゲロ出てんで」ということでしたが、たしかに、そのときは消化できない量のほうが圧倒的に多く、戸惑ってしまいました。ただ、札幌へ帰ってきてあれこれ反芻し、その動きをふたたびやってみたり、師匠と話してみたりするうちに感じてくるものや見えてくるものなどもあり、有意義な稽古だったといまは言えます。


 指、骨、体道の技の再検討、一受必殺。



 おしなべて、空心館は個性ぞろいで、ふつうの人はほとんどいませんが(どちらかというと裏部長がいちばんまともなような気が……)、その個性に圧倒されて、受け入れるいとまもなく、拒絶反応を示して切り捨ててしまう気持ちは大いにわかります。


 しかし今回の遠征を経て気づいたのは、諸先輩方は、それぞれが数十年かけて研究し、見つけ、考えに考え抜いた結果であるところの技やそのエッセンス、要点を教えてくださっているのであって、これはじつに大変なことなのですね。われわれ学ぶ側の人間は、多少消化不良でも、多少ゲロが出てしまっても、考えすぎて脳髄が鼻から垂れてきたとしても、ちょっとのあいだ堪えて、冷静に、真剣にそれらと向きあってゆかねばなりません。


 それが義務だと言うと堅苦しくなってしまうし、辛いでしょう。


 たのしむことです。それがほんとうにたのしめるようになったとき、触れたものが沁みこんでくるはずです。



 奈良支部のみなさん、T技術顧問、このたびはお世話になりました。ありがとうございました。


 これからどんどん寒くなります。みなさまお体はじゅうぶんご自愛ください。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 11:02 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年07月07日

清冽な水で

 こんばんは。裏部長です。

 大変、うんざりするほど、お暑うございます。




 最高気温が三十三度を超えた本日、札幌支部の稽古はお休みです。しかし安心もしていられません。今日は熱帯夜になりそうな気配……とはいえ、湿度が比較的低いので、どうにか乗り越えられそうです。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。






 さて、変わった話題とてないのですが、最近の裏部長は体道で山本無辺流棒術を教わっています。



 これまで杖や短杖を用いた技はいくつか学んできていて、つい先だっては柳生新陰流の仕込杖もやっていましたが、それらすべては対刀の技であって、今回はなんと、こちらも棒ならばむこうも棒という、棒対棒のあらあらしい闘いが展開されております。


 六尺棒の威力、迫力。その長さ、重さゆえの用法が新鮮で、打ち払った際に残る振動が手をしびれさせ、また新たな刺戟をあたえてくれています。




 体道のなかで、こうしてそれまでにやっていない流派の技を教わると、毎回違った刺戟に触れられ、新鮮な思いで稽古場に立つことができます。


 そのたびに、ああ、いつも技をやる際にはこういった、新鮮で澄んだ心持ちでいられたらどんなにいいだろう、いや、稽古ばかりではない、日常のすべての場面でそう生きられたらどんなに素晴らしいだろうと、人知れず願っている裏部長であります。



 しかし、まだまだそんな風にはなれません。わたしの心身のなかにある不純物が、毒気が、黒く濁らせる瞬間がどうしてもあるのです。できることならば、これらの物質はすべて除去して、いつも澄んだ状態でいたい。透明で清冽な、一点の曇りもない姿勢。




 自分で実践可能なことからはじめ、これを徹底するのはそんなに難しいことだろうか……?




 答えは「否」ですよね。


posted by 札幌支部 at 20:19 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年06月24日

柔があるから

 こんばんは。裏部長です。


 来週を終えると、もう七月です。本州では梅雨まっさかりで、かなり鬱陶しい日々がつづいているようですが、こちらはこちらで、急に涼しくなったりして、朝晩の服装に苦慮する毎日です。


 みなさま、ご健壮でいらっしゃるでしょうか。





 裏部長は師匠のもとへ入門するまで、空手のかの字も知らず、当然その業界にも疎かったわけですけれど、稽古をするようになって十三年以上が経ったいまもあまり変わりません。


 一般的な空手業界、いや、武術や武道、格闘技業界にはとんと縁がないのです。


 それもそのはず、興味がないから、と言ってしまえばそれまでですが、ひとつの道場に十年以上もいて、継続的に稽古していながら、他流儀へここまで目を向けない人も稀なのではないかと、自分のことながら珍妙に思うこともないではありません。


 結局のところ裏部長は、「武術」が好きなのではなく、たまたま出逢えた武術をしていたい人間だったということでしょうか。




 なので、あらためて空手というものを見つめ直したときに、かなり初歩的なことに驚いたりもしてしまうのです。




 空手にはさまざまな受けがありますね。


 上段受け、下段払い、内受け、外受け。そのほかにもいろいろありますが、基本稽古でいつもやるこの四種類に限定して見てみても、その動作を、ごくシンプルにそのままおこなった場合、相手の攻撃をはじく、自分から離す役割があることを最近になってふと気づいたのです。


 オーソドックスな受け方としては、その動作の性質上、相手の攻撃をどのような度合いであれはじく結果になってしまう。これはなぜか。



 空手には打撃のスキルがあります。自ら突く蹴る打つという選択肢があります。


 つまり、その攻撃のスキルで相手を仕留めれればよいのだト。受けは、相手の攻撃を防げればいいのであって、とにかく自分にダメージが加わらないように受けておいて、すかさず打撃をおこなえばよいのだト。


 そう考えると、単純に払う、弾くといった受け方であってもべつに問題はないのです。そういう空手をしなさいと言われれば、きっと誰でも、今夜のうちから実践することができるでしょう。





 しかし、われわれには体道があります。


 もっと言えば、柔術があるのです。





 たとえば天心古流の「屏風返」をやる際に、相手の追い突きに対してこちらは上段受けをしますが、そこで相手の腕をはじくような受け方をしていたのでは、この技はできません。中段への当身も効かないでしょう。


 さらに天心古流の「両腕攻」を見てみれば、中段への突きを脇に入れなければなりません。そこで、相手の腕を外へそらすような、拒絶するような内受けをしていたのでは、この技はままなりません。



 それは柔術の話だろ。空手のときは空手、柔術のときは柔術のやり方で、つかいわければいいじゃないか。


 という意見があるかもしれませんが、こと打撃での反撃を見てみたとしても、上記の技たちから得られる教訓を反映した受けのほうが、あきらかに威力が大きくなりますね。



 つまりは、そんな空手をわれわれはふだんから稽古しているわけですが、思えばそれらはいささか不思議な話で、オーソドックスな空手を知っている人からしたら、やはり珍妙に映るのではないでしょうか。




 もちろん、これはかなり初歩的な技術的側面であって、そこまで単純な話だけでは説明しきれない流れ、領域があり、それらも含めてわたしたちは稽古できているわけですが、このあたりのことを説明する気力も体力も、三十路をすぎた裏部長にはもうありません



 筆マメな、目をギラギラさせた若い入門者がやって来るのを、初夏の空の下で待つばかりです。



 
posted by 札幌支部 at 19:29 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年06月10日

突きがあるから

 こんにちは、裏部長です。

 大変ご無沙汰でございます。



 2017年も折り返し地点を迎え、札幌では雨降る肌寒い六月、みなさまいかがおすごしでしょうか。





 いきなりですが、上半期に起こった札幌支部の変化をいくつかご紹介!


