2017年07月07日

清冽な水で

 こんばんは。裏部長です。

 大変、うんざりするほど、お暑うございます。




 最高気温が三十三度を超えた本日、札幌支部の稽古はお休みです。しかし安心もしていられません。今日は熱帯夜になりそうな気配……とはいえ、湿度が比較的低いので、どうにか乗り越えられそうです。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。






 さて、変わった話題とてないのですが、最近の裏部長は体道で山本無辺流棒術を教わっています。



 これまで杖や短杖を用いた技はいくつか学んできていて、つい先だっては柳生新陰流の仕込杖もやっていましたが、それらすべては対刀の技であって、今回はなんと、こちらも棒ならばむこうも棒という、棒対棒のあらあらしい闘いが展開されております。


 六尺棒の威力、迫力。その長さ、重さゆえの用法が新鮮で、打ち払った際に残る振動が手をしびれさせ、また新たな刺戟をあたえてくれています。




 体道のなかで、こうしてそれまでにやっていない流派の技を教わると、毎回違った刺戟に触れられ、新鮮な思いで稽古場に立つことができます。


 そのたびに、ああ、いつも技をやる際にはこういった、新鮮で澄んだ心持ちでいられたらどんなにいいだろう、いや、稽古ばかりではない、日常のすべての場面でそう生きられたらどんなに素晴らしいだろうと、人知れず願っている裏部長であります。



 しかし、まだまだそんな風にはなれません。わたしの心身のなかにある不純物が、毒気が、黒く濁らせる瞬間がどうしてもあるのです。できることならば、これらの物質はすべて除去して、いつも澄んだ状態でいたい。透明で清冽な、一点の曇りもない姿勢。




 自分で実践可能なことからはじめ、これを徹底するのはそんなに難しいことだろうか……?




 答えは「否」ですよね。


posted by 札幌支部 at 20:19 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年06月24日

柔があるから

 こんばんは。裏部長です。


 来週を終えると、もう七月です。本州では梅雨まっさかりで、かなり鬱陶しい日々がつづいているようですが、こちらはこちらで、急に涼しくなったりして、朝晩の服装に苦慮する毎日です。


 みなさま、ご健壮でいらっしゃるでしょうか。





 裏部長は師匠のもとへ入門するまで、空手のかの字も知らず、当然その業界にも疎かったわけですけれど、稽古をするようになって十三年以上が経ったいまもあまり変わりません。


 一般的な空手業界、いや、武術や武道、格闘技業界にはとんと縁がないのです。


 それもそのはず、興味がないから、と言ってしまえばそれまでですが、ひとつの道場に十年以上もいて、継続的に稽古していながら、他流儀へここまで目を向けない人も稀なのではないかと、自分のことながら珍妙に思うこともないではありません。


 結局のところ裏部長は、「武術」が好きなのではなく、たまたま出逢えた武術をしていたい人間だったということでしょうか。




 なので、あらためて空手というものを見つめ直したときに、かなり初歩的なことに驚いたりもしてしまうのです。




 空手にはさまざまな受けがありますね。


 上段受け、下段払い、内受け、外受け。そのほかにもいろいろありますが、基本稽古でいつもやるこの四種類に限定して見てみても、その動作を、ごくシンプルにそのままおこなった場合、相手の攻撃をはじく、自分から離す役割があることを最近になってふと気づいたのです。


 オーソドックスな受け方としては、その動作の性質上、相手の攻撃をどのような度合いであれはじく結果になってしまう。これはなぜか。



 空手には打撃のスキルがあります。自ら突く蹴る打つという選択肢があります。


 つまり、その攻撃のスキルで相手を仕留めれればよいのだト。受けは、相手の攻撃を防げればいいのであって、とにかく自分にダメージが加わらないように受けておいて、すかさず打撃をおこなえばよいのだト。


 そう考えると、単純に払う、弾くといった受け方であってもべつに問題はないのです。そういう空手をしなさいと言われれば、きっと誰でも、今夜のうちから実践することができるでしょう。





 しかし、われわれには体道があります。


 もっと言えば、柔術があるのです。





 たとえば天心古流の「屏風返」をやる際に、相手の追い突きに対してこちらは上段受けをしますが、そこで相手の腕をはじくような受け方をしていたのでは、この技はできません。中段への当身も効かないでしょう。


 さらに天心古流の「両腕攻」を見てみれば、中段への突きを脇に入れなければなりません。そこで、相手の腕を外へそらすような、拒絶するような内受けをしていたのでは、この技はままなりません。



 それは柔術の話だろ。空手のときは空手、柔術のときは柔術のやり方で、つかいわければいいじゃないか。


 という意見があるかもしれませんが、こと打撃での反撃を見てみたとしても、上記の技たちから得られる教訓を反映した受けのほうが、あきらかに威力が大きくなりますね。



 つまりは、そんな空手をわれわれはふだんから稽古しているわけですが、思えばそれらはいささか不思議な話で、オーソドックスな空手を知っている人からしたら、やはり珍妙に映るのではないでしょうか。




 もちろん、これはかなり初歩的な技術的側面であって、そこまで単純な話だけでは説明しきれない流れ、領域があり、それらも含めてわたしたちは稽古できているわけですが、このあたりのことを説明する気力も体力も、三十路をすぎた裏部長にはもうありません



 筆マメな、目をギラギラさせた若い入門者がやって来るのを、初夏の空の下で待つばかりです。



 
posted by 札幌支部 at 19:29 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年06月10日

突きがあるから

 こんにちは、裏部長です。

 大変ご無沙汰でございます。



 2017年も折り返し地点を迎え、札幌では雨降る肌寒い六月、みなさまいかがおすごしでしょうか。





 いきなりですが、上半期に起こった札幌支部の変化をいくつかご紹介!


 まず、稽古場所が変わりました。ここ数年は、二号館の地下にある比較的広い、そのうえ使用されていない教室がありまして、普段つかわれていないということは机や椅子などを片づけた状態のままで置いておけるということなので、とても楽でして、冬あたたかく夏涼しいという、なんとも快適な空間だったのですが、今年の四月から新たに展示室として生まれ変わると言われ、場所替えを余儀なくされたのです。


 それで、結局どこへ行ったかといえば、わたしが師匠のもとへ入門した当初から、二号館などへ移るまでずっと使用してきた、一号館の地下教室に舞いもどったのです。古巣に帰る、というやつです。


 久方ぶりに訪れた日はなんとなく懐かしさと、そして淋しさがありましたね。


 わたしたちがつかっているのは一番奥の教室で、そこへ行くまでには、三つほど教室が連なっているのですが、そのすべてがいまは授業で使用されていないというのです。少子化のせいなのか、何かほかに理由があるのか知りませんが、机や椅子が雑多に積み上げられ、物置のようにさえ見えるそれらの教室たちは、わたしが学生のころなどはふつうに講義でつかわれていましたからね。時間の流れというのは残酷なものです。





 そして、第二の変化は、Hさんの来札です。


 栃木の高校生だったHさん。あちらでは本部道場で研鑽を積み、高校の空手部でも活躍をし、しかし大学進学に際して、武術への熱情衰えず、最終的にはわが師匠が教授兼副学長として在籍する札幌大学へとやってきたHさん。力士とお米が好きなHさん。靴下が嫌いで、年中裸足でいるHさん。


 本部道場経由とはいえ、札幌支部に常時女性の稽古者がいるのはとても珍しいことで、近年は婦人部と称して、太極拳などを学ぶグループができましたが、空手や体道をメインにする人は、これまでひとりもいなかったのではないでしょうか。


 Hさんはほんとうに稽古熱心で、空手、体道はもちろん、その脇でおこなわれる中国武術の練習や道新文化センターでの古武術講座にも参加して、飄々としながらもつねに武術と触れあっているような人です。


 そしてそのとき、見せてもらった体道の資料の、写真のなかの師範のお若いこと!

