2020年08月29日

受けの武術

 おはようございます。裏部長です。

 過酷な暑さへ立ち向かっている方々へ、心より、残暑見舞い申しあげます。

 
 札幌もまだ油断はできません。昨日は33度まで上がりました。

 今日も夏日で湿気がきつく、午後から雨になるようで、明日の予想最高気温が17度……

 17度!?

 どういうことなのでしょうか、これは。気まぐれにも程があります。

 熱く焼いた肉を、十分に冷ます前に冷蔵庫へぶちこむようなものです。

 大丈夫かしさ、この身体……

 
 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 さて、取り立てて書くこともないのですが、いま裏部長は改めて「受け」の重要度を噛みしめている、とだけ記しておきたいのです。

 自分の属している道場や流派、師匠によって、武術観というのでしょうか、おのれの武術のポリシーのようなものが形成されてゆくと思うのですが、わたしの場合はもとが空手畑ではなかったせいか、どうもいまひとつ、突きや蹴りなどの攻撃に傾くことができません。

 単に精神的強度や、腕前の問題かもしれませんが、相対したとき、どう突いてやろう、どう打撃でやり返してやろうかと、考える力が薄弱なのです。

 しかし、もともと合気道をやっていて、柔術が好きで、いまも体道をやっているせいか、どう受けてやろう、どう応じ、どういなしてやろうかと、「受け」の立場に自分を置くと、積極的な姿勢になれます

 うちの師匠からして、攻撃を貴ぶのではなく、相手からのアプローチにいかに反応するか、できるか、ということを考えられている人なので、その影響も大いにあるように思われますが、そもそも体道のなかの技を見てみても、相手の攻撃に応じるものがほとんどである現実を踏まえれば、この状態も決しておかしなものではないと考えます。


 ただし、これまで裏部長が考えていた「受け」というのは、どちらかというと一方通行な、相手の攻撃を邪魔しない、受け入れる、突かせてあげる、といったものに終始していて、「受け」というより「受け身」でいる感じだったのですが、今後はそこにいささかの変化を生じさせてみたい、とも目論んでいるのです。

 姿勢はそのままに、「受け」という技をもって、積極的に応じてゆく。「受け」で攻める。「受け」で勝つ

 そんなことができれば、自分のこの軟弱な心身をもってしても、もしくはいくらか武術ができるのではないか。


 暑さにうなされながら、そんなことを思う裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 10:09 | Comment(0) | 裏部長の日記

2020年08月09日

Empty Hand

 おはようございます。裏部長です。

 三連休、いろいろと煩わしいことも多いですが、札幌は程よい気候ですごしやすいです。北海道はこうでなくちゃ。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 さて、デジタルに疎い裏部長も、今年の春から初夏にかけての自粛期間中、世にいうサブスク(サブスクリプション)というものにようやく出逢いまして、なつかしいTVドラマや映画を観てたのしむようになりました。

 先日は『ベスト・キッド』(1985年)を久方ぶりに鑑賞しました。いま改めて観ると発見が多く、べつのたのしみが生まれます。


 劇中での空手(カラテ)の描き方にはいくつも賛否や意見があるでしょうが、意外にも筋が通っているように思えたのは、主人公が学ぶ技術と師匠の系譜についてです。

 師匠となるのは、おなじみの「ミヤギ」さんで、沖縄から来たということでしたが、沖縄でミヤギというと、宮城長順さんを思い浮かべます。

 剛柔流をつくった方です。おそらくこの映画のミヤギさんも、この宮城さんの流れをくむ人なのでしょう。

 だから、あの少年(ダニエルさん!)に教えた受けの動作が、「転掌」に由来していたのです。このあたり、けっこう堅実です。


 学校でワルガキたちにいじめられている少年をミヤギ老人が助け、自分の部屋へ運びこむ。気がついた少年は、老人が空手をやっていて、なおかつ強いということにまだ半信半疑。不思議に思ってあれこれ尋ねます。

 それに対して、ミヤギ老人の答えた台詞がこれです。

沖縄のミヤギは皆 漁とカラテを知っている

 カラテは16世紀 中国から来た

 ″手”と呼ばれた

 後に ミヤギの先祖が

 ″カラテ”と呼んだ

 空の手だ

 最後の一文、英語では「Empty Hand」と言っています。

 わたしはなんだか、この表現にぐっときてしまったのです。


 思えば武術とは、すべてにおいて「Empty Hand」なのではないか。空手や柔術など、素手でおこなうものはもちろんですが、棒や杖、刀など、武具を用いる技においてさえ、その武具を扱うのは空っぽの手なのです。

 わたしの両手は、武術をするにふさわしい「Empty Hand」になっているだろうか。


 三十年以上前の映画を観ながら、ふとそんなことを思う裏部長なのでした。
posted by 札幌支部 at 09:34 | Comment(0) | 裏部長の日記

2020年08月01日

小川の水辺から大河の飛沫を見る

 こんにちは、裏部長です。

 八月になりました。全国各地、お暑うございます。

 こちら札幌もすこしずつ夏の息吹に包まれるようになりました。今月は真夏日も多くなるでしょう。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 札幌支部では先月から、小規模ではありますが、限定的に稽古を再開しております。

 以前のようにすべての参加者を受け入れることはできず、現時点では、大学関係者(教員、学生、OBなど)のみです。

 長らく通常の稽古をしていなかったのと、稽古休止期間中に自分であれこれ工夫してみた結果とがあいまって、いろいろと試行錯誤の連続であります。空手に関しては、やはりひとりで考えすぎてしまう傾向があり、いま大いに反省をしている最中です。

 刀の稽古も再開していますが、まだまだですね。技を覚える前に、身体がついていかないのです。

 空手にしても、柔術にしても、何にしても武術をやってゆくうちに、肉体も感覚も、あるいは精神も、その技をやるに適切なものへと変化してゆくのではないでしょうか。そういった意味でも、すくなくとも裏部長の身体は、まだ刀をやる身体になりきれていません。

 とにもかくにも、武術の灯はここ札幌でも、絶えずに点りつづけています。


 ああ、そういえば!

 昨夜の稽古のなかで、唯一の学生であるHちゃんから、師範の型の動画を見せてもらいました。「最破」と「征遠鎮」でしたが、彼女のスマートフォンを覗きこみ、わたしも、そして師匠も、唸りつつ感嘆の息を洩らしていました。

 わたしのような下っ端がこんなことを言うのはたいへん失礼にあたるのですが……

 ほんとうにもう、惚れ惚れするような型です。拳や足先などの張りや緊張感は残しつつ、腕や脚は力が抜けきっていて鞭のごとく、速く鋭く、全身には必要最低限の締まりしかない。わたしたちが師範の空手の型を見ることはとても稀なので、かなりの刺戟と衝撃をもって拝見しましたが、動画を見た師匠も、「あの力の抜けた感じは真似できない」とこぼしていました。

 そして、これは合わせて明記しておくべきことだと思いますが、その動画内でおこなわれていた師範の型と、われわれが教わったふたつの型が、微妙に異なっていました。素早く、切れよく動いていた部分がゆるやかになっていたり、呼吸とともに力強くやっていた部分がごくあっさりとしたものに変わっていたり。このあたりの変化、変更は、きちんと捉えて、必要な個所は改めねばなりません。

 ですから、そういった意味でも、師範の技や型の動画というのは貴重なのです。生きる空心館の宝物殿です。


 心身ともに、ぴりりと刺戟的な体験でした。


posted by 札幌支部 at 12:44 | Comment(0) | 裏部長の日記