2018年03月31日

箱の中の宇宙



 
小説を 草して独り 春を待つ




 裏部長です。

 今回は風流っ気を出すために、正岡子規の俳句からはじめてみました。



 札幌はすでに路上に雪もなく、あとは本格的な春を待つのみといった感じですが、本州のほうでは桜のたよりが届いたところ、すでに去りはじめているところ、夏日なところなどさまざまで、数箇月後の暑さが思いやられます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 新学期、新年度を前に、ごくごくあたりまえなことかもしれませんが、わが身も引き締めるために、こんなことを書いてみます。



 ふだんの稽古のなかに登場する教えに、このようなものがあります。


力で技をやるのではない。技が力を生むのだ


 おなじみの教訓です。そして、稽古を重ねれば重ねるほど、その意味に打たれることばです。




 この文章の前半部分に出てくる「」とはおもに筋力のことです。体力、あるいはその人の体格を用いてつくりだす力、と言ってもいいでしょう。


 つまりは、有限なパワーということです。


 筋力にしても、無尽蔵に蓄えられるわけではないし、年齢とともにどうしても衰えてきてしまう。その量には限りがあります。


 そんな限りのあるパワーをつかって相手に対処しようとしていると、それよりもはるかに上回る筋力をもった人にはどうしたって敵いません。やられてしまいます。昔であれば、それは死を意味しました。



 一方、武術の技が生みだす「」とは、無限のものです。


 なぜ無限かと言えば、それは、相手との動作のなかで発生するエネルギーだからです。



 たとえば、相手を手でつかんで引き倒そうとしたとき、お互いに立って向かいあった状態でこれをおこなおうとすれば、相当な筋力を必要とし、相手が体重のある巨漢であれば、つかんだ時点でダメだなと思ってしまうことでしょう。


 しかし、もしもですね、そんな巨漢な相手が、二十センチ四方くらいの狭い足場に立っているとして、その周囲は断崖絶壁、下を覗きこむだけで震えが走るような場所であったとしたら……。


 ちょん、とその胸を押しただけで相手の身体は揺れてしまうでしょう。くっ、と引くだけでバランスを崩してしまうはずです。



 もちろん、通常の技は平面の、ふつうの床でおこなうため、断崖絶壁の力は借りられませんが、要はどこでもいつでも、相手の身体が不安定になる条件なり環境なりを構築できれば、その人が自分よりも長身であろうと、巨漢であろうと関係なく崩し、倒し、制することができるわけです。そのヒントが、われわれのところで言うと、体道の柔術のなかに無数に散りばめられていたりするのです。





 どうでもいい話ですが、先月から今月半ばくらいまで、裏部長は天心古流の「双手背之極」のことばかり考えていました。実際に稽古をするなかで、冒頭の上段受けはどうなるべきか、どうあるべきかをずっと考えていました。これにはきっと、師範やT技術顧問の影響があるのかもしれません。


 あの技で上段受けが変わると、相手が打ちで来ようが突きで来ようが関係なくなるし、その次の「脇詰」や「引留」などにおいても技の起こりが違ってくる。居取は、互いに正座して近間で向かいあっているという、とてつもなく狭く窮屈な、不自由な空間での技なので、いろいろなことが制限されているからこそ、そのなかにあってもかならず勝つ方法、相手を制しきる方法を見つけだすにふさわしいテキストで、わたしの気づきなど大したことはありませんが、もしあんな発見が各技でできるのなら、体道はまさしく武術の叡智、技の宝石箱だと言えるでしょう。



 この「技」という視点は当然、空手の突きなどに関しても言えるわけですが、打撃系武道の経験者であればあるほど、突きは相手に拳をぶつけることであって、当たらなければ意味がない、と思ってしまうらしく、約束組手をしていると、突きをしているというよりはただ拳で撲りに行っているといった印象の人が多く見られます。




 先ほどの格言、【力で技をやるのではない。技が力を生むのだ】にはつづきがあります。技の力といっても、そもそもその技って何ですか。何をどうすればその技になるのですか。そう訊かれたら、わたしはこう答えています。


