2019年11月29日

心身を立脚すれば

 こんばんは。やめればいいのに、映画『シャイニング』を観て、観なきゃよかったと後悔している裏部長です。

 もともとホラー映画は苦手なのです。それが今回、たまたまBSで放送されるというのを知り、これはおそらく、同作の四十年後を描いたという新作映画『ドクター・スリープ』を受けてのことなのでしょうが、超がつくほどの有名な作品でありながらこれまで観てこなかった自分を責めさえして、とりあえず録画し、怖くて嫌になったらやめてしまおうと観はじめたところが、結局ラストまで行ってしまったというわけなのでした。

 返す返す、精神的に参るような映画でした。観なきゃよかったなあ。いまもなお、あのいや〜な感じが頭のなかにまとわりついています。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 早くも十一月が終わろうとしています。

 今月はあまり稽古へ参加できなかった裏部長です。2019年の締めくくりとして、来月は多く胴衣を着たいものです。


 最近は刀もやっておりますが、個人的には空手の立ち方に注目しています。

 おもに型においてですが、空手にはさまざまな立ち方がありますね。前屈立ち、後屈立ち、四股立ち、猫足立ち、三戦立ち、などなど。それぞれの立ち方にはそれぞれの特徴があり、その立ち方をするから生まれる力強さ、粘り、あるいは速さ、鋭さがあります。

 これ、型のなかできちんと発揮できているかどうか……?

 気づいたのは「十八」をやっているときでした。後半に三戦立ちが出てくるのですが、ここ以降の動きが、三戦立ちができているときとそうでないときとでは、効果の現れ方がまるで違っていたのです。流れに流されて、三戦立ちのかたちになっているだけのときは、節々が緩んでしまい、どうしようもない。逆に、きちんと三戦立ちの締まりができていれば、それが上半身(手や指先)までにも通じ、全体の動きがまるで別物になってしまうのです。


 当然、これは他の型の他の立ち方にも言えるはずです。

 これまで自分は、そこまで細かく型を見、型を打ってきただろうか……!


 課題は、これから歩もうとしている道の先にもあるでしょうが、これまで歩いてきた道の上にも転がっています。

 地に足つけて、稽古します。


 裏部長でした。

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2019年10月20日

私の帰るべき場所へ

 こんにちは、裏部長です。

 街はすっかり秋の色です。今日の札幌は気持ちのよい快晴。気温も高く、風もなく、すっかり葉を落とした街路樹たちも、なんだか今日は淋しさよりも清々しさを感じさせてくれる気がします。

 国民の多くが、今夜のラグビーを気にしている日曜日、みなさまいかがおすごしでしょうか。



 台風19号の被害に遭った方々へ、心よりお見舞い申し上げます。

 その惨状をTV等を通じ知るたびに驚くやら悲しいやらで、心が塞がりそうになります。実際にその渦中にいた人にとってみれば、被害のなかで感じた恐怖や絶望は、われわれの想像を絶するものでしょう。災害は、実際に体験した人でなければその苦しみを共感することはできません。だからいまは、ただ手をあわせて心を寄せて、壊れたものが元どおりになる日を願うばかりです。


 今回は栃木市の被害も大きかったようですが、師範をはじめ、空心館メンバーに大事はないそうです。ひと安心です。


 こうした災害はいつどこで起こるかわかりません。明日、自分が遭遇するかもしれない。

 だからこそ日々の生活を大切に、健康で、たのしく稽古できていることに感謝して生きてゆきたい。


 すこしでもみなさまの心のなかが平和でありますように。



 裏部長でした。

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2019年09月03日

9月の稽古

こんにちは。

まずは9月の稽古予定について。
6日を除く火曜日と金曜日、18時から21時まで札幌大学内の教室にて行います。
メニューは、養生体操と太極拳、太極剣、空手、体道となります。
21日(土)は、18時から21時まで、武道場にて体道の稽古です。

8月の本部遠征、参加された皆さまお疲れさまでした。
今回も、たくさんの宿題を得られました。
ともかく気づけば札幌に来て15年超、自分自身の稽古がおろそかになっていましたので、できる限り新たなものを修得して帰りたいと心入れ替えている昨今です。

その意味では、今回大日本抜刀法を習ってきたことが収穫でした。
GWにはMが習うのをはたから見て記録していたのですが、自ら動くと身体に記憶が残るのをあらためて実感しました。
とはいえ、体道の稽古のように、随時記録をしなかったので、細かなところで再確認も必要な状況にあります。
資料もいただきましたが、写真や記述に差異も見受けられましたので。
そこは反省点でした。
ともかく、裏部長さんではありませんが、刀を想定した時にみられる身体使いを、本格的にイメージできるようにもなれるよう努めたいです。

似たようなこととして、今回私から紹介した長拳の棍術については、杖術や棒術と違った動きに戸惑われている様子も見受けられましたが、何かしらのヒントになると嬉しいです。


もう一つ、空手の約束組手で行った、逆突き(裏突きや裏打ちと表現した方がいいでしょうか)についても、気づきがありました。
こちらに戻って反芻しながら、裏拳打ちの基本稽古での工夫、構えについての説明原理を一つ思いついたので、次回触れながらより良いものへと進化できればと考えています。
また、あの逆突きに対する技を考える段階に来ているので、これは今後の課題となりました。

お手合わせできるのを楽しみにしつつ、こちらで精進しておきます。





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2019年08月23日

「刀」が象徴するもの

 こんばんは、裏部長です。

 八月も後半戦です。本州のほうでは連日いやというほど暑く、その上、台風がすぎ去ったと思えば、ゲリラ的な豪雨や雷雨といった有様で、いろいろお見舞い申し上げます。

 札幌はようやく涼しくなりました。そろそろ半袖も着づらくなります。あと三箇月ほどで雪が降ります。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 ここ最近、芸能界では横浜流星という俳優が人気ですね。

 スカウトで芸能界へ入り、2014年にスーパー戦隊の『烈車戦隊トッキュウジャー』で注目されるも、同作の主演だった志尊淳とくらべると地味な出だしで、その後は映画や舞台、TVドラマなどで堅実な活動をつづけていました。そして今年、『初めて恋をした日に読む話』という作品でブレイクを果たし、それ以降は矢継ぎ早の活躍といった印象です。ブレイクとは恐ろしいものです。

 わたしは例によってトッキュウジャーを見ていたので、そのころからこの人のことは知っていましたが、彼が現在出演しているTVドラマ『あなたの番です -反撃編-』は残念ながら鑑賞していません。内容が内容なもので、あまり惹かれなかったのです。