 人に歴史あり。その歴史の道の上にわれわれは立っているということを痛感させられました。





 大きな変化といえば、この二点くらいですかねえ。


 Hさんが何気なく打っている型を見て、こちらでやっている型と違い、その差異は何かと調べたら、そもそも動作自体が変更されていたなんてことを発見する夜もあれば、体道のなかのたったひとつの技に目が集まり、数十年前にはこのかたちだったものが、T技術顧問経由でこういった変化があたえられ、現行これだけのヴァリエーションがあるというような学びにいたる夜もあり。


 そして、空手には突きがある。その突きを昇華させてゆく過程で生まれる感覚、育まれる肉体に技が寄り添う。突きがあるから、その突きに対する受けの技がある。受けの技を深めてゆくからこそ生まれる感覚、育まれる肉体に体道の技が呼応したりする。これは空心館にいるからこそできる稽古。ここにいるからあふれる想い。



 この広い世界のなか、長い歴史の上に立って生きながら、そんな特徴のある武術を稽古しているという自覚をもてるようになった裏部長でした。

 
posted by 札幌支部 at 12:58 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年01月07日

餅屋の道楽

 おはようございます。裏部長です。

 みなさま、あけましておめでとうございます。本年もみなさまにとって、よりよい一年でありますことをお祈り申しあげます。




 さて、昨夜は札幌支部の稽古初めでした。


 とはいえ、師匠とわたしのほかには、婦人部のIさん姉妹がいるだけの淋しい稽古で、前半、みんなで八段錦、二十四式と十三式の太極拳をやったあとは、婦人部のおふたりも帰ってしまい、こちらもふたりしみじみと、空手の型をやって終わりました。


 わたしは新たに「慈恩」を教わりました。ところどころ見たことがあるような、しかし全体的にはすこし不思議な型で、みっちり教えていただきました。空手には、ほんとうにいろいろな型があるのですね。




 2017年も、さまざまなことを学び、考え、悩みつつもたのしみ、前進してゆく一年にしたいものですが、肝心なことは肝心なこととして中心に据えて、決して怠けないことをひとつの個人的な目標にしてゆきます。



 よく、「餅は餅屋」などと言います。わたしも、空手と体道をやっている人間である以上、この表看板たる空手と体道を怠ってはいけない。その研究を、その研鑽を、まず第一に考えなければなりません。




 ただし、これは昨年末にも書いたことですが、それだけにかかりっきりになって、頑なになって、自由な発想と旺盛な好奇心を失ってしまっては、豊かな学び、豊かな表現はできないとも感じています。やはり、どの場面においてもたのしむこと。能動的に取り組むこと。この姿勢を忘れないことです。



 とにもかくにも、2017年、よろしくお願い致します。



posted by 札幌支部 at 11:08 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年12月28日

畏れをもって臨む

 こんばんは。裏部長です。

 2016年も残すところあと数日となりましたが、みなさま、元気でおすごしでしょうか。



 師走の札幌は、昨日の師匠の記事にもあった通り、大雪につぐ大雪で、路面はどこもかしこも凍結し、歩行するだけでさまざまな感覚が鍛えられる修行場と化しております。車の運転にもじゅうぶん注意しなければなりません。


 稽古納めがあった今週の月曜日、いつもは車で三十分弱かかるところを、渋滞と車道の凸凹に遮られ、一時間以上を要してようやく大学へたどり着いた裏部長です。停車し、外へ出たときには、長時間の振動にさらされたせいか、運動らしい運動をしていないにも関わらず、すでにヘロヘロでした。



 恐るべし、雪道!





 さて、最近はふとこんなことを考えたりしています。


 フィクションのなかで、裏組織に属している人間が裏切り者へ銃口を向けてこんな台詞を言う場面がよくあります。

秘密を知った者は、もれなく消えてもらう。例外はない

 しかし、勧善懲悪の流れがある作品において、そういった悪は最終的にかならず暴かれ、成敗されますね。


 それはなぜか。


 答えは簡単で、彼らはその例外はない≠ニいうルールを徹底できず、どこかに自ら落とし穴をつくってしまうからです。




 鉄の掟をつくり、それを寸分違わず守りつづけていれば、秘密が暴かれることはないのです。粛清する手をほんのすこしだけゆるめたり、油断して監視する途中で目を離してしまったり、慢心から余裕を感じてつい無駄な猶予をあたえてしまったりしたがために、そこから囲いを破られ、ついには破滅まで追い込まれてしまう。


 徹底していればよかったのです。心を鬼にして、甘えず、迷わず、冷静にルールを守りつづけていれば、きっと彼らの悪が表沙汰にされることはなく、人知れず生き残っていけたことでしょう。


 恐ろしいのは、その人間の甘えなのですね。





 もちろん、裏部長は悪を肯定するものではありません(むしろその逆です)。いまはあえてわかりやすいようにこんな例をあげてみただけです。




 稽古をしているなかでも、そんな風に痛烈に、猛省することがよくあります。


 必要なことはわかっているのです。しかし人間だから、どこかで甘えが出て、慢心に陥り、このくらいのゆるみがあってもいいよね、大丈夫だよね、問題ないよねと自分を説得して、その徹底を怠ってしまう。武術とは動作のなかにあるものです、相手がいることです。ことここに至ってようやく、

しまった!!

 と思うのですが、あとの祭りです。ただ、おのれの未熟さを呪うばかりです。




 来年はどうにか、この徹底ということを自分に課してゆきたい。それも、絶対にこうでなければならぬ、何がなんでもこうしないではおかない、というような、堅苦しい、頑なな姿勢ではなく、全体としてはやわらかな、自然体な自分でいて、そのなかでゆるやかに、しかし厳然と、大切なことを貫いてゆく生き方。これをごく当然のこととして実践できるようになりたいです。



 とはいえ、「しまった!!」と気づき、反省する瞬間にこそ成長がある、という気もするので、上記のようにわざわざ目標のように掲げて、ことさら意識しすぎるというのも、なんというか……。


 ……

 ……

 あっ!

 いかんいかん!


 もうすでに甘えの悪魔が囁きはじめたようです。これだから人間は過ちから逃れられないのです。






 裏部長の葛藤まみれの挑戦は2017年もつづきます。


 みなさまも、有意義かつ晴れやかな一年をお迎えください。



 それでは、よいお年を!
posted by 札幌支部 at 19:10 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年10月29日

塩麹

 おはようございます。裏部長です。



 札幌では先週初雪が降り、この週末から週明けにかけても雪マークが天気予報上に出ております。秋の寂しさ、切なさを味わう前に、冬へのカウントダウンがはじまり、寒さに立ち向かう日々です。


 そんななか、裏部長は数日前に寝違えたようで、ここ二日ほどは顔と身体の向きが同時です。これまでの人生であまり寝違えたことがないので、この症状がはたしてほんとうに寝違えたことによるものなのかどうか判断が難しいですが、とにかく不自由しています。


 いまもまだ、首がまわりません。いろいろなことに。





 さて、札幌支部では学生がひとり稽古へ参加するようになり、窓の外の冬めいた気温とは打って変わって、おだやかに、にこやかに、すこやかに身体を動かしています。



 しかし、まあ、空手の稽古をしていても、感嘆することしきりです。まだ出てくるか! まだこんなやり方があったのか! と、驚愕ししつも感嘆せずにはいられない瞬間が山ほどあります。


 昨夜の稽古でも、目から鱗どこか網膜さえ剥がれ落ちてしまいそうな教授を受け、これをものにしなければという思いを強くしました。


 それは、言うなれば、いますぐ欲しい味のために、塩や醤油やソースをぶっかけるのではなく、素材を漬け込み、じっくり寝かせて味を変化させるかのような、一時期流行った塩麹のような技でした。質の変化。ただただその一点に尽きます。





 こういう内容の稽古をどれだけ重ねられたか。重ねるためにはどうしたらよいのか。

 自問することはまだ多くありそうです。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:06 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年10月25日

体を旅する道

 こんばんは。裏部長です。




 最近、稽古をしていてふと感じたことがありました。以前にもそういったことは、自覚的ではないしても、頭のなかでは、稽古をしている以上きっと感じるだろうなとわかってはいましたが、実際に感じた経験は乏しく、あくまで認識どまりでした。それがようやく身をもって感じられるようになったので、ここに記しておきます。


 それは、体道のカリキュラムに関係することです。





 体道を習いはじめた人間は、まず日本伝天心古流拳法という流派を学びます。最初にやるのは柔術で、七十二本の技があります。これにつづいて、二番目にやるのは浅山一伝流体術。こちらも柔術で、技数は五十六本。類似している技もいくつかあり、地つづきの感があります。


 経験がある者もまったくの初心者も、よほどの事情がないかぎり、最初にこの二流派を学びます。約百三十本の技を、スムースにいっても二年以上かかって稽古するわけです。


 この段階で、最低限の柔術のエッセンスが身体のなかに流れこみます。素手で相手を制する方法、押さえ、投げ、絞め、極める動きとそれを受ける動きを教わります。


 ふたつの流派を終えたとき、身体のなかにはベーシックな柔術の要素があるはずです。




 さて、その次に出てくるのが、日本伝天心古流捕手術です。という短い棒をつかった技で、基本的には柔術なのですが、たった一本の短い棒が介在するだけで、その雰囲気は変化します。また相手に対して、挫で受けたり挫で打ったりする場面もあり、それまで馴染んできたベーシックな柔術とは違う技法に翻弄されます


