2017年01月07日

餅屋の道楽

 おはようございます。裏部長です。

 みなさま、あけましておめでとうございます。本年もみなさまにとって、よりよい一年でありますことをお祈り申しあげます。




 さて、昨夜は札幌支部の稽古初めでした。


 とはいえ、師匠とわたしのほかには、婦人部のIさん姉妹がいるだけの淋しい稽古で、前半、みんなで八段錦、二十四式と十三式の太極拳をやったあとは、婦人部のおふたりも帰ってしまい、こちらもふたりしみじみと、空手の型をやって終わりました。


 わたしは新たに「慈恩」を教わりました。ところどころ見たことがあるような、しかし全体的にはすこし不思議な型で、みっちり教えていただきました。空手には、ほんとうにいろいろな型があるのですね。




 2017年も、さまざまなことを学び、考え、悩みつつもたのしみ、前進してゆく一年にしたいものですが、肝心なことは肝心なこととして中心に据えて、決して怠けないことをひとつの個人的な目標にしてゆきます。



 よく、「餅は餅屋」などと言います。わたしも、空手と体道をやっている人間である以上、この表看板たる空手と体道を怠ってはいけない。その研究を、その研鑽を、まず第一に考えなければなりません。




 ただし、これは昨年末にも書いたことですが、それだけにかかりっきりになって、頑なになって、自由な発想と旺盛な好奇心を失ってしまっては、豊かな学び、豊かな表現はできないとも感じています。やはり、どの場面においてもたのしむこと。能動的に取り組むこと。この姿勢を忘れないことです。



 とにもかくにも、2017年、よろしくお願い致します。



posted by 札幌支部 at 11:08 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年12月28日

畏れをもって臨む

 こんばんは。裏部長です。

 2016年も残すところあと数日となりましたが、みなさま、元気でおすごしでしょうか。



 師走の札幌は、昨日の師匠の記事にもあった通り、大雪につぐ大雪で、路面はどこもかしこも凍結し、歩行するだけでさまざまな感覚が鍛えられる修行場と化しております。車の運転にもじゅうぶん注意しなければなりません。


 稽古納めがあった今週の月曜日、いつもは車で三十分弱かかるところを、渋滞と車道の凸凹に遮られ、一時間以上を要してようやく大学へたどり着いた裏部長です。停車し、外へ出たときには、長時間の振動にさらされたせいか、運動らしい運動をしていないにも関わらず、すでにヘロヘロでした。



 恐るべし、雪道!





 さて、最近はふとこんなことを考えたりしています。


 フィクションのなかで、裏組織に属している人間が裏切り者へ銃口を向けてこんな台詞を言う場面がよくあります。

秘密を知った者は、もれなく消えてもらう。例外はない

 しかし、勧善懲悪の流れがある作品において、そういった悪は最終的にかならず暴かれ、成敗されますね。


 それはなぜか。


 答えは簡単で、彼らはその例外はない≠ニいうルールを徹底できず、どこかに自ら落とし穴をつくってしまうからです。




 鉄の掟をつくり、それを寸分違わず守りつづけていれば、秘密が暴かれることはないのです。粛清する手をほんのすこしだけゆるめたり、油断して監視する途中で目を離してしまったり、慢心から余裕を感じてつい無駄な猶予をあたえてしまったりしたがために、そこから囲いを破られ、ついには破滅まで追い込まれてしまう。


 徹底していればよかったのです。心を鬼にして、甘えず、迷わず、冷静にルールを守りつづけていれば、きっと彼らの悪が表沙汰にされることはなく、人知れず生き残っていけたことでしょう。


 恐ろしいのは、その人間の甘えなのですね。





 もちろん、裏部長は悪を肯定するものではありません(むしろその逆です)。いまはあえてわかりやすいようにこんな例をあげてみただけです。




 稽古をしているなかでも、そんな風に痛烈に、猛省することがよくあります。


 必要なことはわかっているのです。しかし人間だから、どこかで甘えが出て、慢心に陥り、このくらいのゆるみがあってもいいよね、大丈夫だよね、問題ないよねと自分を説得して、その徹底を怠ってしまう。武術とは動作のなかにあるものです、相手がいることです。ことここに至ってようやく、

しまった!!

 と思うのですが、あとの祭りです。ただ、おのれの未熟さを呪うばかりです。




 来年はどうにか、この徹底ということを自分に課してゆきたい。それも、絶対にこうでなければならぬ、何がなんでもこうしないではおかない、というような、堅苦しい、頑なな姿勢ではなく、全体としてはやわらかな、自然体な自分でいて、そのなかでゆるやかに、しかし厳然と、大切なことを貫いてゆく生き方。これをごく当然のこととして実践できるようになりたいです。



 とはいえ、「しまった!!」と気づき、反省する瞬間にこそ成長がある、という気もするので、上記のようにわざわざ目標のように掲げて、ことさら意識しすぎるというのも、なんというか……。


 ……

 ……

 あっ!

