2015年08月22日

向かい風が教えてくれる

 こんばんは。裏部長です。


 先日は、唐突にネガティブ裏部長で失礼いたしました。どうにかもち直し、夏バテにもならず、元気にやっておりますので、ご安心ください。




 
 さて、日々の稽古で大切にしていることといえば、一体感です。技との一体感、人との一体感。空手をやるにしても体道をやるにしても、あるいはそれ以外のことをやるにしても、つねに一体になろうとしている自分がいます。


 もちろん、なぜそう欲するかといえば、一体感が生まれたときに技が上手くゆくからで、違和感や齟齬が点在していると、何をやってもどうにもなりません。身体も心も、どちらもつねにニュートラルでいなければ、どこかでかならずズレが生じます





 札幌支部では約束組手をする際、あまり迅速苛烈な攻防をしないもので、きちんと一本の突き、それに対する受けの動きに集中して稽古をすることが多いのですが、わたしの場合、ほとんどのケースで、相手が後輩になるので、受けているときにすこし余裕ができます。


 ただ受けているだけだと、相手の突きはあたらないし、こちらもほとんど得ることなく、一瞬ですべてが終わってしまうので、こうしたときにこそ、例の一体感を気にするようにしています。




 料理をしていて、何かを煮ていたとして、あるいは揚げ物をする際に油を熱していたとして、求めている温度に達したかどうかを、手をかざしてはかる料理人がいますね。


 あんな感じで、わたしは約束組手のとき、相手と向きあっています。


 言うなれば、


身体をかざす


 というような感じでしょうか。




 受けの場合には、当然ですが、相手が突いてくるから受けるわけで、一時期はそれを顕著におこなおうと、体に接触があってから、その勢いを借りて受けるということをわざとらしくやっていたこともありました。しかし、そこまでしなくても、この質の受けはできるはずなのです。


 身も心も相手にかざして、感じるように立つ


 相手が歩んできて、突きをだす。それを受ける。



 接触があろうがなかろうが、きちんと感じられていれば、きちんとその突きに対する受けになっているし、これの面白いところは、同様の感覚で、こちらが突く際にも応用できるという点です。


 攻撃をするのだから、こちらから一方的に、エネルギーを放出するがごとく突く、では、やはり不完全です。こちらから攻める際にも、当然、相手に身も心もかざしてゆく。相手の家を訪うようにその扉へノックするかのように突きにゆく。すると不思議なもので、入らなかった突きも入るようになったりするのです。





 なんだかこんな風に書くと、いささか大仰なように見えますが、われわれは日常の端々で、この「身体をかざす」ということを、ごく自然に、あたりまえのようにやっているのですね。



 外へ出る。おっ、今日は湿気がすくなくて風が気持ちいいなと感じる。昨日と同じTシャツ姿で家を出た途端に、うわっ、寒っ、もう長袖でいいんじゃんと思う。そんなことが生活のあちらこちらにあり、わたしたちはそのとき、ほとんど一瞬で、風の冷たさ、あたたかさ、やわらかさ、鋭さ、重さ、などを感じて、それに対して感情をもっているわけです。



 わざわざ空に向かって手を掲げなくても、風の質感を、われわれは身体で見つけることができるのです。




 目にも見えない、手にもつかめない風すら感じられるのです。実体があり、見ることも、触ることもできる人体に対してそれができないはずはないし、たとえ接触しなくても、感じることは可能なはずです。




 いつも通りの稽古をいつも通りやっていたって、学べることはあります。それを可能たらしめるのは、ニュートラルな自分です。空っぽで、芯だけを失わない、自分自身だけです




 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 18:58 | Comment(0) | 裏部長の日記

2015年08月18日

必要なこと(本音編)

 またまた裏部長です。最近の更新のすくなさを取りもどすかのような連続投稿!



 先ほど偉そうにわかったようなことを長々と書きましたが、あのなかに偽りはありません。現に札幌支部においても裏部長においても、そのような意識が芽生えてきているし、面白味も感じはじめています。すこしずつ、世界が広がってゆくような期待感さえあります。


 しかしですね、本音を言えば、わたしはもっと空手をやらねばと感じています。


 もともと空手などとは縁遠いところから師匠のもとへ入門したせいかもしれないし、ただ単に、うちでやっている空手が好きで、もっと上手くなりたい、一本でも納得のゆく突きを出したいなどと考えているだけかもしれませんが、どっちにせよ、まだまだ圧倒的に空手の詰めが甘い気がしてなりません。


 体道も、それ以外の武術も、やはり空手が根幹としてしっかりできていてはじめて習得できるものだと感じています。もし空手があやふやなままなら、それらの技もハリボテのようになって、結局はいつか水泡に帰すような気がしてならないのです。



 いかんなあ。稽古不足なのか、意識不足なのか。まだまだ、いかんなあ。



 来月には、師範が札幌に来られるというのに……。



 ひさしぶりに、ネガティブな裏部長でした
posted by 札幌支部 at 20:31 | Comment(0) | 裏部長の日記

必要なこと(真面目編)

