平日ですが、すこし時間があるので、更新しておきます。
10月もそろそろ終わり、冬に片足をつっこむ11月がやって来ますね。
みなさま、いかがおすごしでしょうか。
こちら札幌ではすでに雪が降りました。さすがにまだ積もることはありませんが、秋から冬への変化を感じております。
2025年も残すところあと二箇月ですか。いやはや、何はともあれ、早いものであります。
先日、稽古で体道をやっていて、そのときは天心古流拳法の初目録を学んでいる方々のご相伴にあずかって、となりで一緒に同じ技をやっていただけなのですが、おひさしぶりな技たちに触れるなかで、ふいに、初心にかえるような感慨をおぼえました。
感慨と言っても大したことではないのです。ひとつひとつの動作、立ち方、体の向き、手の捕り方などのそれぞれの動きが、それに触れるたびに懐かしい体感を催してくれるというか、そんな印象が生まれたのです。
ああ、そうか。技をやるということは、その技がもつ理に触れることなのだな、と。そのとき改めてそう感じました。
これは何も体道に限ったことではありません。空手をやっていても、刀を振っていても、同様です。
あえて表現してみれば、自分のなかがまっさらになる時間≠ニでも言うのでしょうか。
坐禅などの境地に近いかもしれません。そしてきっと、これが師匠の言う「ニュートラルな状態」に近いのでしょう。
最近の裏部長は、こんな心境で稽古へ臨んでおります。
そんなことを考えていたら、ちょうどいま再読しているある小説のなかに引っかかる文章があったので、ご紹介します。
池波正太郎著、『剣客商売番外編 ないしょ ないしょ』(新潮文庫)より。
齢七十に近い老武士、三浦平四郎は根岸流手裏剣の達人で、住み込みで働く主人公の少女・お福にその手裏剣術を教えるのですが、そのときにこう説きます。
「手裏剣のみならず、たとえば刀にせよ、どんな刃物にせよ、間ちがって使えば、人を傷つける。また、殺しかねない。同時に、我が身にも危難がおよぶことになる。なればこそ、わしも侍の端くれだが、刀というものは、この家に一つもない。昨夜、泥棒が入ったときも、わしは刀を抜かなかった。いや、刀がないから抜けないのも当り前だ」(p101)
さらに、
「ならば、何故、わしが手裏剣の稽古をするかというと、先ず、躰が丈夫になる。躰のためによいということが一つ。さらに、何も彼も忘れて稽古をしていると、つまらぬことや悩み事をすべて忘れることができる。人間という生きものにとって、これは、とても大切なことなのだ。わかるか?」(p101)
そして、従来の手裏剣のほかに、新たな武具を伝授することになった際にはこうも言います。
「うむ。これはな、めずらしいものだが、いまのお前なら、充分につかえる。だが、お福。いつも申すことだが、生きものに手裏剣を投げてはならぬぞ。わしは、手裏剣の稽古をはじめてから五十年になるが、ただの一度も人を殺したり、傷つけたりしたことはない。そのことを、よくおぼえておけ」(p124)
なんとなく、響くものがあるではありませんか。
裏部長でした。


