最近ふいに、
「武術を稽古するって、どういうことだろう」
と考えたりします。
師匠のもとへ入門して、来月で丸八年。
若輩者のわたしが、後輩たちの指導をしたり、道新文化センターで一般の方へ体道を教えたりできているのは、ひとえに師匠のおかげです。
経験に比して、このような体験ができているというのは、稀なことです。
ありがたい経験を積ませていただいています。
ただ――。
だからこそ、気づいてしまったのかもしれません。
これはあくまで持論ですが、稽古をするというのはつまり、
「自分を白紙にする行為」
なのではないでしょうか。そう思えてならないのです。
空心館に入った以上、この道場の、あるいは、自分が求めてついた師の有する武術の技術なり、基準なりを共有することが必要になってきます。
ほかの道場や日常生活のなかで習得したことはあっても、それは、純粋に、空心館の武術をやるという時点においてはまったく役に立ちません。
それを持ちだした途端に、修得の道は霧で覆われてしまいます。
つまり、修業者はいったん完全なる素人にならなければならないのです。
この姿勢を貫く場合、稽古のなかで自分の意見を言うということはなくなります。
空手をするにしても体道をするにしても、その技が、その動作が良いのか悪いのか、自分で判断するべきではないからです。
どんな些細な動きに関しても、自分で判断せず、すべて師に見てもらう。
そして、出された助言や指摘を百パーセント受けいれ、それを具現化することだけを考え、稽古する。
たしかに、いつまで経っても師がいなければどうにもならない、では話になりません。
親の脛に齧りつきつづける悪しき子のようでは、ひとりの武術家として自立することは叶いません。
しかし、それは数十年の修業を経た人間にだけ取ることを許される手段です。
この道へ、この道場へ入門してわずか数年の、あるいはそれ以下の人間がわけ知り顔でやってよい言動では決してないのです。
わたしが考える稽古論、上達論をまとめるとこういうことになります。
○道場へ入門した以上、師、あるいは先輩の教えを尊重すること。その基準を嚥下し、おのれの心身へ移植することを最優先する。
○この姿勢を持つ以上は、稽古中に自分の意見、感想、提案を出すべきではない。いやむしろ、徹底している人間であれば、発する言葉は「はい」以外にありえない。
○稽古者は自然と無口になる。
○師の発言にはつねに耳を向け、その動作を注視すべし。あたえられた助言はかならず受けとめ、返事をする。
○自分はできる、自分は知っている、自分は理解できているなどとは決して思わない。少なくとも、入門して三年を経ていない人間は、「自分はまだ空心館においては素人である」と自戒しなければならない。
人間は十人十色。
個性は尊重しなければなりません。
穴だらけの道を、どこもかしこも灰色のアスファルトで覆ってしまうように、稽古者を同じ規格でがんじがらめにする必要はないのかもしれない。
そうわかっていても、わざわざこんなことを書くのには理由があります。
それは単純なことです。
上に書いた条件に合わない人間のほとんどが、最終的に技の上達を諦め、道場を去っていってしまう。
わたしはそれが残念でならないからです。
どんなタイプの人でも、最終的に動けるようになれば何の不満もありません。
偉そうなことを言っている鼻もちならない奴でも、きちんと教えた技を教えたようにできているのならよいのです。
わたしが見てきたなかで言うと、そういったタイプの人間は皆無に等しいです。
まったくと言ってよいほどいません。
入門以前に、または道場外で仕入れてきた知識、経験、考察の結果を持ちだし、何かというと自己判断をして、正誤の結論を勝手に出すたぐいの稽古者は、やっぱり下手です。
空手にしても体道にしても、肝心の技ができないのです。
出来たようなことを言っている人間に限って、どうでもよいつまらない間違いをし、そのくせ他人のミスにはめざとく気がついて、まるで指導者のような口ぶりでそれを指摘するのです。
はっきり申しあげて、わたしはそういう種類の稽古者を好みません。不愉快です。
今日、どうしてこんなことを書いたのか。
鼻もちならない奴がいるのなら、そいつに面と向かって言ってやればいいじゃないか。
そうおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。
違うのです。
たとえば、技術面のことであれば、直接言ってあげたほうが身になるでしょう。
その技がどうしてもできない人に、こうしたらいいよとアドヴァイスをすれば、できなかったことができるようになる。
稽古とはそういうものだし、わたしは何も、やってできない人を非難しているわけではないのです。
今日書いたことは、いわば、その人の精神面、心根に関する部分なのです。
これは、直接言ったところで、叱りつけたところで、容易に変わるものではありません。
心根のことについては、その人の魅力、人間性などと同様に、最初から存在している下地のようなものです。
だから、もともと持っていない人は、何度注意してもできないし、持っている人は、わざわざ指導しなくてもはじめからそうしているものです。
言っても詮のないことなのです。
だからあえてここに書きました。
わたしもひとりの稽古者として存在している以上、何よりも自分の修業のことだけを考え、他人のことに頭を悩まさず、ただひたすらに汗を流すべきであることは重々わかっているつもりです。これらのことも、書こうか書くまいか、かなり悩みました。
その上で書いたことです。不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、ご勘弁ください。
なお、上記の内容はすべて裏部長個人の想いです。師匠の受け売りではありません。
その責任は、わたし一人にあります。
裏部長でした。