 ただ、彼が本作の劇中で見せた空手アクションのシーンだけはチェックしておきました。

 横浜流星さんは極真空手をやっていて、中学生のころには世界大会での優勝経験もあり、今回の作品でもその勇躍ぶりをいかんなくやったわけですが、このアクションシーンを見ていて、わたしはつくづくこう思ってしまいました。

日本の武術だけでは、魅力的なアクションシーンはつくれないのではないか


 颯爽とした身のこなし、パンチの乱打、そして華麗な廻し蹴り。どれもきれいな動きで、魅了されたファンも多くいらっしゃったようですが、あれはアクションというか、一方的な彼の動きのアピールですよね。攻防の、互いのやり取りといった印象は薄い。

 これはなぜか。考えてゆくうちに、わたしはふと、

日本の武術・武道は、どれもすくなからず刀に影響されているのではないか

 という一事にぶつかったのです。


 刀というのはとても恐ろしい武具です。しかし、そのもの自体としてはあまりタフではない。時代劇で見るチャンバラのように、相手とカンカン打ちあっていてはすぐに刃こぼれするし、曲がりもし、下手すると折れます。手入れを怠ると錆びてもしまいます。

 だから、もし刀を用いて闘おうとした場合、相手と(あるいは相手の武具と)あまり接触したくないわけです。一手か二手くらいでどうにか片をつけたい。

 これは刀に対する他の武具においても同様で、こちらが杖や棒でもって刀とやり合う場合、同様に、やはりあまり強い接触はもちたくない。そして、やはりあまり多くの手数はかけたくないですよね。


 この「刀」というものの存在と性質が、日本の武術・武道全般に何かしらの影響を及ぼしているということはないでしょうか

 
 空手のほうでは一撃必殺という勇ましい言葉があるけれど、それに近い、あまりやり取りをせず、手数もかけず、最低限の動きで相手を制してしまう、倒してしまう、そんな技の理念が全体的に浸透しているのではないか。わたしはいまそう考えているのです。

 
 一方、中国武術は、そういった意味では日本のものより変化に富んでいると言いましょうか、臨機応変というか、相手がこう来たらこう返す、こうされたらこう変化する、といった按配に、あれこれと手数にヴァリエーションがある気がします。多彩、派手。

 アクションというのは動きの上での、相手との「会話」ですから、こうした性質は非常に重宝します。

 なので、日本の映画界などで、おもに素手のアクションを指導される方は、多く中国武術の動きを取り入れていらっしゃいます。きっと、純粋に日本の武術の動きだけでアクションを構築している人のほうが少ないのではないかなあ。


 裏部長自身、最近になって居合刀を入手し、師匠についてすこしずつ刀をやりはじめているので、どうも話題がそちらのほうへ傾きかけておりますが、この印象と感覚はこれまでになかった新しいものです。現に、上記の内容を踏まえて、空手も体道もやりはじめていて、わずかずつながら手ごたえも生まれはじめています。

 この時期、このタイミングで、刀をはじめたのには、それ相応の意味があったのかもしれません。


 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 19:19 | Comment(0) | 裏部長の日記

2019年08月07日

暑中お見舞い

暑中お見舞い申し上げます。
久しぶりの書き込みとなりました

今夏の札幌は裏部長さんのコメントにもあるように、まるで本州のような蒸し暑さです。
ようやく朝晩は涼しくなりましたが。
とはいえ、こちらがこのような状況だと本州はもっと過酷なのでしょうけれども。

さて、8月は23日と24日に、M田君、M井君の本部遠征の知らせを受けて、私も行くことにしました。
あわせてこちらからは、Iさんが24日は参加、Fさんは両日参加予定ですので、楽しみにしています。
M(Mばかりですね)はすでに学校が始まっていることと、イベントが重なっているので不参加です。

師範には5月に伝えているのですが、3月に中国・恵州学院にて武術の先生から長拳の棍の基本を習う中で、「風車」につながるのではないかと連想した動きがありました。
棒の手に関して熟考されているのをうかがっていたところでしたので、ひとつ参考になるのではないかと思います。
M君たちにもそのことは今回伝えてみて、動きの質を高められたらと考えています。

それでは、また。

posted by 札幌支部 at 15:30 | Comment(0) | 裏部長の日記

2019年07月30日

手は足ほどにものを言い

 こんばんは、裏部長です。

 お暑うございます。七月も終わりに差しかかり、北海道は思いだしたかのように真夏日つづきです。熱帯夜です。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 さて、ふだんはあまり触れませんが、われわれのやっている空手は糸東流ですね。

 正確には、

藤谷派糸東流拳法空手道

 と言います。


 とはいえ、ごく一般的な糸東流空手とまったく同じことをしているかといえば、さにあらず。

 ここがなんとも説明のしにくい部分であります。


 そんな当流において、これまでの稽古のなかに、代表的な立ち方についての説明がありました。

 つまり、

猫足立ちは糸東流独特のもの

 というのと、

糸東流では段階が進むにつれて、足の横幅が狭くなってゆく

 のふたつです。


 前者はそのままですが、後者は、基立ちや前屈立ちをした際の両足の位置がレヴェルに応じて変化するというもので、段階が進めば進むほど狭く、ほとんど横幅はなくなってゆくというものです。

 裏部長、じつは最近この点にどういうわけか注目しているのであります。


 理由は単純なもので、空手の稽古時に、そうして立ってみるといろいろなことができるようになったから、という理由に尽きます。

 如実に違うのです。身体の感覚も、見える景色も、大幅に違う。これは何かあります。


 しかし、それが何なのかはいまだわかりません。そしてあまりの暑さに、文章を綴る気力もゆるんできました。


 詳しいことは、またいつか、より鮮明になったころに。



 裏部長でした。


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2019年06月29日

自由と不自由の狭間から

 おはようございます。裏部長です。

 六月もそろそろ終わりを告げます。全国的には梅雨と、そして台風の季節ですね。こちら札幌では比較的涼しい日がつづき、すごしやすい初夏となっております。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 今日はまず、最近の札幌支部の稽古内容をご紹介!

