2019年02月23日

技のリアリティ

 おはようございます。裏部長です。

 すっかりあたたかくなり、札幌の街もすっかり雪解けが進みました。このまま春になってゆくのかなあと、淡い期待を胸に起床してみると、昨夜に降雪があったとみえて、窓の外の景色は白く染まっていました。まだまだ春は遠いようです。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 今日はまず、近況をふたつほど。


 21日夜の地震ですが、発生時、わたしと師匠、そして師匠のご子息の三名は外にいました。道新文化センターの古武術講座の最中で、稽古をしていると、控室のほうから地震速報のアラームが聞こえ、それを耳にした全員が動きを止めた瞬間に、揺れが来ました。

 幸い何かが壊れたり倒れたりすることもなく、和やかな雰囲気のなかにおりましたが、すぐさま事務局より内線があり、余震等のこともあるので今日は早めに切りあげて帰ってほしいとのこと。さすがに、一度震災を経験しているせいか、対応が迅速でした。

 言われるがまま早仕舞いし、われわれも外へ出たのですが、師匠が「大丈夫だとは思うけれど、なんとなく気持ちのいいものではないから、地下鉄はやめて、タクシーで帰ろう」と提案。大通公園を抜け、ススキノへ向かいながらタクシーを探すことにしたのですが、なんとこのとき地下鉄は全面停止。翌朝まで動かなくなっていたのでした。師匠の慧眼、ここに極まれりといった印象です。

 しかし、どこまで行ってもタクシーはなく、バス停には長蛇の列、道という道には一方向へ流れる人の群れ。

 結局、徒歩で豊平川を越えたあたりでタクシーは諦めました。わたしは自宅が近いということでそのまま徒歩で帰宅。師匠らは、ご自宅から奥様が車でお迎えに来るという事態になったのでありました。自宅に帰ってみると、TVでは地震情報が流れっぱなしで、スマートフォンを見れば、奈良のM田さんからメールが届いていました。ご心配、いたみいります。

 とはいえ、おおごとでしたが大事なく、震災に対する緊張感を思いだすことができ、有意義な夜でした。

 
 つづいて、先月末にまたIshiさんよりコメントをいただきました。

 ドラムを習っていらっしゃるということ、驚きました。しかし、スティックの扱い方と刀や棒をつなげてしまうあたり、武術のなかに生きていらっしゃいますねえ。

 以前師匠も、ホームセンターにゆくと、「こんなにも武具になるものが売っている!」と思ってしまう、と話されていましたが、これとても武術のなかに生きている証左ですよね。わたしも、あるドラマーの映像から、挫の打ち方に共通するものを見出した経験もあり、おおいに肯くことができました。

 コメントいただけてうれしいです。またよろしくお願いします。


 さて、ここからは技の話です。


 以前、奈良支部にお邪魔した際、T技術顧問から浅山一伝流の「打落」について教わったことがありました。

 具体的な内容は省きますが、下げる足の意味と両手の使い方、「平安五段」からの流れなど新鮮な情報のオンパレードで、当時はいくらか面喰いならがも額面どおり受け取って帰ってきたのですが、しばらく解せずに悶々としておりました。

 たしかに、言われたことは理解できなくないのですが、いざ自分でやってみるとしっくり来ない。

 頭ではなく、身体で得心がゆかない、というのですかね。どうも腑に落ちず、時間だけがすぎてゆきました。


 しかし最近、この技においてひとつ変化が訪れたのです。

 それは最初、小さな疑問でした。拳槌打ちに来た相手の腕をこちらの肩までもってくるわけですが、従来のやり方では、この打ちを受けたところから肩までのあいだがどうにも危ういのです。打ち落とそうとする力がなければ受けを解いたときに下りてきてくれないが、その状態だと肩を打たれてしまう。しかして、そうならないように打ちの威力を殺してしまうと、受けを解いたところで下りてきてはくれない。T技術顧問が示されたように、相手は腕を引いてしまうでしょう。

 これをどうにか解消できないものか。そう考えたときに、わたしのなかへいくつかのヒントが舞い込んできました。

 ひとつはT技術顧問のされていた受け方。受けるタイミング。またそこに来て、師匠が稽古時に指導をされていた「このときは相手の肘を受けるのだ」という指摘。これらを掛け合わせた結果、どうにか疑問の解消にまでたどり着けたのです。


 長々と書いてきたのにも関わらず、その詳細をここに記すことは叶いませんが、一応師匠には合格印をもらうことができました。

 なるほど、たしかにああすれば技がきちんとつかえるし、また、あのようにやればたしかに金的蹴りはできなくなります。

 師匠、師範、T技術顧問それぞれからの教えがひとつになった瞬間でした。今年に入って経験した、最初の武術的快感でしたね。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 09:02 | Comment(0) | 裏部長の日記

2019年01月26日

体はおのずと

 おはようございます。裏部長です。

 そして、みなさま。

 あけましておめでとうございます


 一月もすでに終盤へ差しかかり、新年のあいさつも場違いに思われるようになった今日このごろ、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 裏部長は最近あまり大学の稽古へは参加できていないのですが、風邪もひかず、インフルエンザにもかからず、どうにか暮らしております。


 さて、先日このようなことがありました。

 月に一度開催している、武道場での稽古のときです。

 ここは天井が高いので、杖を振ったり棒を振ったり、剣術の型をやったりと、武具の稽古をかならずおこなうのですが、今月は師匠が(もちろん本身ではありません)をもってきていて、それを参加者につかわせてくれる場面がありました。

 立った状態で歩みながら、あるいは座した状態から抜きつけ、斬り下ろし、血ぶり、納刀。

 この一連の動作は、ふだんから木刀を用いて稽古しています。そのときも、刀は一本しかないので、交代制でつかうこととし、それ以外のメンバーはいつもどおり木刀を用いて上記の動作をやっていたわけですが、いざ刀がまわってきたときの不甲斐ないこと、不甲斐ないこと。


 とにかく、刀がブレるのです。

 抜きつけのときはまだよいのです。問題は斬り下ろすとき。このときに刀身がブレるのです。

 いや、あれはもはやブレるという次元ではありません。

 ダンスです。

 細くて軽い刀の刃が、こちらの意思とは関係なく、突然ダンスをはじめるのです。


 なんとも情けなく、恥ずかしく、裏部長はつい苦笑してしまいました。

 そうなってしまうということは、間違っている、何かが足りず何かが過剰なのではないか、と考え、しかし先ほども書いたように、交代制なので刀をもっていられる時間はそう長くありません。一連の動作を、やれて三回か四回。このあいだにどうにかしなくてはならない。

 さあ思いだせ。師匠から何を教わった? 刀を振るとき、何をどうすればいい? これまで何を学んできたんだッ!?


 …と言うとかなり大袈裟ですが、あのときの裏部長の頭のなかはそれくらいに思考が渦を巻いていたのです。


 たった一度でした。数回振ったなかでたった一度、ダンスをせずに刀が下りてくれた瞬間がありました。

 そのときわたしは何をしたか。

 をつかったのです。


 思えば、師匠から刀を学ぶとき、これまで散々「」のことを言われてきました。抜きつけるときも振りかぶるときも、真っ向斬り下ろすときも、まず説かれたのが指のつかい方でした。

 刀というと「手の内」ということばがありますが、手や掌、あるいは腕そのものの運用を教わったことはまだありません。

 これまではとにかく指でした。それを思いだした裏部長は、最後の最後に、指だけで刀を振ってみようと試みたのです。

 
 結果は上々でした。ブレることなく、スンッと刀が落ちてくれました。

 このときの気持ちよかったこと、気持ちよかったこと。

 あのときたしかに、指に快感があったのです。


 こんな感触はこれまでにありませんでした。刀を振っていて気持ちいいと感じることなんて。

 
 わたしはこれまで、自分に刀などまだ早いと思ってきました。それよりもまず、体道のなかにある柔術や各種棒術を身につけ、空手も磨いて、ある程度のレヴェルに達してからでないと、刀は稽古してはいけないと捉えていましたが、あの感触、あの軽さ、あの気持ちよさを体感すると、すこしだけ認識が変化してきました。

 刀を「剣術」「抜刀術」「居合術」と表現すると、それはやはり人を斬る技、殺傷する技という印象がありますが、ただ単純に「刀」と表現すれば、それは誰かを殺める法ではなく、刀との会話、そしてそのとき肉体に宿る印象、育まれる感覚を、さまざまな動作のなかで見つけだすものになるのではないか