 これを、前期後期あわせて七十二本教わります。

 前期と後期のあいだに、武具の流派が入ります。

 日本伝天心古流杖術内田流短杖術です。



 ここで急展開、入門当初からやってきた柔術は姿を消し、杖という異物をもって相手と対峙することになるのです。


 杖とはただの木の棒で、なのに相手は刀で来るという設定なので、厄介です。師範が以前おっしゃっていましたが、

「腕の立つ人なら杖など斬り落とされてしまう」

「同じ腕前なら刀をもっているほうが勝つ」

 ということらしいので、厳密に、杖の技を駆使して刀に対抗せねばなりません。



 柔術や挫の技に馴染んでいた身体に、ここでまた新たな刺戟が投入されるのです。それに、杖だけではありません。技をやるためには、受のほうも担当するわけで、そこでは刀の扱いを学びます。どうすれば斬れるのか、杖の攻撃を刀で受けるにはどうしたらよいのか、ということなどもここで教わります。




 さて、柔術をやった、挫をつかったすこし変わった柔術の技もやった、杖も短杖もやり、刀の初歩も学んだ、そのあとにはいったい何が待っているのか。


 神伝不動流体術です。


 ああ、ようやく素手でやる柔の技にもどったのかあ、と安堵したのもつかのま、出てくる技は、それまでの天心古流や浅山一伝流などでやってきたものとはまるで違う、個性まるだしの激しい技ばかり。飛んで飛ばされ、廻り廻され、稽古が終わるころには髪型も化粧もあったものではない。とにかく、これまでとはずいぶんと趣きの異なる技のオンパレードなのです。


 ここでまた新しい刺激に出逢うわけです。素手でやる柔の技であるにもかかわらず、ここまで違う動きがあるのか。捨て身の技ではこういうふうに身体をつかうのか。鈍重な肉体だと動けず、しかし軽いばかりでは技にならない。いくつもの瞬間に対応できる身体と動作が求められます。


 畳の上を右へ左へ。風流な名前に出合ったかと思えば急にお風呂屋さんを投げたりなんかして、この神伝不動流が終わったあと、次に教わるのが、柳生新陰流仕込杖です。



 わたしは今月から、この流派に入ったわけです。





 いやあ、驚きでした。上に書いたように、天心古流などの杖術をやっていたときに「刀に対して杖はこうつかう」という、常識といいましょうか、杖術のセオリーみたいなものが頼りなげであったにせよ体内に残っているなかで、この仕込杖の技を目の当たりにすると、しばらく混乱してしまいます。


 たしかに、ふつうの杖と仕込杖は違うものですから、おのずとそれを用いた技も変わってくるわけですが、わたしには新鮮に映りました。そして、教わった技をノートに記しているとき、ふいに、これまでに感じたことのない刺激が体内へ流れてゆくのを自覚したのです


 それはまさしく、ふだんつかっていない脳細胞へ電気信号が走るかのように、微弱ながらあたたかく、手ごたえがあって、新しいものでありながらこれまでに習った技たちとリンクするような、互いが互いを求めているような感覚でした。


 だから、そのとき思ったのです。


武術の稽古とは、こうして毎回異なる刺戟を受け取ることなのではないか」と。






 柳生新陰流仕込杖が終わると、たしか次は不遷流だったと思いますが、こちらもこちらで、個性のかたまりと言いましょうか、畳の上の社交ダンスと言いましょうか、またまた変わった技のようなので、いまからその刺激に出逢うのがたのしみであります。





 
 なんだか地味な話で申し訳ありません。


 裏部長も、こんなことを噛みしめられる齢になったのでした。
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2016年10月16日

まっさらのような一歩

 おはようございます。裏部長です。




 去る十月七日から九日にかけて、札幌支部の栃木遠征がおこなわれました。師匠のほか、わたしとIさんが参加し、初日はにぎやかな体道稽古、二日目は午前と夜の二回、こちらもいろいろとにぎやかな空手の稽古がおこなわれました。


 初期の遠征時には、最終日の午前中に稽古をしたこともありましたが、ほとんどの場合、初日と二日目の二度だけだったので、今回のように計三回おこなうというのは稀です。濃密な二日間でした。




 あれからもう一週間が経ちます。


 世間はどこも秋色に染まり、札幌では雪虫が飛びはじめました。




 この一週間は、わたしにとって、あの遠征で学んだことを吟味する日々でした。反芻し、省みて、いろいろなことを考える時間でした。





 思えば入門から丸十二年、来年の二月をすぎると十三年になります。小学生が入学から卒業までを体験する時間、稽古をしてきたわけで、そのあいだにはさまざまな局面がありました。さまざまな迷いに遭い、さまざまなことを試みて、今日まで歩いてきました。



 いろいろと汚れや曇り、埃や垢がたまっていたような気がします。



 それらを一掃して、まっさらな気持ちと姿勢でこれからの稽古に臨みたい。



 いまはそう思っています。


 
posted by 札幌支部 at 11:07 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年08月28日

柔の本質

 こんにちは。裏部長です。


 お暑うございます。札幌では、この週末あたりは急に涼しくなりまして、湿気をほとんど感じない、北海道らしい夏のひとときをすごせています。ずっとこれくらいの日々がつづいてくれると楽なのですが、明日からはまた鬱陶しい天候が再開されるようです。


 あとすこしの辛抱です。





 さて、オリンピックが閉幕しましたね。


 これまでにない数のメダル数だとか、史上初だとか、そんな文句が踊り、メダリストたちは帰国するや否や、さまざまなTV番組に駆り出され、大忙しです。昨夜は競泳のメダリストに息止めの対決をさせていました。話題になるというのはいろいろと大変なことです。




 わたしはさしてスポーツに興味はないのですが、TVをつけてやっていると何気なく見てしまいます。


 こないだも、TVをつけたら女子レスリングの試合がやっていたので、夕食をとりながらぼんやり見ていました。あいかわらず、どうもレスリングのルールはわかりづらいなあとか、霊長類がんばれ!とか、それなりに日本勢に肩入れをして応援していたのですが、そのときふいに疑問をおぼえてしまったのです。


 たとえば、片方の選手が果敢に攻める、タックルにゆく、後ろにまわろうとする、首に手をかける、さまざまな角度から攻撃を仕掛けるのだけれど、もう片方の選手はそれをかわす、足を逃がす、腰を落として耐える、など、とにかく受け流すことに専念している――と、そんな状況があるとしますね。


 こういう場合、すぐに審判が試合を止めて、後者の選手に注意をあたえます。消極的だと、もっと攻めなさいと言うわけです。それで試合再開。また攻防がはじまるけども、そこでも足を下げたりいなしたりしているとまた注意を喰らって、三十秒の時間制限がつきます。


 これ、その時間内に点を取らなければ相手に有利になるというルールらしいのです。半強制的に攻めさせる手というわけですね。


 これを見たとき、「へえ、レスリングにはそういうルールがあるのか」と素直に感心しつつも、次の瞬間には疑問に思っていました。「これって、本質的におかしいんじゃないか」と。




 上記のシチュエーションの場合、一方の選手があの手この手で攻めまくるのを、もう一方の選手がとにかく受け流して、いなして、技をさせまいと防禦にまわっている、それだと試合が進まない、決着がつかないからルールで禁止して、攻撃させるように指導をする、という内容があるわけですが、そもそも、どうして攻撃をしている選手は技が決まらないのでしょう。相手が受けに徹しているから? わからなくはないですが、そうされてまるで決まらないのなら、攻撃している選手の攻撃が駄目なのではないでしょうか。相手が受けに徹したくらいで、かわされるばかりの攻撃は、攻撃として成立していないような気がします。


 これは柔道を見ていても感じます。師匠に伺いますと、柔道では過去に、受けに徹していても問題ない時代があったそうですが、それでは試合時間が長くなってしまうので、ルールで禁止したそうですね。こちらでも、袖や襟をつかんで崩し、足をかける、腰にのせるなどして、投げにゆこうとする相手に対し、それに耐える、体を逃がす、距離を取るなどという対応をしていると、たちまち審判に言われてしますが、レスリングと同様の疑問を感じざるを得ません。


 攻撃している人は、どうしていつまで経っても決められないの?




