十一月もあとわずかとなりました。札幌では、先週にようやく初雪が訪れ、そうかと思えば一日わんさか降る日もあって、気がついたら外は一面の銀世界。しかし今日ともなると日差しに溶けて、ほとんどの車道は顔を出しています。空も、どことなく穏やかな日和です。
みなさま、いかがおすごしでしょうか。
最近の札幌支部は、札幌大学の学生さんが稽古へ参加されるようになったり、他流派の空手をやっている方が見学に来られたりと、新しい風がすこしだけ吹いています。
今野敏さんの小説で『孤拳伝』という作品があり、形意拳をやる少年を中心に、さまざまな武術家たちが登場するのですが、そのなかのひとりで、岡山県で長くつづいているというある武術流派の宗家は、昔ながらの慣習にこだわる弟子に対し、
「流派というのはつねに流れていなければならない」
というようなことを言っている場面がありましたが、肯けるものがあります。
技でも人でも考え方でも、ひとつのことにこだわって、凝り固まってしまうことは避けたいものです。
とはいえ、では何でもかんでも新しいものをやってゆけばいいのかと言えば、それはそれで違うでしょうね。
先日、師匠に見せていただいた、中段への突きに対する猫足立ち・手刀受けの動きがあるのですが、それを傍目から見ていて、わたしにはその空手の技術以外に、同じ理合というか内容が、体道の柔術のなかにも含まれているのではないかと唐突に思う瞬間がありました。
柔術においては、ほとんどの場合、こちらの手や腕が相手の肉体に触れています。そして、その触れた点をもとに、相手を崩してゆきます。
しかし、ではその触れている点で崩しているのか、投げているのか、押さえているのかというと、じつはそうではない。
力の源はそこ以外の、肉体の内部にあることが多いのです。
その内部のある個所が、技が起こる瞬間に緩んだり変化したりすることで力が生まれ、その力が、相手の肉体に触れている点に作用するのですね。
これ、文章にするといささか難解ですが、われわれそれをすでに、体道のなかでやっているのです。
空心館内、あるいは体道連盟のなかにおいて、諸先輩方の動きに触れたとき、そのあまりの深さに驚愕することがあります。
きっと諸先輩方も、こうしてひとつの動き、ひとつの技を何度も稽古し、見つめるなかで、余人が想像もできないほど深いところまで、その内容を掘り下げてゆかれたのでしょうね。
まだまだ、学ぶことは多くあります。
裏部長でした。