 勝手に刃がダンスするのではなく、この指と刀とで、ともに踊りだすような快さのなかで。

 もしそうであれば、その感触の芽に触れたいま、刀を取るべきではないか、と思うのです。

 この体が、この指が、それを望んでいるような気が、いましています。


 しかし、そうは言っても、裏部長はまだ自分の刀というものをもっていませんし、先日測ってみたら、師匠よりも腕が短いという衝撃的な事実が判明したため、刀を選ぶに際しても注意が必要です。どのみち、その分野に関してはまったくの素人なので、師匠や師範のご意見を伺いながら探していきたいと思います。

 よろしくお願いいたします。


 追伸。

  Ishiさんからコメントをいただきました。この名前から察するに、きっとあの方だと思われます。コメントをいただくのは数年ぶり、いやもっとでしょうか。かなりひさしぶりのことで、驚きつつも感謝、感謝です。

  Ishiさん、コメントありがとうございました。実益に富んだエピソードで、その目にもその姿勢にも、卓越したものを感じました。

 まさしく「闘うための構え」といった印象で、参考にさせていただきます。

 これからも気軽にお寄りください。


 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 09:11 | Comment(1) | 裏部長の日記

2018年12月31日

稽古納め2018

 こんばんは。裏部長です。

 大晦日の夕方、みなさまいかがおすごしでしょうか。

 あと数時間で、今年も幕を下ろします。


 2018年はさまざまなことがありました。

 北海道においては震災があり、つい先日は市街地で爆発事故なども起こり(わが家でも爆発音は聞こえました)、何かと危機感をもたらされる一年でしたが、こと武術においては、地味で淡々とした日々のなかにあっても、有意義な稽古ができたように思います。

 当ブログにおいても何度となく、体道について書いてきましたが、いろいろな発見や学びがあり、裏部長としては手ごたえを感じています。

 しかしその道は平坦でもなければ狭小でもなく、なんの変哲もない更地を掘ったら大昔の遺跡が出てきちゃって、その破片を採集して調べてみたら未知の微生物と謎の暗号が現れ、すべての要素を動員して推理し、特定した場所をさらに捜索してみたら、今度はそこから黄金と石油と温泉がふきだしてきた! みたいな展開になっていて、飽きることがありません。

 われわれはとんでもないものに出逢ってしまったようです。

 
 なので、毎年どおり「稽古納め」の題をつけましたが、稽古が区切られることはありません。

 この文章を書いているいまも、年越しのあの瞬間も、初詣の行列に凍えながら並んでいるときも、武術をする人は武術しているのです。


 2019年も、さらなる発見と学びの年になりますように。

 
 みなさまも、幸福なお正月をお迎えください。今年一年、ありがとうございました。


 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 17:14 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年12月16日

体道的反応

 おはようございます。裏部長でございます。

 今年もあとわずか。すっかり押し迫って参りまして、寒さもいちだんと厳しくなり、札幌も雪国らしい様相を見せております。今月に入ったばかりのころはまだ雪もすくなく、どこもかしこもアスファルトが顔を出しているなあと思っていたら、それからすぐにわんさか降りまして、降りつづけまして、いまはすっかり白い路面が広がっています。

 このまま根雪になるのかなあ、と思っていましたが、今夜からは雨が降るとの予報。明日以降の悪路が気鬱の種です。


 そんな師走、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 さて、裏部長は最近、「体道的反応とはいかなるものか」ということをよく考えるのです。

 唐突なようですが、もう本題に入っているのです。


 体道的反応などと書くといささか大仰で、堅苦しい印象ですが、要は日ごろ稽古しているものがきちんと身に沁み込んで、馴染んで、吸収できていれば、何かあったときに、瞬間的にそれらが表に出てくるはずだ、という指摘をしたいわけです。

 過去にも書いたように、体道のなかには、柔術、剣術、各種棒術などがあります。体道を稽古する者のなかには、これらの技たちが蓄積しているはずなのです。

 だから、咄嗟に何かあった際(それは武術に関連した瞬間だけに限りませんが)、体道的な反応が起こるはずだ、いや、起こらなければいけないはずだと、わたしは思っているのです。


 以前、奈良支部のM田さんから、「すべてを空手化せよ」ということばを教わりました。

 これはたしか船越義珍さんのことばだったと記憶していますが、稽古のなかだけでなく、日常や仕事の場においても空手をしているつもりで生活せよという教えで、わたしが上記で言っていたのはこの体道版ということです。


 もちろんそれは、空手をやっている人は空手的反応、居合をやっている人は居合術的反応となるわけで、一様ではありませんが、共通するものは一緒ですね。


 重要なのは、自分がやっている武術にどれだけ切り込んでいるか。踏みこんで、向き合って、深く稽古しているか、ということでしょう。

 それがひいては、その武術らしい反応を示せる人間たらしめるのです。


 わたしは、もちろん空手も稽古していますが、トータルで見ると体道へ傾けるもののほうが多い人間なので(いつしかそうなっていたので)、この場合はやはり、体道的反応というものが重要になってくるように思われます。


 みなさまはどうお考えでしょうか。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 09:16 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年11月25日

体は容器

 こんばんは、裏部長です。

 十一月もあとわずかとなりました。札幌では、先週にようやく初雪が訪れ、そうかと思えば一日わんさか降る日もあって、気がついたら外は一面の銀世界。しかし今日ともなると日差しに溶けて、ほとんどの車道は顔を出しています。空も、どことなく穏やかな日和です。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 最近の札幌支部は、札幌大学の学生さんが稽古へ参加されるようになったり、他流派の空手をやっている方が見学に来られたりと、新しい風がすこしだけ吹いています。

 今野敏さんの小説で『孤拳伝』という作品があり、形意拳をやる少年を中心に、さまざまな武術家たちが登場するのですが、そのなかのひとりで、岡山県で長くつづいているというある武術流派の宗家は、昔ながらの慣習にこだわる弟子に対し、

流派というのはつねに流れていなければならない

 というようなことを言っている場面がありましたが、肯けるものがあります。

 技でも人でも考え方でも、ひとつのことにこだわって、凝り固まってしまうことは避けたいものです。


 とはいえ、では何でもかんでも新しいものをやってゆけばいいのかと言えば、それはそれで違うでしょうね。

 先日、師匠に見せていただいた、中段への突きに対する猫足立ち・手刀受けの動きがあるのですが、それを傍目から見ていて、わたしにはその空手の技術以外に、同じ理合というか内容が、体道の柔術のなかにも含まれているのではないかと唐突に思う瞬間がありました。


 柔術においては、ほとんどの場合、こちらの手や腕が相手の肉体に触れています。そして、その触れた点をもとに、相手を崩してゆきます。

 しかし、ではその触れている点で崩しているのか、投げているのか、押さえているのかというと、じつはそうではない。

 力の源はそこ以外の、肉体の内部にあることが多いのです。

 その内部のある個所が、技が起こる瞬間に緩んだり変化したりすることで力が生まれ、その力が、相手の肉体に触れている点に作用するのですね。


 これ、文章にするといささか難解ですが、われわれそれをすでに、体道のなかでやっているのです。

 

 空心館内、あるいは体道連盟のなかにおいて、諸先輩方の動きに触れたとき、そのあまりの深さに驚愕することがあります。

 きっと諸先輩方も、こうしてひとつの動き、ひとつの技を何度も稽古し、見つめるなかで、余人が想像もできないほど深いところまで、その内容を掘り下げてゆかれたのでしょうね。


 まだまだ、学ぶことは多くあります。


 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 17:57 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年10月07日

無構え

 こんばんは、裏部長です。

 世のなかはまたまた三連休でありまして、暑さも遠のき、台風も去り、秋の行楽にはもってこいの週末でしょう。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 今年の夏あたり、裏部長は長らく「構え」について考えていました。

 ふだん、おもに空手において取っているあの構え。まあもちろん、あの構えと言ったところで、そのかたちは人それぞれなのですが、みなさまご自身のつかっている構えを思い浮かべてくださればけっこうです。

 その構えですがね、なぜなのでしょうかね。どうしてそういったかたちになったのでありましょうか。


 もちろん、「師匠や先輩からそう教わったから」というのがほとんどでしょう。

 わたしも同様です。空手の稽古をはじめてすぐに師匠から教わり、それが時間とともにやや変化して現在に至っているわけです。

 しかし、いまはその教えられた経路の話ではなく、由来のことを考えてみたいのです。

 あの構え、いったいどこから出たものなのでしょうか。


 空手の構えなのだから、空手の型から出たものであろう。

 わたしは最初にそう考えました。

 しかし、平安からいちばん新しい慈恩まで、計二十八個の型を思いかえしてみても、そのような構えはないのです。

 いやそもそも、型のなかでは、単純に構えているという状態がないのです。

 受けをした瞬間の状態が構えたかたちになる、ということはありますが、目の前の相手に対して文字どおり構えるという動きは、どうも型のなかには見受けられないわけです。


 ハテ、ならばあの構えはどこからやって来たものなのだろうか……?

