2016年08月28日

柔の本質

 こんにちは。裏部長です。


 お暑うございます。札幌では、この週末あたりは急に涼しくなりまして、湿気をほとんど感じない、北海道らしい夏のひとときをすごせています。ずっとこれくらいの日々がつづいてくれると楽なのですが、明日からはまた鬱陶しい天候が再開されるようです。


 あとすこしの辛抱です。





 さて、オリンピックが閉幕しましたね。


 これまでにない数のメダル数だとか、史上初だとか、そんな文句が踊り、メダリストたちは帰国するや否や、さまざまなTV番組に駆り出され、大忙しです。昨夜は競泳のメダリストに息止めの対決をさせていました。話題になるというのはいろいろと大変なことです。




 わたしはさしてスポーツに興味はないのですが、TVをつけてやっていると何気なく見てしまいます。


 こないだも、TVをつけたら女子レスリングの試合がやっていたので、夕食をとりながらぼんやり見ていました。あいかわらず、どうもレスリングのルールはわかりづらいなあとか、霊長類がんばれ!とか、それなりに日本勢に肩入れをして応援していたのですが、そのときふいに疑問をおぼえてしまったのです。


 たとえば、片方の選手が果敢に攻める、タックルにゆく、後ろにまわろうとする、首に手をかける、さまざまな角度から攻撃を仕掛けるのだけれど、もう片方の選手はそれをかわす、足を逃がす、腰を落として耐える、など、とにかく受け流すことに専念している――と、そんな状況があるとしますね。


 こういう場合、すぐに審判が試合を止めて、後者の選手に注意をあたえます。消極的だと、もっと攻めなさいと言うわけです。それで試合再開。また攻防がはじまるけども、そこでも足を下げたりいなしたりしているとまた注意を喰らって、三十秒の時間制限がつきます。


 これ、その時間内に点を取らなければ相手に有利になるというルールらしいのです。半強制的に攻めさせる手というわけですね。


 これを見たとき、「へえ、レスリングにはそういうルールがあるのか」と素直に感心しつつも、次の瞬間には疑問に思っていました。「これって、本質的におかしいんじゃないか」と。




 上記のシチュエーションの場合、一方の選手があの手この手で攻めまくるのを、もう一方の選手がとにかく受け流して、いなして、技をさせまいと防禦にまわっている、それだと試合が進まない、決着がつかないからルールで禁止して、攻撃させるように指導をする、という内容があるわけですが、そもそも、どうして攻撃をしている選手は技が決まらないのでしょう。相手が受けに徹しているから? わからなくはないですが、そうされてまるで決まらないのなら、攻撃している選手の攻撃が駄目なのではないでしょうか。相手が受けに徹したくらいで、かわされるばかりの攻撃は、攻撃として成立していないような気がします。


 これは柔道を見ていても感じます。師匠に伺いますと、柔道では過去に、受けに徹していても問題ない時代があったそうですが、それでは試合時間が長くなってしまうので、ルールで禁止したそうですね。こちらでも、袖や襟をつかんで崩し、足をかける、腰にのせるなどして、投げにゆこうとする相手に対し、それに耐える、体を逃がす、距離を取るなどという対応をしていると、たちまち審判に言われてしますが、レスリングと同様の疑問を感じざるを得ません。


 攻撃している人は、どうしていつまで経っても決められないの?




 これはもしかしたら、互いに世界のトップクラスで、実力が拮抗しているために、そう易々と技は決まらないのだ、ということなのかもしれません。しかしわたしはあえて、こういう説を提示したい。



そもそも柔の技は、自ら攻撃するものとしてできていない




 これまでわたしが体道のなかで教わってきた柔術を見ても、その他の流派を見聞しても、そう感じてしまいます。常日頃、師匠から教わっているような、相手からのアプローチがあってはじめて技が生まれるというあのスタンスこそ柔術の根幹であり、また本質であるとするならば、その柔術をもって、こちらから積極的に相手へ攻めこんでゆくような行為そのものが矛盾しているのではないか。


 われわれが空手で突きや蹴りなどの攻撃を学び、体道のなかでも、刀や杖などで攻撃する術を稽古することはありますし、それはとても重要なことながら、そういった意味の攻撃と、柔術としての攻撃というのはいささか質的に異なっています。後者にはもともと、本質的な矛盾があるような気がします。



