2018年07月14日

絶対性への扉

 おはようございます。裏部長です。


 七月半ばの三連休です。放置していたあれこれを、片っ端から処理したい今日このごろ。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 さっそくですが、たとえば、重いものをもちあげて、どこかへ運ぶとします。


 このとき、そのものを手にもって、屈めていた腰を伸ばそうとすると、重さが腰にのしかかり、痛めてしまいますね。だから身体をなるべくまっすぐに保って、膝の曲げ伸ばしをつかって、上半身というよりは下半身、もっと言えば脚でもちあげるようにすると、負担は軽減されます。


 しかし、です。裏部長はふと思ったのです。


 この動き、もっと小さくできないものかと。



 第一、その場にスペースがあればいいですよ。もし狭い場所だったら。それこそ、膝の曲げ伸ばしもできないくらい狭苦しい環境でそのものをもちあげなければならなかったとした場合、どうしてもさらに小さな動きが求められるわけです。


 そんなことを考えながら、自分の身体と相談していろいろと試した結果、たどり着いたのは、足の裏をつかうという選択肢でした。



 指はもちろんですが、足の裏全体をつかって地面をギュッとつかむあの感覚。


 当然、もちあげるものには指がかかっているわけですが、このギュッをすると、瞬間的に、どういうわけか指先に力が漲るのです。



 これはどうしてなのかなあ。自分でもよくわかりません。


 しかし、とにかく、現に力が感じられるのです。ですから、膝の曲げ伸ばしをせずとも、足裏と指だけでもちあげることができるのです。



 こないだ「内歩進初段」の足について書きましたが、それより以前に、ひとりで「新生」を何度か試してみた夜がありました。


 師匠は不在で、他の稽古者たちもいない時間と空間がそのときあったわけです。


 かなり過剰に、かなりしつこく三戦立ちを意識し、やってみると、上段受けや突きの締まりはもちろん、そこから四股立ちに移った際のパッケージ感、そして何より、手全体の充実感が生まれました。


 あれはなんとも不思議な感覚でした。


 同じようなことが「内歩進初段」にも起きていて、動きだしの足が決まると、全体のかたちというか姿勢が一瞬で決まり、またやはり、手全体に力が漲るのです。


 だから、自分で意識的に、力強さを演出する必要がなくなった気がしました。やさしく、あるいはゆるりと、その型を流そうとしても、どうしても勢いと迫力が生まれてしまうのですね。



 この不思議の最たるポイントは、力の発生源である足と、もっとも離れている手がつながるという点です


 足が決まった際に下半身が、腰まわりが強靭になる、というのはすんなり理解できますが、離れている手にその影響が現れるというのはなんとも不可思議です。それも一瞬です。体内をエネルギーが移動する間もなく、気づいたらもう手に何かが生まれているのです。



 意識していないだけで、たとえば体道の柔術の技をやるとき、相手の打ちや突きに対して上段受けや差し手受けなどをする際、こうした足もとからの力を借りて動いている可能性があります。そうでなければ、重さと速さを兼ね備えた攻撃を、ほとんど動かずその場で受け捌くことなどできません。その瞬間、その場で受け勝つには、こうした目に見えない力が働いているのかもしれないし、それを暗に示してくれているのが体道なのかもしれませんね



 おしゃれは足もとから、と言いますが、武術も然り、かもしれません。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:06 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年07月07日

帰去来

 おはようございます。裏部長です。


 全国的に雨の被害が広がっているようです。こちら北海道でも川の氾濫などあり、農作物への影響が懸念されています。札幌では被害というほどのことはありませんでしたが、湿気にやられ、急激な気温低下も加わり、鼻水をすする回数が増えております。暑さに辟易とする前に、体調を崩さぬよう注意しなければなりません。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 ここ最近の札幌支部は、いささか中国武術色が薄まりまして、従来の稽古風景にもどりつつあります。


 そんななかで得た、わたし個人の気づきをいくつか。



一、内歩進初段の下半身

 これまで「内歩進初段」の足運びに関しては、一歩出たその瞬間にあの立ち方、そのかたちが決まっている、という教えを受けてはいたのですが、いまひとつ自分のなかに定着せず、しっくり来ていませんでした。なんとなく、膝、股関節あたりに遊びがあるように思えるのです。


 それが、先日ふと思いついた足運びの感覚がありまして、それでやってみるとなんとなくいい按配なのです。


 もちろん、型にない動きをしたわけではなく、端から見れば、それをする前もやった後も何ひとつ変化していないように感じられただろうと予測できる程度のアレンジなのですが、この感じで足を運ぶと、体が横へ動いたときにはもうあの立ち方ができている気がします。そして、例のへんな遊びもなくなっていました。


 師匠に見てもらうと、脚を交差したときに、そこで安定してしまうことがなければ問題ないだろうとのことで、しばらくはこの線で研究してみたいと考えています。



二、天心古流の杖

 日本伝天心古流杖術のなかで、杖の先を相手の正中線へ入れる動きがありますが、そのときのあのなんとも言えない気持ち悪さ、圧迫感と言うよりも違和感という感じのいやあな感じ。これをもっと精度高く、自然とおこなえるようにしたい。


 しかし、そのためのヒントは技のなかにすでに置かれているのですね。刀をもっている相手との攻防、その関係性のなかでは、そのようにしか動かせないようにできている。そこに忠実に、自然にあわせて、相手のテリトリーを侵食してゆく感じ。これを徹底したい。


 
三、技

 昨夜の稽古で数年ぶりに空心館の「技」を二手ほど教わりました。


 いやあ、感動的な印象さえありました。こういう技をもっと稽古しなければならないと強く感じました。




 全体的に言えることは、やはり、


さまざまなことに気がつけるようになるには、それ相応の時間がかかる


 ということでしょうか。



 空手の型に関しても体道のなかの種々の技に関しても、教わったときに見えていること、感じられている領域はごくわずかであり、深い理解や実践が伴うには、悲しいかなそれ相応の時間を要するようです。


 しかし、そのような気づきや発見を体験できたことは、成長だと思うのです。いたずらに多くの技を習うだけとも違う、ただ単に同じことを同じペースでつづけているだけとも違う、前進だと思うのです。


 
 あとは姿勢だけです。自分が、どのような姿勢で稽古へ臨むか。その技と向き合うか


 
 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 10:26 | Comment(0) | 裏部長の日記