 現在、通常の稽古においては、三部構成でおこなっています。

 第一部 養生体操・中国武術

 第二部 空手

 第三部 体道

 さらに、月に一度の武道場での稽古では、体道に加えて「杖術、棒術(棍術)、剣術、抜刀術(居合術)」をおこないます。


 こうしてあらためて全体を眺めてみると、いやはや、多彩な稽古メニューだなあと感心しますが、やれば馴れるもので、札幌支部のメンバーにおいては、ごく日常的なものと化しつつあります。

 しかし、実際の稽古となると、それぞれの技のもつというか、技の力を生みだすための不自由さというか、そういった器に自分を入れこむ工夫をせねばならず、戸惑うことも、悩むこともあるわけです。

 最近、裏部長も生まれてはじめて居合刀というものを購入し、刀の稽古の際はこれを用いるようになりましたが、独特の質感、重量感、サイズ感に面喰う部分もあり、たかだか帯を角帯に換え、さして長大でもない居合刀を腰に帯びただけなのに、こうまでままならないものかと、すこし可笑しくなるほどです。


 ただ、空手などをやっていると如実に感じますが、その不自由さのなかで育まれる自由な動きというものが、結局のところ武術の技になるのではないか、と、ここ最近の裏部長は思っています。はなからすべてを自由にしてしまうことはできるが、収拾はつかず、崩れる一方になってしまう。ある程度かたちを守って、外側を変えないでいるからこそ、内面が変化し、豊かになってゆくのではないか

 技の稽古とはそういうものではないかと考えながら、今日もこうして書いています。


 みなさまにとって、いまの稽古とはどういうものでしょうか。


 裏部長でした。

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2019年05月25日

改めて武と体を考える

 こんばんは。裏部長です。

 五月も終盤に差しかかり、全国的に暑い日がちらほら訪れるようになって参りました。

 ちなみに、明日の札幌の予想最高気温は三十二度です。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか!


 さて、いま裏部長は、「武術をする身体」について考えています。


 これまではどちらかというと、技一辺倒の考え方をしていたように思います。空手をするにしても柔術をするにしても、その技を正確に捉え、学び、実践し、研究してゆく。だから、多種多様な技がなければならないし、またそれらを深く追求する目も持たなければならない。

 もちろん、その姿勢は重要なものでしょう。

 しかし、最近はすこし考え方が変わってきました。


 技も大切なのですが、それ以上に、武術をしている自分の身体に興味が出てきたのです。


 ひとつには、武術をしているときの身体、あるいは、日常的に武術を稽古している身体、についての関心です。自分の肉体を通して、そのときに現れるもの、もしくは生じる現象や感覚、感情に至るまで、その変化がとても面白く感じられます。

 ただもうひとつには、特別なことではなく、たとえば呼吸のように、生きてゆくために必要不可欠なものとして武術をする身体とはどういうものか、という点にも興味が向いてきています。

 つまり、武術と身体を不可分のものとして捉える。乾燥肌や冷え性と同じように、武術する身体になるということ。


 技を知っていたり実践できたりすることはもちろんですが、それ以上に、裏部長はいまこういったことに目を向けはじめています。

 まさしく「修証一等」。


 新たなページが開かれることを。



posted by 札幌支部 at 20:10 | Comment(0) | 裏部長の日記

2019年04月30日

またあの頃のように

 おはようございます。裏部長です。

 いよいよ四月が終わり、明日から五月がはじまります。

 …ん? 

 間違いました。

 いよいよ平成が終わり、明日から令和がはじまります。

 これでした。


 世のなかはすっかり改元ブームで、あっちでもこっちでも賑やかにやっていますが、カレンダーとしては四月が五月になるだけであり、札幌ではようやく桜の便りが届いたころなので、お祝いムードで盛りあがるのもいいでしょうが、やはり穏やかな春の日をすごしたいものです。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 新しい春を迎え、裏部長的にはいくつか心機一転することがあったのですが、稽古に関してはむしろ、ここ十年ほどのあいだについた垢を落とし、より純粋なかたちで武術へ向きあえるよう工夫をはじめているところです。

 もともと合気道をやっていたこともあり、また性格的なことも相まって、ここ最近は体道に寄り添った稽古や武術観を心がけてきましたが、それらを取っ払い、空手、柔術、剣術、居合・抜刀術、杖術など、総合的な武術観、そしてその実践をこの身に馴染ませてゆきたいと考えています。

 結局のところそれは、入門した当初のスタイルであり、拘りをもたずに稽古に精進するということなのですが、存外容易くないことです。

 ひとことで言えば空心館の武術をやるということになるのだけれど、その中心には空手があり、しかし空手一色の空手ではなく、やわらの要素が色濃く、しかして素手の技だけでは習得できない領域の感覚があるため武具を無視することはできない…といったように、いろいろな武術が複合的に絡み合っているのが空心館の武術だと思うので、これを寄り道せず、偏りもせずに学ぶのは至難の業です。

 だからこそ、純粋に、適度な距離と情熱をもって稽古すべきです。入門十六年目に入り、裏部長はそう考えるようになりました。


 みなさんはどのような目で、どのように想い、そしてどのように稽古をつづけていますか?



 裏部長でした。

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2019年03月31日

それも歩みのうち

 こんばんは、裏部長です。

 すっかり季節は進み、明日からもう四月です。

 長かった冬が終わり、平成という時代も幕を下ろします。身のまわりに心配の種は尽きませんが、何はともあれもう四月です。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 春は変化の季節です。

 長らく放送されていたTV番組が最終回を迎えたり、往年の歌手が引退を表明したり、いろいろなことが終わる季節です。

 つづけていたことをやめる。それはすこし感慨深げな、淋しいことではあります。

 しかし、同じことを長く、同じままにつづけることだけが歩みではありません。


 成長とは前進することでしょう。

 進みゆくこの道がいつまでも平坦ならば、これまでと同じ速度で構わないかもしれませんが、決してそんなことはないのです。

 落ち窪むこともあれば、逆に隆起し、上り坂となっている場所もありましょう。


 そんなとき、歩む速度を落とさないためにはどうしたらいいか。


 自分が変わるしかないのです。

 それまでもっていた荷物が不要なら捨てればいい。

 耐えることが必要なら、これまで以上に耐えてみればいい。

 下り坂なら足に力をこめて。階段をのぼるならまず太腿をひき上げることから。


 自身の変化。革新。

 それも歩みのうちです。


 いまよりももっとよくなるために。

 今日よりも明日、明日よりも明後日をよりよくするために。


 

 裏部長でした。

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2019年02月23日

技のリアリティ

 おはようございます。裏部長です。

 すっかりあたたかくなり、札幌の街もすっかり雪解けが進みました。このまま春になってゆくのかなあと、淡い期待を胸に起床してみると、昨夜に降雪があったとみえて、窓の外の景色は白く染まっていました。まだまだ春は遠いようです。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 今日はまず、近況をふたつほど。