 
 これが最近わたしのなかで生まれた疑問です。



 じつは、この話を引き延ばしてゆくと、師範から伺った「肉を食べると攻撃的になる」というあのお話とも通じてくる気がするのですが、それはおいおい検討してゆきたいと思っています。



 

 裏部長でした。 
posted by 札幌支部 at 16:09 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年07月30日

縄暖簾

 おはようございます。裏部長です。







 朝っぱらから内輪の話をします。




 先日のある稽古の後半、体道をやっているときの話です。ここ最近の札幌支部のメイン・メンバーであるIさんが天心古流の「両手裏投」を教わった際、手と体の連動を意識する過程で、こんなことをおっしゃいました。


「ということはつまり、力を入れて手と体を固めて動くということですね」


 この技をご存じの方であればわかっていただけるでしょうが、動きだすときに最初はどうしても手と体が分離してしまいます。当然、体だけ行っても相手は崩れないし、手だけ先行させようとしても動かない。全体がひとつとなって、みんな一緒に動かなければ成功しない技なのですが、言わずもがな、力を入れてしまうことは避けたいわけです。もっと自然な状態で、身体をまるごと動かしたい


 そのときは、Iさんの受けをわたしが取り、師匠が指導をされていたので、裏部長としてはただされるがまま相手の両手首をもっていればよかったのですが、ふと考えてしまったものです。


自分は、どういう感覚でそのひとつになるという状態を実現させているのだろう?




 そのときの稽古ではわたしも「両手裏投」をやってみました。上記のやり取りがあり、自分のなかで再点検しながらの捕だったもので、いろいろと感じることがありました。


 どうして手と体が分離しないのか。身体の節々に力を入れて固めているわけではないのに、なぜひとつになって動いてくれるのか。


 そのときのわたしの答えとしては、


そこに相手がいてくれるから


 というところに落ちつきました。




 目の前に相手がいて、両手でこちらの両手首をつかんで立っている。その状況下で「両手裏投」という技をやるので、前にゆくにも後ろに引くにも、左右どちらかへ進むにしても、かならず相手がついてきてしまいます。一見するとかなり鬱陶しい感じがしますが、そのときのわたしにとっては、そういう状態のほうがありがたくて、相手が自分とくっついて立っていてくれるので、技をやる過程で身体を分離させることなく動くことができました。言うなれば、相手の存在が自分を調えてくれる、そんな感じでした。



 冷静になってあとから考えてみれば、結局は、相手を敵対する存在、攻撃しダメージをあたえたい存在と考えず、ともに技をおこなうパートナー、噛みあうふたつの歯車、そんな風なイメージで向きあうことで可能になった動きだったのでしょう。相手とひとつになる相手と反発しない。ここ数年、大切にしてきたことそのものでした。



 先日のブログ同様、このスタンスはすべてにおいて重要だとわたしは考えます。「両手裏投」は天心古流の中目録の技で、順番としてはかなり最初のほうですが、ここまで大切なことを教えてくれます。



 体道はあなどれません。




 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 09:11 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年07月24日

ただそれだけのこと

 こんにちは。裏部長です。


 七月も終盤となり、本州ではかなり鬱陶しい日々がつづいているようですが、皆様いかがおすごしでしょうか。札幌はいまだに真夏日がなく、日中はそれなりに気温は上がるのですが、夜になるととたんに肌寒くなり、半袖から出た腕をさすってしまう今日このごろです。





 今日はあらためて、ごくあたりまえのこんなことを。





 ふだんの稽古のなかで、空手をやるにしても体道をやるにしても、一貫して意識しているのは、「相手からのアプローチがあって技が生まれる」ということです。


 大きなブルドーザーのような重機でさまざまなものを圧してゆくような、なぎ倒してゆくような強さ、重さ、太さを求める人は多いでしょう。そういった状態の身体を目指して鍛えている人もいるでしょうし、伝わってきた教えとして、そのような肉体を追求する流派もあるはずです。



 しかし、われわれは違います



 わたしたちが稽古しているものは、終始一貫、どちらかといえば「受け」目線です。攻撃と防禦で言えば、後者ということになるでしょう。




 攻撃はみずからおこなうことができる、とても能動的な動作です。自分の裁量で、自分のタイミングで、自分の意思で、繰り出すことが可能です。しかし防禦は、自分で勝手にやったところで、それは防禦の動きをやったことにはなるかもしれませんが、防禦をした、ということにはなりません。


