2014年12月31日

明日へのインプット

 こんばんは、裏部長です。






 ある稽古の最後に、こんな話を聞きました。



 それは、師匠が学会で目にしたものだというのですが、イタリアで、両腕を失った男性に、事故で脳死状態となった別人の両腕を移植するという事例があったそうです。これはもう移植という次元を超えています。リアル・フランケン状態。映画のなかのような話です。


 もちろん、腕そのものはくっつくでしょうが、なかの血管まで結わいつけたとしても、神経そのものが通わなければ何の意味もありません。



 そこでおこなわれたリハビリは、とてもシンプルで、だからこそ興味深いものでした。



 とにかく、その移植した別人の手の指先でいろいろなものを触るだけだというのです。さまざまなものに触れて、それを正しく感じるということだけをするというのですね。もちろん物が違えば、大きい小さい、硬い柔らかい、冷たい熱い、いろいろな感じ方があるわけで、それをひたすらくりかえすリハビリ法だったというのです。


 こんなことをやりつづけていると、すこしずつ神経が通いはじめ、きちんと感じられるようになるというのだから、人間の身体というのは不思議なものです。そして、その師匠が目にした事例では、完全に神経が活きて、患者さんはナイフとフォークで食事をすることも、自分の子供を抱きあげることもできるようになったというのです。


 恐ろしさと微笑ましさの入り混じったエピソードで、それを聞いたときは裏部長もことばがありませんでしたが、師匠がそれを、「いかに相手を受け入れるかという、われわれの武術のスタンスに相通ずるものがある」と話を転じるにおよんで、深い感動を味わうことができました。




 そうなのです。そのものを、正しく、素直に感じて、受け入れるということの重要性。これこそが今年の大きなテーマであったような気がします。師匠不在時に散々書いてきた「相手とひとつになる」というあの話題もそうでした。


 この感覚と意識が明確になってゆくにつれて(もちろん現在も十分ではないわけですが)、技や動作そのものに対する見え方が違ってきて、これまで気づけなかったことも感性のネットに引っかかるようになりました。






 その上で、今年、裏部長が発見したことのひとつが、これです。



武術をやっている人のなかにも、素人と玄人は存在する





 それでお金を取っていれば玄人、とか、キャリアの長短、武術家としての意識の高低などによって判断できるような、そういった意味の素人玄人の話ではありません


 本質的、根源的に、武術の玄人になれない(あるいは素人の域から脱することのできない)人が世のなかにはいて、それらのことについて自覚していない場合が多い、ということです。それが、武術をやっている人のなかにもいるので厄介なのです。




 簡単に、武術以外で例をあげれば、歌舞伎ファンという方がいらっしゃいますね。年間に何度も歌舞伎座へ行ったり、本やらDVDやらも大量に揃えて、演目や役者の家系や公演スケジュールを把握して、それ中心に一年を送っているような人がかなりの数いらっしゃいます。それは単なる演劇ファンの域におさまらず、すでに没した名優たちの過去の演目についても熱く語れるような、ある種のマニアの方々です。


 こういった人たちはたしかに詳しい。演目や出演者や年代のことを細かく憶えていて、それが湯水のように出てくる。話しはじめたら止まらない。愛情もあるし、情熱も傾けている。


 しかし、だからといって、こういう歌舞伎マニアの方たちが、実際に自分でも歌舞伎ができるかというと、決してそうではありません。あたりまえですが、観るの専門で、演る専門の人ではないのですから。



 こういった根本的な姿勢は、求める対象の内容にも影響します。



 たとえば、昔のある歌舞伎役者は声がとてもよく通った、それは歌舞伎座の外にまで届いて、だから向かい側にあるお店では、その声を聞いて、いまどの幕をやっているかがわかったというエピソードがあります。それだけ遠くまで通る発声を身につけることが、武術でいえば技を身につけることと同義だったわけです。