技をつくるには、正しいかたちが必要である】と。





 経験のない人が、わかっていない人がいきなり技の力だなんて言ったところで、実際にはちんぷんかんぷんで悩ましいかぎりです。そんなとき、案内役になってくれるのがこの「かたち」なのです


 正しいかたち、姿勢が技をつくる要素になります。それが整っていない人に技の力を説いても無意味です。






 知らないって、じつは甘美なのです。

 自分で判断できるから。わかったと思えるから。知ったかぶりができるから。

 しかし、きちんと向きあって、素直に学んで、ようやく知ることができたら、人は二種類にわかれます。

 それを無視して知ったかぶりをつづける人か、自分の現状と比較して不安に陥る人か。

 前者はもう駄目です。後者になってはじめて前進できるのです。

 その差異を見つめて稽古してゆくと、どこかのタイミングで、技と自分がひとつになる瞬間に出逢います。

 できた瞬間です。そこをすぎてはじめて、「ああ、こういうことだったのか」と感じます。

 これはうれしい出来事です。甘美が歓喜にかわるときです。

 しかし、喜びは持続しません。宿題はまだ山積みになっているのですから。



 
 なんだかんだと偉そうなことを書いてきましたが、斯くいうわたし自身が知ったかぶりをし、独りよがりをし、回り道をくりかえしてきた経緯があります。また飲みこみも悪く、覚えもよくないため、師匠や師範、諸先輩方やT技術顧問などからの教えも、嚥下し、吸収するまでにどうしても時間がかかってしまいます。

 
 ただ、それでも、いますこしずつ変化が起こっているような気がするのです。

 ほんとうにわずかずつですが、この身にそのエッセンスが、沁みこみはじめているように思えるのです。





 明日から四月です。新しい一年のはじまりです。


 晴れやかな季節にしたいものです。

posted by 札幌支部 at 10:08 | Comment(1) | 裏部長の日記

2018年02月25日

のひと

 おはようございます。裏部長です。


 もうすぐ二月が終わります。

 札幌は、なんだかんだと言っても今年は雪がすくなく、車道はほとんど路面が顔を出しています。ただ、歩道はかなり危うい状態になっています。十二月とか一月あたりは、まだ冬まっさかりの気運があるため、すべり止めの砂を撒く人も多いのですが、二月もこうして終盤に差しかかり、三月の姿が見えてくるころになると気が緩むのか、凍りついた歩道をみなさん放置してしまうのですね。

 だからいま、札幌の歩道はスケートリンクです。坂道であれば、どこまででも滑ってゆけます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 さて、昨夜は月に一度の、武道場での稽古でした。


 札大生のKくん、紅一点のHさんに加え、道新文化センター受講生のKさんとそのお孫さん、ひさしぶりの少年部Oくん、学外から参加のMさん、Kくん、そして、中国から来られているRさんが奥様と娘さんとご一緒に参加されました。


 老若男女、とはこのことです。とても賑やかな稽古となりました。





 そんななかで感じたのは、

その人の出所出自がそうとわかるには、それ相応の深さと浸透率が必要である

 ということでした。






 ……なんのこっちゃ、ですよね。






 たとえばですね、昨夜の稽古では、お孫さんといらっしゃっていたKさんが天心古流の切紙を受けるべく、居取之位を復習するのですが、せっかくなので、全員でいっしょにやってみましょうということになりました。ふたりでひと組みになり、何度か相手をかえてやってみたのですが、そのなかで中国から来られているRさんと組んだ際、ふいにそんなことを思ったのです。


 技のなかで、相手の顔面を突く、あるいは相手の攻撃を受ける、投げる、押さえるなどのいくつもの場面において、昨夜やった居取の技は、Rさんにとっては初見で、師匠の動きを見ながら動いていた感が強かったのですが、そうして見様見真似でやっていながらも、Rさんの動きはある一定の「型」にはまっていたような気がするのです