 防禦は、攻撃があってはじめて存在します。相手からのアプローチがあり、そこでようやく生まれるものなのです





 空手を習いはじめてすぐに、「相手を受け入れる。相手に突かせてあげる」という一事を教わります。これはとても大きなことで、空手にかぎらず、すべての技に通じている気がします。



 逆に言えば、このことさえ忘れずにいれば、大きく道を踏み外すことはない。わたしはそう感じています。






 稽古の過程にはさまざまな場面があり、そこにいるわれわれも機械ではなく人間ですから、さまざまな精神状態のときがある。もちろん、その振り幅を小さくしてゆくこと、変動しないこと、惑わされないことも、修業の目標なのですが、すぐにそこまでの境地には至れない。悩んだり間違ったりをくりかえします。



 ただ、上記の大切な一事だけは忘れてはいけない。


 この姿勢の上にすべての稽古が成り立っているのです。








 今日は、ふだんの稽古のなかでごくあたりまえに教えられていることについてあえて書きました。




 ただそれだけのことです。

posted by 札幌支部 at 13:15 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年06月12日

マリオネットの夜

 こんばんは。裏部長です。



 2016年も折り返し地点に近づき、世界はすっかり初夏で、青い空と強い風がなんとも心地よい今日このごろ、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 最近の札幌支部は、時期的なものでしょうか、すこし参加者がすくなくなっているものの、熱心な人はなお熱心に、それほどではない人もそれほどではない熱量をもって稽古をしています。時間は確実に進み、少年部に長らくかよってきていたHくんが中学生になりました。身体も大きくなりはじめ、札幌大学に来られたとき三十代だった師匠もいまやアラフィフ。


 そんなことを言っているうちに、今年も気づけば大晦日、なんてことになっている気がします。






 継続的に稽古へ参加していると、ふとした瞬間に、思いもよらない感慨に浸ることがあります。


 たとえば、体道の稽古のなかで、自分よりも後輩の人の受けをとっているとき。柔術の技で、師匠が傍らで見ていて、試されているのは捕をしているその人であって、わたしはただ受けをとっていればよいのですから、へんに頑なになることもなく、もちろん不真面目につきあうのでもなく、相手が滞りなく技ができるように、手首をもったり胸倉をつかんだり、突いたり打ったり刺したりするわけですが、そんななかでも、ふと思うことがあるのです。


技をやるとき、人はなんと多く無駄なことをしているのだろう


 段取りがわかり、動作の流れがわかり、結末までのテンポがわかれば、ある程度は動いてみせることができます。ひとりよがりにならないとか、力まないようにするとか、そういった点では各人の力量が現れますが、それはそれ、いまの自分のレヴェルでやればよいのです。それ以上のものは求めたとしても詮のないことなのですから。


 しかし、そうとわかっていても、人は技をやるとき、無駄に力み、無駄に大ぶりし、そうかと思えば収縮して硬くなり、窮屈になって苦しみます。そんな動作も我慢もまったく必要ないのに、してしまう。すればするほど悪循環で上手くいかなくなってしまうというのに、ほとんどの人はそうしてしまう。



 ああ、なんと切ない話だろう。相手を倒そうという意思があるからいけないのだ。こう崩して、こう押し込んで、こう落としたいという思いが邪魔をする。なくしてしまえばいい。自分のなかをからっぽにして、過剰に反応する筋肉もすべて剥ぎとって、骨格とそれを吊る糸だけのあやつり人形になってしまえばいい。そうして、技の動きをただ踊る。そうすれば、あんなに苦しまずに済むというのに。




 そんなことを思いつつ、またべつの日、空手をやる。突きをやる、蹴りをやる、あるいは型、約束組手。課題と向きあいつつ、汗を流すわけですが、ふいに、からっぽな自分は恐ろしいなと思ってしまうのです。


 からっぽにするということは、頭のなかも空洞化するわけで、脳がない状態です。考えることをなくしてしまう。ただやる。ただ動き、ただ突き、ただ技をやる。自分を、それをするためだけのガラスの器にしてしまう。考えるから余計に力み、余計に悩み、悪循環に陥ってしまう。ならば、そもそもの問題の源泉を止めてしまえばいい。


