2016年06月12日

マリオネットの夜

 こんばんは。裏部長です。



 2016年も折り返し地点に近づき、世界はすっかり初夏で、青い空と強い風がなんとも心地よい今日このごろ、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 最近の札幌支部は、時期的なものでしょうか、すこし参加者がすくなくなっているものの、熱心な人はなお熱心に、それほどではない人もそれほどではない熱量をもって稽古をしています。時間は確実に進み、少年部に長らくかよってきていたHくんが中学生になりました。身体も大きくなりはじめ、札幌大学に来られたとき三十代だった師匠もいまやアラフィフ。


 そんなことを言っているうちに、今年も気づけば大晦日、なんてことになっている気がします。






 継続的に稽古へ参加していると、ふとした瞬間に、思いもよらない感慨に浸ることがあります。


 たとえば、体道の稽古のなかで、自分よりも後輩の人の受けをとっているとき。柔術の技で、師匠が傍らで見ていて、試されているのは捕をしているその人であって、わたしはただ受けをとっていればよいのですから、へんに頑なになることもなく、もちろん不真面目につきあうのでもなく、相手が滞りなく技ができるように、手首をもったり胸倉をつかんだり、突いたり打ったり刺したりするわけですが、そんななかでも、ふと思うことがあるのです。


技をやるとき、人はなんと多く無駄なことをしているのだろう


 段取りがわかり、動作の流れがわかり、結末までのテンポがわかれば、ある程度は動いてみせることができます。ひとりよがりにならないとか、力まないようにするとか、そういった点では各人の力量が現れますが、それはそれ、いまの自分のレヴェルでやればよいのです。それ以上のものは求めたとしても詮のないことなのですから。


 しかし、そうとわかっていても、人は技をやるとき、無駄に力み、無駄に大ぶりし、そうかと思えば収縮して硬くなり、窮屈になって苦しみます。そんな動作も我慢もまったく必要ないのに、してしまう。すればするほど悪循環で上手くいかなくなってしまうというのに、ほとんどの人はそうしてしまう。



 ああ、なんと切ない話だろう。相手を倒そうという意思があるからいけないのだ。こう崩して、こう押し込んで、こう落としたいという思いが邪魔をする。なくしてしまえばいい。自分のなかをからっぽにして、過剰に反応する筋肉もすべて剥ぎとって、骨格とそれを吊る糸だけのあやつり人形になってしまえばいい。そうして、技の動きをただ踊る。そうすれば、あんなに苦しまずに済むというのに。




 そんなことを思いつつ、またべつの日、空手をやる。突きをやる、蹴りをやる、あるいは型、約束組手。課題と向きあいつつ、汗を流すわけですが、ふいに、からっぽな自分は恐ろしいなと思ってしまうのです。


 からっぽにするということは、頭のなかも空洞化するわけで、脳がない状態です。考えることをなくしてしまう。ただやる。ただ動き、ただ突き、ただ技をやる。自分を、それをするためだけのガラスの器にしてしまう。考えるから余計に力み、余計に悩み、悪循環に陥ってしまう。ならば、そもそもの問題の源泉を止めてしまえばいい。


 しかし、どうだろう。技というのはつねに相手がいるものです。相手に力を伝えるものです。力を伝えるには、自分でその力を感じられなければいけないでしょう。その重さを、その速度を、じゅうぶん自分で把握し、認識した状態でなければ、それを相手へつかうところまで行けません。感じるということと、考えるということはどこかでつながっていて、どちらかを放棄すると、そこで成長が止まってしまうような気がしてくるのです。




 考えるから悩み、考えるから感じられる。己の肉体を人形のように扱えれば、硬さや不必要な重さからは解放されるけれど、血液は行き渡らない。神経が行き渡らない。そんな状態で、あの技ができるわけがない。



 

 先日、師匠とのあいだで、ある人形玩具の話が出たため、今回はそれに無理くりくっつけて書いてみました。なんだか妙に小難しい話になってしまいましたが、要は、ひと筋縄にはいかない、ということなのです。どちらか一方の考えと姿勢でよいのなら、みんなあっという間に成長して、世界は達人たちで覆われてしまうでしょう。


 このぐらつく舟を漕いでゆく旅路にいかに順応するか。結局はそういうことなのだと思います。


 裏部長でした。




posted by 札幌支部 at 19:08 | Comment(0) | 裏部長の日記