 まず、稽古場所が変わりました。ここ数年は、二号館の地下にある比較的広い、そのうえ使用されていない教室がありまして、普段つかわれていないということは机や椅子などを片づけた状態のままで置いておけるということなので、とても楽でして、冬あたたかく夏涼しいという、なんとも快適な空間だったのですが、今年の四月から新たに展示室として生まれ変わると言われ、場所替えを余儀なくされたのです。


 それで、結局どこへ行ったかといえば、わたしが師匠のもとへ入門した当初から、二号館などへ移るまでずっと使用してきた、一号館の地下教室に舞いもどったのです。古巣に帰る、というやつです。


 久方ぶりに訪れた日はなんとなく懐かしさと、そして淋しさがありましたね。


 わたしたちがつかっているのは一番奥の教室で、そこへ行くまでには、三つほど教室が連なっているのですが、そのすべてがいまは授業で使用されていないというのです。少子化のせいなのか、何かほかに理由があるのか知りませんが、机や椅子が雑多に積み上げられ、物置のようにさえ見えるそれらの教室たちは、わたしが学生のころなどはふつうに講義でつかわれていましたからね。時間の流れというのは残酷なものです。





 そして、第二の変化は、Hさんの来札です。


 栃木の高校生だったHさん。あちらでは本部道場で研鑽を積み、高校の空手部でも活躍をし、しかし大学進学に際して、武術への熱情衰えず、最終的にはわが師匠が教授兼副学長として在籍する札幌大学へとやってきたHさん。力士とお米が好きなHさん。靴下が嫌いで、年中裸足でいるHさん。


 本部道場経由とはいえ、札幌支部に常時女性の稽古者がいるのはとても珍しいことで、近年は婦人部と称して、太極拳などを学ぶグループができましたが、空手や体道をメインにする人は、これまでひとりもいなかったのではないでしょうか。


 Hさんはほんとうに稽古熱心で、空手、体道はもちろん、その脇でおこなわれる中国武術の練習や道新文化センターでの古武術講座にも参加して、飄々としながらもつねに武術と触れあっているような人です。


 そしてそのとき、見せてもらった体道の資料の、写真のなかの師範のお若いこと!

 人に歴史あり。その歴史の道の上にわれわれは立っているということを痛感させられました。





 大きな変化といえば、この二点くらいですかねえ。


 Hさんが何気なく打っている型を見て、こちらでやっている型と違い、その差異は何かと調べたら、そもそも動作自体が変更されていたなんてことを発見する夜もあれば、体道のなかのたったひとつの技に目が集まり、数十年前にはこのかたちだったものが、T技術顧問経由でこういった変化があたえられ、現行これだけのヴァリエーションがあるというような学びにいたる夜もあり。


 そして、空手には突きがある。その突きを昇華させてゆく過程で生まれる感覚、育まれる肉体に技が寄り添う。突きがあるから、その突きに対する受けの技がある。受けの技を深めてゆくからこそ生まれる感覚、育まれる肉体に体道の技が呼応したりする。これは空心館にいるからこそできる稽古。ここにいるからあふれる想い。



 この広い世界のなか、長い歴史の上に立って生きながら、そんな特徴のある武術を稽古しているという自覚をもてるようになった裏部長でした。

 
posted by 札幌支部 at 12:58 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年01月07日

餅屋の道楽

 おはようございます。裏部長です。

 みなさま、あけましておめでとうございます。本年もみなさまにとって、よりよい一年でありますことをお祈り申しあげます。




 さて、昨夜は札幌支部の稽古初めでした。


 とはいえ、師匠とわたしのほかには、婦人部のIさん姉妹がいるだけの淋しい稽古で、前半、みんなで八段錦、二十四式と十三式の太極拳をやったあとは、婦人部のおふたりも帰ってしまい、こちらもふたりしみじみと、空手の型をやって終わりました。


 わたしは新たに「慈恩」を教わりました。ところどころ見たことがあるような、しかし全体的にはすこし不思議な型で、みっちり教えていただきました。空手には、ほんとうにいろいろな型があるのですね。




 2017年も、さまざまなことを学び、考え、悩みつつもたのしみ、前進してゆく一年にしたいものですが、肝心なことは肝心なこととして中心に据えて、決して怠けないことをひとつの個人的な目標にしてゆきます。



 よく、「餅は餅屋」などと言います。わたしも、空手と体道をやっている人間である以上、この表看板たる空手と体道を怠ってはいけない。その研究を、その研鑽を、まず第一に考えなければなりません。




 ただし、これは昨年末にも書いたことですが、それだけにかかりっきりになって、頑なになって、自由な発想と旺盛な好奇心を失ってしまっては、豊かな学び、豊かな表現はできないとも感じています。やはり、どの場面においてもたのしむこと。能動的に取り組むこと。この姿勢を忘れないことです。



 とにもかくにも、2017年、よろしくお願い致します。



posted by 札幌支部 at 11:08 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年12月28日

畏れをもって臨む

 こんばんは。裏部長です。

 2016年も残すところあと数日となりましたが、みなさま、元気でおすごしでしょうか。



 師走の札幌は、昨日の師匠の記事にもあった通り、大雪につぐ大雪で、路面はどこもかしこも凍結し、歩行するだけでさまざまな感覚が鍛えられる修行場と化しております。車の運転にもじゅうぶん注意しなければなりません。


 稽古納めがあった今週の月曜日、いつもは車で三十分弱かかるところを、渋滞と車道の凸凹に遮られ、一時間以上を要してようやく大学へたどり着いた裏部長です。停車し、外へ出たときには、長時間の振動にさらされたせいか、運動らしい運動をしていないにも関わらず、すでにヘロヘロでした。



 恐るべし、雪道!