 21日夜の地震ですが、発生時、わたしと師匠、そして師匠のご子息の三名は外にいました。道新文化センターの古武術講座の最中で、稽古をしていると、控室のほうから地震速報のアラームが聞こえ、それを耳にした全員が動きを止めた瞬間に、揺れが来ました。

 幸い何かが壊れたり倒れたりすることもなく、和やかな雰囲気のなかにおりましたが、すぐさま事務局より内線があり、余震等のこともあるので今日は早めに切りあげて帰ってほしいとのこと。さすがに、一度震災を経験しているせいか、対応が迅速でした。

 言われるがまま早仕舞いし、われわれも外へ出たのですが、師匠が「大丈夫だとは思うけれど、なんとなく気持ちのいいものではないから、地下鉄はやめて、タクシーで帰ろう」と提案。大通公園を抜け、ススキノへ向かいながらタクシーを探すことにしたのですが、なんとこのとき地下鉄は全面停止。翌朝まで動かなくなっていたのでした。師匠の慧眼、ここに極まれりといった印象です。

 しかし、どこまで行ってもタクシーはなく、バス停には長蛇の列、道という道には一方向へ流れる人の群れ。

 結局、徒歩で豊平川を越えたあたりでタクシーは諦めました。わたしは自宅が近いということでそのまま徒歩で帰宅。師匠らは、ご自宅から奥様が車でお迎えに来るという事態になったのでありました。自宅に帰ってみると、TVでは地震情報が流れっぱなしで、スマートフォンを見れば、奈良のM田さんからメールが届いていました。ご心配、いたみいります。

 とはいえ、おおごとでしたが大事なく、震災に対する緊張感を思いだすことができ、有意義な夜でした。

 
 つづいて、先月末にまたIshiさんよりコメントをいただきました。

 ドラムを習っていらっしゃるということ、驚きました。しかし、スティックの扱い方と刀や棒をつなげてしまうあたり、武術のなかに生きていらっしゃいますねえ。

 以前師匠も、ホームセンターにゆくと、「こんなにも武具になるものが売っている!」と思ってしまう、と話されていましたが、これとても武術のなかに生きている証左ですよね。わたしも、あるドラマーの映像から、挫の打ち方に共通するものを見出した経験もあり、おおいに肯くことができました。

 コメントいただけてうれしいです。またよろしくお願いします。


 さて、ここからは技の話です。


 以前、奈良支部にお邪魔した際、T技術顧問から浅山一伝流の「打落」について教わったことがありました。

 具体的な内容は省きますが、下げる足の意味と両手の使い方、「平安五段」からの流れなど新鮮な情報のオンパレードで、当時はいくらか面喰いならがも額面どおり受け取って帰ってきたのですが、しばらく解せずに悶々としておりました。

 たしかに、言われたことは理解できなくないのですが、いざ自分でやってみるとしっくり来ない。

 頭ではなく、身体で得心がゆかない、というのですかね。どうも腑に落ちず、時間だけがすぎてゆきました。


 しかし最近、この技においてひとつ変化が訪れたのです。

 それは最初、小さな疑問でした。拳槌打ちに来た相手の腕をこちらの肩までもってくるわけですが、従来のやり方では、この打ちを受けたところから肩までのあいだがどうにも危ういのです。打ち落とそうとする力がなければ受けを解いたときに下りてきてくれないが、その状態だと肩を打たれてしまう。しかして、そうならないように打ちの威力を殺してしまうと、受けを解いたところで下りてきてはくれない。T技術顧問が示されたように、相手は腕を引いてしまうでしょう。

 これをどうにか解消できないものか。そう考えたときに、わたしのなかへいくつかのヒントが舞い込んできました。

 ひとつはT技術顧問のされていた受け方。受けるタイミング。またそこに来て、師匠が稽古時に指導をされていた「このときは相手の肘を受けるのだ」という指摘。これらを掛け合わせた結果、どうにか疑問の解消にまでたどり着けたのです。


 長々と書いてきたのにも関わらず、その詳細をここに記すことは叶いませんが、一応師匠には合格印をもらうことができました。

 なるほど、たしかにああすれば技がきちんとつかえるし、また、あのようにやればたしかに金的蹴りはできなくなります。

 師匠、師範、T技術顧問それぞれからの教えがひとつになった瞬間でした。今年に入って経験した、最初の武術的快感でしたね。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 09:02 | Comment(0) | 裏部長の日記

2019年01月26日

体はおのずと

 おはようございます。裏部長です。

 そして、みなさま。

 あけましておめでとうございます


 一月もすでに終盤へ差しかかり、新年のあいさつも場違いに思われるようになった今日このごろ、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 裏部長は最近あまり大学の稽古へは参加できていないのですが、風邪もひかず、インフルエンザにもかからず、どうにか暮らしております。


 さて、先日このようなことがありました。

 月に一度開催している、武道場での稽古のときです。

 ここは天井が高いので、杖を振ったり棒を振ったり、剣術の型をやったりと、武具の稽古をかならずおこなうのですが、今月は師匠が(もちろん本身ではありません)をもってきていて、それを参加者につかわせてくれる場面がありました。

 立った状態で歩みながら、あるいは座した状態から抜きつけ、斬り下ろし、血ぶり、納刀。

 この一連の動作は、ふだんから木刀を用いて稽古しています。そのときも、刀は一本しかないので、交代制でつかうこととし、それ以外のメンバーはいつもどおり木刀を用いて上記の動作をやっていたわけですが、いざ刀がまわってきたときの不甲斐ないこと、不甲斐ないこと。


 とにかく、刀がブレるのです。

 抜きつけのときはまだよいのです。問題は斬り下ろすとき。このときに刀身がブレるのです。

 いや、あれはもはやブレるという次元ではありません。

 ダンスです。

 細くて軽い刀の刃が、こちらの意思とは関係なく、突然ダンスをはじめるのです。


 なんとも情けなく、恥ずかしく、裏部長はつい苦笑してしまいました。

 そうなってしまうということは、間違っている、何かが足りず何かが過剰なのではないか、と考え、しかし先ほども書いたように、交代制なので刀をもっていられる時間はそう長くありません。一連の動作を、やれて三回か四回。このあいだにどうにかしなくてはならない。

 さあ思いだせ。師匠から何を教わった? 刀を振るとき、何をどうすればいい? これまで何を学んできたんだッ!?