 いかんいかん!


 もうすでに甘えの悪魔が囁きはじめたようです。これだから人間は過ちから逃れられないのです。






 裏部長の葛藤まみれの挑戦は2017年もつづきます。


 みなさまも、有意義かつ晴れやかな一年をお迎えください。



 それでは、よいお年を!
posted by 札幌支部 at 19:10 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年12月27日

心気も新たに

ずいぶんと久しぶりの投稿です。

昨日、無事に今年の稽古も終了しました。
記録的な積雪による交通障害のなか参加してくれた皆さんお疲れさまでした。
参加できなかった人も、今年一年お疲れさまでした。

今年も札幌支部は、落ち着いて稽古ができたと思います。
春には卒業生や卒業年次生が参加できなくなってさびしくもなるのですが、裏部長さん、Iさん、子どもたちを中心に、淡々と練習を重ねられました。

子どもたちは新たな仲間が増えて総勢7名。
当初は賑やかでしたが、大きくなってきてまじめに取り組める時間が長くなっても来ました。

大人では秋から3年生のK君が新たに参加。
武道経験者でもあり、まじめに取り組む姿勢からも、めきめきと実力をつけつつあります。
4年生になってどれくらい参加できるかわかりませんが、来年も楽しみです。

Iさんは念願の本部遠征を果たして、あらためて面白さと技の妙を実感されたようです。
本部のY師範代が同年だったのもさらなる刺激になったようです。

裏部長さんには、いつも助けてもらっています。
年明けには慈恩を教えるので、次の段位に向けて型も技もさらなる向上ができるよう、指導機会を増やしたいと考えています。

婦人部は、太極拳指導員でもある方が時折参加してくれることもあり、私の行き届かない練功部分まで意識されるようになり、大変そうですが面白く稽古されています。
ほぼ自主練になってきていたので、こちらも来年は指導機会を増やしたいと思います。
私自身の練習機会のためにも。

私自身としては、今年は初の海外での発表機会があったのが大きな出来事でした。
恥ずかしながら外国語の習得がおぼつかないので、20分の英語での発表は大変でした。
でも、あらためて海外の武術研究者との交流の必要性も感じられ、思いもよらぬ出逢いもあり有益でした。

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あとは、大学生向けの教科書シリーズで『スポーツ・運動・パフォーマンスの心理学』へ寄稿できたことも、これまでの仕事に一区切りという感があります。
日本科学未来館での忍者展(現在三重県の博物館で巡回展実施中)にも参加させていただきましたが、「忍者」をテーマに、武術する身体と心の側面を考えてきたことも一つまとめられたかと思っています。

来年は、これまでの仕事に頼ることなく新たなテーマに挑む必要があると考えています。
稽古の方でも、体道の未修得領域をしっかりと学ばなければなりません。
みんなとともに成長する一年としたいと思います。

それでは、また来年もよろしくお付き合いください。
posted by 札幌支部 at 12:11 | Comment(0) | 師範の日記

2016年10月29日

塩麹

 おはようございます。裏部長です。



 札幌では先週初雪が降り、この週末から週明けにかけても雪マークが天気予報上に出ております。秋の寂しさ、切なさを味わう前に、冬へのカウントダウンがはじまり、寒さに立ち向かう日々です。


 そんななか、裏部長は数日前に寝違えたようで、ここ二日ほどは顔と身体の向きが同時です。これまでの人生であまり寝違えたことがないので、この症状がはたしてほんとうに寝違えたことによるものなのかどうか判断が難しいですが、とにかく不自由しています。


 いまもまだ、首がまわりません。いろいろなことに。





 さて、札幌支部では学生がひとり稽古へ参加するようになり、窓の外の冬めいた気温とは打って変わって、おだやかに、にこやかに、すこやかに身体を動かしています。



 しかし、まあ、空手の稽古をしていても、感嘆することしきりです。まだ出てくるか! まだこんなやり方があったのか! と、驚愕ししつも感嘆せずにはいられない瞬間が山ほどあります。


 昨夜の稽古でも、目から鱗どこか網膜さえ剥がれ落ちてしまいそうな教授を受け、これをものにしなければという思いを強くしました。


 それは、言うなれば、いますぐ欲しい味のために、塩や醤油やソースをぶっかけるのではなく、素材を漬け込み、じっくり寝かせて味を変化させるかのような、一時期流行った塩麹のような技でした。質の変化。ただただその一点に尽きます。





 こういう内容の稽古をどれだけ重ねられたか。重ねるためにはどうしたらよいのか。

 自問することはまだ多くありそうです。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:06 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年10月25日

体を旅する道

 こんばんは。裏部長です。




 最近、稽古をしていてふと感じたことがありました。以前にもそういったことは、自覚的ではないしても、頭のなかでは、稽古をしている以上きっと感じるだろうなとわかってはいましたが、実際に感じた経験は乏しく、あくまで認識どまりでした。それがようやく身をもって感じられるようになったので、ここに記しておきます。


