2018年06月02日

もれなくついてくる

 こんにちは。裏部長です。


 六月となりました。2018年も折り返し地点というわけで、時の経つ速さを思うと、なんとも儚い気持ちになってくる今日この頃です。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 いきなりですけども、みなさまは上段へ刻み突きが来た場合、どのように受けますか



 ええ、もう本題に入っているのです。




 想像してみてください。


 互いに構えあっているところで、相手がこちらの上段へ向かって刻み突きをくりだしてきた。


 さあ、そのとき、あなたはどのように受けるでしょう。



 反撃はとりあえずあとまわしにして。


 これはあくまで「どのように受けますか」という質問であって、「どのような受けが可能ですか」や「どのような受けが想定できますか」ということではありません。


 いまこの瞬間、この文章を見たときに、ふと思いついた受けを念頭に置いていただきたいのです。



 おそらくですね、空心館においては、ほとんどの方が、掌や指、あるいは手の甲を用いたのではないかと、裏部長は推測するわけです。


 この場合、自然と発想されるものは、ふだんから稽古している動きか、もしくは、自分の師匠がやっているのをよく見ているために刷り込まれておぼえている動きか、このあたりのものでしょう。


 この点から言っても、上記の部位をつかった受けを考えられた方が多かったのではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。




 以上の前段を踏まえて、あえて疑問を提示したい。



なぜ、上段受けをしないのですか?





 白帯の、入門したその日から、空手の基本の受け型として、上段受け下段払い中段内受け中段外受けを教わるわけですが、その日以降今日にいたるまで、いったい何回これらの受けを稽古したことか。


 その歴史の長さ、回数の多さを見ても、稽古者にとってもっとも馴染み深い受けの動作はこの四つということになるでしょう。



 なのに、です。



 われわれはふだん、上段への突きに対してほとんどこの上段受けをつかいません。すくなくとも、札幌支部ではそうです。


 なぜなのでしょうね。考えてみれば不思議でしょうがない話です。



 上段受けを教わったとき、これは上段に来る突きに対する受けだからこういう風に動かさなくてはいけない、一方、拳槌打ちに対してもつかうので、こういう点にも気をつけて腕を動かしましょう、と、あれこれ言われたのに、実際に上段への攻撃に対してはほとんどつかっていません。


 いったい、そこには、どんな理由があるのやら……。





 中段追い突きの話をしましょう。


 ふだんの約束組手では、この中段追い突きがメインになります。最近、中段追い突きをここまで追求する意味や重みをあらためて感じている裏部長ですが、今日はその初歩の初歩に目を向けます。


 はじめて中段追い突きをやったとき、受ける側の人間は中段内受けで対応するわけですが、このときの注意事項は、「相手の腕を叩かない、弾かない」「ぶつけて止めようとしない」。こういった内容のものでした。


 そうしてはいけない理由はみなさまご存知の通り。

 
 なるほど、そうやって受けてしまうと相手にそんな影響があるのか〜。気をつけなくては!


 稽古としてはこんな感じで進んでゆけるのですが、ある日ふと思うのです。



 そういう受け方をするべからずというのには、ほかにも何か理由があるのではないか、と。





 結局ですね、相手の突きの腕を叩いたり弾いたりするには、こちらの動作がどうしても大振りになるのです。向こうは突っ込んできているので勢いがありますが、こちらはそれを受けようと待ち構えているので、手を出すだけでははね返されてしまいます。弾こうと思えば、それ相応のパワーでやっつけなければなりません。


 だからどうしても大きな動きになってしまいます。


 大きな動作である以上、その動きがはじまり完了するまでに、けっこうな時間がかかりますね。


 これ、相手が中段追い突きに来るというのがわかっている場合、つまり約束組手のなかであればまだ可能かもしれません。しかし、実際の攻防においては、相手がどのような突きで来るか、あるいは蹴りで来るかなど、攻撃は一定ではないのです。もし中段に追い突きが来るとしても、大ぶりな受けで対応できるほど、余裕をもって対処できるシチュエーションとは限りません。



