小説を 草して独り 春を待つ
裏部長です。
今回は風流っ気を出すために、正岡子規の俳句からはじめてみました。
札幌はすでに路上に雪もなく、あとは本格的な春を待つのみといった感じですが、本州のほうでは桜のたよりが届いたところ、すでに去りはじめているところ、夏日なところなどさまざまで、数箇月後の暑さが思いやられます。
みなさま、いかがおすごしでしょうか。
新学期、新年度を前に、ごくごくあたりまえなことかもしれませんが、わが身も引き締めるために、こんなことを書いてみます。
ふだんの稽古のなかに登場する教えに、このようなものがあります。
【力で技をやるのではない。技が力を生むのだ】
おなじみの教訓です。そして、稽古を重ねれば重ねるほど、その意味に打たれることばです。
この文章の前半部分に出てくる「力」とはおもに筋力のことです。体力、あるいはその人の体格を用いてつくりだす力、と言ってもいいでしょう。
つまりは、有限なパワーということです。
筋力にしても、無尽蔵に蓄えられるわけではないし、年齢とともにどうしても衰えてきてしまう。その量には限りがあります。
そんな限りのあるパワーをつかって相手に対処しようとしていると、それよりもはるかに上回る筋力をもった人にはどうしたって敵いません。やられてしまいます。昔であれば、それは死を意味しました。
一方、武術の技が生みだす「力」とは、無限のものです。
なぜ無限かと言えば、それは、相手との動作のなかで発生するエネルギーだからです。
たとえば、相手を手でつかんで引き倒そうとしたとき、お互いに立って向かいあった状態でこれをおこなおうとすれば、相当な筋力を必要とし、相手が体重のある巨漢であれば、つかんだ時点でダメだなと思ってしまうことでしょう。
しかし、もしもですね、そんな巨漢な相手が、二十センチ四方くらいの狭い足場に立っているとして、その周囲は断崖絶壁、下を覗きこむだけで震えが走るような場所であったとしたら……。
ちょん、とその胸を押しただけで相手の身体は揺れてしまうでしょう。くっ、と引くだけでバランスを崩してしまうはずです。
もちろん、通常の技は平面の、ふつうの床でおこなうため、断崖絶壁の力は借りられませんが、要はどこでもいつでも、相手の身体が不安定になる条件なり環境なりを構築できれば、その人が自分よりも長身であろうと、巨漢であろうと関係なく崩し、倒し、制することができるわけです。そのヒントが、われわれのところで言うと、体道の柔術のなかに無数に散りばめられていたりするのです。
どうでもいい話ですが、先月から今月半ばくらいまで、裏部長は天心古流の「双手背之極」のことばかり考えていました。実際に稽古をするなかで、冒頭の上段受けはどうなるべきか、どうあるべきかをずっと考えていました。これにはきっと、師範やT技術顧問の影響があるのかもしれません。
あの技で上段受けが変わると、相手が打ちで来ようが突きで来ようが関係なくなるし、その次の「脇詰」や「引留」などにおいても技の起こりが違ってくる。居取は、互いに正座して近間で向かいあっているという、とてつもなく狭く窮屈な、不自由な空間での技なので、いろいろなことが制限されているからこそ、そのなかにあってもかならず勝つ方法、相手を制しきる方法を見つけだすにふさわしいテキストで、わたしの気づきなど大したことはありませんが、もしあんな発見が各技でできるのなら、体道はまさしく武術の叡智、技の宝石箱だと言えるでしょう。
この「技」という視点は当然、空手の突きなどに関しても言えるわけですが、打撃系武道の経験者であればあるほど、突きは相手に拳をぶつけることであって、当たらなければ意味がない、と思ってしまうらしく、約束組手をしていると、突きをしているというよりはただ拳で撲りに行っているといった印象の人が多く見られます。
先ほどの格言、【力で技をやるのではない。技が力を生むのだ】にはつづきがあります。技の力といっても、そもそもその技って何ですか。何をどうすればその技になるのですか。そう訊かれたら、わたしはこう答えています。
【技をつくるには、正しいかたちが必要である】と。
経験のない人が、わかっていない人がいきなり技の力だなんて言ったところで、実際にはちんぷんかんぷんで悩ましいかぎりです。そんなとき、案内役になってくれるのがこの「かたち」なのです。
正しいかたち、姿勢が技をつくる要素になります。それが整っていない人に技の力を説いても無意味です。
知らないって、じつは甘美なのです。
自分で判断できるから。わかったと思えるから。知ったかぶりができるから。
しかし、きちんと向きあって、素直に学んで、ようやく知ることができたら、人は二種類にわかれます。
それを無視して知ったかぶりをつづける人か、自分の現状と比較して不安に陥る人か。
前者はもう駄目です。後者になってはじめて前進できるのです。
その差異を見つめて稽古してゆくと、どこかのタイミングで、技と自分がひとつになる瞬間に出逢います。
できた瞬間です。そこをすぎてはじめて、「ああ、こういうことだったのか」と感じます。
これはうれしい出来事です。甘美が歓喜にかわるときです。
しかし、喜びは持続しません。宿題はまだ山積みになっているのですから。
なんだかんだと偉そうなことを書いてきましたが、斯くいうわたし自身が知ったかぶりをし、独りよがりをし、回り道をくりかえしてきた経緯があります。また飲みこみも悪く、覚えもよくないため、師匠や師範、諸先輩方やT技術顧問などからの教えも、嚥下し、吸収するまでにどうしても時間がかかってしまいます。
ただ、それでも、いますこしずつ変化が起こっているような気がするのです。
ほんとうにわずかずつですが、この身にそのエッセンスが、沁みこみはじめているように思えるのです。
明日から四月です。新しい一年のはじまりです。
晴れやかな季節にしたいものです。


