春分の日でございます。天気はどうですか。ちゃんと春の訪れははじまっているでしょうか。
みなさま、いかがおすごしでしょうか。
近ごろの札幌支部は、とくに混乱も停滞もなく、ごく平和に稽古がおこなわれています。
今後も微細な変化や規制などはあるかもしれませんが、臨機応変に受け止めながら歩んでまいります。
さて、そんな春先の、昨夜の稽古のことです。
この三月で札幌大学を卒業し、栃木へ帰るHさんが稽古に参加し、わたしもひさしぶりに顔を合わせたわけですが、なんとそこには、彼女のご家族も勢揃い。引っ越しなどの手伝いもあって、来札されたのだそうです(しかも栃木から車で!)。
なので昨夜は、師匠、Hさん、Hさん父、Hさん弟、裏部長、すこし遅れて師匠ご子息、という、バラエティに富んだメンバーでの稽古となったわけです(Hさん母も最後までご覧になっていました)。
ふだんだと空手はもちろん、体道や刀にも時間を割きますが、昨日はほとんど空手に終始しました。
弟さんは本部道場で師範の薫陶を受け、父君は長く武術に携わっているということで、そこには深い洞察やさまざまな疑問、葛藤、揺らぐことのない真摯な姿勢があり、昨夜はそれに師匠も目一杯応えるという、しずかななかにも熱気あふれる稽古となりました。
きっと師匠が説くやり方と、師範や、本部道場のみなさんが導かれるやり方は異なるでしょうから、同じ技や理合に接していても刺戟は感じられたのではないでしょうか。
われわれも最近はここまでたっぷり空手を稽古することがなかったため、ひさしぶりに汗をかき、爽快ささえ感じたほどです。
Hさん、そしてご家族のみなさん、貴重な夜をありがとうございました。
わたしたちが日ごろ接している技のほとんどは、やはり空手なのだなあと常々感じます。
突いた、蹴った、突かれた蹴られた、だけが空手ではなく、もちろん根性論や痛みに耐えるだけが空手でもありません。
名前のない、手のかたち、足まわりの動き、そういったものが技になってゆくけれど、それは単に「攻撃」「受け」とカテゴリーに分類できるものではなく、また、相手を素手で崩しているから「柔術的だ」と断ずるのもまた違うような気がします。
唯一言えることは、それらをひっくるめて、すべては「空手である」ということだけなのでしょう。
だから、そういった広義的解釈を踏まえた上でならば、
『空心館は空手の道場である』
と言って差し支えないのでしょうね。
裏部長でした。