2019年01月26日

体はおのずと

 おはようございます。裏部長です。

 そして、みなさま。

 あけましておめでとうございます


 一月もすでに終盤へ差しかかり、新年のあいさつも場違いに思われるようになった今日このごろ、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 裏部長は最近あまり大学の稽古へは参加できていないのですが、風邪もひかず、インフルエンザにもかからず、どうにか暮らしております。


 さて、先日このようなことがありました。

 月に一度開催している、武道場での稽古のときです。

 ここは天井が高いので、杖を振ったり棒を振ったり、剣術の型をやったりと、武具の稽古をかならずおこなうのですが、今月は師匠が(もちろん本身ではありません)をもってきていて、それを参加者につかわせてくれる場面がありました。

 立った状態で歩みながら、あるいは座した状態から抜きつけ、斬り下ろし、血ぶり、納刀。

 この一連の動作は、ふだんから木刀を用いて稽古しています。そのときも、刀は一本しかないので、交代制でつかうこととし、それ以外のメンバーはいつもどおり木刀を用いて上記の動作をやっていたわけですが、いざ刀がまわってきたときの不甲斐ないこと、不甲斐ないこと。


 とにかく、刀がブレるのです。

 抜きつけのときはまだよいのです。問題は斬り下ろすとき。このときに刀身がブレるのです。

 いや、あれはもはやブレるという次元ではありません。

 ダンスです。

 細くて軽い刀の刃が、こちらの意思とは関係なく、突然ダンスをはじめるのです。


 なんとも情けなく、恥ずかしく、裏部長はつい苦笑してしまいました。

 そうなってしまうということは、間違っている、何かが足りず何かが過剰なのではないか、と考え、しかし先ほども書いたように、交代制なので刀をもっていられる時間はそう長くありません。一連の動作を、やれて三回か四回。このあいだにどうにかしなくてはならない。

 さあ思いだせ。師匠から何を教わった? 刀を振るとき、何をどうすればいい? これまで何を学んできたんだッ!?


 …と言うとかなり大袈裟ですが、あのときの裏部長の頭のなかはそれくらいに思考が渦を巻いていたのです。


 たった一度でした。数回振ったなかでたった一度、ダンスをせずに刀が下りてくれた瞬間がありました。

 そのときわたしは何をしたか。

 をつかったのです。


 思えば、師匠から刀を学ぶとき、これまで散々「」のことを言われてきました。抜きつけるときも振りかぶるときも、真っ向斬り下ろすときも、まず説かれたのが指のつかい方でした。

 刀というと「手の内」ということばがありますが、手や掌、あるいは腕そのものの運用を教わったことはまだありません。

 これまではとにかく指でした。それを思いだした裏部長は、最後の最後に、指だけで刀を振ってみようと試みたのです。

 
 結果は上々でした。ブレることなく、スンッと刀が落ちてくれました。

 このときの気持ちよかったこと、気持ちよかったこと。

 あのときたしかに、指に快感があったのです。


 こんな感触はこれまでにありませんでした。刀を振っていて気持ちいいと感じることなんて。

 
 わたしはこれまで、自分に刀などまだ早いと思ってきました。それよりもまず、体道のなかにある柔術や各種棒術を身につけ、空手も磨いて、ある程度のレヴェルに達してからでないと、刀は稽古してはいけないと捉えていましたが、あの感触、あの軽さ、あの気持ちよさを体感すると、すこしだけ認識が変化してきました。

 刀を「剣術」「抜刀術」「居合術」と表現すると、それはやはり人を斬る技、殺傷する技という印象がありますが、ただ単純に「刀」と表現すれば、それは誰かを殺める法ではなく、刀との会話、そしてそのとき肉体に宿る印象、育まれる感覚を、さまざまな動作のなかで見つけだすものになるのではないか