 まるで自身がやっている中国武術の型のなかに似たようなかたちがあり、それをその瞬間その部分だけ身体に呼び起こして、体道の技のなかで実践している、ような。だから、相手のこめかみへ手を返すにしても、顔面を突くにしても、われわれがやるのとはすこし趣きが異なり、その瞬間だけ型をやっているような印象を受けたのです。



 これは結局、自身で稽古されている武術がそれだけ身体に沁みこんでいるということなのでしょう。徹頭徹尾、しっかり深く浸透している。だからこそ、他流儀の技をやる際にも、その片鱗が顔を出してしまう。



 出してしまうなどと書くといささか批判的に映るかもしれませんが、昨夜の裏部長は感嘆していたのです。





 それは、紅一点Hさんについても言えます。



 昨夜訊いたところによると、彼女は五歳くらいから空手をやっているそうです。つまり、すでに十四年ほどのキャリアがあるわけです。


 本人曰く、これだけ長いあいだ稽古をしていても辞めたいと思ったことはないので、きっと相性がいいのだろう、ということでしたが、わたしは返す返す、その時間と深さに感心するばかりでした。




 つまり、それだけの時間をかけてひとつのことを追求し、やりこんできた結果、彼女には空手が、Rさんには中国武術が沁みこんでいるわけです。それがふとした瞬間、たとえば畳の上で正座をして柔術をやる際とか、空手の型を復習しているとき、動かす足が右足ではなく左足だったと気づいた瞬間だとかに表出する。どんなに多様に、それ以外のことも稽古していたとしても、各人の出所出自は隠すことができない。

 いや、隠れずそれが表に出てくるようになるには、それ相応の深さと濃さをもっていなければなりません。




 以前このブログで、松本幸四郎さん(現松本白鴎さん)のことばを紹介しました。

歌舞伎役者である以上、歌舞伎以外のことをする必要はない。ミュージカルとか現代劇とか、いろいろやる必要はまったくない。しかし、プロの役者である以上は、いろいろできなきゃいけないと思うのです

 つい先日の、親子三代同時襲名のときにも同様の発言をされていました。



 これは師匠の稽古観、武術観とも通ずるものですが、そうは言っても、白鴎さんのお芝居を見て、歌舞伎のにおいを感じないことはないですよね。異国のミュージカルをやっていても、TVドラマや映画に出ていても、その演技にはつねに歌舞伎のにおいが香っている。



 結局のところ、それがないとただの何でも屋になってしまうのでしょうね。「きちんと型がある、その上で型を壊す必要がある。型ができていないのに壊すのは型なしだ」というのは亡くなった中村勘三郎さんの言でしたが、この型の部分ですね、これがきちんと築けているかどうか。寄る辺があるかどうか。それはもちろん、武術に限らず、表現すること、生きること全般に必要なことのように感じます。




 Rさんは中国武術の人、Hさんは空手の人。そう胸を張って言えるだけの浸透率をもっている。


 さて、それでは――。




 あなたはいったい何の人でしょうか。






 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 09:03 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年02月18日

手は差し伸べられる

 おはようございます。裏部長です。


 二月も後半に入り、各地ではまだまだ寒さや雪の被害が伝えられているようですが、おとなりの国では、氷点下のなかで熱いたたかいが繰り広げられています。時差の問題がなく、TVでの放送も見やすい時間帯なのでありがたいことはありがたいのですが、その分、ふだんのオリンピックより盛りあがっていないような気がするのはわたしだけでしょうか。


 そんな如月、みなさまいかがおすごしでしょうか。






 さて、先日の空手の稽古での話――。



 その日もいつものように、師匠、札幌大学のI先生、中国から来られているRさんほか、太極拳をしているTさんやIさん姉妹、そして栃木のHさんと、中国色と女性率の濃いメンバーだったのですが、稽古としては、基本を軽めにやって、その場での受け・突きなどをしたあと約束組手となりました。