 …と言うとかなり大袈裟ですが、あのときの裏部長の頭のなかはそれくらいに思考が渦を巻いていたのです。


 たった一度でした。数回振ったなかでたった一度、ダンスをせずに刀が下りてくれた瞬間がありました。

 そのときわたしは何をしたか。

 をつかったのです。


 思えば、師匠から刀を学ぶとき、これまで散々「」のことを言われてきました。抜きつけるときも振りかぶるときも、真っ向斬り下ろすときも、まず説かれたのが指のつかい方でした。

 刀というと「手の内」ということばがありますが、手や掌、あるいは腕そのものの運用を教わったことはまだありません。

 これまではとにかく指でした。それを思いだした裏部長は、最後の最後に、指だけで刀を振ってみようと試みたのです。

 
 結果は上々でした。ブレることなく、スンッと刀が落ちてくれました。

 このときの気持ちよかったこと、気持ちよかったこと。

 あのときたしかに、指に快感があったのです。


 こんな感触はこれまでにありませんでした。刀を振っていて気持ちいいと感じることなんて。

 
 わたしはこれまで、自分に刀などまだ早いと思ってきました。それよりもまず、体道のなかにある柔術や各種棒術を身につけ、空手も磨いて、ある程度のレヴェルに達してからでないと、刀は稽古してはいけないと捉えていましたが、あの感触、あの軽さ、あの気持ちよさを体感すると、すこしだけ認識が変化してきました。

 刀を「剣術」「抜刀術」「居合術」と表現すると、それはやはり人を斬る技、殺傷する技という印象がありますが、ただ単純に「刀」と表現すれば、それは誰かを殺める法ではなく、刀との会話、そしてそのとき肉体に宿る印象、育まれる感覚を、さまざまな動作のなかで見つけだすものになるのではないか

 勝手に刃がダンスするのではなく、この指と刀とで、ともに踊りだすような快さのなかで。

 もしそうであれば、その感触の芽に触れたいま、刀を取るべきではないか、と思うのです。

 この体が、この指が、それを望んでいるような気が、いましています。


 しかし、そうは言っても、裏部長はまだ自分の刀というものをもっていませんし、先日測ってみたら、師匠よりも腕が短いという衝撃的な事実が判明したため、刀を選ぶに際しても注意が必要です。どのみち、その分野に関してはまったくの素人なので、師匠や師範のご意見を伺いながら探していきたいと思います。

 よろしくお願いいたします。


 追伸。

  Ishiさんからコメントをいただきました。この名前から察するに、きっとあの方だと思われます。コメントをいただくのは数年ぶり、いやもっとでしょうか。かなりひさしぶりのことで、驚きつつも感謝、感謝です。

  Ishiさん、コメントありがとうございました。実益に富んだエピソードで、その目にもその姿勢にも、卓越したものを感じました。

 まさしく「闘うための構え」といった印象で、参考にさせていただきます。

 これからも気軽にお寄りください。


 裏部長でした。


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2018年12月31日

稽古納め2018

 こんばんは。裏部長です。

 大晦日の夕方、みなさまいかがおすごしでしょうか。

 あと数時間で、今年も幕を下ろします。


 2018年はさまざまなことがありました。

 北海道においては震災があり、つい先日は市街地で爆発事故なども起こり(わが家でも爆発音は聞こえました)、何かと危機感をもたらされる一年でしたが、こと武術においては、地味で淡々とした日々のなかにあっても、有意義な稽古ができたように思います。

 当ブログにおいても何度となく、体道について書いてきましたが、いろいろな発見や学びがあり、裏部長としては手ごたえを感じています。

 しかしその道は平坦でもなければ狭小でもなく、なんの変哲もない更地を掘ったら大昔の遺跡が出てきちゃって、その破片を採集して調べてみたら未知の微生物と謎の暗号が現れ、すべての要素を動員して推理し、特定した場所をさらに捜索してみたら、今度はそこから黄金と石油と温泉がふきだしてきた! みたいな展開になっていて、飽きることがありません。

 われわれはとんでもないものに出逢ってしまったようです。

 
 なので、毎年どおり「稽古納め」の題をつけましたが、稽古が区切られることはありません。

 この文章を書いているいまも、年越しのあの瞬間も、初詣の行列に凍えながら並んでいるときも、武術をする人は武術しているのです。


 2019年も、さらなる発見と学びの年になりますように。

 
 みなさまも、幸福なお正月をお迎えください。今年一年、ありがとうございました。


 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 17:14 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年12月16日

体道的反応

 おはようございます。裏部長でございます。

 今年もあとわずか。すっかり押し迫って参りまして、寒さもいちだんと厳しくなり、札幌も雪国らしい様相を見せております。今月に入ったばかりのころはまだ雪もすくなく、どこもかしこもアスファルトが顔を出しているなあと思っていたら、それからすぐにわんさか降りまして、降りつづけまして、いまはすっかり白い路面が広がっています。

 このまま根雪になるのかなあ、と思っていましたが、今夜からは雨が降るとの予報。明日以降の悪路が気鬱の種です。


 そんな師走、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 さて、裏部長は最近、「体道的反応とはいかなるものか」ということをよく考えるのです。

 唐突なようですが、もう本題に入っているのです。


 体道的反応などと書くといささか大仰で、堅苦しい印象ですが、要は日ごろ稽古しているものがきちんと身に沁み込んで、馴染んで、吸収できていれば、何かあったときに、瞬間的にそれらが表に出てくるはずだ、という指摘をしたいわけです。

 過去にも書いたように、体道のなかには、柔術、剣術、各種棒術などがあります。体道を稽古する者のなかには、これらの技たちが蓄積しているはずなのです。

 だから、咄嗟に何かあった際(それは武術に関連した瞬間だけに限りませんが)、体道的な反応が起こるはずだ、いや、起こらなければいけないはずだと、わたしは思っているのです。


 以前、奈良支部のM田さんから、「すべてを空手化せよ」ということばを教わりました。

 これはたしか船越義珍さんのことばだったと記憶していますが、稽古のなかだけでなく、日常や仕事の場においても空手をしているつもりで生活せよという教えで、わたしが上記で言っていたのはこの体道版ということです。


 もちろんそれは、空手をやっている人は空手的反応、居合をやっている人は居合術的反応となるわけで、一様ではありませんが、共通するものは一緒ですね。


 重要なのは、自分がやっている武術にどれだけ切り込んでいるか。踏みこんで、向き合って、深く稽古しているか、ということでしょう。

 それがひいては、その武術らしい反応を示せる人間たらしめるのです。


 わたしは、もちろん空手も稽古していますが、トータルで見ると体道へ傾けるもののほうが多い人間なので(いつしかそうなっていたので)、この場合はやはり、体道的反応というものが重要になってくるように思われます。