 これはもしかしたら、互いに世界のトップクラスで、実力が拮抗しているために、そう易々と技は決まらないのだ、ということなのかもしれません。しかしわたしはあえて、こういう説を提示したい。



そもそも柔の技は、自ら攻撃するものとしてできていない




 これまでわたしが体道のなかで教わってきた柔術を見ても、その他の流派を見聞しても、そう感じてしまいます。常日頃、師匠から教わっているような、相手からのアプローチがあってはじめて技が生まれるというあのスタンスこそ柔術の根幹であり、また本質であるとするならば、その柔術をもって、こちらから積極的に相手へ攻めこんでゆくような行為そのものが矛盾しているのではないか。


 われわれが空手で突きや蹴りなどの攻撃を学び、体道のなかでも、刀や杖などで攻撃する術を稽古することはありますし、それはとても重要なことながら、そういった意味の攻撃と、柔術としての攻撃というのはいささか質的に異なっています。後者にはもともと、本質的な矛盾があるような気がします。



 
 これが最近わたしのなかで生まれた疑問です。



 じつは、この話を引き延ばしてゆくと、師範から伺った「肉を食べると攻撃的になる」というあのお話とも通じてくる気がするのですが、それはおいおい検討してゆきたいと思っています。



 

 裏部長でした。 
posted by 札幌支部 at 16:09 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年07月30日

縄暖簾

 おはようございます。裏部長です。







 朝っぱらから内輪の話をします。




 先日のある稽古の後半、体道をやっているときの話です。ここ最近の札幌支部のメイン・メンバーであるIさんが天心古流の「両手裏投」を教わった際、手と体の連動を意識する過程で、こんなことをおっしゃいました。


「ということはつまり、力を入れて手と体を固めて動くということですね」


 この技をご存じの方であればわかっていただけるでしょうが、動きだすときに最初はどうしても手と体が分離してしまいます。当然、体だけ行っても相手は崩れないし、手だけ先行させようとしても動かない。全体がひとつとなって、みんな一緒に動かなければ成功しない技なのですが、言わずもがな、力を入れてしまうことは避けたいわけです。もっと自然な状態で、身体をまるごと動かしたい


 そのときは、Iさんの受けをわたしが取り、師匠が指導をされていたので、裏部長としてはただされるがまま相手の両手首をもっていればよかったのですが、ふと考えてしまったものです。


自分は、どういう感覚でそのひとつになるという状態を実現させているのだろう?




 そのときの稽古ではわたしも「両手裏投」をやってみました。上記のやり取りがあり、自分のなかで再点検しながらの捕だったもので、いろいろと感じることがありました。


 どうして手と体が分離しないのか。身体の節々に力を入れて固めているわけではないのに、なぜひとつになって動いてくれるのか。


 そのときのわたしの答えとしては、


そこに相手がいてくれるから


 というところに落ちつきました。




 目の前に相手がいて、両手でこちらの両手首をつかんで立っている。その状況下で「両手裏投」という技をやるので、前にゆくにも後ろに引くにも、左右どちらかへ進むにしても、かならず相手がついてきてしまいます。一見するとかなり鬱陶しい感じがしますが、そのときのわたしにとっては、そういう状態のほうがありがたくて、相手が自分とくっついて立っていてくれるので、技をやる過程で身体を分離させることなく動くことができました。言うなれば、相手の存在が自分を調えてくれる、そんな感じでした。



 冷静になってあとから考えてみれば、結局は、相手を敵対する存在、攻撃しダメージをあたえたい存在と考えず、ともに技をおこなうパートナー、噛みあうふたつの歯車、そんな風なイメージで向きあうことで可能になった動きだったのでしょう。相手とひとつになる相手と反発しない。ここ数年、大切にしてきたことそのものでした。



 先日のブログ同様、このスタンスはすべてにおいて重要だとわたしは考えます。「両手裏投」は天心古流の中目録の技で、順番としてはかなり最初のほうですが、ここまで大切なことを教えてくれます。



 体道はあなどれません。




 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 09:11 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年07月24日

ただそれだけのこと

 こんにちは。裏部長です。


 七月も終盤となり、本州ではかなり鬱陶しい日々がつづいているようですが、皆様いかがおすごしでしょうか。札幌はいまだに真夏日がなく、日中はそれなりに気温は上がるのですが、夜になるととたんに肌寒くなり、半袖から出た腕をさすってしまう今日このごろです。





 今日はあらためて、ごくあたりまえのこんなことを。





 ふだんの稽古のなかで、空手をやるにしても体道をやるにしても、一貫して意識しているのは、「相手からのアプローチがあって技が生まれる」ということです。


 大きなブルドーザーのような重機でさまざまなものを圧してゆくような、なぎ倒してゆくような強さ、重さ、太さを求める人は多いでしょう。そういった状態の身体を目指して鍛えている人もいるでしょうし、伝わってきた教えとして、そのような肉体を追求する流派もあるはずです。



 しかし、われわれは違います



 わたしたちが稽古しているものは、終始一貫、どちらかといえば「受け」目線です。攻撃と防禦で言えば、後者ということになるでしょう。




 攻撃はみずからおこなうことができる、とても能動的な動作です。自分の裁量で、自分のタイミングで、自分の意思で、繰り出すことが可能です。しかし防禦は、自分で勝手にやったところで、それは防禦の動きをやったことにはなるかもしれませんが、防禦をした、ということにはなりません。


 防禦は、攻撃があってはじめて存在します。相手からのアプローチがあり、そこでようやく生まれるものなのです





 空手を習いはじめてすぐに、「相手を受け入れる。相手に突かせてあげる」という一事を教わります。これはとても大きなことで、空手にかぎらず、すべての技に通じている気がします。



 逆に言えば、このことさえ忘れずにいれば、大きく道を踏み外すことはない。わたしはそう感じています。






 稽古の過程にはさまざまな場面があり、そこにいるわれわれも機械ではなく人間ですから、さまざまな精神状態のときがある。もちろん、その振り幅を小さくしてゆくこと、変動しないこと、惑わされないことも、修業の目標なのですが、すぐにそこまでの境地には至れない。悩んだり間違ったりをくりかえします。



 ただ、上記の大切な一事だけは忘れてはいけない。


 この姿勢の上にすべての稽古が成り立っているのです。








 今日は、ふだんの稽古のなかでごくあたりまえに教えられていることについてあえて書きました。




 ただそれだけのことです。

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2016年06月12日

マリオネットの夜

 こんばんは。裏部長です。



 2016年も折り返し地点に近づき、世界はすっかり初夏で、青い空と強い風がなんとも心地よい今日このごろ、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 最近の札幌支部は、時期的なものでしょうか、すこし参加者がすくなくなっているものの、熱心な人はなお熱心に、それほどではない人もそれほどではない熱量をもって稽古をしています。時間は確実に進み、少年部に長らくかよってきていたHくんが中学生になりました。身体も大きくなりはじめ、札幌大学に来られたとき三十代だった師匠もいまやアラフィフ。


 そんなことを言っているうちに、今年も気づけば大晦日、なんてことになっている気がします。






 継続的に稽古へ参加していると、ふとした瞬間に、思いもよらない感慨に浸ることがあります。


 たとえば、体道の稽古のなかで、自分よりも後輩の人の受けをとっているとき。柔術の技で、師匠が傍らで見ていて、試されているのは捕をしているその人であって、わたしはただ受けをとっていればよいのですから、へんに頑なになることもなく、もちろん不真面目につきあうのでもなく、相手が滞りなく技ができるように、手首をもったり胸倉をつかんだり、突いたり打ったり刺したりするわけですが、そんななかでも、ふと思うことがあるのです。


技をやるとき、人はなんと多く無駄なことをしているのだろう


 段取りがわかり、動作の流れがわかり、結末までのテンポがわかれば、ある程度は動いてみせることができます。ひとりよがりにならないとか、力まないようにするとか、そういった点では各人の力量が現れますが、それはそれ、いまの自分のレヴェルでやればよいのです。それ以上のものは求めたとしても詮のないことなのですから。


 しかし、そうとわかっていても、人は技をやるとき、無駄に力み、無駄に大ぶりし、そうかと思えば収縮して硬くなり、窮屈になって苦しみます。そんな動作も我慢もまったく必要ないのに、してしまう。すればするほど悪循環で上手くいかなくなってしまうというのに、ほとんどの人はそうしてしまう。