 さて、最近はふとこんなことを考えたりしています。


 フィクションのなかで、裏組織に属している人間が裏切り者へ銃口を向けてこんな台詞を言う場面がよくあります。

秘密を知った者は、もれなく消えてもらう。例外はない

 しかし、勧善懲悪の流れがある作品において、そういった悪は最終的にかならず暴かれ、成敗されますね。


 それはなぜか。


 答えは簡単で、彼らはその例外はない≠ニいうルールを徹底できず、どこかに自ら落とし穴をつくってしまうからです。




 鉄の掟をつくり、それを寸分違わず守りつづけていれば、秘密が暴かれることはないのです。粛清する手をほんのすこしだけゆるめたり、油断して監視する途中で目を離してしまったり、慢心から余裕を感じてつい無駄な猶予をあたえてしまったりしたがために、そこから囲いを破られ、ついには破滅まで追い込まれてしまう。


 徹底していればよかったのです。心を鬼にして、甘えず、迷わず、冷静にルールを守りつづけていれば、きっと彼らの悪が表沙汰にされることはなく、人知れず生き残っていけたことでしょう。


 恐ろしいのは、その人間の甘えなのですね。





 もちろん、裏部長は悪を肯定するものではありません(むしろその逆です)。いまはあえてわかりやすいようにこんな例をあげてみただけです。




 稽古をしているなかでも、そんな風に痛烈に、猛省することがよくあります。


 必要なことはわかっているのです。しかし人間だから、どこかで甘えが出て、慢心に陥り、このくらいのゆるみがあってもいいよね、大丈夫だよね、問題ないよねと自分を説得して、その徹底を怠ってしまう。武術とは動作のなかにあるものです、相手がいることです。ことここに至ってようやく、

しまった!!

 と思うのですが、あとの祭りです。ただ、おのれの未熟さを呪うばかりです。




 来年はどうにか、この徹底ということを自分に課してゆきたい。それも、絶対にこうでなければならぬ、何がなんでもこうしないではおかない、というような、堅苦しい、頑なな姿勢ではなく、全体としてはやわらかな、自然体な自分でいて、そのなかでゆるやかに、しかし厳然と、大切なことを貫いてゆく生き方。これをごく当然のこととして実践できるようになりたいです。



 とはいえ、「しまった!!」と気づき、反省する瞬間にこそ成長がある、という気もするので、上記のようにわざわざ目標のように掲げて、ことさら意識しすぎるというのも、なんというか……。


 ……

 ……

 あっ!

 いかんいかん!


 もうすでに甘えの悪魔が囁きはじめたようです。これだから人間は過ちから逃れられないのです。






 裏部長の葛藤まみれの挑戦は2017年もつづきます。


 みなさまも、有意義かつ晴れやかな一年をお迎えください。



 それでは、よいお年を!
posted by 札幌支部 at 19:10 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年10月29日

塩麹

 おはようございます。裏部長です。



 札幌では先週初雪が降り、この週末から週明けにかけても雪マークが天気予報上に出ております。秋の寂しさ、切なさを味わう前に、冬へのカウントダウンがはじまり、寒さに立ち向かう日々です。


 そんななか、裏部長は数日前に寝違えたようで、ここ二日ほどは顔と身体の向きが同時です。これまでの人生であまり寝違えたことがないので、この症状がはたしてほんとうに寝違えたことによるものなのかどうか判断が難しいですが、とにかく不自由しています。


 いまもまだ、首がまわりません。いろいろなことに。





 さて、札幌支部では学生がひとり稽古へ参加するようになり、窓の外の冬めいた気温とは打って変わって、おだやかに、にこやかに、すこやかに身体を動かしています。



 しかし、まあ、空手の稽古をしていても、感嘆することしきりです。まだ出てくるか! まだこんなやり方があったのか! と、驚愕ししつも感嘆せずにはいられない瞬間が山ほどあります。


 昨夜の稽古でも、目から鱗どこか網膜さえ剥がれ落ちてしまいそうな教授を受け、これをものにしなければという思いを強くしました。


 それは、言うなれば、いますぐ欲しい味のために、塩や醤油やソースをぶっかけるのではなく、素材を漬け込み、じっくり寝かせて味を変化させるかのような、一時期流行った塩麹のような技でした。質の変化。ただただその一点に尽きます。





 こういう内容の稽古をどれだけ重ねられたか。重ねるためにはどうしたらよいのか。

 自問することはまだ多くありそうです。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:06 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年10月25日

体を旅する道

 こんばんは。裏部長です。




 最近、稽古をしていてふと感じたことがありました。以前にもそういったことは、自覚的ではないしても、頭のなかでは、稽古をしている以上きっと感じるだろうなとわかってはいましたが、実際に感じた経験は乏しく、あくまで認識どまりでした。それがようやく身をもって感じられるようになったので、ここに記しておきます。


 それは、体道のカリキュラムに関係することです。





 体道を習いはじめた人間は、まず日本伝天心古流拳法という流派を学びます。最初にやるのは柔術で、七十二本の技があります。これにつづいて、二番目にやるのは浅山一伝流体術。こちらも柔術で、技数は五十六本。類似している技もいくつかあり、地つづきの感があります。


 経験がある者もまったくの初心者も、よほどの事情がないかぎり、最初にこの二流派を学びます。約百三十本の技を、スムースにいっても二年以上かかって稽古するわけです。


 この段階で、最低限の柔術のエッセンスが身体のなかに流れこみます。素手で相手を制する方法、押さえ、投げ、絞め、極める動きとそれを受ける動きを教わります。


 ふたつの流派を終えたとき、身体のなかにはベーシックな柔術の要素があるはずです。




 さて、その次に出てくるのが、日本伝天心古流捕手術です。という短い棒をつかった技で、基本的には柔術なのですが、たった一本の短い棒が介在するだけで、その雰囲気は変化します。また相手に対して、挫で受けたり挫で打ったりする場面もあり、それまで馴染んできたベーシックな柔術とは違う技法に翻弄されます


 これを、前期後期あわせて七十二本教わります。

 前期と後期のあいだに、武具の流派が入ります。

 日本伝天心古流杖術内田流短杖術です。



 ここで急展開、入門当初からやってきた柔術は姿を消し、杖という異物をもって相手と対峙することになるのです。


 杖とはただの木の棒で、なのに相手は刀で来るという設定なので、厄介です。師範が以前おっしゃっていましたが、

「腕の立つ人なら杖など斬り落とされてしまう」

「同じ腕前なら刀をもっているほうが勝つ」

 ということらしいので、厳密に、杖の技を駆使して刀に対抗せねばなりません。



 柔術や挫の技に馴染んでいた身体に、ここでまた新たな刺戟が投入されるのです。それに、杖だけではありません。技をやるためには、受のほうも担当するわけで、そこでは刀の扱いを学びます。どうすれば斬れるのか、杖の攻撃を刀で受けるにはどうしたらよいのか、ということなどもここで教わります。




