2015年06月06日

息を吐ききっているか

 こんばんは。裏部長です。


 すっかりご無沙汰をしております。季節は春から初夏へと移り変わり、われわれ札幌支部も、長年つかっていた1001教室から2006教室へと稽古場所を替え、日々汗を流しています。


 札幌はまだ暑いということはなく、さわやかな日がつづいています。本州では真夏のような暑さの上、地震なども起きていますが、みなさま元気でおすごしでしょうか。






 さて、先日のことです。



 ラフィラでやっている古武術講座の受講生の方が、こんな質問をされました。


知人に、どんなことを稽古しているのかと訊かれて、答えに困ってしまうのですが、何と答えたらいいですかね?


 ごもっともな質問です。空心館で長く稽古している人であればあるほど、この質問は難敵です。



 まあ、古武術講座においてはさほど空手は濃くやっていないし、基本的には体道メインの稽古なので、そのまま「体道をやっています」が正解だし、もっと大きく言えば、「武術をやっています」と答えるのが、無難かつ正しいところかと思います。



 しかし、重ねてその方は、


「流派を訊かれた場合は?」


 とおっしゃったので、この場合は仕方ない、実際にこれまでやってきた体道内の流派を言うしかありませんね、とわたしは答えました。できれば、体道というものを説明した上で具体的な流派名に話が進むのが理想的なのでしょうが、なかなかそこまでの労力を強いることはできませんので、あっさりと、この程度の返答で済ませてしまいましたが、この日のそんなやり取りが不思議と、わたしの胸に何日か残りました。



 そして、ふと考えたのです。



 われわれはいったい、どのくらいの武術を稽古しているのだろうかと。




 この場合、空心館において、というよりは、うちの師匠のもとで(札幌支部において)稽古できる武術はどのくらいあるのか、ということです。分類の基準は、「〜術」というふうに名乗れるもの、という単位で考えます。


 するとですね、ざっと、十項目あがってきたので、下に記してみます。


 1、空手
 2、柔術
 3、捕手術(挫術)
 4、杖術
 5、短杖術・半棒術
 6、棒術
 7、剣術
 8、抜刀術・居合術
 9、分銅や鎖など。
 10、太極拳など。


 こんな感じです。


 これまで裏部長が札幌支部において実際に習った技や、見せていただいたものを振りかえってみると、だいたいこの十項目におさまります。なお、ヌンチャク、トンファ、サイ、棍は空手に含みます。



 実際にこれらの技を稽古している人間には、上記のようなリストをつくること自体、あまり意味はないかもしれませんが、これだけのことを教われるんだ、稽古してゆけるんだと思うと、すこしうれしいのです。個々の技の数にしたら膨大な量になるものの、それらすべてで空心館の技というのは成り立っているのだと考えると、なんだか気合いが入るというか、ほどよい緊張を感じられて、日々に張りが出てくる気がします。






 さてさて、話題は変わりますが、最近ある方の稽古録のようなものを読みました。



 この方は、ある業界では泣く子も黙る大御所中の大御所なのですが、その武術稽古についてはここ十年ほどのことらしく、わたしが読んだのは、その方が稽古の内外で自分の師匠から受けた教えやことばを記した文章です。とても読みやすく、そして気持ちが澄んでゆくような内容でした。


 こんなことをわたしが言うのはほんとうに失礼で生意気だとは思うのですが、あれだけの位置にいらっしゃる方が、これほどまでに真面目に、真摯に武術と向きあって、考え、悩み、発見や成長に一喜一憂するさまは初々しくさえあり、微笑ましいものでした。ふだんそのような類の文章をまったくと言ってよいほど読まなくなったせいか、よけいに感動があったのかもしれません。



 その方は稽古のなかで、ただひたすら自分たちがやっている型と向きあいます。あれこれと考え、思い悩み、そこへ投げこまれた師匠のことばでまた揺れ動き、そしてある日突然、「なるほど、そういうことなのか」となるわけですが、この型と向きあう過程で何度も出てくるのが、


身体の声を聴く


 という表現です。



 これ、「技の声を聴く」でも間違っていない気がします。つまり、ふだんわれわれがやっていることと何ら変わりないことなのですが、それはそんなふうに、違う方面でやってらっしゃる方の文章で触れると、再発見というか、再認識というか、そうだよなあ、それがいちばん大事なんだよなあという気持ちにさせられます。




 武術の技はストレッチなどの運動とは違い、相手がいることです。その動作を通じて相手に力を伝え、崩したりダメージをあたえたりしなければなりません。また、そう動く身体にならなければなりません。


 しかし、たとえば体道の技で、相手がこちらの手首をつかんでくる、胸倉をつかむ、袖をつかむ、そういった瞬間に、触れた相手の指や関節から、「あっ、緊張してるな」とか、「ちょっとイライラしているのかな」とか、逆に、「こちらからのアプローチを待っているのかな」とか、そんな心身の状態がわかってしまう。


 以前、師範の身体をつかんだときに、人のかたちをした浮輪に触れているかのようなイメージを得たということを書きましたが、そんなことを感じることができるというのは、相手とひとつになっているから、あるいは、ひとつになろうと自分のドアをオープンにしているからであって、そのような状態になっていないと、とても技や身体の声を聴くことはできないと思うのです。


 
 そんなふうな状態に自分の身体がなっているとき、技をやるときまって、自分ではなく相手の身体の状態のことしか自分の身体のなかには残りません。自分の腕を手をどうしようかではなく、相手の身体がどう崩れてゆくかだけがこちらの身体のなかに上映されるわけです。だから、そんな状態をもっと研ぎ澄ませて、豊かにして、それを率直に言い表せば、「崩した」「投げた」「突いた」ではなく、「そうなった」だけになってしまう。


 この領域の第一歩として、「身体(技)の声を聴く」−「自分を空っぽにする」ということがあるようにわたしは考えています。



 しかしそのためには、自分のなかにあるさまざまなこだわりを排さなければなりません。悟るために煩悩を捨てるみたいな話で、だからこれはなまなかなことではありません。そうしなさい、ハイわかりましたとできることではないわけです。



 でも、だからこそ稽古をする。だからこそ、日々稽古をつづける。そういうことなのでしょう。



 感じる心身がなければ、どんなに感動的な映画を観ても泣けません。笑える漫画、怖い小説、怪しげな舞台を見ても、心は動いてくれません。



 あの十項目のリストにある膨大な量の技も、その心身がなければただのテキストです。教わった、知っている、憶えている、というだけの、ただの知識です。




 焦らず、勇気とともに、まず深呼吸。


 そして、ゆったりと最初の一歩を。
posted by 札幌支部 at 20:51 | Comment(0) | 裏部長の日記