 ああ、なんと切ない話だろう。相手を倒そうという意思があるからいけないのだ。こう崩して、こう押し込んで、こう落としたいという思いが邪魔をする。なくしてしまえばいい。自分のなかをからっぽにして、過剰に反応する筋肉もすべて剥ぎとって、骨格とそれを吊る糸だけのあやつり人形になってしまえばいい。そうして、技の動きをただ踊る。そうすれば、あんなに苦しまずに済むというのに。




 そんなことを思いつつ、またべつの日、空手をやる。突きをやる、蹴りをやる、あるいは型、約束組手。課題と向きあいつつ、汗を流すわけですが、ふいに、からっぽな自分は恐ろしいなと思ってしまうのです。


 からっぽにするということは、頭のなかも空洞化するわけで、脳がない状態です。考えることをなくしてしまう。ただやる。ただ動き、ただ突き、ただ技をやる。自分を、それをするためだけのガラスの器にしてしまう。考えるから余計に力み、余計に悩み、悪循環に陥ってしまう。ならば、そもそもの問題の源泉を止めてしまえばいい。


 しかし、どうだろう。技というのはつねに相手がいるものです。相手に力を伝えるものです。力を伝えるには、自分でその力を感じられなければいけないでしょう。その重さを、その速度を、じゅうぶん自分で把握し、認識した状態でなければ、それを相手へつかうところまで行けません。感じるということと、考えるということはどこかでつながっていて、どちらかを放棄すると、そこで成長が止まってしまうような気がしてくるのです。




 考えるから悩み、考えるから感じられる。己の肉体を人形のように扱えれば、硬さや不必要な重さからは解放されるけれど、血液は行き渡らない。神経が行き渡らない。そんな状態で、あの技ができるわけがない。



 

 先日、師匠とのあいだで、ある人形玩具の話が出たため、今回はそれに無理くりくっつけて書いてみました。なんだか妙に小難しい話になってしまいましたが、要は、ひと筋縄にはいかない、ということなのです。どちらか一方の考えと姿勢でよいのなら、みんなあっという間に成長して、世界は達人たちで覆われてしまうでしょう。


 このぐらつく舟を漕いでゆく旅路にいかに順応するか。結局はそういうことなのだと思います。


 裏部長でした。




posted by 札幌支部 at 19:08 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年02月28日

波紋

 こんばんは。裏部長です。


 なんだかんだで、二月もあと一日です。

 季節は春へと近づき、花の便りもちらほら届く頃あいとなりました。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。






 
 最近の稽古では、よくワン・ツーをやっています。



 約束組手というと、何よりもまず追い突きでありまして、それはいまも変わっていませんが、今年に入ってからはそこへ、すこしずつワン・ツーが入ってきています。




 こないだの稽古で、師匠が言ったことばが印象的でした。


これまでやってきたワン・ツーはワン・ツーではない。ワン・ワンだ


 面白い表現と指摘だなと感じました。そして、実際にその違いを目のあたりにすればするほど、たしかにワン・ツーというよりはワン・ワンなのでした。言い得て妙というのはああいう状況をいうのでしょうね。




 この稽古をきっかけに、師範のことばも思いだしました。札幌での稽古だったか、本部へお邪魔したときのひとコマだったか、記憶が定かではないのですが、ワン・ツーの話になったときに、


いまはあたりまえにワン・ツーと言っているが、これはもともと、刻み突き・逆突きである


 まあ、そりゃそうだと思うでしょう。たしかにその通りで、空手をやっている人ならは即座に肯けるはず。



 しかしね、先ほどの師匠のワン・ワン発言とつなげて、これはたやすく看過してはいけないことばだと思うのです。






 ワン・ツーというのはつまり、突きを二本立てつづけに出す動きのことですね。追い突き・逆突きというのと変わらない、コンビネーションの技のことです。


 この動きを考え、成長させてゆくには、いきなり全体を捉えるのではなく、追い突きのときがそうであったように、まず一本目の刻み突きを研究するべきです。約束組手で散々いろいろとたった一本の追い突きをやっているように、刻み突きにおいても、それ相応に掘りさげられる余地はあるはずです。


 一本目の刻み突きを磨き、変化させ、向上させてゆくと、当然ですが、それに隣接している二本目の逆突きも変わってゆかざるを得ません。現に、刻み突きの出し方、そのときの身体のつかい方を錬ってゆくと、おのずと逆突きも違ったものになり、結果、ワン・ツーという技が技としてようやく誕生するというわけですね。



 ワン・ツーとひと息に言ってしまえば、馴染みのあることばですが、これをまず「刻み突き・逆突き」に分解し、その一本目、刻み突きを単体でまず考えること。そこに変化が生まれ、身体の動きが質的に変わったら、そこではじめて二本目の逆突きをつけて、また新たに考えてみる。すると、二本目の逆突きも変化してくる。ただしここで安心していけないのは、二本つづけてやってみて逆突きに手ごたえが出はじめると、今度はあれだけ意識して取り組んでいた一本目の刻み突きがおろそかになり、ただ手を出しているだけになってしまいがちです。ここをさらに注意して、一本目の刻み突きも、二本目の逆突きも、両方きちんと活きた攻撃としてのワン・ツー、正真正銘のワン・ツーを目指していかなければなりません






 と、わかったようなことを書きましたが、これが今後の、わたしの課題でもあります。忘れないように、ここに記しておきました。



 さて、これからどうなることやら……。



posted by 札幌支部 at 18:32 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年01月31日

body to body

 おはようございます。裏部長です。




 みなさん、明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申しあげます






 と言いつつ、一月も今日が最後です。今年も、すでに十二分の一が終わってしまいました。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 
 さて、最近読んだ小説に面白い解説がついていました。



 それは新潟を舞台にした物語で、巷で言うところのいわゆる「毒親」のもとで暮らす女子高生ふたりが、抑圧され、精神的に虐げられる日々のなかで鬱屈し、ついにはそれが爆発して事件が起こる、という内容のものでしたが、ときに理不尽なことを強い、ときに他人のような態度を取ることさえある「毒親」に、なぜ彼女たちは抵抗できなかったのか、それについて解説で触れているわけです。


 臨床心理の世界では常識のようですが、わたしは知りませんでした。なんでも、母親と娘の関係は、たとえば母親と息子、あるいは父親と息子または父親と娘の関係とは異なり、さまざまな意味で根深いものがあるというのです。


 どうして根深い関係となるのか。


 それは、おたがいに女性だから、なのだそうです。女性は男性とくらべて、日常的に自分の身体の内部へ目を向けることが多い。月経があり、それにともなって熱っぽさ、だるさを感じたり、便秘になったり、貧血気味になったりと、変化が多く、それらの動向をつねに感じながら生活しているというのですね。


 自分の身体の内面へ気を向け、アンテナを張って感じながら生きている女性に、母親がいろいろなことを教えてゆきます。刻みこむように、なじませるように、いろいろなことを。それは、男の子が受けるよりも深く浸透し、根づいてゆきます。


 こんな生活を五年、十年とつづけてゆけば、両者の関係は強靭なものになり、多少のことでは離れなくなってしまう。だからこそ、傍目から見れば異常なほど理不尽な目に遭っていても、その子本人は抗えず、反発する意思はあっても、最終的には母親の思いに沿う行動を取ってしまうらしいのです。




 はあ、そんなものかと感心して読んでいましたが、ふとこんなことを考えました。



 道新文化センターでやっている古武術講座に、女性受講者が多いのはなぜだろう?