 突きは、速さ、鋭さ、重さを兼ね備えてゆきます。それが一本におさまらず、二本、三本とつながり、さらに相手への突進力もここに加わります。蹴りもあります。


 そんな多種多様かつ危険な攻撃に対して、大ぶりな受けはとてもできません


 小さな動き――必要最低限な手の動きで、それを司る体の運動もあいまって、受けは成長してゆきます。もちろん、これは翻って、突きの成長にもつながります。


 高度な突きが身につくと、その身についた感覚なり身体の使い方なりがそのまま、受けの動作にも活かされるわけですね。




 そんなこんなで、ふたたび冒頭の上段受けの話ですが、つまりそういうことです。




 空心館の空手における突きを考えると、そうならざるを得ないというのが真実なのではないでしょうか。成長してゆく突き(もちろん蹴りなども)に対し、それらを受け捌く技術もあわせて持たねばなりません。この構図において、自然に、そうした受けの動作が主流となっていったのではないか。あえて文章にすればそのようなことなのではないかと裏部長は思っています。




 もちろん、基本の受け方の重要性も考えなければなりません。


 あのオーソドックスな上段受けも、使いようによっては凄まじい威力を発揮します。それは裏部長も、体道のなかで実感済みです。





 空心館の空手と、体道を稽古する以上は、この両方を等しく捉え、追及し、深めてゆきたいものです。




 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 14:16 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年05月26日

半畳もいらない

 おはようございます。裏部長です。


 五月も終盤となり、本州のほうではすでに夏の暑さが顔を出しているようですね。札幌はかろうじてまだ春の陽気を保っています。TVをつければ各種日焼け止めのコマーシャルがひっきりなしで、ああ、もう季節は夏に向かっているのだなあといやでも感じさせられます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 さて、前回のブログで、映画『イップ・マン』について触れましたが、あれはドニー・イェンさんが主演をつとめた作品の最新版で、同氏がイップ・マンを演じたものは計三本あります。わたしが先日観たのは、その三本目ということです。


 しかし、イップ・マンを主人公にした映画はほかにもありまして、わたしが個人的に好きなのは、

イップ・マン 最終章

 という作品です。




 具体的な内容などに関しては、ぜひ実際にご覧になることをおすすめしますが、劇中でイップ・マンが武術の教授を求められるシーンがとても印象的です。


 稽古代として食事をごちそうしてもらうあいだ、教わる側の男性は部屋のなかを片づけるわけですね、これから稽古をするから。しかし、食べ終わったイップ・マンは、そんなに広いスペースは必要ないと言い、畳んだ新聞紙を床に置くと、その上に立って構えます。


 あの新聞のサイズだと、日本の新聞紙の、見開き一面を半分に折り、さらにもう一度折ったくらいですね。その上で三戦立ちをすると、ちょっと狭いかなといった程度の面積しかありません。


 結局、そんな狭いスペースに足をのせ、構えたイップ・マンに弟子志願の男性が掛かってゆき、たやすくあしらわれてしまうという展開になるのですが、こういうシーンも、何気なく流して観るのではなく、自分に引き寄せて考えてみたいものです。





 ここ最近、裏部長は、


どうにか体道で闘えないものだろうか


 というようなことを考えており、これに関してはまだまだ暗中模索で書くことはできないのですが、実際に体道の技をやっていると、その技の威力が発揮されたとき、ほとんど歩幅もなく、大仰な構えもなくすべてが完了していることが多い気がするのです。大きな動きに走ったり、力みや焦りに流されて急いでしまったり、逆に勢いが滞ってしまったりすることなく、技が技として技の成果を見せたとき、立っている足の幅は、それこそあのシーンのイップ・マンではないけれど、かなり狭い。ほとんど半畳、いや、半畳もいらないくらいでしょう。



 これはいま、おもに柔術においての話だったわけですが、ほかの技、ほかの武術に関しても同じことが言えるのではないでしょうか。


 あるいは、空手においても――。





 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:17 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年05月04日

拳とは 武とは

 おはようございます。裏部長です。


 春うららかな連休、みなさまいかがおすごしでしょうか。



 裏部長、連休とはいえさしたる用事もなく、先日ふらりと訪れたTSUTAYAで、ひさびさに映画でも借りてみようかと思いたち、何枚かDVDを手に取った次第です。


 その数枚のなかに、アクションものが二篇ありました。


 今日はその二本の映画をざっとご紹介!



