2025年02月11日

do be <私見>

 こんにちは。裏部長です。

 今日は建国記念の日であります。晴れていたのに、いまの札幌は雪が降りしきっております。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 祝日だからというわけではありませんが、本日はもうひとつ、師匠からの教えをひとつ記しておきます。

する≠ニなる≠ヘ違う

 これです。


 単にことばの表現の違いといえばそれまでなのですが、質として、また動きのなかに生まれるパワーとしても、これは大きな違いであります。

 相手をこの位置に崩そう、倒そう、押さえつけようとしているのがする≠フ段階

 技をおこなうことで、相手がその位置に崩れてきてしまう、というのがなる≠フ段階です


 われわれは武術において、このなる≠フ領域に進まなくてはなりません。どうにかする≠フではなく、おのずとそうなる°Zを体現せねばなりません


 この教えを受けて、ここからは裏部長の私見でありますが、人には向き不向きということがあります

 適正。得手不得手。相性のよしあし。それは当然、稽古者と武術の関係においても存在します


 われわれがやっている武術。われわれが実践したいと志している技。こういったものは、その内容がどんなに素晴らしいものであっても、そういった技を身につけたいと思えない人にとってはさして価値のあるものではないのです。


 その人のなかに、たとえば体道のなかでやっている技のような、ああいった感触、ああいった速度、ああいったニュアンスを生みだす技をやりたい、できるようになりたいという気持ちがなければ、どんなに稽古を重ねてもそれは徒労で、無駄なことです。


 本気でそういう技を得たいと思わない人には、そこにどんな有意義な助言や見本やヒントを提示しても、本心の部分で関心をもてていないので惹かれることがありません。また逆に、技をやっていて上手くゆきかけるような瞬間で出合っても、心が惹かれていないのですから、そこに感動は一片たりとも生ずることがないわけです。


 まさにそういう状態を「暖簾に腕押し」と言うのでしょうね。


 師匠はやはり師匠で、教え導くプロであるため、どんなタイプの稽古者へ対してもサジを投げるということをしません。主観を交えず、感情を滲ませず、その人のできていないところを見極め、指摘した上で、技をおこなうにはどのようなことが必要なのかを根気強く提示しつづけます。


 わたしは、人間としても稽古者としても未熟であるせいかもしれませんが、そういう指導ができません。


 自分のためにも、その稽古者のためにも、

「この武術を、わざわざあなたがやる必要はない。もっとほかに、あなたに適したものがあるはずです」

 と言いたくなってしまいます。


 武術に限らず、そこへ意識が向いていない者には、何を提供しても無駄。堂々巡りの、暖簾に腕押しです。


posted by 札幌支部 at 13:35 | Comment(0) | 裏部長の日記

zero one <師伝>

 おはようございます。裏部長です。

 今日は建国記念の日であります。札幌はいまのところ穏やかな天気であります。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 祝日だからというわけではありませんが、本日は、師匠からの教えをひとつ記しておきます。


 体道の稽古をしていたとき、ある稽古者へ向けて授けられたことば。

(体道の)技は0か1なんだよ

 これ、どういうことかと言いますとね――。


 たとえば柔術の技において、相手を下方へ押さえたり、投げたりする動作があった場合、その手を、その肘を、その腕をとって崩してゆくところのライン軌道というものはいつもかならずひとつなのだ、ここを通してゆくと崩れを生むことができる正解の場所があり、それはつねにひとつなのだ。

 ということなのです。


 これは、ある程度のヴォリュームで体道を稽古してことのある者にはピンと来ることばですよね。


 たしかに、その技のその動作においては、上手くゆくコースというのは唯一無二、ここしかないという軌道の上にしかありません。技をおこなう者は、いかに自然に、いかに無理なく、その軌道上を必要最低限な力加減で動けるか、ということを求められます


 このときの稽古で、師匠はつづけてこうもおっしゃいました。

でも技が上手くゆかないとき、0か100になってしまうんだよ


 相手を押さえたい、投げたいと思っても上手くゆかず、膠着状態となると、稽古者は、こうしてみてはどうか、それが駄目ならこうならどうか、と、ありとあらゆる方法を試みるものです。

 ここを引いてみてはどうか、反対に押し込んでみたらどうか、上げてみようか、下げてみようか、つかんでいる手を握り締めてみる、体の芯の部分を締めてやってみる、目一杯力んでみる、足を踏んばってみてはどうか、腰を落としてやってみては……etc


 しかし、先に書いたとおり、技が上手くゆく軌道はつねにひとつですいくらそのような試行錯誤を、たとえ100通りやってみたところで、上手くゆかないものは上手くゆかないのです