 
 師匠からは、「棒の手が関係しているのではないか」との助言をいただきました。

 しかしどうやら、それが唯一の答えというわけでもなさそうです。


 うーむ。

 うーむ。


 と呻吟していたある日、裏部長はふとこんな視点に出逢いました。

いま自分が思い描いている構えとは、こと空手に関したものだけなのではないか


 ここで冒頭にもどるのですが、いまみなさまの頭のなかに描かれていた構えは、空手のものではありませんか

 足は基立ち。半身になり、片方の手は腰へ引き、もう片方の手は肩の前あたり。あるいは夫婦手。

 
 わたしもそうでした。構えといえばこれでした。考えられる変化としては、手をひらくか拳にするか程度のものです。

 でもね、これって空手の、それも組手のときにつかう構えですよね。

 われわれ、ただ「構える」と言っただけで、自然と空手の組手をイメージするようになっているのではないでしょうか


「空手をやっているのだから、それでいい。いや、それが正解だろう」

 という声も聞こえてきます。

 しかし、たしかに空手をやっていてもわれわれはいわゆる空手家ではないですよね。やわらもするし、棒も振れば刀も握る。

 正確にいえば武術家なのに、こと構えとなると、どうして空手に引っ張られてしまうのでしょうか


 ここまで考えて、裏部長はさらにハッとしました。

 構えを考えたとき、わたしのなかには自然と、「誰かと闘う」という姿勢が生まれていました。

 相手と対峙する、そのための体勢として、「構え」というものを捉えていたのです。

 
 そもそも、誰かと闘うシチュエーションとは一様でしょうか

 空手の組手のように、平らな場所で、適度な間合いをとって向かいあうことなのでしょうか。


 好戦的にならず、ごく平穏に日常をすごしていれば、誰かと闘うなどという場面は生まれません。

 もし、適度な距離をとって向かいあうような場面に立ち至りそうになったら逃げるべきです。

 見も知らぬ人に傷つけられるのも傷つけるのも、わたしは嫌ですね。そそくさと遁走します。


 しかし、そんな風にごく平穏に暮らしていても、もしかして、ということがあります。

 突発的に、ごく近距離から、一方的に攻撃を仕掛けられる、という場面です(まあそれもほとんどありませんが)。

 こんなときは、こちらに闘う意思があってもなくても、瞬間的に対応し、身を守らねばなりません。

 武術をやっている人間が、日常の場で、技をつかうというのはこういった場面にのみ発生することだと思います。


 そんな場面において、はたして、構えというものは存在するでしょうか。


 ここに至ってさらに方向転換。

 空手の型や中国武術の套路、さらには、体道における柔術技のなかで、いざ動きはじめるというとき、われわれはどう立っているか。

 ほとんどの技において、足は肩幅くらい、やや平行立ち。両腕は下に向かって垂れている――。


 あれらはいったい何を意味し、いったいどんなことをわれわれに教えてくれているのでしょうか。

 身近なところに、考えるべきことはまだまだ転がっています。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 17:23 | Comment(1) | 裏部長の日記

2018年10月01日

求道

 こんばんは、裏部長です。

 十月になりました。季節もすっかり秋めいておとなしく……と言おうと思っていたらまたもや台風で、気が休まりませんね。

 本州のみなさまはいかがおすごしでしょうか。大事なかったでしょうか。

 こちら札幌は懸念されていたほどの荒れもなく、ただの雨の一日でしたが、何はともあれ平穏にすぎたことに感謝です。


 さて今夜は短めに、ある書籍から引用をして終わりたいと思います。

 ここ最近、裏部長が個人的に考えたり一人前に悩んだりしていることに対して、そっと波紋を広げるような、手を差し伸べるような印象を受けた文章なのですが、みなさまはそこに何をお感じになるでしょうか。


 とりあえずは、今日はこれのみで失礼をいたします。



 どの分野においてもそうだろうが、先人たちが営々と築きあげた技法の体系がいかに豊饒で完成されたものであれ、結局それらは受け継ごうとする個人のなかで一から再構築されねばならない。もちろん遺産のすべてを引き継ぐことなど不可能だし、多くの場合不必要でもあるのだが、いずれにしてもこれは全く驚くべきことだ。もっとも、その再構築にかかる労苦をなるべく軽減するためにこそ、それぞれの分野でいろんなメチエが工夫され、開発されてもいるのだが、それでもなおかつ少なからぬ分野において、そんなものはたいした必然性も実効性も持たないだろう。すなわち、個人という現場で積みあげられる体系のかたちは、当然のことながら徹頭徹尾個人的なものなのである。
 さて、その個人的な体系のかたちは、まさしく個人的なものであるがゆえの複雑さ、不透明さに彩られている。その構成の全体像は恐らく当人にも把握しきれないものだろうし、仮に当人に把握しきれるような体系ならばたかが知れているともいえるだろう。従ってそれを把握し得るとすれば、洞察力や分析力に優れた第三者を持たねばならないが、もとよりそういった能力を持つ者の存在は稀有である以上、個人的な体系が公的に伝承される機会は常にそういった危うい可能性に賭けるほかないのである。

 竹本健治著『ウロボロスの基礎論(下)』より。



 

 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 19:35 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年09月16日

 こんばんは。裏部長です。



 今月六日の午前三時八分、大きな地震が北海道を襲いました。わたしの住まうあたりは震度四から五程度で、これまでの人生であれだけ大きな揺れを感じたことはありませんでした。


 幸い、被ったことといえば停電と断水くらいなもので、師匠をはじめ、後輩数名とも連絡をとることができました。


 奈良からはM田さんが、そして栃木からは帰省中のHちゃんがメールをくれました。どれだけ心強かったか。ここに御礼申し上げます。



 札幌支部としても、稽古は通常どおり再開されております。月に一度の武道場での稽古は、地震による被害状況の点検のため、現在は使用不可になっていますが、場所をかえて、稽古そのものはやっております。



 とにかく、裏部長は無事です。
posted by 札幌支部 at 17:34 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年08月04日

体道おじさん

 おはようございます。裏部長です。


 連日、お暑うございます。一方こちら札幌は、本日の予想最高気温が二十四度という、逆の意味で驚異的な気候となっております。どちらであっても、慎重かつ大胆な体調管理が求められます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 
 さて、稽古をやっているうちに仲間も増え、また、いっしょに稽古をするわけではないけども、わたしがそういうことをしていると知ってくれている人も増えてきていて、つまりは理解をしてもらえているという状況はなんともありがたいものであります。


 ただひとつ難点なのは、武術をやっているらしいということは把握しているけれど、具体的にどんなことを稽古しているのか理解していない人からのこんな質問です。


「○○さんのやってるのって、どういうものなんですか」


 日常会話の流れで、さらりと回答してみたいというのは手前勝手な希望であって、この問いかけに、正しく、シンプルに、即座に返せる答えなどこの世にありません。


 簡単に済ませようとすると具体性に欠けるし、細かく説明しだすと相手が飽きてきてしまいます。


 だから、これまでの裏部長は、ごく単純に、


「空手とかやってます」

「いわゆる古武術ってやつですね」


 などと、雰囲気重視で回答してきたわけですが、これはやはり歯がゆい。答えたこちらが消化不良になってしまいます。



 なので今日は、こんな問いかけをされたときにつかえる、ひとつの回答例を自分なりに書いてみたいと思います。



 まず空手についてですが、これはもうね、対面しただけの相手にすくない文字数で、正しく、たとえば流派の違いとか型の特徴とかを話してもチンプンカンプンです。相手も空手をやっている人ならまだしも、そうでない人にはほぼ不可能な芸当でしょう。


