2016年01月31日

body to body

 おはようございます。裏部長です。




 みなさん、明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申しあげます






 と言いつつ、一月も今日が最後です。今年も、すでに十二分の一が終わってしまいました。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 
 さて、最近読んだ小説に面白い解説がついていました。



 それは新潟を舞台にした物語で、巷で言うところのいわゆる「毒親」のもとで暮らす女子高生ふたりが、抑圧され、精神的に虐げられる日々のなかで鬱屈し、ついにはそれが爆発して事件が起こる、という内容のものでしたが、ときに理不尽なことを強い、ときに他人のような態度を取ることさえある「毒親」に、なぜ彼女たちは抵抗できなかったのか、それについて解説で触れているわけです。


 臨床心理の世界では常識のようですが、わたしは知りませんでした。なんでも、母親と娘の関係は、たとえば母親と息子、あるいは父親と息子または父親と娘の関係とは異なり、さまざまな意味で根深いものがあるというのです。


 どうして根深い関係となるのか。


 それは、おたがいに女性だから、なのだそうです。女性は男性とくらべて、日常的に自分の身体の内部へ目を向けることが多い。月経があり、それにともなって熱っぽさ、だるさを感じたり、便秘になったり、貧血気味になったりと、変化が多く、それらの動向をつねに感じながら生活しているというのですね。


 自分の身体の内面へ気を向け、アンテナを張って感じながら生きている女性に、母親がいろいろなことを教えてゆきます。刻みこむように、なじませるように、いろいろなことを。それは、男の子が受けるよりも深く浸透し、根づいてゆきます。


 こんな生活を五年、十年とつづけてゆけば、両者の関係は強靭なものになり、多少のことでは離れなくなってしまう。だからこそ、傍目から見れば異常なほど理不尽な目に遭っていても、その子本人は抗えず、反発する意思はあっても、最終的には母親の思いに沿う行動を取ってしまうらしいのです。




 はあ、そんなものかと感心して読んでいましたが、ふとこんなことを考えました。



 道新文化センターでやっている古武術講座に、女性受講者が多いのはなぜだろう?




 これまでは、男性は仕事の関係でスケジュールが取りづらく、転勤などで札幌を離れることもあるから、なかなか長いあいだ継続して来ることは難しい、だから女性のほうが多く、長年やっている方もいるのだ、と思ってきましたが、これ、いちがいにそういうことではないのかもしれません。


 女性だって仕事をしているし、なかには家庭をもち、家事をし、その上で時間と体力をやりくりして来ている方もいます。男性ばかりが事情を抱えて、困難のなかで参加しているわけではないのです。



 ならば、なぜ女性のほうが多いのか。

 これは、もしや、女性特有の、自分の内面へ向ける感覚のせいかもしれません。




 体道の、とくに柔術をメインにやっていて、長くつづけていると、技の内容を把握し、憶え、その通りに動くことにはしだいに馴れてゆきます。先日も、捕手術のグループが一段階を終えましたが、細かいポイントでもうすこし向上できるところはありつつも、全体としては小馴れた印象で、危なげなく演武されていました。全員が体道連盟の黒帯を締めている、ヴェテランのチームです。


 しかし、長くやっていて、技を習い憶えることに馴れてきても、それで技が上手くゆくとは限りません。あたえられた動きの通りにやってみせたからといって、技がかならず極まるわけではない。ロボットのように、プログラミングされた“正しい動き”をしてみても相手に効かない場合があります。


 そんなときはどうするか。

 動きから離れて、自分の内面と、そして相手の内面へ感覚を向けるようになるのです



 これは、「相手とひとつになる」などと、これまで散々書いてきたアレに通じる話で、別段特殊なものではありません。自然と、技をやってゆくなかでそうなってゆくだけで、意図しておこなっているものではないのですが、面白いもので、この感覚は、わかる人にはわかるがわからない人には何十年経ってもわからないもので、ここに気づけるかどうかが、体道を面白がれるかどうか、ひいては、武術をたのしめるかどうかにつながるのだとわたしは思っています。



 その内面へと向かう意識、感じ取ろうとするアンテナ。これらは、もしかすると、男性的な感性より女性的な感性のほうが得やすいものなのかもしれません。



 とはいえ、「じゃあ、これまでの武術の歴史のなかで、達人と呼ばれた武術家のなかに女性がすくないのはどういうわけだ?」と訊かれるとぐうの音も出ません。女性の武術家もたしかにいたことはいたでしょうが、名前や逸話が残っているのは圧倒的に男性が多く、それはきっとこれからも変わらないのでしょう。

 
 武術を表だってやるのは男性で、女性はそれを主として生活していなかった、と言えばその通りでしょう。しかし、わたしはさらにそこへもう一点、意見を置いてみたい。




 武術を極めるには、女性的な感性のほかに、男性的な才覚が必要なのではないか?



 


 稽古をするなかで、不思議な感慨に襲われることがあります。


 相手と向き合い、技をおこなう際、この手、この足で何でもできてしまう、もっと言えば、この指、この皮膚ですべてやれてしまうなと感じるときがあったと思いきや、どんな技でも、相手と自分とのあいだにはかならず何かが介在してしまう、拳があり、腕があり、刀や杖があったりする、それらが鬱陶しい、邪魔だ、そんなものがなくても、自分と相手の身体と身体、心と心だけでことが済むではないか、それ以外に必要なものなどありはしない、そんなことを感じて、手離しで技がやれてしまう瞬間に出合うこともある。


 あれは何なのかなあ。不思議で仕方ありませんが、その感じにとらわれたとき、わたしはものすごく心地がいい。幸福なのです。あれは、いったい何なのかなあ。







 そんなこんなで、いろいろございましょうが、今年もよろしくお願いいたします。


posted by 札幌支部 at 10:00 | Comment(0) | 裏部長の日記