 勝手に刃がダンスするのではなく、この指と刀とで、ともに踊りだすような快さのなかで。

 もしそうであれば、その感触の芽に触れたいま、刀を取るべきではないか、と思うのです。

 この体が、この指が、それを望んでいるような気が、いましています。


 しかし、そうは言っても、裏部長はまだ自分の刀というものをもっていませんし、先日測ってみたら、師匠よりも腕が短いという衝撃的な事実が判明したため、刀を選ぶに際しても注意が必要です。どのみち、その分野に関してはまったくの素人なので、師匠や師範のご意見を伺いながら探していきたいと思います。

 よろしくお願いいたします。


 追伸。

  Ishiさんからコメントをいただきました。この名前から察するに、きっとあの方だと思われます。コメントをいただくのは数年ぶり、いやもっとでしょうか。かなりひさしぶりのことで、驚きつつも感謝、感謝です。

  Ishiさん、コメントありがとうございました。実益に富んだエピソードで、その目にもその姿勢にも、卓越したものを感じました。

 まさしく「闘うための構え」といった印象で、参考にさせていただきます。

 これからも気軽にお寄りください。


 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 09:11 | Comment(1) | 裏部長の日記

2018年12月31日

稽古納め2018

 こんばんは。裏部長です。

 大晦日の夕方、みなさまいかがおすごしでしょうか。

 あと数時間で、今年も幕を下ろします。


 2018年はさまざまなことがありました。

 北海道においては震災があり、つい先日は市街地で爆発事故なども起こり(わが家でも爆発音は聞こえました)、何かと危機感をもたらされる一年でしたが、こと武術においては、地味で淡々とした日々のなかにあっても、有意義な稽古ができたように思います。

 当ブログにおいても何度となく、体道について書いてきましたが、いろいろな発見や学びがあり、裏部長としては手ごたえを感じています。

 しかしその道は平坦でもなければ狭小でもなく、なんの変哲もない更地を掘ったら大昔の遺跡が出てきちゃって、その破片を採集して調べてみたら未知の微生物と謎の暗号が現れ、すべての要素を動員して推理し、特定した場所をさらに捜索してみたら、今度はそこから黄金と石油と温泉がふきだしてきた! みたいな展開になっていて、飽きることがありません。

 われわれはとんでもないものに出逢ってしまったようです。

 
 なので、毎年どおり「稽古納め」の題をつけましたが、稽古が区切られることはありません。

 この文章を書いているいまも、年越しのあの瞬間も、初詣の行列に凍えながら並んでいるときも、武術をする人は武術しているのです。


 2019年も、さらなる発見と学びの年になりますように。

 
 みなさまも、幸福なお正月をお迎えください。今年一年、ありがとうございました。


 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 17:14 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年12月16日

体道的反応

 おはようございます。裏部長でございます。

 今年もあとわずか。すっかり押し迫って参りまして、寒さもいちだんと厳しくなり、札幌も雪国らしい様相を見せております。今月に入ったばかりのころはまだ雪もすくなく、どこもかしこもアスファルトが顔を出しているなあと思っていたら、それからすぐにわんさか降りまして、降りつづけまして、いまはすっかり白い路面が広がっています。

 このまま根雪になるのかなあ、と思っていましたが、今夜からは雨が降るとの予報。明日以降の悪路が気鬱の種です。


 そんな師走、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 さて、裏部長は最近、「体道的反応とはいかなるものか」ということをよく考えるのです。

 唐突なようですが、もう本題に入っているのです。


 体道的反応などと書くといささか大仰で、堅苦しい印象ですが、要は日ごろ稽古しているものがきちんと身に沁み込んで、馴染んで、吸収できていれば、何かあったときに、瞬間的にそれらが表に出てくるはずだ、という指摘をしたいわけです。

 過去にも書いたように、体道のなかには、柔術、剣術、各種棒術などがあります。体道を稽古する者のなかには、これらの技たちが蓄積しているはずなのです。

 だから、咄嗟に何かあった際(それは武術に関連した瞬間だけに限りませんが)、体道的な反応が起こるはずだ、いや、起こらなければいけないはずだと、わたしは思っているのです。