 ですので、裏部長的には、世間一般にある「空手」のイメージを借りてその場をしのぐことを推奨します。


「空手やってます」

「ああ、空手ね」


 そんなやり取りで終わらせ、さっさと次の話題へ移っていってしまいましょう。



 さあ、最大の課題は【体道】です。


 これをいかに説明したものか……。



 全日本体道連盟に属し、体道を稽古している身としては、なるべく正確かつ詳細に説明したいという欲も湧いてくるのだけども、組織の成り立ちから話されても、聞いている相手にはなんのこっちゃさっぱりでしょうから、この際、思いきって最大限、実務的な解説に努めるという案はどうでしょうか。



 ひとくちに「体道をやる」と言った場合、いったいどういうことになるか。


 体道のカリキュラムのほとんどを占めているのは、柔術です。流派によっては、体術と言ったり拳法を言ったりしますが、要は素手で相手を制する武術ですね。


 投げ、押さえ、極め、絞めるなど、多種多様なパターンがあり、そんな柔術の技が、体道のなかにはたくさんあります。


 全体の六割強、いや、七割ほどはあるでしょうか。体道の体道たる所以と言ってもいいヴォリューム感です。



 体道を稽古する以上は、この多種多様な柔術をやるわけですが、じゃあ柔術だけでいいのかというと、決してそうではありませんね


 柔術の技というのは、ほとんどが、自分から攻撃を仕掛けるのではなく相手から先にかかってくるものです。つまり攻撃を知らないと、それに対する側の技も理解できないし、そもそも応じることさえ不可能なのです。


 だから、攻撃を学ぶ意味でも、空手は必要不可欠になります。


 空手の突き、蹴り、打ち、それに対する受け、あるいは型などの動きを通して身体や感覚を練ってゆきます。



 素手の武術を考えただけでもお腹いっぱいの印象ですが、体道には武具をつかった技も多くおさめられています。


 代表的なものは、やはり、さまざまなサイズのということになるでしょう。



 六尺のをつかった、「棒術」。

 四尺二寸ほどのをつかった、「杖術」。

 三尺の得物をつかう、「短杖術半棒術」。

 一尺のをつかう、「捕手術」。



 わたしが現在までに教わっただけでもこれだけあります。


 いくつもの流派、ヴァリエーション豊かな技を通して、さまざまなサイズの棒をあつかう術を習得してゆくのです。



 しかし、です。


 柔術のときと同様、では棒術や杖術だけ知っていればそれでいいのか、ということになると、答えはですね。



 これら武具をあつかう技は、ほとんどが対刀を想定しています。ただの木の棒っきれで日本刀に勝とうというわけです。


 なので、技を稽古する際には、相手方は刀をつかわなければなりません。ほとんどの場合、稽古では日本刀ではなく木刀をつかいます。


 つまりこの時点で、各種棒術のほかに、剣術のノウハウも知っておかなければならないことになります。


 刀で斬る、突く、受ける、払うなど、必要最低限の動きができないと、上記の棒術や杖術の技さえ学べないのです。



 おおっと待った。それだけではありませんでした。


 内田流短杖術のなかに、相手が腰に刀を差している状態から攻撃してくる技があったではありませんか。


 つまり、刀を鞘から抜いて、正眼や八相に構えた状態からはじめる技ではなく、まだ抜いていない状態から斬りかかる術を知らないとこれらの技はスタートできません。


 ということは、つまり、剣術だけでなく、抜刀術あるいは居合術が必要になってくるわけです。



 そんなこんなで、ざっと見てきただけでも、「体道」のなかには、柔術・体術・拳法、空手、棒術、杖術、短杖術・半棒術、捕手術、剣術、抜刀術・居合術などがあり、さながら総合武術の印象があります。いや、実際にそうなのでしょう。甲冑を着たり鉄砲を担いだり、弓を引いたりしないだけで、すでにこれだけで、日本の武術の代表的なものをおさえているように思えます。



 だから、体道をやっている人は、基本的に、忙しい。


 とても、一般の方に細やかな解説をしている暇などないのです。


「体道をやっています」

「体道? それって……?」

「さようなら!」


 もう、こうしてしまうよりほかに方法は見つかりません。


 みなさまはどうお思いですか。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:12 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年07月14日

絶対性への扉

 おはようございます。裏部長です。


 七月半ばの三連休です。放置していたあれこれを、片っ端から処理したい今日このごろ。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 さっそくですが、たとえば、重いものをもちあげて、どこかへ運ぶとします。


 このとき、そのものを手にもって、屈めていた腰を伸ばそうとすると、重さが腰にのしかかり、痛めてしまいますね。だから身体をなるべくまっすぐに保って、膝の曲げ伸ばしをつかって、上半身というよりは下半身、もっと言えば脚でもちあげるようにすると、負担は軽減されます。


 しかし、です。裏部長はふと思ったのです。


 この動き、もっと小さくできないものかと。



 第一、その場にスペースがあればいいですよ。もし狭い場所だったら。それこそ、膝の曲げ伸ばしもできないくらい狭苦しい環境でそのものをもちあげなければならなかったとした場合、どうしてもさらに小さな動きが求められるわけです。


 そんなことを考えながら、自分の身体と相談していろいろと試した結果、たどり着いたのは、足の裏をつかうという選択肢でした。



 指はもちろんですが、足の裏全体をつかって地面をギュッとつかむあの感覚。


 当然、もちあげるものには指がかかっているわけですが、このギュッをすると、瞬間的に、どういうわけか指先に力が漲るのです。



 これはどうしてなのかなあ。自分でもよくわかりません。


 しかし、とにかく、現に力が感じられるのです。ですから、膝の曲げ伸ばしをせずとも、足裏と指だけでもちあげることができるのです。



 こないだ「内歩進初段」の足について書きましたが、それより以前に、ひとりで「新生」を何度か試してみた夜がありました。


 師匠は不在で、他の稽古者たちもいない時間と空間がそのときあったわけです。


 かなり過剰に、かなりしつこく三戦立ちを意識し、やってみると、上段受けや突きの締まりはもちろん、そこから四股立ちに移った際のパッケージ感、そして何より、手全体の充実感が生まれました。


 あれはなんとも不思議な感覚でした。


 同じようなことが「内歩進初段」にも起きていて、動きだしの足が決まると、全体のかたちというか姿勢が一瞬で決まり、またやはり、手全体に力が漲るのです。


 だから、自分で意識的に、力強さを演出する必要がなくなった気がしました。やさしく、あるいはゆるりと、その型を流そうとしても、どうしても勢いと迫力が生まれてしまうのですね。



 この不思議の最たるポイントは、力の発生源である足と、もっとも離れている手がつながるという点です


 足が決まった際に下半身が、腰まわりが強靭になる、というのはすんなり理解できますが、離れている手にその影響が現れるというのはなんとも不可思議です。それも一瞬です。体内をエネルギーが移動する間もなく、気づいたらもう手に何かが生まれているのです。



 意識していないだけで、たとえば体道の柔術の技をやるとき、相手の打ちや突きに対して上段受けや差し手受けなどをする際、こうした足もとからの力を借りて動いている可能性があります。そうでなければ、重さと速さを兼ね備えた攻撃を、ほとんど動かずその場で受け捌くことなどできません。その瞬間、その場で受け勝つには、こうした目に見えない力が働いているのかもしれないし、それを暗に示してくれているのが体道なのかもしれませんね



 おしゃれは足もとから、と言いますが、武術も然り、かもしれません。



 裏部長でした。
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2018年07月07日

帰去来

 おはようございます。裏部長です。


 全国的に雨の被害が広がっているようです。こちら北海道でも川の氾濫などあり、農作物への影響が懸念されています。札幌では被害というほどのことはありませんでしたが、湿気にやられ、急激な気温低下も加わり、鼻水をすする回数が増えております。暑さに辟易とする前に、体調を崩さぬよう注意しなければなりません。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 ここ最近の札幌支部は、いささか中国武術色が薄まりまして、従来の稽古風景にもどりつつあります。


 そんななかで得た、わたし個人の気づきをいくつか。



一、内歩進初段の下半身

 これまで「内歩進初段」の足運びに関しては、一歩出たその瞬間にあの立ち方、そのかたちが決まっている、という教えを受けてはいたのですが、いまひとつ自分のなかに定着せず、しっくり来ていませんでした。なんとなく、膝、股関節あたりに遊びがあるように思えるのです。


