2016年07月30日

縄暖簾

 おはようございます。裏部長です。







 朝っぱらから内輪の話をします。




 先日のある稽古の後半、体道をやっているときの話です。ここ最近の札幌支部のメイン・メンバーであるIさんが天心古流の「両手裏投」を教わった際、手と体の連動を意識する過程で、こんなことをおっしゃいました。


「ということはつまり、力を入れて手と体を固めて動くということですね」


 この技をご存じの方であればわかっていただけるでしょうが、動きだすときに最初はどうしても手と体が分離してしまいます。当然、体だけ行っても相手は崩れないし、手だけ先行させようとしても動かない。全体がひとつとなって、みんな一緒に動かなければ成功しない技なのですが、言わずもがな、力を入れてしまうことは避けたいわけです。もっと自然な状態で、身体をまるごと動かしたい


 そのときは、Iさんの受けをわたしが取り、師匠が指導をされていたので、裏部長としてはただされるがまま相手の両手首をもっていればよかったのですが、ふと考えてしまったものです。


自分は、どういう感覚でそのひとつになるという状態を実現させているのだろう?




 そのときの稽古ではわたしも「両手裏投」をやってみました。上記のやり取りがあり、自分のなかで再点検しながらの捕だったもので、いろいろと感じることがありました。


 どうして手と体が分離しないのか。身体の節々に力を入れて固めているわけではないのに、なぜひとつになって動いてくれるのか。


 そのときのわたしの答えとしては、


そこに相手がいてくれるから


 というところに落ちつきました。




 目の前に相手がいて、両手でこちらの両手首をつかんで立っている。その状況下で「両手裏投」という技をやるので、前にゆくにも後ろに引くにも、左右どちらかへ進むにしても、かならず相手がついてきてしまいます。一見するとかなり鬱陶しい感じがしますが、そのときのわたしにとっては、そういう状態のほうがありがたくて、相手が自分とくっついて立っていてくれるので、技をやる過程で身体を分離させることなく動くことができました。言うなれば、相手の存在が自分を調えてくれる、そんな感じでした。



 冷静になってあとから考えてみれば、結局は、相手を敵対する存在、攻撃しダメージをあたえたい存在と考えず、ともに技をおこなうパートナー、噛みあうふたつの歯車、そんな風なイメージで向きあうことで可能になった動きだったのでしょう。相手とひとつになる相手と反発しない。ここ数年、大切にしてきたことそのものでした。



 先日のブログ同様、このスタンスはすべてにおいて重要だとわたしは考えます。「両手裏投」は天心古流の中目録の技で、順番としてはかなり最初のほうですが、ここまで大切なことを教えてくれます。



 体道はあなどれません。




 裏部長でした。
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posted by 札幌支部 at 09:11 | Comment(0) | 裏部長の日記
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