 ふだんはもちろん中段追い突きをおもにおこなうのですが、この日はまず、互いに正対した状態で、一方はその場突きをし、もう一方は左右に沈んでこれから体を外し、まっすぐ突きを出すという動きをやり、つづけて、刻み突きに対して後ろの手をまっすぐ差し伸ばす動きをやりました。


 札幌支部ですごすわれわれにとってはどちらもおなじみの動きではあります。


 しかしこのとき、後者の技を説明する過程で、師匠が、「この崩れが生まれれば、そこからこんな風な投げにも発展させられる」と見せた技を目にして、中国から来られているRさんは驚きを――大仰に言えば、感動と興奮をおぼえたようなのです。


 Rさんいわく、

その動きは太極拳のなかのある技に似ているが、この技はかなり高度なもので、できる人はほとんどいない。私も読み聞きして知ってはいるが、自分ではできないし、できる人を見たこともない

 ということなのでした。



 この夜の稽古と、また別日の稽古もさらに費やして、師匠としては、その技の感覚の片鱗でもRさんにつかんでもらって、お土産として中国へもち帰ってもらえればと、あれやこれや手をかえ品をかえ実践してみたわけですが、みなさまもご存知のように、そう易々と身につけられる技ではありません。


 斯くいうわたしたちですらまだできないものです。これからきちんと取り組んで、できるように励まねばならない技なのです。


 ですから片鱗と書いたのですが、その領域の、この場合は受けの技ですね、この受け技を実践できるようになるまでには、もちろん突きの、攻撃のレヴェルも上げなければならず、その過程にはいくつものステップがあります。


 空手のかの字も知らない素人の状態から空手をはじめたわたしとしては、入門から十四年経って、これまでを振りかえるとほんとうに多くの段階を踏んできたのだなあとあらためて感じます。いまその受け技を考えるときに、前提となっている突き、攻撃を獲得するまでにも長い時間がかかりました。そしてこれからの技たちも、いまの状態の上に立って、さらに稽古を重ねることでしか習得できないのだろうと想像します。


 しかし、その成長の手がかりやヒントは、すでにわれわれの前へ提供されているということを、いまあらためて意識する必要があると思うのです


 現に、上記の受け技はこの日にはじめて教わったものではないのです。以前にもやったし、指導もしてもらいました。もちろん一朝一夕にできるものではないから、そのときに感覚をつかんだわけではなく、これから時間をかけて向きあってゆくものなのですが、目の前にはすでに差しだされていたわけです。



 この技には限りません。

 いくつもの教えが、その片鱗が、すでにわたしたちの前にはある。

 日々の稽古のなかでこれをやりすごさないこと。意識をもって、課題をもって、稽古すること。




 われわれが手にしようとしているのは、あの長い歴史をもつ中国武術のなかでもかなり高いレヴェルに匹敵するような技なのだと考えれば、おのずと腰も据わるというものです。





 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 10:04 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年01月29日

基準と感覚

 こんばんは、裏部長です。


 明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。




 とはいえ、2018年がはじまってすでに一箇月が経とうとしています。この間、寒波が来たり大雪が降ったり、日本全国津々浦々、ひっちゃかめっちゃかになっているみたいですが、札幌はさほど悪天候ということもなく、例年どおりに寒い一月をすごしております。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。




 
 今年に入り、裏部長が考えたことのひとつが今日のタイトル、つまり、

基準と感覚

 です。



 たとえば体道のなかで技をやっているとして、捕と受の動きがあるわけですね。教わる際、われわれはまず自分の動き、捕のほうの動きをおぼえ、把握し、実践できるようくりかえし練習します。


 この場面では、ほんとうにさまざまな動作があります。


 足を引く、出す、手を伸ばす、上げる、体をひらく、鎮める……などなど、とにかくいろいろな動きのつながりのなかで技は進行し、相手を崩したり投げたり制したりする結末へと向かってゆくのですが、どうしてもこのとき、最初は自分の身体やその感覚を重視して動いてしまうのですね。