 それが、先日ふと思いついた足運びの感覚がありまして、それでやってみるとなんとなくいい按配なのです。


 もちろん、型にない動きをしたわけではなく、端から見れば、それをする前もやった後も何ひとつ変化していないように感じられただろうと予測できる程度のアレンジなのですが、この感じで足を運ぶと、体が横へ動いたときにはもうあの立ち方ができている気がします。そして、例のへんな遊びもなくなっていました。


 師匠に見てもらうと、脚を交差したときに、そこで安定してしまうことがなければ問題ないだろうとのことで、しばらくはこの線で研究してみたいと考えています。



二、天心古流の杖

 日本伝天心古流杖術のなかで、杖の先を相手の正中線へ入れる動きがありますが、そのときのあのなんとも言えない気持ち悪さ、圧迫感と言うよりも違和感という感じのいやあな感じ。これをもっと精度高く、自然とおこなえるようにしたい。


 しかし、そのためのヒントは技のなかにすでに置かれているのですね。刀をもっている相手との攻防、その関係性のなかでは、そのようにしか動かせないようにできている。そこに忠実に、自然にあわせて、相手のテリトリーを侵食してゆく感じ。これを徹底したい。


 
三、技

 昨夜の稽古で数年ぶりに空心館の「技」を二手ほど教わりました。


 いやあ、感動的な印象さえありました。こういう技をもっと稽古しなければならないと強く感じました。




 全体的に言えることは、やはり、


さまざまなことに気がつけるようになるには、それ相応の時間がかかる


 ということでしょうか。



 空手の型に関しても体道のなかの種々の技に関しても、教わったときに見えていること、感じられている領域はごくわずかであり、深い理解や実践が伴うには、悲しいかなそれ相応の時間を要するようです。


 しかし、そのような気づきや発見を体験できたことは、成長だと思うのです。いたずらに多くの技を習うだけとも違う、ただ単に同じことを同じペースでつづけているだけとも違う、前進だと思うのです。


 
 あとは姿勢だけです。自分が、どのような姿勢で稽古へ臨むか。その技と向き合うか


 
 裏部長でした。

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2018年06月02日

もれなくついてくる

 こんにちは。裏部長です。


 六月となりました。2018年も折り返し地点というわけで、時の経つ速さを思うと、なんとも儚い気持ちになってくる今日この頃です。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 いきなりですけども、みなさまは上段へ刻み突きが来た場合、どのように受けますか



 ええ、もう本題に入っているのです。




 想像してみてください。


 互いに構えあっているところで、相手がこちらの上段へ向かって刻み突きをくりだしてきた。


 さあ、そのとき、あなたはどのように受けるでしょう。



 反撃はとりあえずあとまわしにして。


 これはあくまで「どのように受けますか」という質問であって、「どのような受けが可能ですか」や「どのような受けが想定できますか」ということではありません。


 いまこの瞬間、この文章を見たときに、ふと思いついた受けを念頭に置いていただきたいのです。



 おそらくですね、空心館においては、ほとんどの方が、掌や指、あるいは手の甲を用いたのではないかと、裏部長は推測するわけです。


 この場合、自然と発想されるものは、ふだんから稽古している動きか、もしくは、自分の師匠がやっているのをよく見ているために刷り込まれておぼえている動きか、このあたりのものでしょう。


 この点から言っても、上記の部位をつかった受けを考えられた方が多かったのではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。




 以上の前段を踏まえて、あえて疑問を提示したい。



なぜ、上段受けをしないのですか?





 白帯の、入門したその日から、空手の基本の受け型として、上段受け下段払い中段内受け中段外受けを教わるわけですが、その日以降今日にいたるまで、いったい何回これらの受けを稽古したことか。


 その歴史の長さ、回数の多さを見ても、稽古者にとってもっとも馴染み深い受けの動作はこの四つということになるでしょう。



 なのに、です。



 われわれはふだん、上段への突きに対してほとんどこの上段受けをつかいません。すくなくとも、札幌支部ではそうです。


 なぜなのでしょうね。考えてみれば不思議でしょうがない話です。



 上段受けを教わったとき、これは上段に来る突きに対する受けだからこういう風に動かさなくてはいけない、一方、拳槌打ちに対してもつかうので、こういう点にも気をつけて腕を動かしましょう、と、あれこれ言われたのに、実際に上段への攻撃に対してはほとんどつかっていません。


 いったい、そこには、どんな理由があるのやら……。





 中段追い突きの話をしましょう。


 ふだんの約束組手では、この中段追い突きがメインになります。最近、中段追い突きをここまで追求する意味や重みをあらためて感じている裏部長ですが、今日はその初歩の初歩に目を向けます。


 はじめて中段追い突きをやったとき、受ける側の人間は中段内受けで対応するわけですが、このときの注意事項は、「相手の腕を叩かない、弾かない」「ぶつけて止めようとしない」。こういった内容のものでした。


 そうしてはいけない理由はみなさまご存知の通り。

 
 なるほど、そうやって受けてしまうと相手にそんな影響があるのか〜。気をつけなくては!


 稽古としてはこんな感じで進んでゆけるのですが、ある日ふと思うのです。



 そういう受け方をするべからずというのには、ほかにも何か理由があるのではないか、と。





 結局ですね、相手の突きの腕を叩いたり弾いたりするには、こちらの動作がどうしても大振りになるのです。向こうは突っ込んできているので勢いがありますが、こちらはそれを受けようと待ち構えているので、手を出すだけでははね返されてしまいます。弾こうと思えば、それ相応のパワーでやっつけなければなりません。


 だからどうしても大きな動きになってしまいます。


 大きな動作である以上、その動きがはじまり完了するまでに、けっこうな時間がかかりますね。


 これ、相手が中段追い突きに来るというのがわかっている場合、つまり約束組手のなかであればまだ可能かもしれません。しかし、実際の攻防においては、相手がどのような突きで来るか、あるいは蹴りで来るかなど、攻撃は一定ではないのです。もし中段に追い突きが来るとしても、大ぶりな受けで対応できるほど、余裕をもって対処できるシチュエーションとは限りません。



 突きは、速さ、鋭さ、重さを兼ね備えてゆきます。それが一本におさまらず、二本、三本とつながり、さらに相手への突進力もここに加わります。蹴りもあります。


 そんな多種多様かつ危険な攻撃に対して、大ぶりな受けはとてもできません


 小さな動き――必要最低限な手の動きで、それを司る体の運動もあいまって、受けは成長してゆきます。もちろん、これは翻って、突きの成長にもつながります。


 高度な突きが身につくと、その身についた感覚なり身体の使い方なりがそのまま、受けの動作にも活かされるわけですね。




 そんなこんなで、ふたたび冒頭の上段受けの話ですが、つまりそういうことです。




 空心館の空手における突きを考えると、そうならざるを得ないというのが真実なのではないでしょうか。成長してゆく突き(もちろん蹴りなども)に対し、それらを受け捌く技術もあわせて持たねばなりません。この構図において、自然に、そうした受けの動作が主流となっていったのではないか。あえて文章にすればそのようなことなのではないかと裏部長は思っています。




 もちろん、基本の受け方の重要性も考えなければなりません。


 あのオーソドックスな上段受けも、使いようによっては凄まじい威力を発揮します。それは裏部長も、体道のなかで実感済みです。





 空心館の空手と、体道を稽古する以上は、この両方を等しく捉え、追及し、深めてゆきたいものです。




 裏部長でした。
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2018年05月26日

半畳もいらない

 おはようございます。裏部長です。


 五月も終盤となり、本州のほうではすでに夏の暑さが顔を出しているようですね。札幌はかろうじてまだ春の陽気を保っています。TVをつければ各種日焼け止めのコマーシャルがひっきりなしで、ああ、もう季節は夏に向かっているのだなあといやでも感じさせられます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 さて、前回のブログで、映画『イップ・マン』について触れましたが、あれはドニー・イェンさんが主演をつとめた作品の最新版で、同氏がイップ・マンを演じたものは計三本あります。わたしが先日観たのは、その三本目ということです。


 しかし、イップ・マンを主人公にした映画はほかにもありまして、わたしが個人的に好きなのは、

イップ・マン 最終章

 という作品です。




 具体的な内容などに関しては、ぜひ実際にご覧になることをおすすめしますが、劇中でイップ・マンが武術の教授を求められるシーンがとても印象的です。


 稽古代として食事をごちそうしてもらうあいだ、教わる側の男性は部屋のなかを片づけるわけですね、これから稽古をするから。しかし、食べ終わったイップ・マンは、そんなに広いスペースは必要ないと言い、畳んだ新聞紙を床に置くと、その上に立って構えます。


