2018年02月25日

のひと

 おはようございます。裏部長です。


 もうすぐ二月が終わります。

 札幌は、なんだかんだと言っても今年は雪がすくなく、車道はほとんど路面が顔を出しています。ただ、歩道はかなり危うい状態になっています。十二月とか一月あたりは、まだ冬まっさかりの気運があるため、すべり止めの砂を撒く人も多いのですが、二月もこうして終盤に差しかかり、三月の姿が見えてくるころになると気が緩むのか、凍りついた歩道をみなさん放置してしまうのですね。

 だからいま、札幌の歩道はスケートリンクです。坂道であれば、どこまででも滑ってゆけます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 さて、昨夜は月に一度の、武道場での稽古でした。


 札大生のKくん、紅一点のHさんに加え、道新文化センター受講生のKさんとそのお孫さん、ひさしぶりの少年部Oくん、学外から参加のMさん、Kくん、そして、中国から来られているRさんが奥様と娘さんとご一緒に参加されました。


 老若男女、とはこのことです。とても賑やかな稽古となりました。





 そんななかで感じたのは、

その人の出所出自がそうとわかるには、それ相応の深さと浸透率が必要である

 ということでした。






 ……なんのこっちゃ、ですよね。






 たとえばですね、昨夜の稽古では、お孫さんといらっしゃっていたKさんが天心古流の切紙を受けるべく、居取之位を復習するのですが、せっかくなので、全員でいっしょにやってみましょうということになりました。ふたりでひと組みになり、何度か相手をかえてやってみたのですが、そのなかで中国から来られているRさんと組んだ際、ふいにそんなことを思ったのです。


 技のなかで、相手の顔面を突く、あるいは相手の攻撃を受ける、投げる、押さえるなどのいくつもの場面において、昨夜やった居取の技は、Rさんにとっては初見で、師匠の動きを見ながら動いていた感が強かったのですが、そうして見様見真似でやっていながらも、Rさんの動きはある一定の「型」にはまっていたような気がするのです


 まるで自身がやっている中国武術の型のなかに似たようなかたちがあり、それをその瞬間その部分だけ身体に呼び起こして、体道の技のなかで実践している、ような。だから、相手のこめかみへ手を返すにしても、顔面を突くにしても、われわれがやるのとはすこし趣きが異なり、その瞬間だけ型をやっているような印象を受けたのです。



 これは結局、自身で稽古されている武術がそれだけ身体に沁みこんでいるということなのでしょう。徹頭徹尾、しっかり深く浸透している。だからこそ、他流儀の技をやる際にも、その片鱗が顔を出してしまう。



 出してしまうなどと書くといささか批判的に映るかもしれませんが、昨夜の裏部長は感嘆していたのです。





 それは、紅一点Hさんについても言えます。



 昨夜訊いたところによると、彼女は五歳くらいから空手をやっているそうです。つまり、すでに十四年ほどのキャリアがあるわけです。


 本人曰く、これだけ長いあいだ稽古をしていても辞めたいと思ったことはないので、きっと相性がいいのだろう、ということでしたが、わたしは返す返す、その時間と深さに感心するばかりでした。




 つまり、それだけの時間をかけてひとつのことを追求し、やりこんできた結果、彼女には空手が、Rさんには中国武術が沁みこんでいるわけです。それがふとした瞬間、たとえば畳の上で正座をして柔術をやる際とか、空手の型を復習しているとき、動かす足が右足ではなく左足だったと気づいた瞬間だとかに表出する。どんなに多様に、それ以外のことも稽古していたとしても、各人の出所出自は隠すことができない。

 いや、隠れずそれが表に出てくるようになるには、それ相応の深さと濃さをもっていなければなりません。




 以前このブログで、松本幸四郎さん(現松本白鴎さん)のことばを紹介しました。

歌舞伎役者である以上、歌舞伎以外のことをする必要はない。ミュージカルとか現代劇とか、いろいろやる必要はまったくない。しかし、プロの役者である以上は、いろいろできなきゃいけないと思うのです

 つい先日の、親子三代同時襲名のときにも同様の発言をされていました。



 これは師匠の稽古観、武術観とも通ずるものですが、そうは言っても、白鴎さんのお芝居を見て、歌舞伎のにおいを感じないことはないですよね。異国のミュージカルをやっていても、TVドラマや映画に出ていても、その演技にはつねに歌舞伎のにおいが香っている。