 このエピソードを前にしたとき、歌舞伎マニア(素人)と歌舞伎役者(玄人)の反応はふたつにわかれます。素人の方は、「それはすごい」と感嘆するでしょうが、玄人は違います。なぜなら、彼らは実際に自分でそれをやらなければいけない立場だからです。できるかできないか、あるいは、どの程度の深さでそれができるか、が勝負なのであって、手離しで感嘆することはありえないのです。




 同じことはすべての業界に言えます。




 電車マニアは、自分の愛する電車や路線については異常なほど詳しく知っているが、自分で車輌を運転することはできない。アイドルの追っかけは、すべての歌の振りつけを憶えているが、彼女たちほどかわいく魅力的には踊れない。落語ファンは好きな噺を諳んじていて、話そうと思えば話せるが、こういったお素人衆が得意になって演る落語ほどぶざまなものはない。本業の噺家がもっとも軽蔑する類のものである、云々。




 つまりね、武術という世界のなかにいて、いまも実際に何かをやっている人であっても、本質的に、歌舞伎役者ではなく歌舞伎マニアの域を脱することのできない人がいるのです。本人は武術に対して真面目で、情熱があって、懸命にアプローチしているのですが、残念ながら、「やる人」ではない武術を「たのしむ人」「好きな人」ではあっても、「実践する人」ではない




 こういった人たちには、たとえば稽古のなかで、師匠が技の解説をしたときなどにも特有の反応が起きます。



 それは、歌舞伎の発声と同じ話で、われわれ実践する側の人間は、それが出来るか出来ないかが問題であって、もちろんその前には、理解できるかできないかの段階があるわけですけども、結局はやれるようになりたいので、反応はおのずと、「いずれは自分もそれをやる」という側に立ったものになります



 しかし、本質的に素人の方は、師匠とその教えとを、自分の外に放置してしまうのです。つまり、自分がそれをやる、あるいはやりたいという視点がゼロで、客観的に、その教えや技を分析しはじめるのです。美術館で、かかっている油絵を他の客と同じように眺めているようなものです。その絵のなかに入る、もしくはその絵を描く張本人にならなければならないのに、自分だけを蚊帳の外に置いて、傍観してしまうのですね。



 だから、本質的素人は、武術に対してあまり切実さをもっていない気がします。武術の技そのものを、ただたのしんで見ていられる。自分ができるかどうかが関係ないから。その技がすごければ「すごい!」と言い、スピード感にあふれていたら「速い!」と驚くだけで、そこと自分とをつなげようとは思わない



 それが、いまも実際に何かの武術や武道をやっている人のなかにもいるのです。



 もちろん、能力やキャリアの違い、腕の差といったものもあるでしょうし、長くやっていなければ気づけないこともあるので、若いころは青くて当然だと思うのですが、それでも、本質的に「武術をやる人」は違います。それは、札幌支部で十年間、いろいろな人を稽古の場で見てきた上でそう感じます。


 みなさんは、どう思いますか。






 最後の最後に、すこし堅苦しいことを書いてしまいました。お許しを。


 それではみなさま、よいお年を。
posted by 札幌支部 at 17:25 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年12月28日

黒白

 おはようございます。裏部長です。




武術に対する姿勢が硬すぎる

 と、先日の記事で書きましたが、その原因はよくわかっているのです。



 いきなり話は飛びますが、わたしは『AIKI』という日本映画が好きでした。大東流合気柔術と出逢う青年のお話です。映画としてはあまりレヴェルの高くない作品でしたが、師範とその青年との関係がなんとも好ましく映り、ひそかに憧れてもいたほどです。


 ひとことで言えば師弟関係ということなのですが、江戸時代然とした堅苦しいものではなく、一定の礼儀や尊敬は保ちつつも、日常のなかにある稽古と、それを通じて交わされる絆のようなものがこの映画にはあって、何度も言いますが映画としてはいまひとつだったものの、好きな作品のひとつでした。