 あの新聞のサイズだと、日本の新聞紙の、見開き一面を半分に折り、さらにもう一度折ったくらいですね。その上で三戦立ちをすると、ちょっと狭いかなといった程度の面積しかありません。


 結局、そんな狭いスペースに足をのせ、構えたイップ・マンに弟子志願の男性が掛かってゆき、たやすくあしらわれてしまうという展開になるのですが、こういうシーンも、何気なく流して観るのではなく、自分に引き寄せて考えてみたいものです。





 ここ最近、裏部長は、


どうにか体道で闘えないものだろうか


 というようなことを考えており、これに関してはまだまだ暗中模索で書くことはできないのですが、実際に体道の技をやっていると、その技の威力が発揮されたとき、ほとんど歩幅もなく、大仰な構えもなくすべてが完了していることが多い気がするのです。大きな動きに走ったり、力みや焦りに流されて急いでしまったり、逆に勢いが滞ってしまったりすることなく、技が技として技の成果を見せたとき、立っている足の幅は、それこそあのシーンのイップ・マンではないけれど、かなり狭い。ほとんど半畳、いや、半畳もいらないくらいでしょう。



 これはいま、おもに柔術においての話だったわけですが、ほかの技、ほかの武術に関しても同じことが言えるのではないでしょうか。


 あるいは、空手においても――。





 裏部長でした。
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2018年05月04日

拳とは 武とは

 おはようございます。裏部長です。


 春うららかな連休、みなさまいかがおすごしでしょうか。



 裏部長、連休とはいえさしたる用事もなく、先日ふらりと訪れたTSUTAYAで、ひさびさに映画でも借りてみようかと思いたち、何枚かDVDを手に取った次第です。


 その数枚のなかに、アクションものが二篇ありました。


 今日はその二本の映画をざっとご紹介!



 一本目は、なんとも懐かしいサモハン主演の作品。『おじいちゃんはデブゴン』。


 ひどい邦題です。昔、サモハン主演で『燃えよデブゴン』というのがシリーズでつくられ、今作もその流れに乗っかってこのタイトルを日本側がつけたのでしょうが、コメディ要素のほとんどない、わりかしシリアスな内容になっています。


 主演・監督・アクション監督:サモハン、ということなので、あの巨体で激しいアクションをやっていました。


 わたしが注目したのは、終盤近くにある、この映画でもっとも烈しくもっとも濃厚な格闘シーン。


 大勢のマフィアたちを相手にサモハンが素手で立ち向かい、倒してゆくわけですが、その刃物に対する動きの一貫性と、体道の技に似たダイナミックな決め技。ああ、なるほど、こういう使い方もあるのかと、なかば感心しながら観ていました。



 はい、次。



 二本目は『イップ・マン 継承』です。ご存知の方もいらっしゃるでしょう。


 主演のドニー・イェンさんがいいですねえ。わたしは大好きです。同氏がイップ・マンをはじめて演じた作品以降、向こうでは葉問ブームが起こったのか、同一の主人公を描く映画が何本もつくられました。わたしは、イップ・マンの映画、今作で六本目です。


 アクションはたしかに素晴らしい。しかし今回はドラマにも深みが加えられ、ほどよい映像美で見せてくれます。




 これらの映画を観るかたわら、体道ノートをパソコンに打ち込むゴールデンウィーク。腰より先に尻が痛みはじめました。


 拳とは何か、武とは何かを考えさせられます。


 みなさんも、長時間の坐り作業には気をつけましょう。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 09:01 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年04月30日

疾る先端は自ずと弧を描く

 おはようございます。裏部長です。


 ゴールデンウィークを迎え、札幌の街はあたたかく、そして桜の風景となっています。まだ満開の樹ばかりとはいきませんが、歩いていても車で走っていても、目を癒される日和です。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 前回の記事に奈良のM田さんからコメントをいただきました。M田さん、ありがとうございました。




 さて、最近の札幌支部は、中国から来られていたRさんが四月の頭に帰国され、従来のメンバーにもどって、従来の稽古を再開したといった感じです。とはいえ、Rさんから教授された養生体操については、ほぼ毎回の稽古でくりかえしおこなっていて、身体のほぐれるその感覚に、師匠はじめほぼ全員がほくほく顔でたのしんでいます。


 きっとこのままゆくと、札幌支部メンバーはみな長生きすることでしょう。




 そのなかにあって、裏部長はひとりひそかに、

先端が走る

 ということを考えていました。


 このきっかけは体道の「折木」だったのですが、相手を崩す手、そこに重さを乗せ、相手に影響をおよぼす手というのは、自分の肉体の先端あるいは末端ですね。この部位がどこよりも速く走るように動いたときに崩れが生まれるのではないか。そういえば刀のときも棒や杖のときも、有効な振り方としてはやはり先端が走ることが求められていた、という記憶もあり、これはおおいに共通するのではないかと考えたのです。


 もちろん、単純に先端部分が走るだけでは重さが生まれません。あくまで重さを乗せるのは末端ではなく中心部分。それが丹田なのか仙骨なのかはまだ実感がありませんが、確実に帯より下にその核心があるような気がします。そこが重さを生み、走る先端部分をさらに活かすわけです。



 今回の発見はおもに体道においてでしたが、走る先端としては、突きも蹴りも同様でしょうから、これを空手の動きにも応用して考えてみたら面白いかもしれません。



 宝探しは、まだまだつづきます。




 裏部長でした。
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2018年03月31日

箱の中の宇宙



 
小説を 草して独り 春を待つ




 裏部長です。

 今回は風流っ気を出すために、正岡子規の俳句からはじめてみました。



 札幌はすでに路上に雪もなく、あとは本格的な春を待つのみといった感じですが、本州のほうでは桜のたよりが届いたところ、すでに去りはじめているところ、夏日なところなどさまざまで、数箇月後の暑さが思いやられます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 新学期、新年度を前に、ごくごくあたりまえなことかもしれませんが、わが身も引き締めるために、こんなことを書いてみます。



 ふだんの稽古のなかに登場する教えに、このようなものがあります。


力で技をやるのではない。技が力を生むのだ


 おなじみの教訓です。そして、稽古を重ねれば重ねるほど、その意味に打たれることばです。




 この文章の前半部分に出てくる「」とはおもに筋力のことです。体力、あるいはその人の体格を用いてつくりだす力、と言ってもいいでしょう。


 つまりは、有限なパワーということです。


 筋力にしても、無尽蔵に蓄えられるわけではないし、年齢とともにどうしても衰えてきてしまう。その量には限りがあります。


 そんな限りのあるパワーをつかって相手に対処しようとしていると、それよりもはるかに上回る筋力をもった人にはどうしたって敵いません。やられてしまいます。昔であれば、それは死を意味しました。



 一方、武術の技が生みだす「」とは、無限のものです。


 なぜ無限かと言えば、それは、相手との動作のなかで発生するエネルギーだからです。



 たとえば、相手を手でつかんで引き倒そうとしたとき、お互いに立って向かいあった状態でこれをおこなおうとすれば、相当な筋力を必要とし、相手が体重のある巨漢であれば、つかんだ時点でダメだなと思ってしまうことでしょう。


 しかし、もしもですね、そんな巨漢な相手が、二十センチ四方くらいの狭い足場に立っているとして、その周囲は断崖絶壁、下を覗きこむだけで震えが走るような場所であったとしたら……。


 ちょん、とその胸を押しただけで相手の身体は揺れてしまうでしょう。くっ、と引くだけでバランスを崩してしまうはずです。



 もちろん、通常の技は平面の、ふつうの床でおこなうため、断崖絶壁の力は借りられませんが、要はどこでもいつでも、相手の身体が不安定になる条件なり環境なりを構築できれば、その人が自分よりも長身であろうと、巨漢であろうと関係なく崩し、倒し、制することができるわけです。そのヒントが、われわれのところで言うと、体道の柔術のなかに無数に散りばめられていたりするのです。





 どうでもいい話ですが、先月から今月半ばくらいまで、裏部長は天心古流の「双手背之極」のことばかり考えていました。実際に稽古をするなかで、冒頭の上段受けはどうなるべきか、どうあるべきかをずっと考えていました。これにはきっと、師範やT技術顧問の影響があるのかもしれません。


