2014年06月28日

素肌

 こんばんは。裏部長です。



 師匠のもとへ入門してから十年が経ちましたが、これまでの稽古を振りかえってみると、意外に、空手よりも体道を濃くやってきたのではないかと、最近ふと考えます。


 2008年以降は体道のみの稽古日は設けず、現在もありません。武道場での稽古は新設しましたが、月一回ですし、一週間に二回の稽古では、おもに空手をやっています。こうして見ると空手がメインで体道がサブのように感じられなくもないのですが、裏部長の場合は道新文化センターでの古武術講座があるため、後輩たちとはすこし境遇が異なるのです。


 木曜日の講座は2008年から、水曜日のほうも翌年の2009年からスタートして、現在もつづいています。週に二度の大学での稽古のほかに、この古武術講座での稽古があり、もちろんこちらでは体道がメインです。そんな月日を、もう六年以上つづけているわけです。



 そのせいかどうかはわかりませんが、気づくと、体道を中心にした物事の考え方をしていることが多いです。





 師匠はつねづね、


技はコミュニケーションである。相手と一緒に技をつくる


 ということを言っています。


 これを受け、自分なりに解釈し、追求した結果、昨年わたしは、


相手とひとつになる


 ということを言いはじめ、それをテーマにして稽古を進めていました。





 師匠がいて、なおかつ裏部長もいる場では、基本的に、上記のテーマがつねに根底にあり、その上で指導がなされているわけですが、ひとつの場所で何年間もやっていると、同じテーマ、同じ指導法を用いていても、できる人とできない人がわかれてしまうことがあります。


 年齢、運動経験の有無、体力、筋力、器用か不器用か、などという条件の違いはたしかにあるでしょう。しかし、かならずしもそれらに当てはまらず、できてしまう人とどうしてもできない人が生まれてしまうこともたしかで、何が違うのだろうと考えさせられていました。



 この疑問に、最近になってちょっとした回答を出すことができました。



 キーワードは、【皮膚感覚】です。





 四月から道新文化センターラフィラ教室に、Oさんという男性の方が参加されました。身長はわたしよりも高く、体格もよく、腕なんかもけっこう太い。しかしこのOさんは、武術や武道の経験はまるでなく、運動らしい運動もされたことがないというのです。だから、稽古をはじめる前はすこし自信なさげでした。


 しかし、いざはじめてみると、初心者に抱く危惧などまるで不要であったと思えるほど覚えがいい。真剣に稽古され、また真面目にノートも書いていらっしゃるので、その努力があってこその結果ではあるのでしょうが、単に、きちんと記憶してきているというだけではなく、稽古をしているその瞬間においても、こちらの要求に適切にこたえられる柔軟性をもちあわせているのです。


 言い方をかえれば、浸透率が高い。技の、というより、身体感覚の吸収がとても早い


 どうしてかなあと訊いてみれば、このOさん、なんと介護の仕事をされているというのです。つまり、日常的に生身の人間にその手で触れているわけです。もちろん、仕事だからといって、システマティックにできる類のものではありません。抱えたり、起こしたりする最中に相手が何か反応を示すかもしれない、痛みや苦しみを訴えるかもしれない、それらにも瞬間的に反応して、力を緩めたり腕の角度を変えたりしなければならない仕事です。


 おそらくそのお仕事の日々が、Oさんへ自然と、武術にもつかえる皮膚感覚を養わせたのではないか。わたしはそう考えています。




 この場合の皮膚感覚とは、自分の皮膚で察知する感覚、というだけではなく、相手の皮膚と自分の皮膚が触れたその瞬間、身体の表面や内部に生じる感覚のことです。これがあるかないかで、技の質はまるで変わってしまうと思うのです。




 もちろんこれは体道だけに限定されたものではありません。相手と自分とが触れあうところで生まれた感覚をじゅうぶんに味わえたなら、それをもって、刀や棒、杖などの武具を扱えるだろうし、空手のように、物理的に離れた場所から突きを飛ばす、あるいは飛ばされるという場面においても、その感覚さえあれば応用は可能なはずです。