 みなさまはどうお考えでしょうか。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 09:16 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年11月25日

体は容器

 こんばんは、裏部長です。

 十一月もあとわずかとなりました。札幌では、先週にようやく初雪が訪れ、そうかと思えば一日わんさか降る日もあって、気がついたら外は一面の銀世界。しかし今日ともなると日差しに溶けて、ほとんどの車道は顔を出しています。空も、どことなく穏やかな日和です。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 最近の札幌支部は、札幌大学の学生さんが稽古へ参加されるようになったり、他流派の空手をやっている方が見学に来られたりと、新しい風がすこしだけ吹いています。

 今野敏さんの小説で『孤拳伝』という作品があり、形意拳をやる少年を中心に、さまざまな武術家たちが登場するのですが、そのなかのひとりで、岡山県で長くつづいているというある武術流派の宗家は、昔ながらの慣習にこだわる弟子に対し、

流派というのはつねに流れていなければならない

 というようなことを言っている場面がありましたが、肯けるものがあります。

 技でも人でも考え方でも、ひとつのことにこだわって、凝り固まってしまうことは避けたいものです。


 とはいえ、では何でもかんでも新しいものをやってゆけばいいのかと言えば、それはそれで違うでしょうね。

 先日、師匠に見せていただいた、中段への突きに対する猫足立ち・手刀受けの動きがあるのですが、それを傍目から見ていて、わたしにはその空手の技術以外に、同じ理合というか内容が、体道の柔術のなかにも含まれているのではないかと唐突に思う瞬間がありました。


 柔術においては、ほとんどの場合、こちらの手や腕が相手の肉体に触れています。そして、その触れた点をもとに、相手を崩してゆきます。

 しかし、ではその触れている点で崩しているのか、投げているのか、押さえているのかというと、じつはそうではない。

 力の源はそこ以外の、肉体の内部にあることが多いのです。

 その内部のある個所が、技が起こる瞬間に緩んだり変化したりすることで力が生まれ、その力が、相手の肉体に触れている点に作用するのですね。


 これ、文章にするといささか難解ですが、われわれそれをすでに、体道のなかでやっているのです。

 

 空心館内、あるいは体道連盟のなかにおいて、諸先輩方の動きに触れたとき、そのあまりの深さに驚愕することがあります。

 きっと諸先輩方も、こうしてひとつの動き、ひとつの技を何度も稽古し、見つめるなかで、余人が想像もできないほど深いところまで、その内容を掘り下げてゆかれたのでしょうね。


 まだまだ、学ぶことは多くあります。


 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 17:57 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年10月07日

無構え

 こんばんは、裏部長です。

 世のなかはまたまた三連休でありまして、暑さも遠のき、台風も去り、秋の行楽にはもってこいの週末でしょう。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 今年の夏あたり、裏部長は長らく「構え」について考えていました。

 ふだん、おもに空手において取っているあの構え。まあもちろん、あの構えと言ったところで、そのかたちは人それぞれなのですが、みなさまご自身のつかっている構えを思い浮かべてくださればけっこうです。

 その構えですがね、なぜなのでしょうかね。どうしてそういったかたちになったのでありましょうか。


 もちろん、「師匠や先輩からそう教わったから」というのがほとんどでしょう。

 わたしも同様です。空手の稽古をはじめてすぐに師匠から教わり、それが時間とともにやや変化して現在に至っているわけです。

 しかし、いまはその教えられた経路の話ではなく、由来のことを考えてみたいのです。

 あの構え、いったいどこから出たものなのでしょうか。


 空手の構えなのだから、空手の型から出たものであろう。

 わたしは最初にそう考えました。

 しかし、平安からいちばん新しい慈恩まで、計二十八個の型を思いかえしてみても、そのような構えはないのです。

 いやそもそも、型のなかでは、単純に構えているという状態がないのです。

 受けをした瞬間の状態が構えたかたちになる、ということはありますが、目の前の相手に対して文字どおり構えるという動きは、どうも型のなかには見受けられないわけです。


 ハテ、ならばあの構えはどこからやって来たものなのだろうか……?

 
 師匠からは、「棒の手が関係しているのではないか」との助言をいただきました。

 しかしどうやら、それが唯一の答えというわけでもなさそうです。


 うーむ。

 うーむ。


 と呻吟していたある日、裏部長はふとこんな視点に出逢いました。

いま自分が思い描いている構えとは、こと空手に関したものだけなのではないか


 ここで冒頭にもどるのですが、いまみなさまの頭のなかに描かれていた構えは、空手のものではありませんか

 足は基立ち。半身になり、片方の手は腰へ引き、もう片方の手は肩の前あたり。あるいは夫婦手。

 
 わたしもそうでした。構えといえばこれでした。考えられる変化としては、手をひらくか拳にするか程度のものです。

 でもね、これって空手の、それも組手のときにつかう構えですよね。

 われわれ、ただ「構える」と言っただけで、自然と空手の組手をイメージするようになっているのではないでしょうか


「空手をやっているのだから、それでいい。いや、それが正解だろう」

 という声も聞こえてきます。

 しかし、たしかに空手をやっていてもわれわれはいわゆる空手家ではないですよね。やわらもするし、棒も振れば刀も握る。

 正確にいえば武術家なのに、こと構えとなると、どうして空手に引っ張られてしまうのでしょうか


 ここまで考えて、裏部長はさらにハッとしました。

 構えを考えたとき、わたしのなかには自然と、「誰かと闘う」という姿勢が生まれていました。

 相手と対峙する、そのための体勢として、「構え」というものを捉えていたのです。

 
 そもそも、誰かと闘うシチュエーションとは一様でしょうか

 空手の組手のように、平らな場所で、適度な間合いをとって向かいあうことなのでしょうか。


 好戦的にならず、ごく平穏に日常をすごしていれば、誰かと闘うなどという場面は生まれません。

 もし、適度な距離をとって向かいあうような場面に立ち至りそうになったら逃げるべきです。

 見も知らぬ人に傷つけられるのも傷つけるのも、わたしは嫌ですね。そそくさと遁走します。


 しかし、そんな風にごく平穏に暮らしていても、もしかして、ということがあります。

 突発的に、ごく近距離から、一方的に攻撃を仕掛けられる、という場面です(まあそれもほとんどありませんが)。

 こんなときは、こちらに闘う意思があってもなくても、瞬間的に対応し、身を守らねばなりません。

 武術をやっている人間が、日常の場で、技をつかうというのはこういった場面にのみ発生することだと思います。


 そんな場面において、はたして、構えというものは存在するでしょうか。


 ここに至ってさらに方向転換。

 空手の型や中国武術の套路、さらには、体道における柔術技のなかで、いざ動きはじめるというとき、われわれはどう立っているか。

 ほとんどの技において、足は肩幅くらい、やや平行立ち。両腕は下に向かって垂れている――。


 あれらはいったい何を意味し、いったいどんなことをわれわれに教えてくれているのでしょうか。

 身近なところに、考えるべきことはまだまだ転がっています。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 17:23 | Comment(1) | 裏部長の日記