 以前、奈良支部のM田さんから、「すべてを空手化せよ」ということばを教わりました。

 これはたしか船越義珍さんのことばだったと記憶していますが、稽古のなかだけでなく、日常や仕事の場においても空手をしているつもりで生活せよという教えで、わたしが上記で言っていたのはこの体道版ということです。


 もちろんそれは、空手をやっている人は空手的反応、居合をやっている人は居合術的反応となるわけで、一様ではありませんが、共通するものは一緒ですね。


 重要なのは、自分がやっている武術にどれだけ切り込んでいるか。踏みこんで、向き合って、深く稽古しているか、ということでしょう。

 それがひいては、その武術らしい反応を示せる人間たらしめるのです。


 わたしは、もちろん空手も稽古していますが、トータルで見ると体道へ傾けるもののほうが多い人間なので(いつしかそうなっていたので)、この場合はやはり、体道的反応というものが重要になってくるように思われます。


 みなさまはどうお考えでしょうか。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 09:16 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年11月25日

体は容器

 こんばんは、裏部長です。

 十一月もあとわずかとなりました。札幌では、先週にようやく初雪が訪れ、そうかと思えば一日わんさか降る日もあって、気がついたら外は一面の銀世界。しかし今日ともなると日差しに溶けて、ほとんどの車道は顔を出しています。空も、どことなく穏やかな日和です。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 最近の札幌支部は、札幌大学の学生さんが稽古へ参加されるようになったり、他流派の空手をやっている方が見学に来られたりと、新しい風がすこしだけ吹いています。

 今野敏さんの小説で『孤拳伝』という作品があり、形意拳をやる少年を中心に、さまざまな武術家たちが登場するのですが、そのなかのひとりで、岡山県で長くつづいているというある武術流派の宗家は、昔ながらの慣習にこだわる弟子に対し、

流派というのはつねに流れていなければならない

 というようなことを言っている場面がありましたが、肯けるものがあります。

 技でも人でも考え方でも、ひとつのことにこだわって、凝り固まってしまうことは避けたいものです。


 とはいえ、では何でもかんでも新しいものをやってゆけばいいのかと言えば、それはそれで違うでしょうね。

 先日、師匠に見せていただいた、中段への突きに対する猫足立ち・手刀受けの動きがあるのですが、それを傍目から見ていて、わたしにはその空手の技術以外に、同じ理合というか内容が、体道の柔術のなかにも含まれているのではないかと唐突に思う瞬間がありました。


 柔術においては、ほとんどの場合、こちらの手や腕が相手の肉体に触れています。そして、その触れた点をもとに、相手を崩してゆきます。

 しかし、ではその触れている点で崩しているのか、投げているのか、押さえているのかというと、じつはそうではない。

 力の源はそこ以外の、肉体の内部にあることが多いのです。

 その内部のある個所が、技が起こる瞬間に緩んだり変化したりすることで力が生まれ、その力が、相手の肉体に触れている点に作用するのですね。


 これ、文章にするといささか難解ですが、われわれそれをすでに、体道のなかでやっているのです。

 

 空心館内、あるいは体道連盟のなかにおいて、諸先輩方の動きに触れたとき、そのあまりの深さに驚愕することがあります。

 きっと諸先輩方も、こうしてひとつの動き、ひとつの技を何度も稽古し、見つめるなかで、余人が想像もできないほど深いところまで、その内容を掘り下げてゆかれたのでしょうね。


 まだまだ、学ぶことは多くあります。


 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 17:57 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年10月07日

無構え

 こんばんは、裏部長です。

 世のなかはまたまた三連休でありまして、暑さも遠のき、台風も去り、秋の行楽にはもってこいの週末でしょう。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 今年の夏あたり、裏部長は長らく「構え」について考えていました。

 ふだん、おもに空手において取っているあの構え。まあもちろん、あの構えと言ったところで、そのかたちは人それぞれなのですが、みなさまご自身のつかっている構えを思い浮かべてくださればけっこうです。