 さて、柔術をやった、挫をつかったすこし変わった柔術の技もやった、杖も短杖もやり、刀の初歩も学んだ、そのあとにはいったい何が待っているのか。


 神伝不動流体術です。


 ああ、ようやく素手でやる柔の技にもどったのかあ、と安堵したのもつかのま、出てくる技は、それまでの天心古流や浅山一伝流などでやってきたものとはまるで違う、個性まるだしの激しい技ばかり。飛んで飛ばされ、廻り廻され、稽古が終わるころには髪型も化粧もあったものではない。とにかく、これまでとはずいぶんと趣きの異なる技のオンパレードなのです。


 ここでまた新しい刺激に出逢うわけです。素手でやる柔の技であるにもかかわらず、ここまで違う動きがあるのか。捨て身の技ではこういうふうに身体をつかうのか。鈍重な肉体だと動けず、しかし軽いばかりでは技にならない。いくつもの瞬間に対応できる身体と動作が求められます。


 畳の上を右へ左へ。風流な名前に出合ったかと思えば急にお風呂屋さんを投げたりなんかして、この神伝不動流が終わったあと、次に教わるのが、柳生新陰流仕込杖です。



 わたしは今月から、この流派に入ったわけです。





 いやあ、驚きでした。上に書いたように、天心古流などの杖術をやっていたときに「刀に対して杖はこうつかう」という、常識といいましょうか、杖術のセオリーみたいなものが頼りなげであったにせよ体内に残っているなかで、この仕込杖の技を目の当たりにすると、しばらく混乱してしまいます。


 たしかに、ふつうの杖と仕込杖は違うものですから、おのずとそれを用いた技も変わってくるわけですが、わたしには新鮮に映りました。そして、教わった技をノートに記しているとき、ふいに、これまでに感じたことのない刺激が体内へ流れてゆくのを自覚したのです


 それはまさしく、ふだんつかっていない脳細胞へ電気信号が走るかのように、微弱ながらあたたかく、手ごたえがあって、新しいものでありながらこれまでに習った技たちとリンクするような、互いが互いを求めているような感覚でした。


 だから、そのとき思ったのです。


武術の稽古とは、こうして毎回異なる刺戟を受け取ることなのではないか」と。






 柳生新陰流仕込杖が終わると、たしか次は不遷流だったと思いますが、こちらもこちらで、個性のかたまりと言いましょうか、畳の上の社交ダンスと言いましょうか、またまた変わった技のようなので、いまからその刺激に出逢うのがたのしみであります。





 
 なんだか地味な話で申し訳ありません。


 裏部長も、こんなことを噛みしめられる齢になったのでした。
posted by 札幌支部 at 19:00 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年10月16日

まっさらのような一歩

 おはようございます。裏部長です。




 去る十月七日から九日にかけて、札幌支部の栃木遠征がおこなわれました。師匠のほか、わたしとIさんが参加し、初日はにぎやかな体道稽古、二日目は午前と夜の二回、こちらもいろいろとにぎやかな空手の稽古がおこなわれました。


 初期の遠征時には、最終日の午前中に稽古をしたこともありましたが、ほとんどの場合、初日と二日目の二度だけだったので、今回のように計三回おこなうというのは稀です。濃密な二日間でした。




 あれからもう一週間が経ちます。


 世間はどこも秋色に染まり、札幌では雪虫が飛びはじめました。




 この一週間は、わたしにとって、あの遠征で学んだことを吟味する日々でした。反芻し、省みて、いろいろなことを考える時間でした。





 思えば入門から丸十二年、来年の二月をすぎると十三年になります。小学生が入学から卒業までを体験する時間、稽古をしてきたわけで、そのあいだにはさまざまな局面がありました。さまざまな迷いに遭い、さまざまなことを試みて、今日まで歩いてきました。



 いろいろと汚れや曇り、埃や垢がたまっていたような気がします。



 それらを一掃して、まっさらな気持ちと姿勢でこれからの稽古に臨みたい。



 いまはそう思っています。


 
posted by 札幌支部 at 11:07 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年08月28日

柔の本質

 こんにちは。裏部長です。


 お暑うございます。札幌では、この週末あたりは急に涼しくなりまして、湿気をほとんど感じない、北海道らしい夏のひとときをすごせています。ずっとこれくらいの日々がつづいてくれると楽なのですが、明日からはまた鬱陶しい天候が再開されるようです。


 あとすこしの辛抱です。





 さて、オリンピックが閉幕しましたね。


 これまでにない数のメダル数だとか、史上初だとか、そんな文句が踊り、メダリストたちは帰国するや否や、さまざまなTV番組に駆り出され、大忙しです。昨夜は競泳のメダリストに息止めの対決をさせていました。話題になるというのはいろいろと大変なことです。




 わたしはさしてスポーツに興味はないのですが、TVをつけてやっていると何気なく見てしまいます。


 こないだも、TVをつけたら女子レスリングの試合がやっていたので、夕食をとりながらぼんやり見ていました。あいかわらず、どうもレスリングのルールはわかりづらいなあとか、霊長類がんばれ!とか、それなりに日本勢に肩入れをして応援していたのですが、そのときふいに疑問をおぼえてしまったのです。


 たとえば、片方の選手が果敢に攻める、タックルにゆく、後ろにまわろうとする、首に手をかける、さまざまな角度から攻撃を仕掛けるのだけれど、もう片方の選手はそれをかわす、足を逃がす、腰を落として耐える、など、とにかく受け流すことに専念している――と、そんな状況があるとしますね。


 こういう場合、すぐに審判が試合を止めて、後者の選手に注意をあたえます。消極的だと、もっと攻めなさいと言うわけです。それで試合再開。また攻防がはじまるけども、そこでも足を下げたりいなしたりしているとまた注意を喰らって、三十秒の時間制限がつきます。


 これ、その時間内に点を取らなければ相手に有利になるというルールらしいのです。半強制的に攻めさせる手というわけですね。


 これを見たとき、「へえ、レスリングにはそういうルールがあるのか」と素直に感心しつつも、次の瞬間には疑問に思っていました。「これって、本質的におかしいんじゃないか」と。




 上記のシチュエーションの場合、一方の選手があの手この手で攻めまくるのを、もう一方の選手がとにかく受け流して、いなして、技をさせまいと防禦にまわっている、それだと試合が進まない、決着がつかないからルールで禁止して、攻撃させるように指導をする、という内容があるわけですが、そもそも、どうして攻撃をしている選手は技が決まらないのでしょう。相手が受けに徹しているから? わからなくはないですが、そうされてまるで決まらないのなら、攻撃している選手の攻撃が駄目なのではないでしょうか。相手が受けに徹したくらいで、かわされるばかりの攻撃は、攻撃として成立していないような気がします。


 これは柔道を見ていても感じます。師匠に伺いますと、柔道では過去に、受けに徹していても問題ない時代があったそうですが、それでは試合時間が長くなってしまうので、ルールで禁止したそうですね。こちらでも、袖や襟をつかんで崩し、足をかける、腰にのせるなどして、投げにゆこうとする相手に対し、それに耐える、体を逃がす、距離を取るなどという対応をしていると、たちまち審判に言われてしますが、レスリングと同様の疑問を感じざるを得ません。


 攻撃している人は、どうしていつまで経っても決められないの?




