2014年07月05日

技をやりなさい

 おはようございます。裏部長です。




 もう何年も前のことですが、たしかT技術顧問が、「長いこと稽古をつづけてきて、振りかえってみたら誰もついてきていない」と書かれていたのを、どういうわけか最近よく思いだします。



 これはおそらく、単純に稽古を長年継続している人自体がすくないということのほかに、自分と同じレヴェルで武術をやっている人間が圧倒的にすくない、ということをおっしゃっていたと思うのですが、どうでしょうか。




 生意気ながら、裏部長もすこしこのところ同じようなことを感じていまして、武術家として歩こう、武術と向きあおうと心に決め、実践し、研鑽をつづける人のなかに生まれている感覚は、そうではない人には到底理解できないものなのですね。当人は、いま現在の自分の感覚の上に立って、さらに前へ前へゆこうとしているからさほど感じませんが、その鋭敏さ、豊かさは並大抵のものではなく、未熟な稽古者にはもちろん、ましてや一般の方には、どんなにことばを尽くして説明してもわかるはずがないのですね。



 もちろん、武術家が武術をやるのですから、それを他者へ説明する必要などなく、ただ稽古すればよいのです。もし説明するのなら、師匠のように、きちんとその相手のレヴェルを見極め、その人が理解できる段階にまで下りてきて語るべきでしょう。学校の先生でもある師匠だからそれが可能で、だから我々もついてゆけているわけで、いまもし師匠が師匠のレヴェルで感覚的な話をされたら、弟子たちのほとんどはちんぷんかんぷんになってしまうはずです。



 これは修業の内容や質に比例して深刻化します。だから、師匠はもちろん、師範やT技術顧問の苦労はいかばかりかと思います。



 しかし、裏部長はちょっと割りきって、そこは、玄人と素人、演者と観客くらい違うもので、ラインを引いてしまってもいいのではないかと考えています。同じ空間で稽古をしていたとしても、そこには舞台と客席くらいの違いがあり、距離があり、見ているもの感じているもの目指すものも大いに異なっているのだという認識で向きあったほうが、逆に誤解や混乱が生まれずに済むような気がします。





 あ、そうそう。舞台と客席といえば、先日とても興味深い話を聞きました。





 師匠がある方の舞いを観ていたときのことです。


 舞いというくらいですから、台詞のある舞台演劇などとは違い、声を出すわけでもなく、物語を説明するわけでもない。しかしストーリーは存在していて、舞台にいるその人は自分の身ひとつでそれを表現するというのですね。


 驚いたのは、登場人物が身を投げるシーンだったと言います。観ていた師匠は、心のなかであぁっと声をあげたそうです。なぜなら、


まるで自分が奈落の底へ落ちてゆきそうに感じたから


 だそうです。




 これ、すごい話だと思いませんか。




 シンプルな舞台装置の演劇や、能や落語のように、背景を単純化した状態で演者が単身で演じ、そこにないものを見せるという芸能はたしかにあります。しかしそれらの場合、観客は演者やその周辺に、実際にはない物や色や音を感じたり見たりするのであって、自分がそうなってしまう感覚に陥るわけではありませんね。座布団に坐っているおじさんが女にも子供にも見えたり、能面が泣いているようにも笑っているようにも見えたりするのとはすこし異なります。



 師匠の分析では、演者が自分の力で観客にそういった錯覚を感じさせたのではなく、観客が勝手にそう感じてしまう状況をつくり出していたのではないか、ということでしたが、なんとなく想像はできるところです。





「あの人は○○の鑑だ」


 などというときの鑑は、向かいあっているこちらの姿を映して見せてくれる存在という意味です。こちらが緊張し、相手を怖がっていればその通りに見え、やさしく、朗らかな人だと思って接すればその通りにやわらかくなる。そういう状態の人が達人なのだという話をよく聞きますが、先の舞いの人はこれと同じことをしていたのでしょう。



 真にニュートラル


 これはかなり究極の領域です。




 当然、武術をやっている以上はそんな領域を目指したいわけですが、ここまで考えてくると、もはやそこへ至るには、修行僧のようなことをしなければいけないような気がしてきます。