 こんばんは、裏部長です。


 お暑うございます。八月も半ばをすぎ、挨拶としては「残暑お見舞い」の時期に入りましたが、みなさまいかがおすごしでしょうか。

 札幌は夏らしい日がつづき、昨日二週間ぶりに大学で稽古をしましたが、動くほどに汗ばみ、濡れてゆくような夜があるかと思えば、今日などは気温が二十度を下回るという、わけのわからない天候に見舞われています。


 こういうときこそ、たゆまぬ稽古が必要不可欠です。




 前回、空心館において稽古している(あるいは稽古できる)武術の種類を列記し、われわれは知らず知らずのうちにこれほど多くのものを学んでいるのだ、みたいなことを書きましたが、なぜそこまでの量を習得するのか、この点も理解しておかなければいけないと感じました。


 よく師匠は昔の武士を例にあげられますが、これはわかりやすい例で、べつにわれわれも武士道に生きようという外国人受けする思想をもつのではなく、あくまで実践面において武士の生き方を見ると、その稽古量の必要性が見えてくるというものなのですね。



 武士の表看板はやはり刀です。闘うとなれば、刀を抜いて構えあうわけです。だから当然、剣術は稽古しなければなりません。

 しかし、相手と向きあった際、毎回かならず抜刀した状態で構えることができるかといえば、そんな確約はどこにもありません。こちらがまだ抜いていない間に、相手がいきなりということも十分ありえます。

 だから、鞘に入った状態から抜刀し、相手を斬る、あるいは相手の攻撃に対応する術を知らなければなりません。なので、抜刀術、居合術が必要になります。


 さて、剣術と抜刀・居合術を得たところで、刃物はもういいかといえば、まだ十分ではありませんね。長いほうの刀がなかった場合、脇差で闘わなければならないため、このサイズの刀法も知らねばなりません。武士が生きていた当時、つねに大刀を手もとに置いておけるわけではありませんでしたから、シチュエーションによっては短い刃物で対応する必要があります。


 しかし、これを言いはじめると、では刀そのものがなかったら、という状況設定が出てきます。闘っていたときに刀が折れる、飛ばされてしまう、奪われてしまう。可能性はいろいろあるでしょう。しかし相手は武具をもっている。こちらも何かを用いて応戦したい。


 となれば、刀以外の武具の技が必要になってきます。杖や棒、挫、あるいはそれらのサイズで違う素材のもの。師匠が以前、ホームセンターに行くと武器になりそうなものがごろごろしていて、つかえそうなものを自然と目で追ってしまうという話をされていましたが、現代においてはさまざまなものが武具として利用できそうです。


 この展開をつづけると、ではこちらが素手になったら、という話も出てくるでしょう。よって、柔術がほしい。投げ、押さえ、関節技を極める。できれば、素手でこちらから攻撃する術もほしい。われわれであれば、そこに空手がいてくれるのでたいへん助かります。



 こんな風に、ありとあらゆる場面に対応できるようにと考えると、特殊なものでない限りは、やはりひと通りで習得しておかなければ、武術家としては不十分である、という話は説得力をもちます。現代のほとんどの格闘技や武道は、それ単体でルールをつくり、みんな同じ状況下で向かいあうため、ひとつのスキルを磨いてゆけばよいのですが、こと武術ということになるとすこし複雑になってくるわけです。


 何が複雑かといって、上記に書いた武術の大まかな種類は、単にそれをつかえるようになることが目的ではないのです。相手にその技で打ちかかられたとき、それへ対応できる自分をつくるために、つまり防禦の立場で処理できるようになることが目標なのです。刀で相手を斬ることができる、は第一段階で、そんな刀で斬りかかってきた相手を制するための受けの技、ここへ到達することがわれわれの第二段階なのです。



 いま“われわれの目標”と書きましたが、これはあくまでうちの師匠のもとではということです。空心館全体でも同様のスタンスなのかもしれませんが、詳しく確認を取っていないので、一応こう書いておきます。




 師匠が以前、稽古のなかで話していました。約束組手をしていて、自分と同等かあるいは下のレヴェルの人間の突きはなかなか当たらないのに、自分よりも先輩の突きはあたってしまう。それはなぜか。


 それは、その人のなかに相手の突きと同等のスキルがないから。相手と同じレヴェルの突きがつかえれば、その速度、角度、鋭さ、重さなどが自分の感覚のなかに定着しているので、対処できる可能性がある。しかし、自分のなかにそれがない場合、感覚としてわかっていないから、見当をつけて動くしかなくなるわけですね。あるいは力技で対応するしかなくなってしまう。しかし、うちでは相手の突きを受け入れるというスタンスを崩すことはありません。だからほとんど場合、入ってしまうのです。



 これが武術全般に言えるのですね。相手の攻撃に対処するためには、その攻撃を知らねばなりません。もちろん、ただ知っているだけではなく、自分もそれができなければ意味はない。だから、何だかんだで、あれだけ多くのことを学ぶ方向へ進んでゆくのです。


 こういった実技面での話があると、武士でなくてもさまざまなことを稽古しなければならないという気になってきますし、また実際に武具の技などをやってみると、当然ですが、素手の技のなかにはない怖さや迫力、術理があり、感心することしきりです。


 
 武術を武術としてやらねばなりません。稽古あるのみです。
posted by 札幌支部 at 20:17 | Comment(0) | 裏部長の日記