 一本目は、なんとも懐かしいサモハン主演の作品。『おじいちゃんはデブゴン』。


 ひどい邦題です。昔、サモハン主演で『燃えよデブゴン』というのがシリーズでつくられ、今作もその流れに乗っかってこのタイトルを日本側がつけたのでしょうが、コメディ要素のほとんどない、わりかしシリアスな内容になっています。


 主演・監督・アクション監督:サモハン、ということなので、あの巨体で激しいアクションをやっていました。


 わたしが注目したのは、終盤近くにある、この映画でもっとも烈しくもっとも濃厚な格闘シーン。


 大勢のマフィアたちを相手にサモハンが素手で立ち向かい、倒してゆくわけですが、その刃物に対する動きの一貫性と、体道の技に似たダイナミックな決め技。ああ、なるほど、こういう使い方もあるのかと、なかば感心しながら観ていました。



 はい、次。



 二本目は『イップ・マン 継承』です。ご存知の方もいらっしゃるでしょう。


 主演のドニー・イェンさんがいいですねえ。わたしは大好きです。同氏がイップ・マンをはじめて演じた作品以降、向こうでは葉問ブームが起こったのか、同一の主人公を描く映画が何本もつくられました。わたしは、イップ・マンの映画、今作で六本目です。


 アクションはたしかに素晴らしい。しかし今回はドラマにも深みが加えられ、ほどよい映像美で見せてくれます。




 これらの映画を観るかたわら、体道ノートをパソコンに打ち込むゴールデンウィーク。腰より先に尻が痛みはじめました。


 拳とは何か、武とは何かを考えさせられます。


 みなさんも、長時間の坐り作業には気をつけましょう。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 09:01 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年04月30日

疾る先端は自ずと弧を描く

 おはようございます。裏部長です。


 ゴールデンウィークを迎え、札幌の街はあたたかく、そして桜の風景となっています。まだ満開の樹ばかりとはいきませんが、歩いていても車で走っていても、目を癒される日和です。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 前回の記事に奈良のM田さんからコメントをいただきました。M田さん、ありがとうございました。




 さて、最近の札幌支部は、中国から来られていたRさんが四月の頭に帰国され、従来のメンバーにもどって、従来の稽古を再開したといった感じです。とはいえ、Rさんから教授された養生体操については、ほぼ毎回の稽古でくりかえしおこなっていて、身体のほぐれるその感覚に、師匠はじめほぼ全員がほくほく顔でたのしんでいます。


 きっとこのままゆくと、札幌支部メンバーはみな長生きすることでしょう。




 そのなかにあって、裏部長はひとりひそかに、

先端が走る

 ということを考えていました。


 このきっかけは体道の「折木」だったのですが、相手を崩す手、そこに重さを乗せ、相手に影響をおよぼす手というのは、自分の肉体の先端あるいは末端ですね。この部位がどこよりも速く走るように動いたときに崩れが生まれるのではないか。そういえば刀のときも棒や杖のときも、有効な振り方としてはやはり先端が走ることが求められていた、という記憶もあり、これはおおいに共通するのではないかと考えたのです。


 もちろん、単純に先端部分が走るだけでは重さが生まれません。あくまで重さを乗せるのは末端ではなく中心部分。それが丹田なのか仙骨なのかはまだ実感がありませんが、確実に帯より下にその核心があるような気がします。そこが重さを生み、走る先端部分をさらに活かすわけです。



 今回の発見はおもに体道においてでしたが、走る先端としては、突きも蹴りも同様でしょうから、これを空手の動きにも応用して考えてみたら面白いかもしれません。



 宝探しは、まだまだつづきます。




 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 07:57 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年03月31日

箱の中の宇宙



 
小説を 草して独り 春を待つ




 裏部長です。

 今回は風流っ気を出すために、正岡子規の俳句からはじめてみました。



 札幌はすでに路上に雪もなく、あとは本格的な春を待つのみといった感じですが、本州のほうでは桜のたよりが届いたところ、すでに去りはじめているところ、夏日なところなどさまざまで、数箇月後の暑さが思いやられます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 新学期、新年度を前に、ごくごくあたりまえなことかもしれませんが、わが身も引き締めるために、こんなことを書いてみます。



 ふだんの稽古のなかに登場する教えに、このようなものがあります。


力で技をやるのではない。技が力を生むのだ


 おなじみの教訓です。そして、稽古を重ねれば重ねるほど、その意味に打たれることばです。




 この文章の前半部分に出てくる「」とはおもに筋力のことです。体力、あるいはその人の体格を用いてつくりだす力、と言ってもいいでしょう。


 つまりは、有限なパワーということです。


 筋力にしても、無尽蔵に蓄えられるわけではないし、年齢とともにどうしても衰えてきてしまう。その量には限りがあります。


 そんな限りのあるパワーをつかって相手に対処しようとしていると、それよりもはるかに上回る筋力をもった人にはどうしたって敵いません。やられてしまいます。昔であれば、それは死を意味しました。