 しかし、どうだろう。技というのはつねに相手がいるものです。相手に力を伝えるものです。力を伝えるには、自分でその力を感じられなければいけないでしょう。その重さを、その速度を、じゅうぶん自分で把握し、認識した状態でなければ、それを相手へつかうところまで行けません。感じるということと、考えるということはどこかでつながっていて、どちらかを放棄すると、そこで成長が止まってしまうような気がしてくるのです。




 考えるから悩み、考えるから感じられる。己の肉体を人形のように扱えれば、硬さや不必要な重さからは解放されるけれど、血液は行き渡らない。神経が行き渡らない。そんな状態で、あの技ができるわけがない。



 

 先日、師匠とのあいだで、ある人形玩具の話が出たため、今回はそれに無理くりくっつけて書いてみました。なんだか妙に小難しい話になってしまいましたが、要は、ひと筋縄にはいかない、ということなのです。どちらか一方の考えと姿勢でよいのなら、みんなあっという間に成長して、世界は達人たちで覆われてしまうでしょう。


 このぐらつく舟を漕いでゆく旅路にいかに順応するか。結局はそういうことなのだと思います。


 裏部長でした。




posted by 札幌支部 at 19:08 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年02月28日

波紋

 こんばんは。裏部長です。


 なんだかんだで、二月もあと一日です。

 季節は春へと近づき、花の便りもちらほら届く頃あいとなりました。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。






 
 最近の稽古では、よくワン・ツーをやっています。



 約束組手というと、何よりもまず追い突きでありまして、それはいまも変わっていませんが、今年に入ってからはそこへ、すこしずつワン・ツーが入ってきています。




 こないだの稽古で、師匠が言ったことばが印象的でした。


これまでやってきたワン・ツーはワン・ツーではない。ワン・ワンだ


 面白い表現と指摘だなと感じました。そして、実際にその違いを目のあたりにすればするほど、たしかにワン・ツーというよりはワン・ワンなのでした。言い得て妙というのはああいう状況をいうのでしょうね。




 この稽古をきっかけに、師範のことばも思いだしました。札幌での稽古だったか、本部へお邪魔したときのひとコマだったか、記憶が定かではないのですが、ワン・ツーの話になったときに、


いまはあたりまえにワン・ツーと言っているが、これはもともと、刻み突き・逆突きである


 まあ、そりゃそうだと思うでしょう。たしかにその通りで、空手をやっている人ならは即座に肯けるはず。



 しかしね、先ほどの師匠のワン・ワン発言とつなげて、これはたやすく看過してはいけないことばだと思うのです。






 ワン・ツーというのはつまり、突きを二本立てつづけに出す動きのことですね。追い突き・逆突きというのと変わらない、コンビネーションの技のことです。


 この動きを考え、成長させてゆくには、いきなり全体を捉えるのではなく、追い突きのときがそうであったように、まず一本目の刻み突きを研究するべきです。約束組手で散々いろいろとたった一本の追い突きをやっているように、刻み突きにおいても、それ相応に掘りさげられる余地はあるはずです。


 一本目の刻み突きを磨き、変化させ、向上させてゆくと、当然ですが、それに隣接している二本目の逆突きも変わってゆかざるを得ません。現に、刻み突きの出し方、そのときの身体のつかい方を錬ってゆくと、おのずと逆突きも違ったものになり、結果、ワン・ツーという技が技としてようやく誕生するというわけですね。



 ワン・ツーとひと息に言ってしまえば、馴染みのあることばですが、これをまず「刻み突き・逆突き」に分解し、その一本目、刻み突きを単体でまず考えること。そこに変化が生まれ、身体の動きが質的に変わったら、そこではじめて二本目の逆突きをつけて、また新たに考えてみる。すると、二本目の逆突きも変化してくる。ただしここで安心していけないのは、二本つづけてやってみて逆突きに手ごたえが出はじめると、今度はあれだけ意識して取り組んでいた一本目の刻み突きがおろそかになり、ただ手を出しているだけになってしまいがちです。ここをさらに注意して、一本目の刻み突きも、二本目の逆突きも、両方きちんと活きた攻撃としてのワン・ツー、正真正銘のワン・ツーを目指していかなければなりません






 と、わかったようなことを書きましたが、これが今後の、わたしの課題でもあります。忘れないように、ここに記しておきました。



 さて、これからどうなることやら……。



posted by 札幌支部 at 18:32 | Comment(0) | 裏部長の日記