2025年12月31日

空へ

 おはようございます。裏部長です。

 2025年も、そろそろ終わろうとしています。大晦日ですよ、大晦日。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 今年もいろいろなことがありました。

 天候のこともそう、自然災害のこともそう、熊も大変だったし、最近ではまたもや大きな地震も。

 不安へつながる事柄を、次から次に挙げていってはキリがありませんね。愉快な気持ちにもなりません。

 
 武術において、今年の裏部長は、地味だけれど、着実な変化というか、成長を垣間見られた一年だった気がします。

 まだ垣間見られた£i階です。成長したわけではありません。

 その第一歩、足がかりをようやく見つけた、という段階のような気がします。

 這い上がるのは、いま、ここからです。


 奈良のM田先輩が札幌に来られて稽古をつけてくださったのは八月。

 もう四箇月も前のことなのですね。


 この冬はわたしにとって、まさに怒涛のような日々でした。

 稽古のことも、空手のことも体道のことも、いや、睡眠や食事、何気ない行動のすべてを忘れてしまいそうになるほど激動の毎日でした。

 
 生まれてはじめて経験する出来事は、ショッキングで、痛烈で、重圧そのものでした。

 ひとりきりで、その重みを受け止めていたら、きっとたやすく押し潰されていたことでしょう。


 多くの人たちに助けられました。

 よく「われわれはひとりきりで生きているのではない」という文言を見聞しますが、痛感しましたね。

 
 わたしたちはひとりではない。ひとりでは生きてゆけないし、現に、多くの人に支えられていまも生きている。


 自分のためにも、そして、そんな周囲の人たちのためにも、よりよい人生を歩まねばなりません。

 悲しみや苦しみを乗り越えるだけの毎日ではなく、そこに歓びや、たのしさやうれしさのある日常を。

 
 目標をなくさない。誰かのために生きる。



 みなさま、今年一年、お世話になりました。

 どうかやすらかに、おだやかに、新しい年をお迎えください。


 ありがとうございました。



 裏部長


posted by 札幌支部 at 10:59 | Comment(0) | 裏部長の日記

2025年10月29日

まっさらに帰る場所

 おはようございます。裏部長です。

 平日ですが、すこし時間があるので、更新しておきます。

 10月もそろそろ終わり、冬に片足をつっこむ11月がやって来ますね。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 こちら札幌ではすでに雪が降りました。さすがにまだ積もることはありませんが、秋から冬への変化を感じております。

 2025年も残すところあと二箇月ですか。いやはや、何はともあれ、早いものであります。


 先日、稽古で体道をやっていて、そのときは天心古流拳法の初目録を学んでいる方々のご相伴にあずかって、となりで一緒に同じ技をやっていただけなのですが、おひさしぶりな技たちに触れるなかで、ふいに、初心にかえるような感慨をおぼえました。

 感慨と言っても大したことではないのです。ひとつひとつの動作、立ち方、体の向き、手の捕り方などのそれぞれの動きが、それに触れるたびに懐かしい体感を催してくれるというか、そんな印象が生まれたのです。

 ああ、そうか。技をやるということは、その技がもつ理に触れることなのだな、と。そのとき改めてそう感じました。


 これは何も体道に限ったことではありません。空手をやっていても、を振っていても、同様です。

 あえて表現してみれば、自分のなかがまっさらになる時間≠ニでも言うのでしょうか。

 坐禅などの境地に近いかもしれません。そしてきっと、これが師匠の言う「ニュートラルな状態」に近いのでしょう。


 最近の裏部長は、こんな心境で稽古へ臨んでおります。


 そんなことを考えていたら、ちょうどいま再読しているある小説のなかに引っかかる文章があったので、ご紹介します。


 池波正太郎著、『剣客商売番外編 ないしょ ないしょ』(新潮文庫)より。

 齢七十に近い老武士、三浦平四郎は根岸流手裏剣の達人で、住み込みで働く主人公の少女・お福にその手裏剣術を教えるのですが、そのときにこう説きます。

「手裏剣のみならず、たとえば刀にせよ、どんな刃物にせよ、間ちがって使えば、人を傷つける。また、殺しかねない。同時に、我が身にも危難がおよぶことになる。なればこそ、わしも侍の端くれだが、刀というものは、この家に一つもない。昨夜、泥棒が入ったときも、わしは刀を抜かなかった。いや、刀がないから抜けないのも当り前だ」(p101)