 この映画を観た二年後に、わたしは師匠と出逢いました。その技に触れ、そして師事することを決め、あの日からもうちょっとで十一年が経とうとしています。



 思えば、紆余曲折ありながらも、この十一年間は師匠の技や武術に対する考え方などを学ぶ日々でした。それまで合気道などの経験はありながらも、空手に関してはずぶの素人で、右も左もわからなかったのだからそれはあたりまえのことで、また、この人を師と仰ぐ以上、考え方から何から、できればすべてを吸収したいと思うのは当然の成り行きです。むしろそうしていない人は弟子失格でしょう。



 だからひと筋にやって来たし、これからもその姿勢は変わりません。


 いや、今後新しい変化に対応してゆくためにも、変えるべきではないと思うのです




 現在の札幌支部にはさまざまな稽古者が集っていて、その年齢もまちまちですが、みなさん熱心で、純粋に稽古をたのしんでいて、これまでにはなかった様相を呈していますが、その参加者のほとんどが武術経験者で、なかには現在も継続してやってらっしゃる方もいます。少年部のメンバーや、太極拳などを習いに来られている婦人部の方たちを除いて、空心館一本でやっているのは裏部長と部長くらいなものではないでしょうか。


 好奇心が旺盛でなければ新しいものには出逢えず、また新たな発見もない。ならば、そうして空心館以外にも貪欲に活動し、他流派の武術に触れ、見識を広げることは間違いではないと思います。それで、武術に対する理解が深まるのなら何を否定することがありましょうか。



 しかし、わたしが信じているのは、厳然たる事実です。


その時間内に、掘れる穴の深さは決まっている



 いまスコップをもって、目の前の地面を掘ってゆくとします。ある人はとにかく一点に目標を決めて、もてる体力や時間をすべて費やしてその点のみを掘ってゆき、またある人はいくつかポイントを決めて、それらを同時進行的に掘り進めてゆくことに。修業とは、高みに登ってゆくイメージもあれば、こうした深さを感じるものでもあるような気がします。


 もしその人が五つのポイントを選び、順々に掘っていったとして、その穴の深さはどうなるでしょうか。たしかに数は掘れるでしょう。しかし、みな同じ深さです。費やせる時間や体力には限界があるのです。「いつも120%の気合いでがんばります!」と意気こんでみたところで、掘れる深さは決まっています。


 ひとつの穴に絞った人はどうでしょう。


 言わずもがなですね。あの人が懸命にいくつもの穴を駈けまわっているあいだに、ひとつの穴を何十メートルも掘り進めることができました。




 これ、以前にも書いた話かもしれません。重複していたら、ごめんなさい。




 単純な道理です。もてる力を一点に集中したほうが深く掘りさげることができる。人間はロボットではないし、コンピューターのような処理能力も有していません。寝たり食べたりしなければ活動できない、理解するにも会得するにも、いろいろと時間のかかる厄介な生き物です。


 そんな人間であるわれわれがすることです。自然、限界と限度があります。




 もちろん、多くの穴を掘ることがいけないわけではありません。しかし、裏部長の信念を中心に置くならば、いくつかの穴を巡りながらも、片やで深い穴をひとつもっておくべきでしょう。そして、その穴をさらに深く掘り進めることにすべての力を費やすべきでしょう。


 地面を深く掘ってゆけばいろいろなものに出くわします。水が出てきたり、硬い岩盤にぶつかったり、鉱物が見つかったり、ときには石油や化石が発見されるかもしれません。それは深く掘りさげた人にしか見えないもので、地上にいる人間がいくら創造力をかきたてて想い描いても、片鱗にすらたどり着けない、ある種の異世界です。実際にそこへ行った人しか目にすることが叶わない世界なのです。