 一方、武術の技が生みだす「」とは、無限のものです。


 なぜ無限かと言えば、それは、相手との動作のなかで発生するエネルギーだからです。



 たとえば、相手を手でつかんで引き倒そうとしたとき、お互いに立って向かいあった状態でこれをおこなおうとすれば、相当な筋力を必要とし、相手が体重のある巨漢であれば、つかんだ時点でダメだなと思ってしまうことでしょう。


 しかし、もしもですね、そんな巨漢な相手が、二十センチ四方くらいの狭い足場に立っているとして、その周囲は断崖絶壁、下を覗きこむだけで震えが走るような場所であったとしたら……。


 ちょん、とその胸を押しただけで相手の身体は揺れてしまうでしょう。くっ、と引くだけでバランスを崩してしまうはずです。



 もちろん、通常の技は平面の、ふつうの床でおこなうため、断崖絶壁の力は借りられませんが、要はどこでもいつでも、相手の身体が不安定になる条件なり環境なりを構築できれば、その人が自分よりも長身であろうと、巨漢であろうと関係なく崩し、倒し、制することができるわけです。そのヒントが、われわれのところで言うと、体道の柔術のなかに無数に散りばめられていたりするのです。





 どうでもいい話ですが、先月から今月半ばくらいまで、裏部長は天心古流の「双手背之極」のことばかり考えていました。実際に稽古をするなかで、冒頭の上段受けはどうなるべきか、どうあるべきかをずっと考えていました。これにはきっと、師範やT技術顧問の影響があるのかもしれません。


 あの技で上段受けが変わると、相手が打ちで来ようが突きで来ようが関係なくなるし、その次の「脇詰」や「引留」などにおいても技の起こりが違ってくる。居取は、互いに正座して近間で向かいあっているという、とてつもなく狭く窮屈な、不自由な空間での技なので、いろいろなことが制限されているからこそ、そのなかにあってもかならず勝つ方法、相手を制しきる方法を見つけだすにふさわしいテキストで、わたしの気づきなど大したことはありませんが、もしあんな発見が各技でできるのなら、体道はまさしく武術の叡智、技の宝石箱だと言えるでしょう。



 この「技」という視点は当然、空手の突きなどに関しても言えるわけですが、打撃系武道の経験者であればあるほど、突きは相手に拳をぶつけることであって、当たらなければ意味がない、と思ってしまうらしく、約束組手をしていると、突きをしているというよりはただ拳で撲りに行っているといった印象の人が多く見られます。




 先ほどの格言、【力で技をやるのではない。技が力を生むのだ】にはつづきがあります。技の力といっても、そもそもその技って何ですか。何をどうすればその技になるのですか。そう訊かれたら、わたしはこう答えています。


技をつくるには、正しいかたちが必要である】と。





 経験のない人が、わかっていない人がいきなり技の力だなんて言ったところで、実際にはちんぷんかんぷんで悩ましいかぎりです。そんなとき、案内役になってくれるのがこの「かたち」なのです


 正しいかたち、姿勢が技をつくる要素になります。それが整っていない人に技の力を説いても無意味です。






 知らないって、じつは甘美なのです。

 自分で判断できるから。わかったと思えるから。知ったかぶりができるから。

 しかし、きちんと向きあって、素直に学んで、ようやく知ることができたら、人は二種類にわかれます。

 それを無視して知ったかぶりをつづける人か、自分の現状と比較して不安に陥る人か。

 前者はもう駄目です。後者になってはじめて前進できるのです。

 その差異を見つめて稽古してゆくと、どこかのタイミングで、技と自分がひとつになる瞬間に出逢います。

 できた瞬間です。そこをすぎてはじめて、「ああ、こういうことだったのか」と感じます。

 これはうれしい出来事です。甘美が歓喜にかわるときです。

 しかし、喜びは持続しません。宿題はまだ山積みになっているのですから。



 
 なんだかんだと偉そうなことを書いてきましたが、斯くいうわたし自身が知ったかぶりをし、独りよがりをし、回り道をくりかえしてきた経緯があります。また飲みこみも悪く、覚えもよくないため、師匠や師範、諸先輩方やT技術顧問などからの教えも、嚥下し、吸収するまでにどうしても時間がかかってしまいます。

 
 ただ、それでも、いますこしずつ変化が起こっているような気がするのです。

 ほんとうにわずかずつですが、この身にそのエッセンスが、沁みこみはじめているように思えるのです。





 明日から四月です。新しい一年のはじまりです。


 晴れやかな季節にしたいものです。

posted by 札幌支部 at 10:08 | Comment(1) | 裏部長の日記