 さらに、

「ならば、何故、わしが手裏剣の稽古をするかというと、先ず、躰が丈夫になる。躰のためによいということが一つ。さらに、何も彼も忘れて稽古をしていると、つまらぬことや悩み事をすべて忘れることができる。人間という生きものにとって、これは、とても大切なことなのだ。わかるか?」(p101)

 そして、従来の手裏剣のほかに、新たな武具を伝授することになった際にはこうも言います。

「うむ。これはな、めずらしいものだが、いまのお前なら、充分につかえる。だが、お福。いつも申すことだが、生きものに手裏剣を投げてはならぬぞ。わしは、手裏剣の稽古をはじめてから五十年になるが、ただの一度も人を殺したり、傷つけたりしたことはない。そのことを、よくおぼえておけ」(p124)


 なんとなく、響くものがあるではありませんか。


 裏部長でした。



posted by 札幌支部 at 10:52 | Comment(0) | 裏部長の日記

2025年10月12日

「教」からの脱出

 おはようございます。裏部長です。

 10月に入りました。そして、今日は3連休の中日で、いまは穏やかな朝でございます。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 札幌は日一日と気温が下がり、湿度も下がり、体感温度が低下しつつあります。

「一気に寒くなってきたなあ。なんだか、夏から急に冬になったようだよ」

 などという会話をあちこちで耳にします。たしかに、おだやかな秋の陽気というものがすくなくなりました。

 しかし、日本全国を見渡せば、まだ暑い地域もあることですし、この肌寒い気候を「秋」と思うしかありません。

 何事も、順応と前進あるのみです。


 最近の裏部長は、ひそかに、武術における意識改革≠ノ取り組んでおります。

 8月に奈良のM田先輩にご教授いただいた事柄と、ここ数箇月間に自分のなかでも起こりつつあった変化の兆し、それらがあわさって、混ざり、すこしずつ化学反応をしはじめた結果、いまの状態を迎えたような気がします。

 この意識改革をわかりやすく表現すると、それは、

「教」からの脱出

 ということになるでしょう。


 ん? わかりづらいって?


 失礼しました。さらにわかりやすく言いかえると、それは、

教えられた状態からの脱皮

 ということにでもなるのでしょうか。


 これまでわたしは、武術の技や型がすべてだと思ってきました。もちろんそれは間違いではないのですが、わたしの言う技や型というのは、師匠から教授された状態の技や型であって、それこそがすべてだと理解し、頑なにこだわっていた側面があるように思います。

 教えられたときの技や型は、たぶんに説明的で、分解的で、内容としては合っていても、あくまで初歩の段階にあります

 それを受け取り、把握し、理解し、実践し、ときには他者へ師匠の代わりに教えもしてきました。

 だからこそ、教授された段階の内容で固定化され、それ以外のものを享受できない状態に陥っていた気がします

 いま言う武術における意識改革≠ニは、そんな自分から脱皮する第一歩のような気がします。


 まだはじめたばかりなので具体的な成果は何もご報告できませんが、感触は悪くありません。

 空手でも体道でも、これまで膨大なる技や型を教わってきました。これまでは、その技や型そのものこそが重要で、自分をいかにそれらのなかへ埋没させられるか、自分を消せるかを課題に向き合ってきました。もちろん、これも間違いではない。

 しかし次は、その状態から脱出して、授けられた多くの技たちを実際につかうためにどうしたらよいか、これを検討する段階へ入るのです。

 元々ある内容を主に考えるのではなく、あくまでもそれを尊重しつつ、主眼は、それをどのように実践するか、に置く

 この意識をもつことで、稽古のフィールドは無限に広がり、技たちは無数の輝きを放ちはじめるでしょう。

 その気配が、すでに稽古内に、そして日常に生まれています


 空心館における稽古者として、新たな局面に差し掛かっている気がします。

 変わるも変わらないも自分自身です。裏部長は、牛の歩みでも変わってゆきたい。



 裏部長でした。



posted by 札幌支部 at 09:59 | Comment(0) | 裏部長の日記

2025年09月27日

訪い告げる平安

 こんばんは。裏部長です。

 あれだけ執拗だった真夏の暑さもようやく遠のき、秋らしい涼しさに触れられるようになりました。

 そりゃそうです。だってもう十月なんですもの。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 札幌支部において、空手の型をやるときというのは、だいたい稽古の中盤か後半に限られます。