 本部道場へ行ってY師範代の突きなどを受けてみると、拒絶されていない、分離していない、当たれば痛いし苦しいのだけれど、決して反発していない、言うなれば、血のかよった攻撃であることがよくわかります。




 しかし、どんなに懇切丁寧に指導し、実際に技を見せたり掛けたりしてみて説き明かしても、いつまで経っても技の理合いを呑みこめず、ただ力まかせに無理やり相手を倒そう、痛めようとしてしまう人が過去に何名かいらっしゃいました。そのなかには、何年間も熱心に武術を稽古し、現在も熱意をもっているという人もいらっしゃいました。


 細かく書くと個人攻撃のようになってしまうので省きますが、きっと彼らには、いま言っている皮膚感覚が欠如していたのでしょう。たとえ柔術に類するものをやってきた人であっても、この皮膚感覚を大切に稽古をしてこなければ話は同じです。古流の柔術経験者や合気道系武道経験者と体道をやったことがありますが、驚く、というよりちょっと引いてしまうほど力まかせでした。何をそんなにいきり立っているのだろうと不思議に思えるくらい無理やり技をおこなおうとするのです。



 おそらく、たぶんにこの皮膚感覚というのは、攻撃よりも防禦の要素を重視し、投げる押さえる絞める固める打つ突く蹴るといった、技の動作だけではなく、その動作をするなかで生まれる一体感、力を感じない、あるいは不要だと感じる瞬間を大事にしているかどうかで決まるのだと思います。それをせず、ただの勝ち負けや型をやるだけの稽古では、わたしがいま言っているような皮膚感覚はきっと生まれません。





 先日の栃木遠征、初日の体道稽古のとき、柔道のように組んだ状態からの投げ技を師範に見せていただきました。わたしはそのとき受をとったのですが、組んだ瞬間にいろいろな情報が師範の身体から自分の身体へ流れこんできて、すこし面喰らいました。


 奥襟と袖をつかんで向かいあっただけで、師範の身体のどの一点にも力みのないことがわかったのですとにかく軽い。それは、小柄な人に触れたときの軽さとはまるで違っていて、もっと言えば、そこに誰もいないかのようなのです。人型のフォルムはあるのだけれど、なかには何も入っていない。


 そんな状態なので、捨て身に投げられたときは、自分でも驚くほど気持ちよく飛んでゆけました。無理に、力をつかっておこなうことなく、技だけで、しかも、無駄なものがまるでない身体でおこなった技というのはあそこまで爽やかに相手を投げてしまえるものなのですね。すごかったです。





 この皮膚感覚がすこしでも芽生えた人は、一方的にまくし立てるようにしゃべったりはしないでしょう。その感覚が鋭敏であるということは、自分から押しつつも相手から押されることにも対応できなければならないわけで、表現をかえれば、怖れをもっているはずなのです。その怖れをもっている人が、自分の意見ばかりをならべ立てて、相手の話を聞かないなどということはありえないはずです。




 今日ふと、「手押し相撲」ならぬ「手押され相撲」というのを考えてみたのですが、もしかしたら皮膚感覚を養うのにつかえるかもしれません(体道をやれる人は体道で養えばいいのですが)。



 今度、師匠に聞いてみます。



posted by 札幌支部 at 20:04 | Comment(0) | 裏部長の日記

2014年06月23日

Ability

 こんばんは、裏部長です。


 すっかり更新が滞り、先日おこなった栃木遠征のことも書かずじまいでしたが、裏部長ならびに札幌支部は元気です。あいかわらず、ほそぼそと稽古に励んでいます。




 今回の遠征は、師匠のほか、大学生のKくん札幌大学OBのAくんと、師匠のご子息、そしてわたしという、これまでにない新しい布陣で向かいました。


 行ったメンバー以外にもいろいろとはじめて尽くしで、たとえば飛行機は世にいうLCCというやつで、たしかに狭かったけれど内装が新しくて思いのほか快適だったこと、初日の体道稽古には外国人の方が飛び入りで参加されたこと、山の上にある神社と石仏のある寺を見物したこと、Y師範代のご子息Tくんが働く店にサプライズ訪問したこと、そして、札幌支部の遠征としてははじめて、稽古中にカメラを廻さずにいたこと。