 この日のこの教授風景は、端から見ていて大いに納得、感心しきりでありましたが、それと同時に、体道のおこなう者、われわれとしては、どのような技をどのような場面でおこなうことになっても、この「たったひとつの正解」をつねに全うしなければならないのだということを突きつけられているような気がして、姿勢が正される思いでした。そして同時に、だからこそ体道のなかでは、数々の柔術のほか、各種武具の技などもおこなうのだな、この「たったひとつの正解」を手にして実践する体験を数多くすることが体道をやるということなのだな、とも感じ、さらに大いに肯かされました。


 深く、重く、煌めくような教えでした。


posted by 札幌支部 at 09:43 | Comment(0) | 裏部長の日記

2025年02月09日

飛んで死に入る脇の下

 おはようございます。裏部長です。


 本日、裏部長はまたひとつ、年を重ねました。

 もうすっかり中年、いや、厳密に言えば初老の域であります。

 紅顔の美少年であった裏部長も、いまや立派なナイスミドルに――。

 えっ、ナイスミドルはとんでもない死語だ?

 いやそもそも、紅顔は言いすぎだ? お前の顔は紅顔じゃなく傲慢だ?

 て、手厳しいッ!


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 話題は急に真面目になりますが、最近ふとこんなことを考えました。

得物において相手に分がある場合、いかにこちらの間合いで技をおこなえるかが重要

 一文にすると、まあこういうことでしょうか。


 つまり、相手が素手、あるいはをもっていて、こちらはその刀よりも長いをもっている場合ならば、つくり出せる間合いの点においてこちらのほうが有利ですが、それが逆だった場合、間合いにおいて不利ということはとても大きな問題で、それをなんとかクリアしなければならないわけです。

 向こうが刀、こちらはそれよりもすこし短い半棒短杖)、ということであれば、こちらの得物で相手の得物を打ち払うという手がつかえますが、たとえばこちらが(八寸)もしくは素手だった場合、その不利な関係性をどう乗り越えてゆくべきなのか


 これらの問題に対して、ひとつの光明を感じさせるのが、体道で言うと、日本伝天心古流捕手術の「回捕」あるいは「松風」ということになるのではありますまいか。


 体道のなかではそれ以外にも、不利な間合いをクリアする術が随所で示されていますが、順当に学んでいった場合、最初に触れる技としてはこのふたつが挙げられます。

 捕手術なので挫はもっています。しかし、その得物のサイズ感よりも、自分の体のつかい方、そして、刀で斬りかかってくる相手との間合いの取り方が示されていて、あらためて振り返ってみると、やはりこのふたつも含蓄のある技であります。


 間合いの面で不利な場合、技の起こりの時点で上手く調整し、こちらの動きやすい間合いに変えてしまうこと

 この「間合いを自分のものに調整する」というのが、得物等の条件によって自分が不利なときに必要不可欠な第一歩なのではないか。


 裏部長は最近ふと、こんなことを考えておりました。


posted by 札幌支部 at 09:18 | Comment(0) | 裏部長の日記

2025年02月06日

やっぱり稽古なんだなあ

 こんばんは。裏部長です。

 2月になりました。今週の札幌支部の金曜日の稽古はお休みです。

 ちなみに、来週の金曜日もお休みです。

 札幌では雪まつりがスタートし、街中はどこもかしこも人、人、人で大賑わいです。

 しかし一方、全国各地では、とんでもない大雪に見舞われている地域もあります。

 当該地域にお住まいの方は、とにかく身の安全を確保され、難敵を乗り越えられる日を待ってください。

 明日は我が身。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 今週月曜日の稽古は顔ぶれが多彩で、いささか若々しい熱量にあふれていました。


 女性陣はIさんのお姉さんおひとりのみでしたが、男性陣はというと、裏部長のほかに、Sくん、Hくん、Iさんのほか、数年ぶりに後輩のIくんがやって来てくれました。

 以前会ったのがはたして何年前だったか、記憶がよみがえらないほどご無沙汰でありました。懐かしかった。


 男性陣がこれほどの人数となると、やはり空手色が濃くなります。月曜日はマットも敷かず、得物ももち出さず、ただひたすら空手一色の二時間強をすごしました。


 ふだんも空手は稽古していますが、固定化されたメンバーで固定化されたメニューをおこなっているだけだと、いつしかルーティーン化してしまうもので、得るものはあってもどことなく刺戟に馴れが出てくるものですが、人数が増えたり顔ぶれが変わったりすると、自然と稽古の内容も変化して、だから月曜日の稽古はいろいろと久々なことがあり、たのしかったです。