 これはもしかしたら、互いに世界のトップクラスで、実力が拮抗しているために、そう易々と技は決まらないのだ、ということなのかもしれません。しかしわたしはあえて、こういう説を提示したい。



そもそも柔の技は、自ら攻撃するものとしてできていない




 これまでわたしが体道のなかで教わってきた柔術を見ても、その他の流派を見聞しても、そう感じてしまいます。常日頃、師匠から教わっているような、相手からのアプローチがあってはじめて技が生まれるというあのスタンスこそ柔術の根幹であり、また本質であるとするならば、その柔術をもって、こちらから積極的に相手へ攻めこんでゆくような行為そのものが矛盾しているのではないか。


 われわれが空手で突きや蹴りなどの攻撃を学び、体道のなかでも、刀や杖などで攻撃する術を稽古することはありますし、それはとても重要なことながら、そういった意味の攻撃と、柔術としての攻撃というのはいささか質的に異なっています。後者にはもともと、本質的な矛盾があるような気がします。



 
 これが最近わたしのなかで生まれた疑問です。



 じつは、この話を引き延ばしてゆくと、師範から伺った「肉を食べると攻撃的になる」というあのお話とも通じてくる気がするのですが、それはおいおい検討してゆきたいと思っています。



 

 裏部長でした。 
posted by 札幌支部 at 16:09 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年07月30日

縄暖簾

 おはようございます。裏部長です。







 朝っぱらから内輪の話をします。




 先日のある稽古の後半、体道をやっているときの話です。ここ最近の札幌支部のメイン・メンバーであるIさんが天心古流の「両手裏投」を教わった際、手と体の連動を意識する過程で、こんなことをおっしゃいました。


「ということはつまり、力を入れて手と体を固めて動くということですね」


 この技をご存じの方であればわかっていただけるでしょうが、動きだすときに最初はどうしても手と体が分離してしまいます。当然、体だけ行っても相手は崩れないし、手だけ先行させようとしても動かない。全体がひとつとなって、みんな一緒に動かなければ成功しない技なのですが、言わずもがな、力を入れてしまうことは避けたいわけです。もっと自然な状態で、身体をまるごと動かしたい


 そのときは、Iさんの受けをわたしが取り、師匠が指導をされていたので、裏部長としてはただされるがまま相手の両手首をもっていればよかったのですが、ふと考えてしまったものです。


自分は、どういう感覚でそのひとつになるという状態を実現させているのだろう?




 そのときの稽古ではわたしも「両手裏投」をやってみました。上記のやり取りがあり、自分のなかで再点検しながらの捕だったもので、いろいろと感じることがありました。


 どうして手と体が分離しないのか。身体の節々に力を入れて固めているわけではないのに、なぜひとつになって動いてくれるのか。


 そのときのわたしの答えとしては、


そこに相手がいてくれるから


 というところに落ちつきました。




 目の前に相手がいて、両手でこちらの両手首をつかんで立っている。その状況下で「両手裏投」という技をやるので、前にゆくにも後ろに引くにも、左右どちらかへ進むにしても、かならず相手がついてきてしまいます。一見するとかなり鬱陶しい感じがしますが、そのときのわたしにとっては、そういう状態のほうがありがたくて、相手が自分とくっついて立っていてくれるので、技をやる過程で身体を分離させることなく動くことができました。言うなれば、相手の存在が自分を調えてくれる、そんな感じでした。



 冷静になってあとから考えてみれば、結局は、相手を敵対する存在、攻撃しダメージをあたえたい存在と考えず、ともに技をおこなうパートナー、噛みあうふたつの歯車、そんな風なイメージで向きあうことで可能になった動きだったのでしょう。相手とひとつになる相手と反発しない。ここ数年、大切にしてきたことそのものでした。



 先日のブログ同様、このスタンスはすべてにおいて重要だとわたしは考えます。「両手裏投」は天心古流の中目録の技で、順番としてはかなり最初のほうですが、ここまで大切なことを教えてくれます。



 体道はあなどれません。




 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 09:11 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年07月24日

ただそれだけのこと

 こんにちは。裏部長です。


 七月も終盤となり、本州ではかなり鬱陶しい日々がつづいているようですが、皆様いかがおすごしでしょうか。札幌はいまだに真夏日がなく、日中はそれなりに気温は上がるのですが、夜になるととたんに肌寒くなり、半袖から出た腕をさすってしまう今日このごろです。





 今日はあらためて、ごくあたりまえのこんなことを。





 ふだんの稽古のなかで、空手をやるにしても体道をやるにしても、一貫して意識しているのは、「相手からのアプローチがあって技が生まれる」ということです。


 大きなブルドーザーのような重機でさまざまなものを圧してゆくような、なぎ倒してゆくような強さ、重さ、太さを求める人は多いでしょう。そういった状態の身体を目指して鍛えている人もいるでしょうし、伝わってきた教えとして、そのような肉体を追求する流派もあるはずです。



 しかし、われわれは違います



 わたしたちが稽古しているものは、終始一貫、どちらかといえば「受け」目線です。攻撃と防禦で言えば、後者ということになるでしょう。




 攻撃はみずからおこなうことができる、とても能動的な動作です。自分の裁量で、自分のタイミングで、自分の意思で、繰り出すことが可能です。しかし防禦は、自分で勝手にやったところで、それは防禦の動きをやったことにはなるかもしれませんが、防禦をした、ということにはなりません。


 防禦は、攻撃があってはじめて存在します。相手からのアプローチがあり、そこでようやく生まれるものなのです





 空手を習いはじめてすぐに、「相手を受け入れる。相手に突かせてあげる」という一事を教わります。これはとても大きなことで、空手にかぎらず、すべての技に通じている気がします。



 逆に言えば、このことさえ忘れずにいれば、大きく道を踏み外すことはない。わたしはそう感じています。






 稽古の過程にはさまざまな場面があり、そこにいるわれわれも機械ではなく人間ですから、さまざまな精神状態のときがある。もちろん、その振り幅を小さくしてゆくこと、変動しないこと、惑わされないことも、修業の目標なのですが、すぐにそこまでの境地には至れない。悩んだり間違ったりをくりかえします。



 ただ、上記の大切な一事だけは忘れてはいけない。


 この姿勢の上にすべての稽古が成り立っているのです。








 今日は、ふだんの稽古のなかでごくあたりまえに教えられていることについてあえて書きました。




 ただそれだけのことです。

posted by 札幌支部 at 13:15 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年06月12日