2018年10月01日

求道

 こんばんは、裏部長です。

 十月になりました。季節もすっかり秋めいておとなしく……と言おうと思っていたらまたもや台風で、気が休まりませんね。

 本州のみなさまはいかがおすごしでしょうか。大事なかったでしょうか。

 こちら札幌は懸念されていたほどの荒れもなく、ただの雨の一日でしたが、何はともあれ平穏にすぎたことに感謝です。


 さて今夜は短めに、ある書籍から引用をして終わりたいと思います。

 ここ最近、裏部長が個人的に考えたり一人前に悩んだりしていることに対して、そっと波紋を広げるような、手を差し伸べるような印象を受けた文章なのですが、みなさまはそこに何をお感じになるでしょうか。


 とりあえずは、今日はこれのみで失礼をいたします。



 どの分野においてもそうだろうが、先人たちが営々と築きあげた技法の体系がいかに豊饒で完成されたものであれ、結局それらは受け継ごうとする個人のなかで一から再構築されねばならない。もちろん遺産のすべてを引き継ぐことなど不可能だし、多くの場合不必要でもあるのだが、いずれにしてもこれは全く驚くべきことだ。もっとも、その再構築にかかる労苦をなるべく軽減するためにこそ、それぞれの分野でいろんなメチエが工夫され、開発されてもいるのだが、それでもなおかつ少なからぬ分野において、そんなものはたいした必然性も実効性も持たないだろう。すなわち、個人という現場で積みあげられる体系のかたちは、当然のことながら徹頭徹尾個人的なものなのである。
 さて、その個人的な体系のかたちは、まさしく個人的なものであるがゆえの複雑さ、不透明さに彩られている。その構成の全体像は恐らく当人にも把握しきれないものだろうし、仮に当人に把握しきれるような体系ならばたかが知れているともいえるだろう。従ってそれを把握し得るとすれば、洞察力や分析力に優れた第三者を持たねばならないが、もとよりそういった能力を持つ者の存在は稀有である以上、個人的な体系が公的に伝承される機会は常にそういった危うい可能性に賭けるほかないのである。

 竹本健治著『ウロボロスの基礎論(下)』より。



 

 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 19:35 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年09月16日

 こんばんは。裏部長です。



 今月六日の午前三時八分、大きな地震が北海道を襲いました。わたしの住まうあたりは震度四から五程度で、これまでの人生であれだけ大きな揺れを感じたことはありませんでした。


 幸い、被ったことといえば停電と断水くらいなもので、師匠をはじめ、後輩数名とも連絡をとることができました。


 奈良からはM田さんが、そして栃木からは帰省中のHちゃんがメールをくれました。どれだけ心強かったか。ここに御礼申し上げます。



 札幌支部としても、稽古は通常どおり再開されております。月に一度の武道場での稽古は、地震による被害状況の点検のため、現在は使用不可になっていますが、場所をかえて、稽古そのものはやっております。



 とにかく、裏部長は無事です。
posted by 札幌支部 at 17:34 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年08月04日

体道おじさん

 おはようございます。裏部長です。


 連日、お暑うございます。一方こちら札幌は、本日の予想最高気温が二十四度という、逆の意味で驚異的な気候となっております。どちらであっても、慎重かつ大胆な体調管理が求められます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 
 さて、稽古をやっているうちに仲間も増え、また、いっしょに稽古をするわけではないけども、わたしがそういうことをしていると知ってくれている人も増えてきていて、つまりは理解をしてもらえているという状況はなんともありがたいものであります。


 ただひとつ難点なのは、武術をやっているらしいということは把握しているけれど、具体的にどんなことを稽古しているのか理解していない人からのこんな質問です。


「○○さんのやってるのって、どういうものなんですか」


 日常会話の流れで、さらりと回答してみたいというのは手前勝手な希望であって、この問いかけに、正しく、シンプルに、即座に返せる答えなどこの世にありません。


 簡単に済ませようとすると具体性に欠けるし、細かく説明しだすと相手が飽きてきてしまいます。


 だから、これまでの裏部長は、ごく単純に、


「空手とかやってます」

「いわゆる古武術ってやつですね」


 などと、雰囲気重視で回答してきたわけですが、これはやはり歯がゆい。答えたこちらが消化不良になってしまいます。



 なので今日は、こんな問いかけをされたときにつかえる、ひとつの回答例を自分なりに書いてみたいと思います。



 まず空手についてですが、これはもうね、対面しただけの相手にすくない文字数で、正しく、たとえば流派の違いとか型の特徴とかを話してもチンプンカンプンです。相手も空手をやっている人ならまだしも、そうでない人にはほぼ不可能な芸当でしょう。


 ですので、裏部長的には、世間一般にある「空手」のイメージを借りてその場をしのぐことを推奨します。


「空手やってます」

「ああ、空手ね」


 そんなやり取りで終わらせ、さっさと次の話題へ移っていってしまいましょう。



 さあ、最大の課題は【体道】です。


 これをいかに説明したものか……。



 全日本体道連盟に属し、体道を稽古している身としては、なるべく正確かつ詳細に説明したいという欲も湧いてくるのだけども、組織の成り立ちから話されても、聞いている相手にはなんのこっちゃさっぱりでしょうから、この際、思いきって最大限、実務的な解説に努めるという案はどうでしょうか。