 その場の基本稽古をし、最近はあまりしませんが、移動稽古なんかもして、約束組手をし、それからをやることがほとんどで、稽古の冒頭からいきなり型ということは、よっぽどの事情なり理由なりがなければしません。

 つまり、突きも蹴りも受けも、ある程度の回数やって身体が温まっている状態と言うのでしょうか、ほぐれた状態で型を打つことがほとんどなわけです。


 しかし一方、自宅でのひとり稽古などの際には、いきなり型だけを稽古するということが可能で、わたしはよくやっています。

 もちろん、そんなに広大な部屋ではないので、思う存分動きまわることは叶いませんが、内容の確認くらいはそれなりにできます。

 このいきなり型≠ニいうのが、今年の夏の終わりの裏部長のマイブームで、存外たのしいものなのです。


 たとえば、平安の五つの型がありますね。これを稽古するとします。

 ふだんの基本稽古で、その場突きならば百本近く、蹴りにしても受けにしても、回数にしたら左右それぞれ数十回はやっている動作も、型のなかに出てくるもので換算すると大した数にはなりません

 平安二段で見れば、左右あわせて五回しか突きをしません。蹴りはゼロですし、受けの回数とてたかが知れています。

 この、数に限りのある各種の動作を、温まってもほぐれてもいない身体でおこなうときの、新鮮かつ刺戟的な感触

 また不思議なもので、わずか数回しかない機会だからこそ、一本の突き、一度の蹴りさえおろそかにできない、という心境にもなります


 琉球でしか空手がおこなわれていなかったころ、稽古といえば型がメインだったということはよく伺いますが、その当時の当地の武術家たちは、こんな印象をもって動いていたのか、それとも、もっとべつの感触を味わっていたのか、興味がありますね。


 そしていま、改めて平安五つの型をやってみたときの、その体感の鮮烈なことよ!

 硬く、頑なだった肉体を、「平安」という型がノックをして訪ねてきてくれたような嬉しさがありました。

 もっと大切にしないと。



 裏部長でした。



posted by 札幌支部 at 19:20 | Comment(0) | 裏部長の日記

2025年08月30日

もはやそれは

 おはようございます。裏部長です。

 8月が終わろうとしています。残暑の影が消えなくても、なんとなく夏の終わりを感じてしまいます。

 とはいえ、暑さ対策、熱中症対策は忘れずに。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 こちら札幌は、ようやく真夏の気候が薄れてゆき、朝晩はかなり涼しくなりました。

 しかし、予報では、来週の後半にまた真夏日が来るようなので、油断大敵であります。

 斯く言う裏部長は、諸事情あり、ここ二週間ほどは稽古へ参加できておりません。

 ただ、体調は悪くありません。裏部長、それなりに元気にやっております。


 そんな本日は、すこし短めのトピックをひとつ。


 先日、スーパー大辞林という辞書をつかう機会があり、そのとき何の気なしに、

柔術

 という単語を検索してみたわけです。

 ほんとうに、何の気なしでした。理由も何もなく、その瞬間の思いつきで、

辞書では柔術をどのように説明するのだろう?

 くらいの軽い気持ちでした。


 調べた結果、出てきた内容がこれです。


無手あるいは短い武器をもって、投げる、抑える、挫ぐ、絞める、打つ、突く、蹴る、捕縛するなどして相手と格闘する、日本古来の武術の――。やわら


 この文章を目にして、わたしは大いに驚くやら、感心するやら。


 たしかに、内容は肯けるものがあり、同時に、ここまで詳しく辞書に載せているのかという驚きもあったわけですが、この解説、読めば読むほど、われわれがふだんやっていることそのものではありませんか。


 

 みなさまはどうお感じになります?



 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 09:38 | Comment(0) | 裏部長の日記