 あの技で上段受けが変わると、相手が打ちで来ようが突きで来ようが関係なくなるし、その次の「脇詰」や「引留」などにおいても技の起こりが違ってくる。居取は、互いに正座して近間で向かいあっているという、とてつもなく狭く窮屈な、不自由な空間での技なので、いろいろなことが制限されているからこそ、そのなかにあってもかならず勝つ方法、相手を制しきる方法を見つけだすにふさわしいテキストで、わたしの気づきなど大したことはありませんが、もしあんな発見が各技でできるのなら、体道はまさしく武術の叡智、技の宝石箱だと言えるでしょう。



 この「技」という視点は当然、空手の突きなどに関しても言えるわけですが、打撃系武道の経験者であればあるほど、突きは相手に拳をぶつけることであって、当たらなければ意味がない、と思ってしまうらしく、約束組手をしていると、突きをしているというよりはただ拳で撲りに行っているといった印象の人が多く見られます。




 先ほどの格言、【力で技をやるのではない。技が力を生むのだ】にはつづきがあります。技の力といっても、そもそもその技って何ですか。何をどうすればその技になるのですか。そう訊かれたら、わたしはこう答えています。


技をつくるには、正しいかたちが必要である】と。





 経験のない人が、わかっていない人がいきなり技の力だなんて言ったところで、実際にはちんぷんかんぷんで悩ましいかぎりです。そんなとき、案内役になってくれるのがこの「かたち」なのです


 正しいかたち、姿勢が技をつくる要素になります。それが整っていない人に技の力を説いても無意味です。






 知らないって、じつは甘美なのです。

 自分で判断できるから。わかったと思えるから。知ったかぶりができるから。

 しかし、きちんと向きあって、素直に学んで、ようやく知ることができたら、人は二種類にわかれます。

 それを無視して知ったかぶりをつづける人か、自分の現状と比較して不安に陥る人か。

 前者はもう駄目です。後者になってはじめて前進できるのです。

 その差異を見つめて稽古してゆくと、どこかのタイミングで、技と自分がひとつになる瞬間に出逢います。

 できた瞬間です。そこをすぎてはじめて、「ああ、こういうことだったのか」と感じます。

 これはうれしい出来事です。甘美が歓喜にかわるときです。

 しかし、喜びは持続しません。宿題はまだ山積みになっているのですから。



 
 なんだかんだと偉そうなことを書いてきましたが、斯くいうわたし自身が知ったかぶりをし、独りよがりをし、回り道をくりかえしてきた経緯があります。また飲みこみも悪く、覚えもよくないため、師匠や師範、諸先輩方やT技術顧問などからの教えも、嚥下し、吸収するまでにどうしても時間がかかってしまいます。

 
 ただ、それでも、いますこしずつ変化が起こっているような気がするのです。

 ほんとうにわずかずつですが、この身にそのエッセンスが、沁みこみはじめているように思えるのです。





 明日から四月です。新しい一年のはじまりです。


 晴れやかな季節にしたいものです。

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2018年02月25日

のひと

 おはようございます。裏部長です。


 もうすぐ二月が終わります。

 札幌は、なんだかんだと言っても今年は雪がすくなく、車道はほとんど路面が顔を出しています。ただ、歩道はかなり危うい状態になっています。十二月とか一月あたりは、まだ冬まっさかりの気運があるため、すべり止めの砂を撒く人も多いのですが、二月もこうして終盤に差しかかり、三月の姿が見えてくるころになると気が緩むのか、凍りついた歩道をみなさん放置してしまうのですね。

 だからいま、札幌の歩道はスケートリンクです。坂道であれば、どこまででも滑ってゆけます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 さて、昨夜は月に一度の、武道場での稽古でした。


 札大生のKくん、紅一点のHさんに加え、道新文化センター受講生のKさんとそのお孫さん、ひさしぶりの少年部Oくん、学外から参加のMさん、Kくん、そして、中国から来られているRさんが奥様と娘さんとご一緒に参加されました。


 老若男女、とはこのことです。とても賑やかな稽古となりました。





 そんななかで感じたのは、

その人の出所出自がそうとわかるには、それ相応の深さと浸透率が必要である

 ということでした。






 ……なんのこっちゃ、ですよね。






 たとえばですね、昨夜の稽古では、お孫さんといらっしゃっていたKさんが天心古流の切紙を受けるべく、居取之位を復習するのですが、せっかくなので、全員でいっしょにやってみましょうということになりました。ふたりでひと組みになり、何度か相手をかえてやってみたのですが、そのなかで中国から来られているRさんと組んだ際、ふいにそんなことを思ったのです。


 技のなかで、相手の顔面を突く、あるいは相手の攻撃を受ける、投げる、押さえるなどのいくつもの場面において、昨夜やった居取の技は、Rさんにとっては初見で、師匠の動きを見ながら動いていた感が強かったのですが、そうして見様見真似でやっていながらも、Rさんの動きはある一定の「型」にはまっていたような気がするのです


 まるで自身がやっている中国武術の型のなかに似たようなかたちがあり、それをその瞬間その部分だけ身体に呼び起こして、体道の技のなかで実践している、ような。だから、相手のこめかみへ手を返すにしても、顔面を突くにしても、われわれがやるのとはすこし趣きが異なり、その瞬間だけ型をやっているような印象を受けたのです。



 これは結局、自身で稽古されている武術がそれだけ身体に沁みこんでいるということなのでしょう。徹頭徹尾、しっかり深く浸透している。だからこそ、他流儀の技をやる際にも、その片鱗が顔を出してしまう。



 出してしまうなどと書くといささか批判的に映るかもしれませんが、昨夜の裏部長は感嘆していたのです。





 それは、紅一点Hさんについても言えます。



 昨夜訊いたところによると、彼女は五歳くらいから空手をやっているそうです。つまり、すでに十四年ほどのキャリアがあるわけです。


 本人曰く、これだけ長いあいだ稽古をしていても辞めたいと思ったことはないので、きっと相性がいいのだろう、ということでしたが、わたしは返す返す、その時間と深さに感心するばかりでした。




 つまり、それだけの時間をかけてひとつのことを追求し、やりこんできた結果、彼女には空手が、Rさんには中国武術が沁みこんでいるわけです。それがふとした瞬間、たとえば畳の上で正座をして柔術をやる際とか、空手の型を復習しているとき、動かす足が右足ではなく左足だったと気づいた瞬間だとかに表出する。どんなに多様に、それ以外のことも稽古していたとしても、各人の出所出自は隠すことができない。

 いや、隠れずそれが表に出てくるようになるには、それ相応の深さと濃さをもっていなければなりません。




 以前このブログで、松本幸四郎さん(現松本白鴎さん)のことばを紹介しました。

歌舞伎役者である以上、歌舞伎以外のことをする必要はない。ミュージカルとか現代劇とか、いろいろやる必要はまったくない。しかし、プロの役者である以上は、いろいろできなきゃいけないと思うのです

 つい先日の、親子三代同時襲名のときにも同様の発言をされていました。



 これは師匠の稽古観、武術観とも通ずるものですが、そうは言っても、白鴎さんのお芝居を見て、歌舞伎のにおいを感じないことはないですよね。異国のミュージカルをやっていても、TVドラマや映画に出ていても、その演技にはつねに歌舞伎のにおいが香っている。



 結局のところ、それがないとただの何でも屋になってしまうのでしょうね。「きちんと型がある、その上で型を壊す必要がある。型ができていないのに壊すのは型なしだ」というのは亡くなった中村勘三郎さんの言でしたが、この型の部分ですね、これがきちんと築けているかどうか。寄る辺があるかどうか。それはもちろん、武術に限らず、表現すること、生きること全般に必要なことのように感じます。




 Rさんは中国武術の人、Hさんは空手の人。そう胸を張って言えるだけの浸透率をもっている。


 さて、それでは――。




 あなたはいったい何の人でしょうか。






 裏部長でした。
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2018年02月18日

手は差し伸べられる

 おはようございます。裏部長です。


 二月も後半に入り、各地ではまだまだ寒さや雪の被害が伝えられているようですが、おとなりの国では、氷点下のなかで熱いたたかいが繰り広げられています。時差の問題がなく、TVでの放送も見やすい時間帯なのでありがたいことはありがたいのですが、その分、ふだんのオリンピックより盛りあがっていないような気がするのはわたしだけでしょうか。