 これまでは、男性は仕事の関係でスケジュールが取りづらく、転勤などで札幌を離れることもあるから、なかなか長いあいだ継続して来ることは難しい、だから女性のほうが多く、長年やっている方もいるのだ、と思ってきましたが、これ、いちがいにそういうことではないのかもしれません。


 女性だって仕事をしているし、なかには家庭をもち、家事をし、その上で時間と体力をやりくりして来ている方もいます。男性ばかりが事情を抱えて、困難のなかで参加しているわけではないのです。



 ならば、なぜ女性のほうが多いのか。

 これは、もしや、女性特有の、自分の内面へ向ける感覚のせいかもしれません。




 体道の、とくに柔術をメインにやっていて、長くつづけていると、技の内容を把握し、憶え、その通りに動くことにはしだいに馴れてゆきます。先日も、捕手術のグループが一段階を終えましたが、細かいポイントでもうすこし向上できるところはありつつも、全体としては小馴れた印象で、危なげなく演武されていました。全員が体道連盟の黒帯を締めている、ヴェテランのチームです。


 しかし、長くやっていて、技を習い憶えることに馴れてきても、それで技が上手くゆくとは限りません。あたえられた動きの通りにやってみせたからといって、技がかならず極まるわけではない。ロボットのように、プログラミングされた“正しい動き”をしてみても相手に効かない場合があります。


 そんなときはどうするか。

 動きから離れて、自分の内面と、そして相手の内面へ感覚を向けるようになるのです



 これは、「相手とひとつになる」などと、これまで散々書いてきたアレに通じる話で、別段特殊なものではありません。自然と、技をやってゆくなかでそうなってゆくだけで、意図しておこなっているものではないのですが、面白いもので、この感覚は、わかる人にはわかるがわからない人には何十年経ってもわからないもので、ここに気づけるかどうかが、体道を面白がれるかどうか、ひいては、武術をたのしめるかどうかにつながるのだとわたしは思っています。



 その内面へと向かう意識、感じ取ろうとするアンテナ。これらは、もしかすると、男性的な感性より女性的な感性のほうが得やすいものなのかもしれません。



 とはいえ、「じゃあ、これまでの武術の歴史のなかで、達人と呼ばれた武術家のなかに女性がすくないのはどういうわけだ?」と訊かれるとぐうの音も出ません。女性の武術家もたしかにいたことはいたでしょうが、名前や逸話が残っているのは圧倒的に男性が多く、それはきっとこれからも変わらないのでしょう。

 
 武術を表だってやるのは男性で、女性はそれを主として生活していなかった、と言えばその通りでしょう。しかし、わたしはさらにそこへもう一点、意見を置いてみたい。




 武術を極めるには、女性的な感性のほかに、男性的な才覚が必要なのではないか?



 


 稽古をするなかで、不思議な感慨に襲われることがあります。


 相手と向き合い、技をおこなう際、この手、この足で何でもできてしまう、もっと言えば、この指、この皮膚ですべてやれてしまうなと感じるときがあったと思いきや、どんな技でも、相手と自分とのあいだにはかならず何かが介在してしまう、拳があり、腕があり、刀や杖があったりする、それらが鬱陶しい、邪魔だ、そんなものがなくても、自分と相手の身体と身体、心と心だけでことが済むではないか、それ以外に必要なものなどありはしない、そんなことを感じて、手離しで技がやれてしまう瞬間に出合うこともある。


 あれは何なのかなあ。不思議で仕方ありませんが、その感じにとらわれたとき、わたしはものすごく心地がいい。幸福なのです。あれは、いったい何なのかなあ。







 そんなこんなで、いろいろございましょうが、今年もよろしくお願いいたします。


posted by 札幌支部 at 10:00 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年12月31日

山が見えたならそれは山

 こんばんは、裏部長です。



 大晦日です。あとすこしで2015年も終わります。


 この冬、札幌では十一月に大雪が降ったり、そうかと思えば暖冬で、今月は雪がすくなかったりと、いろいろありましたが、今日も比較的おだやかな天気で、落ちついた年末年始をすごせそうです。



 今年は、九月に札幌で師範をお招きしての特別稽古があり、十月には師匠にくっついて、奈良と名古屋での稽古にも参加しました。

 札幌支部としては、稽古場所が数年ぶりに二号館地下へと移り、婦人部に顔ぶれが増え、変化らしい変化はそれくらいで、あとはいつも通りの毎日でした。




 最近の出来事で言えば、札幌大学の教員でもあるIさんが茶帯を締められたことくらいかなあ。とても喜んでいらっしゃって、その様子がなんとも微笑ましくて、自分も茶帯や黒帯をもらったときはあんな風に感激していたなあと、わずか数年前のことをなつかしく思いだしてしまいました。



 修業は一生だ、とか、鍛錬に終わりはない、なんてことばをもち出す必要もないほど、裏部長にとって、稽古は日常のなかにあります。

 何か目に見えるわかりやすい目標を立ててそのためにするものではなく、ただするものです。

 そのなかで会得するもの、体得するもの、発見するもの、実践するもの、さまざまありますが、それは稽古してゆく過程で得られたものであって、それらを得ようとして稽古しているのではないということ。

 むしろ、何か用意や努力をするのなら、その不断の稽古をするために必要なことをするべきで、わたしが今日までの一年で痛感したのは、この一事です。





 平地にいるなら平地を歩くように。


 山があるのなら山を登るように。


 川があるのなら川を渡るように。





 歩みつづけるためには、そうするにふさわしい速度があり、息づかいがあり、気持ちがあるはずです。

 それはしかし、実際に長くつづけてゆくなかでしか見つけられないものだと感じました。

 だから、焦ったり、詰め込んだり、反対に怠けたりする日々はもういらないのです。



 

 明日からの一年が、みなさまにとってよりよい日々、そしてよりよい稽古で満たされますように。






 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 17:28 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年10月20日

あなたの家

 こんばんは、裏部長です。


 今月も残すところあと二週間弱となり、来月になったらなったで、今年もあと二箇月ということになり、あらためて時間の流れの速さを痛感します。札幌ではそろそろ雪が降るでしょう。秋に浸れるのもあとわずかです。




 さて、先週の三連休、師匠にくっついて、奈良名古屋の稽古に参加してきました。奈良は初、名古屋は二度目の参加でした。前者は奈良支部の道場で、われわれのほかに、師範T技術顧問M田さんとにかくランニング姿が爽やかなMさんがいらっしゃり、二日に渡り二度、胴衣を着る機会がありました。



 いろいろなことを教えていただき、見せていただき、感じさせていただきました。師範がいてT技術顧問がいて、師匠もM田さんもいるので、さながら体道連盟首脳会議の様相を呈していましたが、ほどよい緊張感で、なごやかにすごすことができました。


 また奈良から名古屋へ向かう道中では、師範からさまざまなお話を伺うことができ、勉強になりました。ああいう場で、もっと気のきいた質問や相槌が出せればよいのですが、不器用な人間で申し訳ありません。ボキャブラリー豊かな人間になりたいものです。



 師範、T技術顧問、そして奈良支部のみなさん。お世話になりました。

 濃密な稽古はもちろん、お食事もおいしく、奈良観光もできたし、伊賀で忍者屋敷も見学できて、たのしい三日間でした。

 ありがとうごさいました。





 あいもかわらず、教わったことを具体的に書くことはしませんが、今回の稽古で感じたことをひとつ挙げるとすれば、それは、


ひとつのことを極めんとする人間の姿勢


 とも言うべきものでした。これは大いに勉強になったし、反省もさせられました。





 以前にこのブログでも書いたかもしれませんが、ある人が、ともに仕事をしている年若いスタッフに、一週間ぶりに顔をあわせた際、いつもこう尋ねるのだという話があります。


君は、この一週間で何を学んだ?


 その人たちが会って仕事をするのは、週にたった一度なのです。今日の仕事のあとは、互いに一週間離れているわけで、その間にどんなことをしたのかと問うているわけです。



 勉強といっても、べつにそれほど重いものを要求しているのではなく、こんな本を読んだとか、どこかへ旅に行ったとか、こんな人に話をきいたとか、その程度のことでよいのです。いけないのは、何もせず、変化も求めずにただ時間をすごすことで、怠けていた人に対しては烈火のごとく怒るのだと聞いたことがありました。




 今日のブログの冒頭で、今年も残すところ二箇月ちょっとだと書きました。師匠ともよく、年末が近づいてくると交わす話題で、みなさんもそうでしょうが、こういう話をしたときに、焦りや不安、虚しさ、恥ずかしさ、怒りなどを感じる人は、きっと、自分で納得できるほどの何かをし得なかったからなのではないでしょうか



 目標をもち、実践し、努力し、悩み、苦しみながらそれでも前進し、たとえ満足はできていなくても、何かしらの結果を出せた人は、一年の終わりを前にして、ただ焦ったり、不甲斐ない自分を恥じたりはしないはずです。むしろ誇らしささえ感じることでしょう。俺はこの一年こんなことをやった、達成してやった、来年はもっとがんばってこんなことをしてやろう、もっと先へ進んでやろうと、新たな熱意をおぼえているはずです



 これは何も武術に限った話ではありません

 ただ単に、今回の遠征のなかで、わたしが師範や、師匠や、T技術顧問や、M田さんらに対して、みなさんの武術に対する姿勢を見て感じたことを自分なりに書いてみただけです。