マリオネットの夜

 こんばんは。裏部長です。



 2016年も折り返し地点に近づき、世界はすっかり初夏で、青い空と強い風がなんとも心地よい今日このごろ、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 最近の札幌支部は、時期的なものでしょうか、すこし参加者がすくなくなっているものの、熱心な人はなお熱心に、それほどではない人もそれほどではない熱量をもって稽古をしています。時間は確実に進み、少年部に長らくかよってきていたHくんが中学生になりました。身体も大きくなりはじめ、札幌大学に来られたとき三十代だった師匠もいまやアラフィフ。


 そんなことを言っているうちに、今年も気づけば大晦日、なんてことになっている気がします。






 継続的に稽古へ参加していると、ふとした瞬間に、思いもよらない感慨に浸ることがあります。


 たとえば、体道の稽古のなかで、自分よりも後輩の人の受けをとっているとき。柔術の技で、師匠が傍らで見ていて、試されているのは捕をしているその人であって、わたしはただ受けをとっていればよいのですから、へんに頑なになることもなく、もちろん不真面目につきあうのでもなく、相手が滞りなく技ができるように、手首をもったり胸倉をつかんだり、突いたり打ったり刺したりするわけですが、そんななかでも、ふと思うことがあるのです。


技をやるとき、人はなんと多く無駄なことをしているのだろう


 段取りがわかり、動作の流れがわかり、結末までのテンポがわかれば、ある程度は動いてみせることができます。ひとりよがりにならないとか、力まないようにするとか、そういった点では各人の力量が現れますが、それはそれ、いまの自分のレヴェルでやればよいのです。それ以上のものは求めたとしても詮のないことなのですから。


 しかし、そうとわかっていても、人は技をやるとき、無駄に力み、無駄に大ぶりし、そうかと思えば収縮して硬くなり、窮屈になって苦しみます。そんな動作も我慢もまったく必要ないのに、してしまう。すればするほど悪循環で上手くいかなくなってしまうというのに、ほとんどの人はそうしてしまう。



 ああ、なんと切ない話だろう。相手を倒そうという意思があるからいけないのだ。こう崩して、こう押し込んで、こう落としたいという思いが邪魔をする。なくしてしまえばいい。自分のなかをからっぽにして、過剰に反応する筋肉もすべて剥ぎとって、骨格とそれを吊る糸だけのあやつり人形になってしまえばいい。そうして、技の動きをただ踊る。そうすれば、あんなに苦しまずに済むというのに。




 そんなことを思いつつ、またべつの日、空手をやる。突きをやる、蹴りをやる、あるいは型、約束組手。課題と向きあいつつ、汗を流すわけですが、ふいに、からっぽな自分は恐ろしいなと思ってしまうのです。


 からっぽにするということは、頭のなかも空洞化するわけで、脳がない状態です。考えることをなくしてしまう。ただやる。ただ動き、ただ突き、ただ技をやる。自分を、それをするためだけのガラスの器にしてしまう。考えるから余計に力み、余計に悩み、悪循環に陥ってしまう。ならば、そもそもの問題の源泉を止めてしまえばいい。


 しかし、どうだろう。技というのはつねに相手がいるものです。相手に力を伝えるものです。力を伝えるには、自分でその力を感じられなければいけないでしょう。その重さを、その速度を、じゅうぶん自分で把握し、認識した状態でなければ、それを相手へつかうところまで行けません。感じるということと、考えるということはどこかでつながっていて、どちらかを放棄すると、そこで成長が止まってしまうような気がしてくるのです。




 考えるから悩み、考えるから感じられる。己の肉体を人形のように扱えれば、硬さや不必要な重さからは解放されるけれど、血液は行き渡らない。神経が行き渡らない。そんな状態で、あの技ができるわけがない。



 

 先日、師匠とのあいだで、ある人形玩具の話が出たため、今回はそれに無理くりくっつけて書いてみました。なんだか妙に小難しい話になってしまいましたが、要は、ひと筋縄にはいかない、ということなのです。どちらか一方の考えと姿勢でよいのなら、みんなあっという間に成長して、世界は達人たちで覆われてしまうでしょう。


 このぐらつく舟を漕いでゆく旅路にいかに順応するか。結局はそういうことなのだと思います。


 裏部長でした。




posted by 札幌支部 at 19:08 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年02月28日

波紋

 こんばんは。裏部長です。


 なんだかんだで、二月もあと一日です。

 季節は春へと近づき、花の便りもちらほら届く頃あいとなりました。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。






 
 最近の稽古では、よくワン・ツーをやっています。



 約束組手というと、何よりもまず追い突きでありまして、それはいまも変わっていませんが、今年に入ってからはそこへ、すこしずつワン・ツーが入ってきています。




 こないだの稽古で、師匠が言ったことばが印象的でした。


これまでやってきたワン・ツーはワン・ツーではない。ワン・ワンだ


 面白い表現と指摘だなと感じました。そして、実際にその違いを目のあたりにすればするほど、たしかにワン・ツーというよりはワン・ワンなのでした。言い得て妙というのはああいう状況をいうのでしょうね。




 この稽古をきっかけに、師範のことばも思いだしました。札幌での稽古だったか、本部へお邪魔したときのひとコマだったか、記憶が定かではないのですが、ワン・ツーの話になったときに、


いまはあたりまえにワン・ツーと言っているが、これはもともと、刻み突き・逆突きである


 まあ、そりゃそうだと思うでしょう。たしかにその通りで、空手をやっている人ならは即座に肯けるはず。



 しかしね、先ほどの師匠のワン・ワン発言とつなげて、これはたやすく看過してはいけないことばだと思うのです。






 ワン・ツーというのはつまり、突きを二本立てつづけに出す動きのことですね。追い突き・逆突きというのと変わらない、コンビネーションの技のことです。


 この動きを考え、成長させてゆくには、いきなり全体を捉えるのではなく、追い突きのときがそうであったように、まず一本目の刻み突きを研究するべきです。約束組手で散々いろいろとたった一本の追い突きをやっているように、刻み突きにおいても、それ相応に掘りさげられる余地はあるはずです。


 一本目の刻み突きを磨き、変化させ、向上させてゆくと、当然ですが、それに隣接している二本目の逆突きも変わってゆかざるを得ません。現に、刻み突きの出し方、そのときの身体のつかい方を錬ってゆくと、おのずと逆突きも違ったものになり、結果、ワン・ツーという技が技としてようやく誕生するというわけですね。