 それは、体道のカリキュラムに関係することです。





 体道を習いはじめた人間は、まず日本伝天心古流拳法という流派を学びます。最初にやるのは柔術で、七十二本の技があります。これにつづいて、二番目にやるのは浅山一伝流体術。こちらも柔術で、技数は五十六本。類似している技もいくつかあり、地つづきの感があります。


 経験がある者もまったくの初心者も、よほどの事情がないかぎり、最初にこの二流派を学びます。約百三十本の技を、スムースにいっても二年以上かかって稽古するわけです。


 この段階で、最低限の柔術のエッセンスが身体のなかに流れこみます。素手で相手を制する方法、押さえ、投げ、絞め、極める動きとそれを受ける動きを教わります。


 ふたつの流派を終えたとき、身体のなかにはベーシックな柔術の要素があるはずです。




 さて、その次に出てくるのが、日本伝天心古流捕手術です。という短い棒をつかった技で、基本的には柔術なのですが、たった一本の短い棒が介在するだけで、その雰囲気は変化します。また相手に対して、挫で受けたり挫で打ったりする場面もあり、それまで馴染んできたベーシックな柔術とは違う技法に翻弄されます


 これを、前期後期あわせて七十二本教わります。

 前期と後期のあいだに、武具の流派が入ります。

 日本伝天心古流杖術内田流短杖術です。



 ここで急展開、入門当初からやってきた柔術は姿を消し、杖という異物をもって相手と対峙することになるのです。


 杖とはただの木の棒で、なのに相手は刀で来るという設定なので、厄介です。師範が以前おっしゃっていましたが、

「腕の立つ人なら杖など斬り落とされてしまう」

「同じ腕前なら刀をもっているほうが勝つ」

 ということらしいので、厳密に、杖の技を駆使して刀に対抗せねばなりません。



 柔術や挫の技に馴染んでいた身体に、ここでまた新たな刺戟が投入されるのです。それに、杖だけではありません。技をやるためには、受のほうも担当するわけで、そこでは刀の扱いを学びます。どうすれば斬れるのか、杖の攻撃を刀で受けるにはどうしたらよいのか、ということなどもここで教わります。




 さて、柔術をやった、挫をつかったすこし変わった柔術の技もやった、杖も短杖もやり、刀の初歩も学んだ、そのあとにはいったい何が待っているのか。


 神伝不動流体術です。


 ああ、ようやく素手でやる柔の技にもどったのかあ、と安堵したのもつかのま、出てくる技は、それまでの天心古流や浅山一伝流などでやってきたものとはまるで違う、個性まるだしの激しい技ばかり。飛んで飛ばされ、廻り廻され、稽古が終わるころには髪型も化粧もあったものではない。とにかく、これまでとはずいぶんと趣きの異なる技のオンパレードなのです。


 ここでまた新しい刺激に出逢うわけです。素手でやる柔の技であるにもかかわらず、ここまで違う動きがあるのか。捨て身の技ではこういうふうに身体をつかうのか。鈍重な肉体だと動けず、しかし軽いばかりでは技にならない。いくつもの瞬間に対応できる身体と動作が求められます。


 畳の上を右へ左へ。風流な名前に出合ったかと思えば急にお風呂屋さんを投げたりなんかして、この神伝不動流が終わったあと、次に教わるのが、柳生新陰流仕込杖です。



 わたしは今月から、この流派に入ったわけです。





 いやあ、驚きでした。上に書いたように、天心古流などの杖術をやっていたときに「刀に対して杖はこうつかう」という、常識といいましょうか、杖術のセオリーみたいなものが頼りなげであったにせよ体内に残っているなかで、この仕込杖の技を目の当たりにすると、しばらく混乱してしまいます。


 たしかに、ふつうの杖と仕込杖は違うものですから、おのずとそれを用いた技も変わってくるわけですが、わたしには新鮮に映りました。そして、教わった技をノートに記しているとき、ふいに、これまでに感じたことのない刺激が体内へ流れてゆくのを自覚したのです


 それはまさしく、ふだんつかっていない脳細胞へ電気信号が走るかのように、微弱ながらあたたかく、手ごたえがあって、新しいものでありながらこれまでに習った技たちとリンクするような、互いが互いを求めているような感覚でした。


 だから、そのとき思ったのです。


武術の稽古とは、こうして毎回異なる刺戟を受け取ることなのではないか」と。






 柳生新陰流仕込杖が終わると、たしか次は不遷流だったと思いますが、こちらもこちらで、個性のかたまりと言いましょうか、畳の上の社交ダンスと言いましょうか、またまた変わった技のようなので、いまからその刺激に出逢うのがたのしみであります。





 
 なんだか地味な話で申し訳ありません。


 裏部長も、こんなことを噛みしめられる齢になったのでした。
posted by 札幌支部 at 19:00 | Comment(0) | 裏部長の日記