 稽古後半、せっかくの機会だから、何かリクエストはないかと水を向けてみると、Hくんが、これをこうするためにはどうしたらよいか、と質問をし、それを受けて師匠が、ではこういう稽古法をやってみようと、最近ではめっきりしなくなった動作をいくつか提示し、それをみんなでやってみたのです。


 単純に、もう何年もやっていない動きなのでしっくりこないとか、身体が動かないとか、そんなこともありながら、しかしやっているうちに感覚が起きてきて、あちこちの関節が活きてきて、ああ、この感覚、ひさしぶりだなと、わたしはひとりたのしんでおりました。


 稽古の最後に約束組手をやったのですが、ここでも大いに納得させられたなあ。


 空手をやっていても体道をやっていても、つねに「独りよがりにならないよう」と心がけているつもりでも、やはりどこかで、自分がいまやろうと思い描いている動きをやろうとしてしまい、薄っすらとでも独りよがり的な技になっていることがじつはまだある。武術の技というのは総じて、そうした独りよがり要素を排除し、いかに相手とつながるか、相手といっしょに技をやる感覚を得るかなのだなあと、あらためて痛感させられた、月曜日の午後9時すぎでした。


 やっぱり、こういうのが、稽古なんだよなあ。



 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 19:12 | Comment(0) | 裏部長の日記

2025年01月29日

正確に 正鵠を 正視す 正解!

 こんにちは。裏部長です。

 平日ですが、今日はすこし時間があるので、更新しておきます。

 札幌では晴れたり雪が降ったりの水曜日。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 これまでにも何度となく記してきたことですが、体道の技というのは、改めて振り返ってみると、含蓄のあるものばかりですねえ。


 先日の札幌支部の稽古でもこのような発見がありました。


 最近、札幌支部の稽古へも来られるようになった男性のTさんが、日本伝天心古流拳法の「双手返」を教わったばかりだというので、その相手役をわたしがつとめて、すこし復習をしたのですが、単に受をとっているだけでも、学ぶことというのは多くあるものです。

 この技で言うと、後半の、相手を腰へのせるところで苦戦される方が多く、このときもそうでした。師匠も、手をかえ品をかえ、いろいろなことばで説明をし、指導をされていましたが、しかし受をとっていた裏部長としましては、むしろ前半部分にこそ妙味があると感じていました。


 ご存知のとおり、「双手返」は相手が両手でこちらの片方の手首をとってくるところからはじまる技です。捕はそこから二度、相手の腕や肘をつき上げてから腰を入れ、投げへと向かうわけですが、このつき上げる二動作にたいへん重要な効果が含まれていたのですね。

 相手が力いっぱいつかんでいればなおさら、そこまで思いきりつかんでいなくても、両手で一方の手首をつかむということは、両腕が中心に寄っている状態となります。この状態を解かずして、腰を入れてゆくことはできない。真ん中へ寄ってしまっている相手の腕を、その力を、ほぐした上でないと技がスムースに進んでゆかないのです。

 だからこその冒頭の二動作なのです。何気なくやっている、「双手返」といてはあたりまえの動作ながら、必要欠くべからざるものであり、またその二動作をするからこそ、膝の曲げ具合も、腰の落とし具合も、入る際の右腕のかたちも、すべてがおのずと決まってゆくのです


 わたしは、こと武術の技に対しては、新たなものを創造する才能に欠けていると自覚しますが、かえってこんな風に、伝えられている技の動作から、そこに秘められたコツと言いましょうか、技を技ならしめている要素を発見することに関しては、能動的に参加できます。見抜く力があるとは言いませんが、発見できたときの喜びはとても大きい。稽古をしていて得られる幸福のひとつです。


 しかしまあ、やっぱりどうも、天心古流拳法というのは奥深いですねえ。まだまだいろいろ見つかりそうです。


 裏部長でした。



 ちなみに――。


 あのBTSの後輩で、「&TEAM」という九人組のグループがあります。日本発のグローバルボーイズグループ、というやつですね。

 この&TEAMの最年長メンバーで、Kという人がいます。このKさん、その名前から、よくKからはじまる単語≠意識的に用いてコメントをすることがあります。そもそも、自己紹介においても、

カッコいい、かわいい、KINGのKです

 と言うくらいですから。まあ、つまりは、「かきくけこ」からはじまることばをよくつかわれているわけです。

 そんなKさんに影響されたわけでもないのですが、すこし真似をして、今日のブログタイトルはS、それも「正=せい」でまとめてみました。

 ただそれだけの、ほんの軽いことば遊びです。

 お納めください
posted by 札幌支部 at 13:06 | Comment(0) | 裏部長の日記