 それが仕事である人もいるでしょう。武術である人もいるかもしれないし、人間関係かもしれないし、芸術であるかもしれない。それぞれに、自分で勝負する世界があって、でもほんとうに、一年が終わるごとに決し悔いることなく、むしろ胸を張って生きてゆけるほど、いつもきちんと取り組めているかどうか




 情けないことに、わたしは過去に何度も、虚しい年越しをしたことがあります。なんにもない年末、手応えのない年明け、そして心晴れない正月。口惜しさも恥ずかしさも呑みこんで、見て見ないふりをする。忘れてしまう。


 でも今回、諸先輩方を見て、あらためて気持ちが引き締まりました。





 自分が生きてゆきたいと強く想っている世界で進んでゆくためには何が必要なのか。願っているだけ、想像しているだけではいけないのです。熟考し、実践し、その歩みをさまたげる要因を振り払い、愚直に、ただ前だけを見つめて、継続してゆくこと。その過程で、もし熱意が消えてしまったら、それは自分にとって大したものではなかったという証明で、もしまだやり足りないと感じて心身がうずくなら、やればいい。



 そうして生きてゆくことが、ほんとうの意味の「前進」なのではないでしょうか。




 わたしも、わたしの道を、絶対に諦めたくないです。


 みなさんは、どうですか。


posted by 札幌支部 at 19:40 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年09月26日

人間は食べたもので出来ている

 秋の夜長、いかがおすごしでしょうか。

 裏部長です。



 シルバーウィークも終わり、来週後半からはもう十月がはじまります。北海道は夏が短いと言われていますが、秋もそう長くはつづきません。趣きのある、豊かな季節にしたいものです。




 さて、去る九月十九日、札幌大学研修センターにて、師範をお招きしての特別稽古が開催されました。


 札幌支部御用達の、何の変哲もない、コンクリート床の教室ではなく、きちんと畳の敷かれた武道場を借りきっての稽古。イヴェント要素の多い一夜でした。




 今回は、われわれ札幌支部のためというより、道新文化センターで古武術講座をとっている方達のために開催した特別稽古でした。


 木曜日の講座は2008年から、水曜日の講座は2009年からおこなわれていて、どちらもすでに六年以上つづいているものです。開講当時からかよってこられている方もいれば、その方達に負けず劣らず熱心に稽古されている方もいて、せっかくならそんなみなさんにも師範の技に触れていただきたい。そんな主旨が、今回の稽古にはあったのでございます。




 結果から申しあげると、盛況な一夜でした。道新文化センターのメンバーだけでも十名以上が参加され、そこに札幌支部のメンバーも加わって、トータルで二十名ほどの参加がありました。ふだんの稽古ではあまり見ない人数でしたね。




 毎度のことながら、稽古のなかでどんなことをしたのか、そのなかで師範がどんなことを教えてくださったのかは、ここには書きません。それは、あの日、稽古に参加していたみなさんだけの財産だから。ある人はただただ師範の技の素晴らしさに圧倒されたかもしれないし、またある人は、師範の話されるエピソードやその所作のあれこれに、ひそかな感動をしていたかもしれない。そこから得られる印象や教訓は人それぞれで、だからこそ学ぶということにつながるのですから、あえて、ここで認識を共有する必要はないのです。






 裏部長個人の印象でいえば、「シンプル」、そして、「濃さ」ということですかねえ。




 冒頭、メンバーによって稽古の内容をわけてスタートしました。


 道新メンバーは師匠とともに八段錦や太極拳をやり、われわれ札幌支部メンバーは、師範指導のもと、空手の基本をやったのですが、その合間に、いろいろな動きや技の解説をしていただくわけです。非常に貴重な時間だったのですが、師範から提示されるものは、つくづく肯かざるを得ないようなものばかりでありながら、あとで冷静になって考えてみると、

「その動作を技としてつかおうと思ったら、そうするよりほかにないよなあ」

 と思うものばかりだったのです。



 つまり、突きにしても蹴りにしても受けにしても、その動作が技としての力を有するためには、それ相応のつかい方や理合があります。当然それらはすでに師匠からも伝えられているものばかりではありながら、徹底していなかった面もあり、深く反省しつつも、結局すべての事柄は、とてつもなくシンプルなものばかりなのだと感じるしかなかったのです。ぐうの音も出ないとはこのことで、そこをきちんと見据えられる目と感覚があれば、大きく道を踏み外すこともないだろうとさえ思いました。




 あらかたのことは、もう何度も、実際に、すでに教わっていることなのです。




 空手の基本が終わり、師範に型を審査していただき、道新メンバーからもひとり体道の審査をしてもらったあとで、ようやく全員が合流し、師範主導のもと後半の(メインの)稽古がはじまったわけですが、ここでも裏部長、幸運なことに、師範の受けをほとんど取らせていただきました。流れ上、師範に投げられるだけでなく、師範を投げる場面もあり、なかなか得がたい貴重な体験をさせていただきました。



 この時間のなかで、わたしは幾度となく師範の身体に触れたのですが、そのとき受けた印象はいままでにないものでした。


 以前は、「空っぽ」「人のかたちをした浮き輪」「どこにも澱みがなく、力みもない」という印象があり、ここでもそれを書いてきましたが、今回はまるで違いました。



 師範の身体は、ものすごく「濃かった」のです。




 そりゃね、もともと薄いなんて思ってはいなかったのです。しかし、実際に接近し、実際に触れてみたとき、目のあたりに感じたその濃度は、想像していた以上のものでした。



 そのとき感じたものをそのまま記せば、色は真黒でした。それも、とにかく濃厚な黒。奥を見通してみたくてもまるでわからないほど濃く、粘っこく、深い黒。そのなかに巻きこまれたら最後、きちんと受け身を取らなければ、腕の一本や二本あっという間だなと、今回はじめて感じました。にこやかに笑いながら動いているのだけれど、内部で動いているものは絶妙に残酷なのです


 

 このほかにも、あの二時間ちょっとの稽古でわたしが感じたことはいろいろあって、書いてゆけば長くなってしまうのですが、今夜はこのあたりで終わっておきましょう。



 参加された道新文化センターのみなさん、お疲れさまでした。札幌大学でおこなう稽古へ参加されるのは今回がはじめてで、そこに師範もいらっしゃって、戸惑うこともあったでしょうが、たのしんでいただけたのなら幸いです。

 札幌支部のメンバー、もっと多く参加できなかったのかい。そりゃ忙しいのかもしれませんし、興味が失せちゃったのかもしれないけれど、師範が来てるんだぜ。十年ぶりの来道なんだぜ。顔を出すくらいでも、もっと集まってもよかったんじゃないのかい。




 ともあれ、学ぶことの多い一夜でした。



 師範、ありがとうございました。


posted by 札幌支部 at 19:58 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年08月22日

向かい風が教えてくれる

 こんばんは。裏部長です。


 先日は、唐突にネガティブ裏部長で失礼いたしました。どうにかもち直し、夏バテにもならず、元気にやっておりますので、ご安心ください。




 
 さて、日々の稽古で大切にしていることといえば、一体感です。技との一体感、人との一体感。空手をやるにしても体道をやるにしても、あるいはそれ以外のことをやるにしても、つねに一体になろうとしている自分がいます。


 もちろん、なぜそう欲するかといえば、一体感が生まれたときに技が上手くゆくからで、違和感や齟齬が点在していると、何をやってもどうにもなりません。身体も心も、どちらもつねにニュートラルでいなければ、どこかでかならずズレが生じます





 札幌支部では約束組手をする際、あまり迅速苛烈な攻防をしないもので、きちんと一本の突き、それに対する受けの動きに集中して稽古をすることが多いのですが、わたしの場合、ほとんどのケースで、相手が後輩になるので、受けているときにすこし余裕ができます。


 ただ受けているだけだと、相手の突きはあたらないし、こちらもほとんど得ることなく、一瞬ですべてが終わってしまうので、こうしたときにこそ、例の一体感を気にするようにしています。




 料理をしていて、何かを煮ていたとして、あるいは揚げ物をする際に油を熱していたとして、求めている温度に達したかどうかを、手をかざしてはかる料理人がいますね。


 あんな感じで、わたしは約束組手のとき、相手と向きあっています。


 言うなれば、


身体をかざす


 というような感じでしょうか。




 受けの場合には、当然ですが、相手が突いてくるから受けるわけで、一時期はそれを顕著におこなおうと、体に接触があってから、その勢いを借りて受けるということをわざとらしくやっていたこともありました。しかし、そこまでしなくても、この質の受けはできるはずなのです。