 いろいろと刺戟的な三日間でした。先輩としては、初参加の後輩二名が、稽古のあとに目を輝かせて興奮していたことが何よりうれしかった。まるで、はじめて栃木に来たときの自分を見るような、しかしあのころのわたしはあきらかに、いまの彼らほど理解も実践もできていなかったなあという、すこし切ない想いも去来しました。



 師範をはじめ、本部道場のみなさまには今回もたいへんお世話になりました。


 ありがとうございました。






 さて、今回も技の内容などについては記せませんが、遠征から帰って一週間ちょっとのなかで、わたしが考えたり気になったりしたことをふたつ書いておきます。





○「どういった動きが身体のなかに沁み込んでいるか


 これは先週の火曜日、つまり、遠征後最初の稽古が終わったあと、談話室のなかで師匠が発したことばです。



 目の前にひとつの技、ひとつの動きがあったとき、それをどのように受け取り、理解し、吸収した上でどのようなかたちに変換し、自分のものとして表現するかは、その人がどのような修業をしてきたか、そのなかでどんな技をどのように考え、錬りあげ、稽古してきたで決まる――そんな意味がこの一文にはあります。



 怖いことばです。それまでの日々が間違っていれば、たとえ貴重な技が目の前にあっても見ることはできない。逆に、どんなに時間がかかったとしても、一本の道を素直に歩きつづけた人間には、かならずや見えてくるものがある。それは、昨日今日の話ではなく、十年、二十年、三十年と稽古をつづけてはじめて実現することでしょう。しかし、唯一たしかなことではないでしょうか。



 まっすぐな稽古は、裏切らない。






熱意と行動


 先日、最終回を迎えたTVドラマ『弱くても勝てます〜青志先生とへっぽこ高校球児の野望〜』で、ヒロインに恋するあまりストーカーとなり、それを理由に無理やり野球部へ入らされるも、いつの間にかたのしくなってしまい、三年生が抜けたあとはレギュラー選手として歩きだす、不思議な髪型の少年を演じた桜田通という俳優は、昨年の三月から八月までのあいだ、単身イギリスへ留学をしていました。



 まだ二十代前半の若い俳優です。以前は仮面ライダーもやっていた人です。それがなぜ急に半年間も(厳密には、もろもろのトラブルなどあり、合計一年半ほど)仕事を休止してしまったのか。



 それは、彼自身が自分を変えようと思い立ったからです



 小学生のころから仕事をしていて、母親には溺愛され、事務所は大手で、私生活でいやなことがあれば仕事を理由にいくらでも逃げられる日々。それはぬるま湯の人生で、いつからか、こんなことではいけない、このままでは芸能界で生きてゆけなくなると危惧したそうです。


 だから、決して逃げられず、甘えることもできない海外を選んだ。ホームステイをし、向こうの学校にかよい、馴れない英語や料理、ひとりぼっちの孤独にも耐える毎日を送り、そしてそのなかで、彼はこんなことを悟ったそうです。



海外で得た僕のアビリティーは、行動したら叶う可能性が上がるってことなんです。もちろん行動しても叶わないことがあるのも知ったけど、可能性は上がる」(『さくらだ』より)



 二十二歳の青年に教えられたような気がします。




 わたしも以前から、願うものに対しては、理性よりも感情で動くようなところがあり、そういった行動こそ本物だろうといまも信じています。


 行動できない以上、想いはその程度のものです。願いが強すぎて、居ても立ってもいられない人は、こまごまとした言い訳などせず、ごたくも並べず、とっとと行動しているはずです。個人的なことを書けば、わたしは、言っているだけで実行しない人を信用しません。好きにもなりません。



 それは、斯くあらんとする自分を支える信念でもあります。







 桜田通さんのブログ(http://ameblo.jp/dori-s/)、ときどきぶっ飛んでいてたのしいです。興味のある方は読んでみてください。




 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 19:53 | Comment(0) | 裏部長の日記