 たとえば足を引き、体をひらくとします。とはいえ、その足を、その半身を、どの程度引いたりひらいたりすればよいのか、すべてを数値や角度であらわすわけではないので、みな各自に任されるわけです。しかし、当然のことながら、自分のなかにある感覚に照らした動きをしているだけでは独りよがりです。たいていの場合、その動作は相手に響かず、技は上手くゆきません。


 自分の感覚に従って動くということは、悪く言えば、自分の好きなように動けるということです。自分の好きなだけ足を引き、自分のやりたいように体をひらく。それらがたまたま上手い具合に技にハマるということもないわけではないでしょうが、確率的にはかなり低い話です。


 そして、わたしは、そのやり方で実践しようとして上手くいっていない人たちを多く見てきました。



 この場合の改善点は何か。


 そのひとつとしてわたしは、「基準」ということをもち出してみるのです。



 つまり、その技の核は何か、肝の部分は何かをまず見極めること。その上で、相手を崩すために、相手へ力を伝えるためにどこが重要なのかを知り、それを成立させている箇所はどこか、それらを構成している自分の動作は何か。ここを押さえることができれば、そこさえ守ればよいのです。そのポイントさえ揺るがせにしなければ、技の全体像はおのずと整ってくるはずです。


 これが「基準」です。技のなかの心臓部、あるいは血管、神経のようなものです。これを知り、把握し、その「基準」がきちんと成立しているような動作を心がければ、技の様相はおのずと変わってきます。


 そしてほとんどの場合、この技の「基準」は、かならず相手との関係性のなかにあります


 自分の身体のなかの感覚にはありません


 技において必要な感覚とは、この「基準」を踏まえた動作をくりかえし稽古し、積み重ねたなかで獲得される感覚であって、自分の体内から自分の手で導き出すものではない


 裏部長は、現時点ではそう思っています。




 技の具体例を示せないので、いささかわかりづらい文章になりました。ご了承ください。


 裏部長でした。




posted by 札幌支部 at 18:58 | Comment(0) | 裏部長の日記

2017年12月30日

葦を揺らす風

 こんばんは。裏部長です。



 あと一日とちょっとで、2017年も幕を下ろします。

 巷ではさまざまなことが噂され、凄惨な事件、悲しい事故、世界規模の懸念など、長時間の報道番組を埋め尽くす出来事の数々がこの国を覆っているようですが、そんなあれこれとは無縁に、自分のペースで、自分らしく生きられる今日この一日をありがたく思えるわたしは、すっかりおじさんになってしまったのでしょうか。


 今年も大詰めです。みなさま、いかがおすごしでしょうか。




 年末には稽古納めがあり、年始には稽古初めがあります。

 旧い年から新しい年へ、決意をもって、目標をもってつき進むことは必要でしょうが、なんだか今年はそんな年末感があまりありません。年が変わったからといって何かを捨てるわけではなく、どこかを無理やり変えるわけでもない。

 もちろん、現状維持でよい、とも思っていません。

 来年はいまよりも前に、もっともっと上に、自分を鍛えて成長させてゆきたいと強く思います。しかし、その気持ちはすでに胸のなかにあるため、わざわざ何かをしてそれを表そうとはしていないだけなのかもしれません。



 まだまだ学ぶことはあるし、手にしたいものもあるし、ステップアップしてゆきたい。



 今年は後半に、月刊『秘伝』において師匠の対談記事が掲載され、体道連盟や藤谷師範のことも紹介されました。組織の規模を拡大することはべつに望むところのものではありませんが、自分たちが学んでいることがもそっと多くの方に知られ、愛され、気にかけてもらえるようになれば、それはとてもたのしい未来です。有望な人材も自然と集まるでしょう。



 2018年はそんなこれまでにない変化が生まれ、前進できる一年になりますように。

 裏部長も、自分らしいペースで、それでも上を目指します。




 空心館のみなさま、そして、武術に生きるすべてのみなさま。


 よいお年を。あなたらしい新年をお迎えください。


 裏部長でした。



posted by 札幌支部 at 17:45 | Comment(0) | 裏部長の日記