2017年06月24日

柔があるから

 こんばんは。裏部長です。


 来週を終えると、もう七月です。本州では梅雨まっさかりで、かなり鬱陶しい日々がつづいているようですが、こちらはこちらで、急に涼しくなったりして、朝晩の服装に苦慮する毎日です。


 みなさま、ご健壮でいらっしゃるでしょうか。





 裏部長は師匠のもとへ入門するまで、空手のかの字も知らず、当然その業界にも疎かったわけですけれど、稽古をするようになって十三年以上が経ったいまもあまり変わりません。


 一般的な空手業界、いや、武術や武道、格闘技業界にはとんと縁がないのです。


 それもそのはず、興味がないから、と言ってしまえばそれまでですが、ひとつの道場に十年以上もいて、継続的に稽古していながら、他流儀へここまで目を向けない人も稀なのではないかと、自分のことながら珍妙に思うこともないではありません。


 結局のところ裏部長は、「武術」が好きなのではなく、たまたま出逢えた武術をしていたい人間だったということでしょうか。




 なので、あらためて空手というものを見つめ直したときに、かなり初歩的なことに驚いたりもしてしまうのです。




 空手にはさまざまな受けがありますね。


 上段受け、下段払い、内受け、外受け。そのほかにもいろいろありますが、基本稽古でいつもやるこの四種類に限定して見てみても、その動作を、ごくシンプルにそのままおこなった場合、相手の攻撃をはじく、自分から離す役割があることを最近になってふと気づいたのです。


 オーソドックスな受け方としては、その動作の性質上、相手の攻撃をどのような度合いであれはじく結果になってしまう。これはなぜか。



 空手には打撃のスキルがあります。自ら突く蹴る打つという選択肢があります。


 つまり、その攻撃のスキルで相手を仕留めれればよいのだト。受けは、相手の攻撃を防げればいいのであって、とにかく自分にダメージが加わらないように受けておいて、すかさず打撃をおこなえばよいのだト。


 そう考えると、単純に払う、弾くといった受け方であってもべつに問題はないのです。そういう空手をしなさいと言われれば、きっと誰でも、今夜のうちから実践することができるでしょう。





 しかし、われわれには体道があります。


 もっと言えば、柔術があるのです。





 たとえば天心古流の「屏風返」をやる際に、相手の追い突きに対してこちらは上段受けをしますが、そこで相手の腕をはじくような受け方をしていたのでは、この技はできません。中段への当身も効かないでしょう。


 さらに天心古流の「両腕攻」を見てみれば、中段への突きを脇に入れなければなりません。そこで、相手の腕を外へそらすような、拒絶するような内受けをしていたのでは、この技はままなりません。



 それは柔術の話だろ。空手のときは空手、柔術のときは柔術のやり方で、つかいわければいいじゃないか。


 という意見があるかもしれませんが、こと打撃での反撃を見てみたとしても、上記の技たちから得られる教訓を反映した受けのほうが、あきらかに威力が大きくなりますね。



 つまりは、そんな空手をわれわれはふだんから稽古しているわけですが、思えばそれらはいささか不思議な話で、オーソドックスな空手を知っている人からしたら、やはり珍妙に映るのではないでしょうか。




 もちろん、これはかなり初歩的な技術的側面であって、そこまで単純な話だけでは説明しきれない流れ、領域があり、それらも含めてわたしたちは稽古できているわけですが、このあたりのことを説明する気力も体力も、三十路をすぎた裏部長にはもうありません



 筆マメな、目をギラギラさせた若い入門者がやって来るのを、初夏の空の下で待つばかりです。



 
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posted by 札幌支部 at 19:29 | Comment(0) | 裏部長の日記
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