 だから、修業という以上はそこを目指したいし、ひとつの穴を深く掘りさげて、そういったものに一度出逢っておけば、違う穴を掘る際にも大いに役立ちますね。まったく同じというわけではないでしょうが、掘ってゆくうちに、ああそうだ、これくらいのときに水が出てくるんだよなあ、そうそう、このへんで岩盤とぶつかって苦労したよ、おおっと、こっちじゃダイヤモンドの原石が見つかったよ、こいつは大発見だ……というふうに、新しい穴を掘ってゆくにもとても好都合なのです。



 逆に言えば、どうしてもそうやっていくつもの穴を開拓したいのなら、一本深い穴をまず掘るべきです。そして、それがある程度の深さになるまでは浮気しない。浅い穴しか掘ったことのない人間が、たとえ河岸を替えたところで、掘れる穴の深さは知れています





 またまた話は飛びますが、最近の裏部長は、街なかを移動するとき、追い突きで歩いています


 もちろんそれは、「あの人はふだん歩くときもナイファンチンだった」「ていうことは横歩きか」「そんなわけあるかい」というあの話と同様で、左右交互に突きをくり出して歩いているわけではありません。おもに腰まわりを追い突きのつかい方(横回転ではなく、いま取り組んでいる縦回転)を応用して歩いているのです。コートなどを着ていると、周囲に怪しまれずにおこなえてとてもたのしいです。


 こうして、日常のなかで技の動きができる、むしろ日常と技とが融合している、という状態になれたのも、ひとりの師につき、ひたすらに信じて稽古をしてきたおかげだと思っています。そして、そのひとつの穴のなかで、技を磨きつづけているからこそ、新しい次元を垣間見ることもでき、外を歩きながら追い突きの身体づかいができるようにもなるのです。





 ある人が言いました。


私は井のなかの蛙だ。大海の広さは知らない。しかし、誰より空の高さは知っている







 ただ、信じることです。




posted by 札幌支部 at 11:24 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年12月26日

磨くこと、そして、信じること。

 こんばんは、裏部長です。


 今年も残すところ、一週間を切りました。すっかり師走です。札幌は今日、昼ごろに大雪警報が出て、先ほども、街なかでホワイトアウトしそうなほどの吹雪になりましたが、いまは落ちついています。


 過酷な季節になって参りました。みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 
 すっかり更新が滞っていましたが、札幌支部も裏部長も元気に活動しております。今週の月曜日に札幌支部としての稽古が終わり、水曜日で道新文化センターの講座も終わり、一段落といった感じです。



 前回の記事で、もう今年の総括のようなことはしてしまったので、とくにまとめることもないのですが、あらためて書けば、今年は裏部長にとって、

「武術の多様性を学ぶ一年だった」

 と言えます。



 一月と六月に栃木の本部道場にお邪魔し、師範をはじめ、お馴染みのみなさまとの稽古があり、七月には名古屋の稽古にも寄せていただき、数年ぶりのM田さんとの再会、そしてT技術顧問との初対面など、目まぐるしい一年でしたが、それらの出来事を通して、深く反省したのは、

武術に対する姿勢が硬すぎる

 ということでした。



 もっと柔軟に、もっとニュートラルに、また今年の流行に沿って言えば、もっとありのままに、素直に武術と向き合い、稽古が出来るようになれば、きっといまの何倍も面白く、また何倍も深いところへ行けるような気がしました。すでにその先へと行ってしまっている先達たちと直接触れあえたことがとてもよい刺戟になりました。



 空手の突きひとつ、体道の技ひとつからもう一度見直し、決めつけることなく、いい気になることなく、真摯に稽古をしてゆくことの必要性をこれほど感じた年はありません。よい体験でした。



 

 ……と、かなり優等生な発言をしてしまいましたが、これ以外にもあれこれと感じたことはあります。そのほとんどは、誰かから教わったというより、自ら直面するなかで感じ取ったもので、これらのことについてはまた後日、あらためて書きに来ます。



 とりあえず、今日はここまで。


 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 20:19 | Comment(0) | 裏部長の日記