 結局のところ、それがないとただの何でも屋になってしまうのでしょうね。「きちんと型がある、その上で型を壊す必要がある。型ができていないのに壊すのは型なしだ」というのは亡くなった中村勘三郎さんの言でしたが、この型の部分ですね、これがきちんと築けているかどうか。寄る辺があるかどうか。それはもちろん、武術に限らず、表現すること、生きること全般に必要なことのように感じます。




 Rさんは中国武術の人、Hさんは空手の人。そう胸を張って言えるだけの浸透率をもっている。


 さて、それでは――。




 あなたはいったい何の人でしょうか。






 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 09:03 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年02月18日

手は差し伸べられる

 おはようございます。裏部長です。


 二月も後半に入り、各地ではまだまだ寒さや雪の被害が伝えられているようですが、おとなりの国では、氷点下のなかで熱いたたかいが繰り広げられています。時差の問題がなく、TVでの放送も見やすい時間帯なのでありがたいことはありがたいのですが、その分、ふだんのオリンピックより盛りあがっていないような気がするのはわたしだけでしょうか。


 そんな如月、みなさまいかがおすごしでしょうか。






 さて、先日の空手の稽古での話――。



 その日もいつものように、師匠、札幌大学のI先生、中国から来られているRさんほか、太極拳をしているTさんやIさん姉妹、そして栃木のHさんと、中国色と女性率の濃いメンバーだったのですが、稽古としては、基本を軽めにやって、その場での受け・突きなどをしたあと約束組手となりました。


 ふだんはもちろん中段追い突きをおもにおこなうのですが、この日はまず、互いに正対した状態で、一方はその場突きをし、もう一方は左右に沈んでこれから体を外し、まっすぐ突きを出すという動きをやり、つづけて、刻み突きに対して後ろの手をまっすぐ差し伸ばす動きをやりました。


 札幌支部ですごすわれわれにとってはどちらもおなじみの動きではあります。


 しかしこのとき、後者の技を説明する過程で、師匠が、「この崩れが生まれれば、そこからこんな風な投げにも発展させられる」と見せた技を目にして、中国から来られているRさんは驚きを――大仰に言えば、感動と興奮をおぼえたようなのです。


 Rさんいわく、

その動きは太極拳のなかのある技に似ているが、この技はかなり高度なもので、できる人はほとんどいない。私も読み聞きして知ってはいるが、自分ではできないし、できる人を見たこともない

 ということなのでした。



 この夜の稽古と、また別日の稽古もさらに費やして、師匠としては、その技の感覚の片鱗でもRさんにつかんでもらって、お土産として中国へもち帰ってもらえればと、あれやこれや手をかえ品をかえ実践してみたわけですが、みなさまもご存知のように、そう易々と身につけられる技ではありません。


 斯くいうわたしたちですらまだできないものです。これからきちんと取り組んで、できるように励まねばならない技なのです。


 ですから片鱗と書いたのですが、その領域の、この場合は受けの技ですね、この受け技を実践できるようになるまでには、もちろん突きの、攻撃のレヴェルも上げなければならず、その過程にはいくつものステップがあります。


 空手のかの字も知らない素人の状態から空手をはじめたわたしとしては、入門から十四年経って、これまでを振りかえるとほんとうに多くの段階を踏んできたのだなあとあらためて感じます。いまその受け技を考えるときに、前提となっている突き、攻撃を獲得するまでにも長い時間がかかりました。そしてこれからの技たちも、いまの状態の上に立って、さらに稽古を重ねることでしか習得できないのだろうと想像します。


 しかし、その成長の手がかりやヒントは、すでにわれわれの前へ提供されているということを、いまあらためて意識する必要があると思うのです


 現に、上記の受け技はこの日にはじめて教わったものではないのです。以前にもやったし、指導もしてもらいました。もちろん一朝一夕にできるものではないから、そのときに感覚をつかんだわけではなく、これから時間をかけて向きあってゆくものなのですが、目の前にはすでに差しだされていたわけです。



 この技には限りません。

 いくつもの教えが、その片鱗が、すでにわたしたちの前にはある。

 日々の稽古のなかでこれをやりすごさないこと。意識をもって、課題をもって、稽古すること。




 われわれが手にしようとしているのは、あの長い歴史をもつ中国武術のなかでもかなり高いレヴェルに匹敵するような技なのだと考えれば、おのずと腰も据わるというものです。





 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 10:04 | Comment(0) | 裏部長の日記