2020年05月31日

追記

 またまた裏部長です。


 先ほど載せた文章の後半部分は、いわば理屈の上の発展といったようもので、なんとなく胡乱な印象がありました。

 裏部長個人の実感としましては、むしろ現在の状態こそ心地よく、爽快である、ということをここに書き加えておきます。


 いくつもの要素が互いに監視しあっている、などと書くと、何本もの鎖でわが身を拘束されているかのように思え、とても窮屈に感じられるかもしれませんが、逆に言うと、迷う必要がない状態にある、と捉えることもできます。

 長くつづく稽古の道の上で、あっちがいいかな、こっちが正解かなあと、悩む場面は山のように出てきます。

 近くに師がいて、強靭な指導力でいつも引っぱってくれていれば、そんな迷い道に翻弄されることもないでしょうが、最後の最後までそんな状態がつづくわけではありません。

 いつかは自分で考え、自分で判断しなければならない時期が来ます。


 そんなときに、現在のわたしのような、いくつもの要素の武術を同時におこなう状態はむしろ好都合です。

 師匠の技のように雑味がなく、嫌味がなく、スッキリとした武術。

 何物にも拘束されず、澄んでいて、つねにニュートラルな武術。あるいは、そんな武術家。


 これこそが目指すべき領域なのかもしれません。


 
 六月も武術とともに歩みましょう!


posted by 札幌支部 at 14:50 | Comment(0) | 裏部長の日記

糸東流

 こんにちは。裏部長です。

 五月が終わりを告げ、六月が顔を見せて、こちら札幌でも初夏の陽気です。今日も気温が高く、空には雲ひとつありません。

 暑いですが、爽快感があります。そういう季節になって来たということなのでしょう。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 さて、全国的に、非常事態宣言も取り下げられる傾向にあり、北海道でも徐々に日常がもどりつつあります。

 この流れが順調に進み、札幌支部としても、たとえ以前のペースやスケールとはいかないまでも、稽古を再開できればよいのですが、果たしてどうなりますことやら。

 優先すべきは、われわれの健康です。命です。

 ここをきちんと押さえた上で、新しい武術との向き合い方を模索したいものです。


 向き合い方、と言えば、空手に関して思うことがあります。

 裏部長もたまにはインターネット上に転がっている武術関連の動画を見たりするのですが、空手をやっていらっしゃる方々のものを拝見するたびに、「やはり、独特のクセがあるのだなあ」と感じます。

 これは、どちらかというと、よい意味で言っています。

 その流派の、その系統の、独特な動きのクセ。とくに型を見ると、これを顕著に感じてしまいます。


 なぜそう感じるのか、と自分に問えば、きっとそれは、自分のやっている型にクセがないと捉えているから、なのでしょう。

 師匠から教わってきた空手の型、あるいは師匠のやる空手の型は、上記の意味で言うクセがあまり強くない。アクがなく、雑味もなく、全体的にスッキリとしています。だからそれを教わったわたしの型もまた、濃いクセを有していないのでしょう。

 
 この自粛期間中に、わたしはつらつら考えてみたのです。

ではなぜ、師匠の型にはクセがすくないのか

 個人的に考察した結果は以下の通りです。


 糸東流というのは一般的に言うと、沖縄(琉球)にあった空手のすべての型を有した流派、ということらしいですね。日本の空手四大流派のうち、松濤館流、和道流、剛柔流はそれぞれひとつの系統を継ぐものだが、糸東流には那覇手も、首里手も、泊手もある、と物の本にも書かれていました。

 これ、もしかしたら、流れをくむ系統がひとつの性質のものならば、あるいはクセが生まれていたかもしれません。

 首里手なら首里手だけの要素をもって稽古を積んでゆく。そのうち深まり、濃度が増してゆくに従い、クセが生じてゆく。それは那覇手にしても泊手にしても同じです。ひとつの要素が煮詰まってゆく過程がそうさせるのではないか。


 しかし、糸東流においては、それらすべての型があり、またそれらの型を同時並行的に教わるので、ひとつの要素に染まる時間がないのですね。この時期は首里手のみ、この時期は那覇手のみ、というように、期間を決めてひとつの系統を集中的につきつめるのであれば話はべつでしょうが、抜塞大をしながら、三戦をやったりしているのですから、これはもう、どちらか一方に偏ることを許されないわけです。

 これ、言うなれば、いくつかの性質の型たちが、互いに監視しあっている状態にも見えます。

 酸性になりかけたらアルカリ性に、アルカリ性に染まりそうなら中性に、中性に落ちつく前にまた酸性に、というように。


 さらに空心館においての特徴は、ここに体道が加わることです。

 体道のなかにある柔術、各種棒術、札幌支部では法典流の剣術等のほか、最近では刀も登場しました。抜刀術や居合術が加わったわけです。


 これらすべてのものが、お互いを監視しあい、どちらにも偏りすぎることを看過しない状態。

 つまり、ニュートラルな状態、ですね。

 その最中にわれわれは生きているのではないか。数年前までの裏部長はこう思っていたわけです。


 ん?

 数年前?

 では、いまは……?


 現在の裏部長は、上記の内容をすべて呑みこんだ上で、さらにひっくり返して、こう考えはじめています。

「ならば、そのすべての技において、極端に偏ることもできるのではあるまいか」

 これは推論です。まだ肉体的にも、感覚的にも追いつきません。


 しかし、酸性のものやアルカリ性のものや中性のものがあって、すべてを扱う以上、その技をやっている瞬間はその要素に染まりきることができるのではあるまいか。いやむしろ、そうならなければいけないのではあるまいか。

 これは推論、と言うより幻想かもしれません。単なる創造上の産物なのかもしれない。


 ただ、こんな風に考えはじめると、われわれが稽古している武術、あるいは糸東流というものが、とても興味深く見えてくるのです。

 

 みなさまは、どうお考えでしょうか。


 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 13:51 | Comment(0) | 裏部長の日記