 ワン・ツーとひと息に言ってしまえば、馴染みのあることばですが、これをまず「刻み突き・逆突き」に分解し、その一本目、刻み突きを単体でまず考えること。そこに変化が生まれ、身体の動きが質的に変わったら、そこではじめて二本目の逆突きをつけて、また新たに考えてみる。すると、二本目の逆突きも変化してくる。ただしここで安心していけないのは、二本つづけてやってみて逆突きに手ごたえが出はじめると、今度はあれだけ意識して取り組んでいた一本目の刻み突きがおろそかになり、ただ手を出しているだけになってしまいがちです。ここをさらに注意して、一本目の刻み突きも、二本目の逆突きも、両方きちんと活きた攻撃としてのワン・ツー、正真正銘のワン・ツーを目指していかなければなりません






 と、わかったようなことを書きましたが、これが今後の、わたしの課題でもあります。忘れないように、ここに記しておきました。



 さて、これからどうなることやら……。



posted by 札幌支部 at 18:32 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年01月31日

body to body

 おはようございます。裏部長です。




 みなさん、明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申しあげます






 と言いつつ、一月も今日が最後です。今年も、すでに十二分の一が終わってしまいました。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 
 さて、最近読んだ小説に面白い解説がついていました。



 それは新潟を舞台にした物語で、巷で言うところのいわゆる「毒親」のもとで暮らす女子高生ふたりが、抑圧され、精神的に虐げられる日々のなかで鬱屈し、ついにはそれが爆発して事件が起こる、という内容のものでしたが、ときに理不尽なことを強い、ときに他人のような態度を取ることさえある「毒親」に、なぜ彼女たちは抵抗できなかったのか、それについて解説で触れているわけです。


 臨床心理の世界では常識のようですが、わたしは知りませんでした。なんでも、母親と娘の関係は、たとえば母親と息子、あるいは父親と息子または父親と娘の関係とは異なり、さまざまな意味で根深いものがあるというのです。


 どうして根深い関係となるのか。


 それは、おたがいに女性だから、なのだそうです。女性は男性とくらべて、日常的に自分の身体の内部へ目を向けることが多い。月経があり、それにともなって熱っぽさ、だるさを感じたり、便秘になったり、貧血気味になったりと、変化が多く、それらの動向をつねに感じながら生活しているというのですね。


 自分の身体の内面へ気を向け、アンテナを張って感じながら生きている女性に、母親がいろいろなことを教えてゆきます。刻みこむように、なじませるように、いろいろなことを。それは、男の子が受けるよりも深く浸透し、根づいてゆきます。


 こんな生活を五年、十年とつづけてゆけば、両者の関係は強靭なものになり、多少のことでは離れなくなってしまう。だからこそ、傍目から見れば異常なほど理不尽な目に遭っていても、その子本人は抗えず、反発する意思はあっても、最終的には母親の思いに沿う行動を取ってしまうらしいのです。




 はあ、そんなものかと感心して読んでいましたが、ふとこんなことを考えました。



 道新文化センターでやっている古武術講座に、女性受講者が多いのはなぜだろう?




 これまでは、男性は仕事の関係でスケジュールが取りづらく、転勤などで札幌を離れることもあるから、なかなか長いあいだ継続して来ることは難しい、だから女性のほうが多く、長年やっている方もいるのだ、と思ってきましたが、これ、いちがいにそういうことではないのかもしれません。


 女性だって仕事をしているし、なかには家庭をもち、家事をし、その上で時間と体力をやりくりして来ている方もいます。男性ばかりが事情を抱えて、困難のなかで参加しているわけではないのです。



 ならば、なぜ女性のほうが多いのか。

 これは、もしや、女性特有の、自分の内面へ向ける感覚のせいかもしれません。




 体道の、とくに柔術をメインにやっていて、長くつづけていると、技の内容を把握し、憶え、その通りに動くことにはしだいに馴れてゆきます。先日も、捕手術のグループが一段階を終えましたが、細かいポイントでもうすこし向上できるところはありつつも、全体としては小馴れた印象で、危なげなく演武されていました。全員が体道連盟の黒帯を締めている、ヴェテランのチームです。


 しかし、長くやっていて、技を習い憶えることに馴れてきても、それで技が上手くゆくとは限りません。あたえられた動きの通りにやってみせたからといって、技がかならず極まるわけではない。ロボットのように、プログラミングされた“正しい動き”をしてみても相手に効かない場合があります。


 そんなときはどうするか。

 動きから離れて、自分の内面と、そして相手の内面へ感覚を向けるようになるのです



 これは、「相手とひとつになる」などと、これまで散々書いてきたアレに通じる話で、別段特殊なものではありません。自然と、技をやってゆくなかでそうなってゆくだけで、意図しておこなっているものではないのですが、面白いもので、この感覚は、わかる人にはわかるがわからない人には何十年経ってもわからないもので、ここに気づけるかどうかが、体道を面白がれるかどうか、ひいては、武術をたのしめるかどうかにつながるのだとわたしは思っています。



 その内面へと向かう意識、感じ取ろうとするアンテナ。これらは、もしかすると、男性的な感性より女性的な感性のほうが得やすいものなのかもしれません。



 とはいえ、「じゃあ、これまでの武術の歴史のなかで、達人と呼ばれた武術家のなかに女性がすくないのはどういうわけだ?」と訊かれるとぐうの音も出ません。女性の武術家もたしかにいたことはいたでしょうが、名前や逸話が残っているのは圧倒的に男性が多く、それはきっとこれからも変わらないのでしょう。

 
 武術を表だってやるのは男性で、女性はそれを主として生活していなかった、と言えばその通りでしょう。しかし、わたしはさらにそこへもう一点、意見を置いてみたい。




 武術を極めるには、女性的な感性のほかに、男性的な才覚が必要なのではないか?



 


 稽古をするなかで、不思議な感慨に襲われることがあります。


 相手と向き合い、技をおこなう際、この手、この足で何でもできてしまう、もっと言えば、この指、この皮膚ですべてやれてしまうなと感じるときがあったと思いきや、どんな技でも、相手と自分とのあいだにはかならず何かが介在してしまう、拳があり、腕があり、刀や杖があったりする、それらが鬱陶しい、邪魔だ、そんなものがなくても、自分と相手の身体と身体、心と心だけでことが済むではないか、それ以外に必要なものなどありはしない、そんなことを感じて、手離しで技がやれてしまう瞬間に出合うこともある。


 あれは何なのかなあ。不思議で仕方ありませんが、その感じにとらわれたとき、わたしはものすごく心地がいい。幸福なのです。あれは、いったい何なのかなあ。







 そんなこんなで、いろいろございましょうが、今年もよろしくお願いいたします。


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2015年12月31日

山が見えたならそれは山

 こんばんは、裏部長です。



 大晦日です。あとすこしで2015年も終わります。


 この冬、札幌では十一月に大雪が降ったり、そうかと思えば暖冬で、今月は雪がすくなかったりと、いろいろありましたが、今日も比較的おだやかな天気で、落ちついた年末年始をすごせそうです。