 身も心も相手にかざして、感じるように立つ


 相手が歩んできて、突きをだす。それを受ける。



 接触があろうがなかろうが、きちんと感じられていれば、きちんとその突きに対する受けになっているし、これの面白いところは、同様の感覚で、こちらが突く際にも応用できるという点です。


 攻撃をするのだから、こちらから一方的に、エネルギーを放出するがごとく突く、では、やはり不完全です。こちらから攻める際にも、当然、相手に身も心もかざしてゆく。相手の家を訪うようにその扉へノックするかのように突きにゆく。すると不思議なもので、入らなかった突きも入るようになったりするのです。





 なんだかこんな風に書くと、いささか大仰なように見えますが、われわれは日常の端々で、この「身体をかざす」ということを、ごく自然に、あたりまえのようにやっているのですね。



 外へ出る。おっ、今日は湿気がすくなくて風が気持ちいいなと感じる。昨日と同じTシャツ姿で家を出た途端に、うわっ、寒っ、もう長袖でいいんじゃんと思う。そんなことが生活のあちらこちらにあり、わたしたちはそのとき、ほとんど一瞬で、風の冷たさ、あたたかさ、やわらかさ、鋭さ、重さ、などを感じて、それに対して感情をもっているわけです。



 わざわざ空に向かって手を掲げなくても、風の質感を、われわれは身体で見つけることができるのです。




 目にも見えない、手にもつかめない風すら感じられるのです。実体があり、見ることも、触ることもできる人体に対してそれができないはずはないし、たとえ接触しなくても、感じることは可能なはずです。




 いつも通りの稽古をいつも通りやっていたって、学べることはあります。それを可能たらしめるのは、ニュートラルな自分です。空っぽで、芯だけを失わない、自分自身だけです




 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 18:58 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年08月18日

必要なこと(本音編)

 またまた裏部長です。最近の更新のすくなさを取りもどすかのような連続投稿!



 先ほど偉そうにわかったようなことを長々と書きましたが、あのなかに偽りはありません。現に札幌支部においても裏部長においても、そのような意識が芽生えてきているし、面白味も感じはじめています。すこしずつ、世界が広がってゆくような期待感さえあります。


 しかしですね、本音を言えば、わたしはもっと空手をやらねばと感じています。


 もともと空手などとは縁遠いところから師匠のもとへ入門したせいかもしれないし、ただ単に、うちでやっている空手が好きで、もっと上手くなりたい、一本でも納得のゆく突きを出したいなどと考えているだけかもしれませんが、どっちにせよ、まだまだ圧倒的に空手の詰めが甘い気がしてなりません。


 体道も、それ以外の武術も、やはり空手が根幹としてしっかりできていてはじめて習得できるものだと感じています。もし空手があやふやなままなら、それらの技もハリボテのようになって、結局はいつか水泡に帰すような気がしてならないのです。



 いかんなあ。稽古不足なのか、意識不足なのか。まだまだ、いかんなあ。



 来月には、師範が札幌に来られるというのに……。



 ひさしぶりに、ネガティブな裏部長でした
posted by 札幌支部 at 20:31 | Comment(0) | 裏部長の日記

必要なこと(真面目編)

 こんばんは、裏部長です。


 お暑うございます。八月も半ばをすぎ、挨拶としては「残暑お見舞い」の時期に入りましたが、みなさまいかがおすごしでしょうか。

 札幌は夏らしい日がつづき、昨日二週間ぶりに大学で稽古をしましたが、動くほどに汗ばみ、濡れてゆくような夜があるかと思えば、今日などは気温が二十度を下回るという、わけのわからない天候に見舞われています。


 こういうときこそ、たゆまぬ稽古が必要不可欠です。




 前回、空心館において稽古している(あるいは稽古できる)武術の種類を列記し、われわれは知らず知らずのうちにこれほど多くのものを学んでいるのだ、みたいなことを書きましたが、なぜそこまでの量を習得するのか、この点も理解しておかなければいけないと感じました。


 よく師匠は昔の武士を例にあげられますが、これはわかりやすい例で、べつにわれわれも武士道に生きようという外国人受けする思想をもつのではなく、あくまで実践面において武士の生き方を見ると、その稽古量の必要性が見えてくるというものなのですね。



 武士の表看板はやはり刀です。闘うとなれば、刀を抜いて構えあうわけです。だから当然、剣術は稽古しなければなりません。

 しかし、相手と向きあった際、毎回かならず抜刀した状態で構えることができるかといえば、そんな確約はどこにもありません。こちらがまだ抜いていない間に、相手がいきなりということも十分ありえます。

 だから、鞘に入った状態から抜刀し、相手を斬る、あるいは相手の攻撃に対応する術を知らなければなりません。なので、抜刀術、居合術が必要になります。


 さて、剣術と抜刀・居合術を得たところで、刃物はもういいかといえば、まだ十分ではありませんね。長いほうの刀がなかった場合、脇差で闘わなければならないため、このサイズの刀法も知らねばなりません。武士が生きていた当時、つねに大刀を手もとに置いておけるわけではありませんでしたから、シチュエーションによっては短い刃物で対応する必要があります。


 しかし、これを言いはじめると、では刀そのものがなかったら、という状況設定が出てきます。闘っていたときに刀が折れる、飛ばされてしまう、奪われてしまう。可能性はいろいろあるでしょう。しかし相手は武具をもっている。こちらも何かを用いて応戦したい。


 となれば、刀以外の武具の技が必要になってきます。杖や棒、挫、あるいはそれらのサイズで違う素材のもの。師匠が以前、ホームセンターに行くと武器になりそうなものがごろごろしていて、つかえそうなものを自然と目で追ってしまうという話をされていましたが、現代においてはさまざまなものが武具として利用できそうです。


 この展開をつづけると、ではこちらが素手になったら、という話も出てくるでしょう。よって、柔術がほしい。投げ、押さえ、関節技を極める。できれば、素手でこちらから攻撃する術もほしい。われわれであれば、そこに空手がいてくれるのでたいへん助かります。



 こんな風に、ありとあらゆる場面に対応できるようにと考えると、特殊なものでない限りは、やはりひと通りで習得しておかなければ、武術家としては不十分である、という話は説得力をもちます。現代のほとんどの格闘技や武道は、それ単体でルールをつくり、みんな同じ状況下で向かいあうため、ひとつのスキルを磨いてゆけばよいのですが、こと武術ということになるとすこし複雑になってくるわけです。


 何が複雑かといって、上記に書いた武術の大まかな種類は、単にそれをつかえるようになることが目的ではないのです。相手にその技で打ちかかられたとき、それへ対応できる自分をつくるために、つまり防禦の立場で処理できるようになることが目標なのです。刀で相手を斬ることができる、は第一段階で、そんな刀で斬りかかってきた相手を制するための受けの技、ここへ到達することがわれわれの第二段階なのです。



 いま“われわれの目標”と書きましたが、これはあくまでうちの師匠のもとではということです。空心館全体でも同様のスタンスなのかもしれませんが、詳しく確認を取っていないので、一応こう書いておきます。




 師匠が以前、稽古のなかで話していました。約束組手をしていて、自分と同等かあるいは下のレヴェルの人間の突きはなかなか当たらないのに、自分よりも先輩の突きはあたってしまう。それはなぜか。


 それは、その人のなかに相手の突きと同等のスキルがないから。相手と同じレヴェルの突きがつかえれば、その速度、角度、鋭さ、重さなどが自分の感覚のなかに定着しているので、対処できる可能性がある。しかし、自分のなかにそれがない場合、感覚としてわかっていないから、見当をつけて動くしかなくなるわけですね。あるいは力技で対応するしかなくなってしまう。しかし、うちでは相手の突きを受け入れるというスタンスを崩すことはありません。だからほとんど場合、入ってしまうのです。



 これが武術全般に言えるのですね。相手の攻撃に対処するためには、その攻撃を知らねばなりません。もちろん、ただ知っているだけではなく、自分もそれができなければ意味はない。だから、何だかんだで、あれだけ多くのことを学ぶ方向へ進んでゆくのです。


 こういった実技面での話があると、武士でなくてもさまざまなことを稽古しなければならないという気になってきますし、また実際に武具の技などをやってみると、当然ですが、素手の技のなかにはない怖さや迫力、術理があり、感心することしきりです。


 
 武術を武術としてやらねばなりません。稽古あるのみです。
posted by 札幌支部 at 20:17 | Comment(0) | 裏部長の日記