 そんな如月、みなさまいかがおすごしでしょうか。






 さて、先日の空手の稽古での話――。



 その日もいつものように、師匠、札幌大学のI先生、中国から来られているRさんほか、太極拳をしているTさんやIさん姉妹、そして栃木のHさんと、中国色と女性率の濃いメンバーだったのですが、稽古としては、基本を軽めにやって、その場での受け・突きなどをしたあと約束組手となりました。


 ふだんはもちろん中段追い突きをおもにおこなうのですが、この日はまず、互いに正対した状態で、一方はその場突きをし、もう一方は左右に沈んでこれから体を外し、まっすぐ突きを出すという動きをやり、つづけて、刻み突きに対して後ろの手をまっすぐ差し伸ばす動きをやりました。


 札幌支部ですごすわれわれにとってはどちらもおなじみの動きではあります。


 しかしこのとき、後者の技を説明する過程で、師匠が、「この崩れが生まれれば、そこからこんな風な投げにも発展させられる」と見せた技を目にして、中国から来られているRさんは驚きを――大仰に言えば、感動と興奮をおぼえたようなのです。


 Rさんいわく、

その動きは太極拳のなかのある技に似ているが、この技はかなり高度なもので、できる人はほとんどいない。私も読み聞きして知ってはいるが、自分ではできないし、できる人を見たこともない

 ということなのでした。



 この夜の稽古と、また別日の稽古もさらに費やして、師匠としては、その技の感覚の片鱗でもRさんにつかんでもらって、お土産として中国へもち帰ってもらえればと、あれやこれや手をかえ品をかえ実践してみたわけですが、みなさまもご存知のように、そう易々と身につけられる技ではありません。


 斯くいうわたしたちですらまだできないものです。これからきちんと取り組んで、できるように励まねばならない技なのです。


 ですから片鱗と書いたのですが、その領域の、この場合は受けの技ですね、この受け技を実践できるようになるまでには、もちろん突きの、攻撃のレヴェルも上げなければならず、その過程にはいくつものステップがあります。


 空手のかの字も知らない素人の状態から空手をはじめたわたしとしては、入門から十四年経って、これまでを振りかえるとほんとうに多くの段階を踏んできたのだなあとあらためて感じます。いまその受け技を考えるときに、前提となっている突き、攻撃を獲得するまでにも長い時間がかかりました。そしてこれからの技たちも、いまの状態の上に立って、さらに稽古を重ねることでしか習得できないのだろうと想像します。


 しかし、その成長の手がかりやヒントは、すでにわれわれの前へ提供されているということを、いまあらためて意識する必要があると思うのです


 現に、上記の受け技はこの日にはじめて教わったものではないのです。以前にもやったし、指導もしてもらいました。もちろん一朝一夕にできるものではないから、そのときに感覚をつかんだわけではなく、これから時間をかけて向きあってゆくものなのですが、目の前にはすでに差しだされていたわけです。



 この技には限りません。

 いくつもの教えが、その片鱗が、すでにわたしたちの前にはある。

 日々の稽古のなかでこれをやりすごさないこと。意識をもって、課題をもって、稽古すること。




 われわれが手にしようとしているのは、あの長い歴史をもつ中国武術のなかでもかなり高いレヴェルに匹敵するような技なのだと考えれば、おのずと腰も据わるというものです。





 裏部長でした。

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2018年01月29日

基準と感覚

 こんばんは、裏部長です。


 明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。




 とはいえ、2018年がはじまってすでに一箇月が経とうとしています。この間、寒波が来たり大雪が降ったり、日本全国津々浦々、ひっちゃかめっちゃかになっているみたいですが、札幌はさほど悪天候ということもなく、例年どおりに寒い一月をすごしております。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。




 
 今年に入り、裏部長が考えたことのひとつが今日のタイトル、つまり、

基準と感覚

 です。



 たとえば体道のなかで技をやっているとして、捕と受の動きがあるわけですね。教わる際、われわれはまず自分の動き、捕のほうの動きをおぼえ、把握し、実践できるようくりかえし練習します。


 この場面では、ほんとうにさまざまな動作があります。


 足を引く、出す、手を伸ばす、上げる、体をひらく、鎮める……などなど、とにかくいろいろな動きのつながりのなかで技は進行し、相手を崩したり投げたり制したりする結末へと向かってゆくのですが、どうしてもこのとき、最初は自分の身体やその感覚を重視して動いてしまうのですね。


 たとえば足を引き、体をひらくとします。とはいえ、その足を、その半身を、どの程度引いたりひらいたりすればよいのか、すべてを数値や角度であらわすわけではないので、みな各自に任されるわけです。しかし、当然のことながら、自分のなかにある感覚に照らした動きをしているだけでは独りよがりです。たいていの場合、その動作は相手に響かず、技は上手くゆきません。


 自分の感覚に従って動くということは、悪く言えば、自分の好きなように動けるということです。自分の好きなだけ足を引き、自分のやりたいように体をひらく。それらがたまたま上手い具合に技にハマるということもないわけではないでしょうが、確率的にはかなり低い話です。


 そして、わたしは、そのやり方で実践しようとして上手くいっていない人たちを多く見てきました。



 この場合の改善点は何か。


 そのひとつとしてわたしは、「基準」ということをもち出してみるのです。



 つまり、その技の核は何か、肝の部分は何かをまず見極めること。その上で、相手を崩すために、相手へ力を伝えるためにどこが重要なのかを知り、それを成立させている箇所はどこか、それらを構成している自分の動作は何か。ここを押さえることができれば、そこさえ守ればよいのです。そのポイントさえ揺るがせにしなければ、技の全体像はおのずと整ってくるはずです。


 これが「基準」です。技のなかの心臓部、あるいは血管、神経のようなものです。これを知り、把握し、その「基準」がきちんと成立しているような動作を心がければ、技の様相はおのずと変わってきます。


 そしてほとんどの場合、この技の「基準」は、かならず相手との関係性のなかにあります


 自分の身体のなかの感覚にはありません


 技において必要な感覚とは、この「基準」を踏まえた動作をくりかえし稽古し、積み重ねたなかで獲得される感覚であって、自分の体内から自分の手で導き出すものではない


 裏部長は、現時点ではそう思っています。




 技の具体例を示せないので、いささかわかりづらい文章になりました。ご了承ください。


 裏部長でした。




posted by 札幌支部 at 18:58 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年12月30日

葦を揺らす風

 こんばんは。裏部長です。



 あと一日とちょっとで、2017年も幕を下ろします。

 巷ではさまざまなことが噂され、凄惨な事件、悲しい事故、世界規模の懸念など、長時間の報道番組を埋め尽くす出来事の数々がこの国を覆っているようですが、そんなあれこれとは無縁に、自分のペースで、自分らしく生きられる今日この一日をありがたく思えるわたしは、すっかりおじさんになってしまったのでしょうか。


 今年も大詰めです。みなさま、いかがおすごしでしょうか。




 年末には稽古納めがあり、年始には稽古初めがあります。

 旧い年から新しい年へ、決意をもって、目標をもってつき進むことは必要でしょうが、なんだか今年はそんな年末感があまりありません。年が変わったからといって何かを捨てるわけではなく、どこかを無理やり変えるわけでもない。

 もちろん、現状維持でよい、とも思っていません。

 来年はいまよりも前に、もっともっと上に、自分を鍛えて成長させてゆきたいと強く思います。しかし、その気持ちはすでに胸のなかにあるため、わざわざ何かをしてそれを表そうとはしていないだけなのかもしれません。



 まだまだ学ぶことはあるし、手にしたいものもあるし、ステップアップしてゆきたい。



 今年は後半に、月刊『秘伝』において師匠の対談記事が掲載され、体道連盟や藤谷師範のことも紹介されました。組織の規模を拡大することはべつに望むところのものではありませんが、自分たちが学んでいることがもそっと多くの方に知られ、愛され、気にかけてもらえるようになれば、それはとてもたのしい未来です。有望な人材も自然と集まるでしょう。



 2018年はそんなこれまでにない変化が生まれ、前進できる一年になりますように。

 裏部長も、自分らしいペースで、それでも上を目指します。




 空心館のみなさま、そして、武術に生きるすべてのみなさま。


 よいお年を。あなたらしい新年をお迎えください。


 裏部長でした。



posted by 札幌支部 at 17:45 | Comment(0) | 裏部長の日記