 ひとくちに「体道をやる」と言った場合、いったいどういうことになるか。


 体道のカリキュラムのほとんどを占めているのは、柔術です。流派によっては、体術と言ったり拳法を言ったりしますが、要は素手で相手を制する武術ですね。


 投げ、押さえ、極め、絞めるなど、多種多様なパターンがあり、そんな柔術の技が、体道のなかにはたくさんあります。


 全体の六割強、いや、七割ほどはあるでしょうか。体道の体道たる所以と言ってもいいヴォリューム感です。



 体道を稽古する以上は、この多種多様な柔術をやるわけですが、じゃあ柔術だけでいいのかというと、決してそうではありませんね


 柔術の技というのは、ほとんどが、自分から攻撃を仕掛けるのではなく相手から先にかかってくるものです。つまり攻撃を知らないと、それに対する側の技も理解できないし、そもそも応じることさえ不可能なのです。


 だから、攻撃を学ぶ意味でも、空手は必要不可欠になります。


 空手の突き、蹴り、打ち、それに対する受け、あるいは型などの動きを通して身体や感覚を練ってゆきます。



 素手の武術を考えただけでもお腹いっぱいの印象ですが、体道には武具をつかった技も多くおさめられています。


 代表的なものは、やはり、さまざまなサイズのということになるでしょう。



 六尺のをつかった、「棒術」。

 四尺二寸ほどのをつかった、「杖術」。

 三尺の得物をつかう、「短杖術半棒術」。

 一尺のをつかう、「捕手術」。



 わたしが現在までに教わっただけでもこれだけあります。


 いくつもの流派、ヴァリエーション豊かな技を通して、さまざまなサイズの棒をあつかう術を習得してゆくのです。



 しかし、です。


 柔術のときと同様、では棒術や杖術だけ知っていればそれでいいのか、ということになると、答えはですね。



 これら武具をあつかう技は、ほとんどが対刀を想定しています。ただの木の棒っきれで日本刀に勝とうというわけです。


 なので、技を稽古する際には、相手方は刀をつかわなければなりません。ほとんどの場合、稽古では日本刀ではなく木刀をつかいます。


 つまりこの時点で、各種棒術のほかに、剣術のノウハウも知っておかなければならないことになります。


 刀で斬る、突く、受ける、払うなど、必要最低限の動きができないと、上記の棒術や杖術の技さえ学べないのです。



 おおっと待った。それだけではありませんでした。


 内田流短杖術のなかに、相手が腰に刀を差している状態から攻撃してくる技があったではありませんか。


 つまり、刀を鞘から抜いて、正眼や八相に構えた状態からはじめる技ではなく、まだ抜いていない状態から斬りかかる術を知らないとこれらの技はスタートできません。


 ということは、つまり、剣術だけでなく、抜刀術あるいは居合術が必要になってくるわけです。



 そんなこんなで、ざっと見てきただけでも、「体道」のなかには、柔術・体術・拳法、空手、棒術、杖術、短杖術・半棒術、捕手術、剣術、抜刀術・居合術などがあり、さながら総合武術の印象があります。いや、実際にそうなのでしょう。甲冑を着たり鉄砲を担いだり、弓を引いたりしないだけで、すでにこれだけで、日本の武術の代表的なものをおさえているように思えます。



 だから、体道をやっている人は、基本的に、忙しい。


 とても、一般の方に細やかな解説をしている暇などないのです。


「体道をやっています」

「体道? それって……?」

「さようなら!」


 もう、こうしてしまうよりほかに方法は見つかりません。


 みなさまはどうお思いですか。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:12 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年07月14日

絶対性への扉

 おはようございます。裏部長です。


 七月半ばの三連休です。放置していたあれこれを、片っ端から処理したい今日このごろ。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 さっそくですが、たとえば、重いものをもちあげて、どこかへ運ぶとします。


 このとき、そのものを手にもって、屈めていた腰を伸ばそうとすると、重さが腰にのしかかり、痛めてしまいますね。だから身体をなるべくまっすぐに保って、膝の曲げ伸ばしをつかって、上半身というよりは下半身、もっと言えば脚でもちあげるようにすると、負担は軽減されます。


 しかし、です。裏部長はふと思ったのです。


 この動き、もっと小さくできないものかと。



 第一、その場にスペースがあればいいですよ。もし狭い場所だったら。それこそ、膝の曲げ伸ばしもできないくらい狭苦しい環境でそのものをもちあげなければならなかったとした場合、どうしてもさらに小さな動きが求められるわけです。


 そんなことを考えながら、自分の身体と相談していろいろと試した結果、たどり着いたのは、足の裏をつかうという選択肢でした。



 指はもちろんですが、足の裏全体をつかって地面をギュッとつかむあの感覚。


 当然、もちあげるものには指がかかっているわけですが、このギュッをすると、瞬間的に、どういうわけか指先に力が漲るのです。



 これはどうしてなのかなあ。自分でもよくわかりません。


 しかし、とにかく、現に力が感じられるのです。ですから、膝の曲げ伸ばしをせずとも、足裏と指だけでもちあげることができるのです。



 こないだ「内歩進初段」の足について書きましたが、それより以前に、ひとりで「新生」を何度か試してみた夜がありました。


 師匠は不在で、他の稽古者たちもいない時間と空間がそのときあったわけです。


 かなり過剰に、かなりしつこく三戦立ちを意識し、やってみると、上段受けや突きの締まりはもちろん、そこから四股立ちに移った際のパッケージ感、そして何より、手全体の充実感が生まれました。


 あれはなんとも不思議な感覚でした。


 同じようなことが「内歩進初段」にも起きていて、動きだしの足が決まると、全体のかたちというか姿勢が一瞬で決まり、またやはり、手全体に力が漲るのです。


 だから、自分で意識的に、力強さを演出する必要がなくなった気がしました。やさしく、あるいはゆるりと、その型を流そうとしても、どうしても勢いと迫力が生まれてしまうのですね。



 この不思議の最たるポイントは、力の発生源である足と、もっとも離れている手がつながるという点です


 足が決まった際に下半身が、腰まわりが強靭になる、というのはすんなり理解できますが、離れている手にその影響が現れるというのはなんとも不可思議です。それも一瞬です。体内をエネルギーが移動する間もなく、気づいたらもう手に何かが生まれているのです。



 意識していないだけで、たとえば体道の柔術の技をやるとき、相手の打ちや突きに対して上段受けや差し手受けなどをする際、こうした足もとからの力を借りて動いている可能性があります。そうでなければ、重さと速さを兼ね備えた攻撃を、ほとんど動かずその場で受け捌くことなどできません。その瞬間、その場で受け勝つには、こうした目に見えない力が働いているのかもしれないし、それを暗に示してくれているのが体道なのかもしれませんね



 おしゃれは足もとから、と言いますが、武術も然り、かもしれません。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:06 | Comment(0) | 裏部長の日記