 今年は、九月に札幌で師範をお招きしての特別稽古があり、十月には師匠にくっついて、奈良と名古屋での稽古にも参加しました。

 札幌支部としては、稽古場所が数年ぶりに二号館地下へと移り、婦人部に顔ぶれが増え、変化らしい変化はそれくらいで、あとはいつも通りの毎日でした。




 最近の出来事で言えば、札幌大学の教員でもあるIさんが茶帯を締められたことくらいかなあ。とても喜んでいらっしゃって、その様子がなんとも微笑ましくて、自分も茶帯や黒帯をもらったときはあんな風に感激していたなあと、わずか数年前のことをなつかしく思いだしてしまいました。



 修業は一生だ、とか、鍛錬に終わりはない、なんてことばをもち出す必要もないほど、裏部長にとって、稽古は日常のなかにあります。

 何か目に見えるわかりやすい目標を立ててそのためにするものではなく、ただするものです。

 そのなかで会得するもの、体得するもの、発見するもの、実践するもの、さまざまありますが、それは稽古してゆく過程で得られたものであって、それらを得ようとして稽古しているのではないということ。

 むしろ、何か用意や努力をするのなら、その不断の稽古をするために必要なことをするべきで、わたしが今日までの一年で痛感したのは、この一事です。





 平地にいるなら平地を歩くように。


 山があるのなら山を登るように。


 川があるのなら川を渡るように。





 歩みつづけるためには、そうするにふさわしい速度があり、息づかいがあり、気持ちがあるはずです。

 それはしかし、実際に長くつづけてゆくなかでしか見つけられないものだと感じました。

 だから、焦ったり、詰め込んだり、反対に怠けたりする日々はもういらないのです。



 

 明日からの一年が、みなさまにとってよりよい日々、そしてよりよい稽古で満たされますように。






 裏部長でした。


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2015年10月20日

あなたの家

 こんばんは、裏部長です。


 今月も残すところあと二週間弱となり、来月になったらなったで、今年もあと二箇月ということになり、あらためて時間の流れの速さを痛感します。札幌ではそろそろ雪が降るでしょう。秋に浸れるのもあとわずかです。




 さて、先週の三連休、師匠にくっついて、奈良名古屋の稽古に参加してきました。奈良は初、名古屋は二度目の参加でした。前者は奈良支部の道場で、われわれのほかに、師範T技術顧問M田さんとにかくランニング姿が爽やかなMさんがいらっしゃり、二日に渡り二度、胴衣を着る機会がありました。



 いろいろなことを教えていただき、見せていただき、感じさせていただきました。師範がいてT技術顧問がいて、師匠もM田さんもいるので、さながら体道連盟首脳会議の様相を呈していましたが、ほどよい緊張感で、なごやかにすごすことができました。


 また奈良から名古屋へ向かう道中では、師範からさまざまなお話を伺うことができ、勉強になりました。ああいう場で、もっと気のきいた質問や相槌が出せればよいのですが、不器用な人間で申し訳ありません。ボキャブラリー豊かな人間になりたいものです。



 師範、T技術顧問、そして奈良支部のみなさん。お世話になりました。

 濃密な稽古はもちろん、お食事もおいしく、奈良観光もできたし、伊賀で忍者屋敷も見学できて、たのしい三日間でした。

 ありがとうごさいました。





 あいもかわらず、教わったことを具体的に書くことはしませんが、今回の稽古で感じたことをひとつ挙げるとすれば、それは、


ひとつのことを極めんとする人間の姿勢


 とも言うべきものでした。これは大いに勉強になったし、反省もさせられました。





 以前にこのブログでも書いたかもしれませんが、ある人が、ともに仕事をしている年若いスタッフに、一週間ぶりに顔をあわせた際、いつもこう尋ねるのだという話があります。


君は、この一週間で何を学んだ?


 その人たちが会って仕事をするのは、週にたった一度なのです。今日の仕事のあとは、互いに一週間離れているわけで、その間にどんなことをしたのかと問うているわけです。



 勉強といっても、べつにそれほど重いものを要求しているのではなく、こんな本を読んだとか、どこかへ旅に行ったとか、こんな人に話をきいたとか、その程度のことでよいのです。いけないのは、何もせず、変化も求めずにただ時間をすごすことで、怠けていた人に対しては烈火のごとく怒るのだと聞いたことがありました。




 今日のブログの冒頭で、今年も残すところ二箇月ちょっとだと書きました。師匠ともよく、年末が近づいてくると交わす話題で、みなさんもそうでしょうが、こういう話をしたときに、焦りや不安、虚しさ、恥ずかしさ、怒りなどを感じる人は、きっと、自分で納得できるほどの何かをし得なかったからなのではないでしょうか



 目標をもち、実践し、努力し、悩み、苦しみながらそれでも前進し、たとえ満足はできていなくても、何かしらの結果を出せた人は、一年の終わりを前にして、ただ焦ったり、不甲斐ない自分を恥じたりはしないはずです。むしろ誇らしささえ感じることでしょう。俺はこの一年こんなことをやった、達成してやった、来年はもっとがんばってこんなことをしてやろう、もっと先へ進んでやろうと、新たな熱意をおぼえているはずです



 これは何も武術に限った話ではありません

 ただ単に、今回の遠征のなかで、わたしが師範や、師匠や、T技術顧問や、M田さんらに対して、みなさんの武術に対する姿勢を見て感じたことを自分なりに書いてみただけです。




 それが仕事である人もいるでしょう。武術である人もいるかもしれないし、人間関係かもしれないし、芸術であるかもしれない。それぞれに、自分で勝負する世界があって、でもほんとうに、一年が終わるごとに決し悔いることなく、むしろ胸を張って生きてゆけるほど、いつもきちんと取り組めているかどうか




 情けないことに、わたしは過去に何度も、虚しい年越しをしたことがあります。なんにもない年末、手応えのない年明け、そして心晴れない正月。口惜しさも恥ずかしさも呑みこんで、見て見ないふりをする。忘れてしまう。


 でも今回、諸先輩方を見て、あらためて気持ちが引き締まりました。





 自分が生きてゆきたいと強く想っている世界で進んでゆくためには何が必要なのか。願っているだけ、想像しているだけではいけないのです。熟考し、実践し、その歩みをさまたげる要因を振り払い、愚直に、ただ前だけを見つめて、継続してゆくこと。その過程で、もし熱意が消えてしまったら、それは自分にとって大したものではなかったという証明で、もしまだやり足りないと感じて心身がうずくなら、やればいい。



 そうして生きてゆくことが、ほんとうの意味の「前進」なのではないでしょうか。




 わたしも、わたしの道を、絶対に諦めたくないです。


 みなさんは、どうですか。


posted by 札幌支部 at 19:40 | Comment(0) | 裏部長の日記