 なぜなら、ほんとうの意味でニュートラルな状態は、煩悩を一ミリグラムも有していない、悟りの境地に似ていると感じるからです。



 
 先のT技術顧問のことばと同様に、あるいはそれ以上に、藤谷師範のことばも最近よく反芻します。



 以前、師範がコメントに書いてくださった、


拳を鍛えたり筋肉を鍛える時間があれば技を覚えなさい


 ということばは、シンプルだけれど、やはり重い。



 座禅をして悟りをひらいた人に、どうすれば悟ることができますかと訊いたとして、おそらく返ってくる答えはただひとつ、


坐りなさい


 だけでしょう。



 これを我々のほうに置き換えるならば、


技をやりなさい


 ということになります。




 技をやるしかないのです。悟りをひらきたいのはわかる、その熱意も姿勢も評価しよう、しかし悟りをひらくために教えることは何もない自分でその境地に達しなければならないそれ以外に道はない。武術も同様に、自分で稽古をし、自分で学び、自分で感じて、身につけてゆくほかないのですね。ただ技をやる、やれるようにするという空間、その渦のなかに埋没して、純粋に探究してゆく以外にはない



 相対的な強さよりも絶対的な巧さ――上記のような、技をやるというだけの渦のなかに入ってゆけば、相手がどうのこうのという意識は消え失せ、その技ができるかどうか、理解し、感じられるかどうかだけの話になってゆき、気づけば、一般の方には想像すらできない深みにまで達することができわけですが、それをせず、いつまでも相対的なものの考え方に立脚していると、武術としての進化より、その人にとってあまりよくない、ネガティブな現象が次々と起きてしまうようです。



 たとえば何か相手と技をやるとして、自分が捕をする。しかし、いくらやっても上手くゆかない。


 こうなった場合、さまざまな原因は考えられるものの、基本的には、自分の腕の未熟さを見つめる必要があり、我々はたいていそうしています。それは、技をやるという渦のなかに生きているので、技ができているかどうかだけの判断で状況を見るからなのですが、相対的な尺度で生きている人はそうではないのです。


 つまりね、相手のせいにしてしまうのです。自分が技をしようとしたとき、相手が力を入れた、逆に抜いた、体格差がありすぎる、向こうが有段者だったから、などなど。自分自身が技をつかえるようになりたいという思いが第一にあって稽古している人間ならば、できなかった自分をまず反省すべきところを、相対的に立ち、相手に勝つか負けるかという尺度で技と向きあっている人は、上手くできなかった原因をまず相手に認め、この上で、それでも技ができるように腕をあげなければならないという、偽物のポジティブ思考を発揮して自己完結してしまうのです



 できるはできる。できないはできない。ただそれだけで、できない人はできるように努力し、稽古を重ねればよいのです。稽古とは、修業とはただそれだけのことで、言い訳もお愛想も、本来は不必要なものなのです






 と言っても、これだって裏部長のいまのレヴェルで感じることであって、ここに来ていない人にとっては、ちんぷんかんぷんの先輩の苦言くらいにしか聞こえないはずです。そうしていつしか、先輩の苦言が老人の小言になり、振りかえってみると、追いかけてきている人はほとんどいないという有様になるのでしょう。




 

 いや、だからこそ!




 舞台の上で、たったひとりでも舞いつづける人の表現は、尊いのです。



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posted by 札幌支部 at 10:31 | Comment(1) | 裏部長の日記
この記事へのコメント
こんにちは。
先日は、T師範様、裏部長様、来名お疲れ様でした。
また、ご苦労様でした。
充分にお話ができず、申し訳ありません。
楊式推手を少しだけ、ご紹介できただけですね。
24式太極拳などの表演ができずに、失礼いたしました。
まだまだ、未熟ですが、次回、来名の折に、機会があれば、表演いたしたいと思います。
名古屋は、大変暑い日が続いております。
季節柄、お身体を大切にしてくださいませ。
Posted by 名古屋のK at 2014年08月01日 11:01
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