 その構えですがね、なぜなのでしょうかね。どうしてそういったかたちになったのでありましょうか。


 もちろん、「師匠や先輩からそう教わったから」というのがほとんどでしょう。

 わたしも同様です。空手の稽古をはじめてすぐに師匠から教わり、それが時間とともにやや変化して現在に至っているわけです。

 しかし、いまはその教えられた経路の話ではなく、由来のことを考えてみたいのです。

 あの構え、いったいどこから出たものなのでしょうか。


 空手の構えなのだから、空手の型から出たものであろう。

 わたしは最初にそう考えました。

 しかし、平安からいちばん新しい慈恩まで、計二十八個の型を思いかえしてみても、そのような構えはないのです。

 いやそもそも、型のなかでは、単純に構えているという状態がないのです。

 受けをした瞬間の状態が構えたかたちになる、ということはありますが、目の前の相手に対して文字どおり構えるという動きは、どうも型のなかには見受けられないわけです。


 ハテ、ならばあの構えはどこからやって来たものなのだろうか……?

 
 師匠からは、「棒の手が関係しているのではないか」との助言をいただきました。

 しかしどうやら、それが唯一の答えというわけでもなさそうです。


 うーむ。

 うーむ。


 と呻吟していたある日、裏部長はふとこんな視点に出逢いました。

いま自分が思い描いている構えとは、こと空手に関したものだけなのではないか


 ここで冒頭にもどるのですが、いまみなさまの頭のなかに描かれていた構えは、空手のものではありませんか

 足は基立ち。半身になり、片方の手は腰へ引き、もう片方の手は肩の前あたり。あるいは夫婦手。

 
 わたしもそうでした。構えといえばこれでした。考えられる変化としては、手をひらくか拳にするか程度のものです。

 でもね、これって空手の、それも組手のときにつかう構えですよね。

 われわれ、ただ「構える」と言っただけで、自然と空手の組手をイメージするようになっているのではないでしょうか


「空手をやっているのだから、それでいい。いや、それが正解だろう」

 という声も聞こえてきます。

 しかし、たしかに空手をやっていてもわれわれはいわゆる空手家ではないですよね。やわらもするし、棒も振れば刀も握る。

 正確にいえば武術家なのに、こと構えとなると、どうして空手に引っ張られてしまうのでしょうか


 ここまで考えて、裏部長はさらにハッとしました。

 構えを考えたとき、わたしのなかには自然と、「誰かと闘う」という姿勢が生まれていました。

 相手と対峙する、そのための体勢として、「構え」というものを捉えていたのです。

 
 そもそも、誰かと闘うシチュエーションとは一様でしょうか

 空手の組手のように、平らな場所で、適度な間合いをとって向かいあうことなのでしょうか。


 好戦的にならず、ごく平穏に日常をすごしていれば、誰かと闘うなどという場面は生まれません。

 もし、適度な距離をとって向かいあうような場面に立ち至りそうになったら逃げるべきです。

 見も知らぬ人に傷つけられるのも傷つけるのも、わたしは嫌ですね。そそくさと遁走します。


 しかし、そんな風にごく平穏に暮らしていても、もしかして、ということがあります。

 突発的に、ごく近距離から、一方的に攻撃を仕掛けられる、という場面です(まあそれもほとんどありませんが)。

 こんなときは、こちらに闘う意思があってもなくても、瞬間的に対応し、身を守らねばなりません。

 武術をやっている人間が、日常の場で、技をつかうというのはこういった場面にのみ発生することだと思います。


 そんな場面において、はたして、構えというものは存在するでしょうか。


 ここに至ってさらに方向転換。

 空手の型や中国武術の套路、さらには、体道における柔術技のなかで、いざ動きはじめるというとき、われわれはどう立っているか。

 ほとんどの技において、足は肩幅くらい、やや平行立ち。両腕は下に向かって垂れている――。


 あれらはいったい何を意味し、いったいどんなことをわれわれに教えてくれているのでしょうか。

 身近なところに、考えるべきことはまだまだ転がっています。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 17:23 | Comment(1) | 裏部長の日記