2018年10月07日

無構え

 こんばんは、裏部長です。

 世のなかはまたまた三連休でありまして、暑さも遠のき、台風も去り、秋の行楽にはもってこいの週末でしょう。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 今年の夏あたり、裏部長は長らく「構え」について考えていました。

 ふだん、おもに空手において取っているあの構え。まあもちろん、あの構えと言ったところで、そのかたちは人それぞれなのですが、みなさまご自身のつかっている構えを思い浮かべてくださればけっこうです。

 その構えですがね、なぜなのでしょうかね。どうしてそういったかたちになったのでありましょうか。


 もちろん、「師匠や先輩からそう教わったから」というのがほとんどでしょう。

 わたしも同様です。空手の稽古をはじめてすぐに師匠から教わり、それが時間とともにやや変化して現在に至っているわけです。

 しかし、いまはその教えられた経路の話ではなく、由来のことを考えてみたいのです。

 あの構え、いったいどこから出たものなのでしょうか。


 空手の構えなのだから、空手の型から出たものであろう。

 わたしは最初にそう考えました。

 しかし、平安からいちばん新しい慈恩まで、計二十八個の型を思いかえしてみても、そのような構えはないのです。

 いやそもそも、型のなかでは、単純に構えているという状態がないのです。

 受けをした瞬間の状態が構えたかたちになる、ということはありますが、目の前の相手に対して文字どおり構えるという動きは、どうも型のなかには見受けられないわけです。


 ハテ、ならばあの構えはどこからやって来たものなのだろうか……?

 
 師匠からは、「棒の手が関係しているのではないか」との助言をいただきました。

 しかしどうやら、それが唯一の答えというわけでもなさそうです。


 うーむ。

 うーむ。


 と呻吟していたある日、裏部長はふとこんな視点に出逢いました。

いま自分が思い描いている構えとは、こと空手に関したものだけなのではないか


 ここで冒頭にもどるのですが、いまみなさまの頭のなかに描かれていた構えは、空手のものではありませんか

 足は基立ち。半身になり、片方の手は腰へ引き、もう片方の手は肩の前あたり。あるいは夫婦手。

 
 わたしもそうでした。構えといえばこれでした。考えられる変化としては、手をひらくか拳にするか程度のものです。

 でもね、これって空手の、それも組手のときにつかう構えですよね。

 われわれ、ただ「構える」と言っただけで、自然と空手の組手をイメージするようになっているのではないでしょうか


「空手をやっているのだから、それでいい。いや、それが正解だろう」

 という声も聞こえてきます。

 しかし、たしかに空手をやっていてもわれわれはいわゆる空手家ではないですよね。やわらもするし、棒も振れば刀も握る。

 正確にいえば武術家なのに、こと構えとなると、どうして空手に引っ張られてしまうのでしょうか


 ここまで考えて、裏部長はさらにハッとしました。

 構えを考えたとき、わたしのなかには自然と、「誰かと闘う」という姿勢が生まれていました。

 相手と対峙する、そのための体勢として、「構え」というものを捉えていたのです。

 
 そもそも、誰かと闘うシチュエーションとは一様でしょうか

 空手の組手のように、平らな場所で、適度な間合いをとって向かいあうことなのでしょうか。


 好戦的にならず、ごく平穏に日常をすごしていれば、誰かと闘うなどという場面は生まれません。

 もし、適度な距離をとって向かいあうような場面に立ち至りそうになったら逃げるべきです。

 見も知らぬ人に傷つけられるのも傷つけるのも、わたしは嫌ですね。そそくさと遁走します。


 しかし、そんな風にごく平穏に暮らしていても、もしかして、ということがあります。

 突発的に、ごく近距離から、一方的に攻撃を仕掛けられる、という場面です(まあそれもほとんどありませんが)。

 こんなときは、こちらに闘う意思があってもなくても、瞬間的に対応し、身を守らねばなりません。

 武術をやっている人間が、日常の場で、技をつかうというのはこういった場面にのみ発生することだと思います。


 そんな場面において、はたして、構えというものは存在するでしょうか。


 ここに至ってさらに方向転換。

 空手の型や中国武術の套路、さらには、体道における柔術技のなかで、いざ動きはじめるというとき、われわれはどう立っているか。

 ほとんどの技において、足は肩幅くらい、やや平行立ち。両腕は下に向かって垂れている――。


 あれらはいったい何を意味し、いったいどんなことをわれわれに教えてくれているのでしょうか。

 身近なところに、考えるべきことはまだまだ転がっています。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 17:23 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年10月01日

求道

 こんばんは、裏部長です。

 十月になりました。季節もすっかり秋めいておとなしく……と言おうと思っていたらまたもや台風で、気が休まりませんね。

 本州のみなさまはいかがおすごしでしょうか。大事なかったでしょうか。

 こちら札幌は懸念されていたほどの荒れもなく、ただの雨の一日でしたが、何はともあれ平穏にすぎたことに感謝です。


 さて今夜は短めに、ある書籍から引用をして終わりたいと思います。

 ここ最近、裏部長が個人的に考えたり一人前に悩んだりしていることに対して、そっと波紋を広げるような、手を差し伸べるような印象を受けた文章なのですが、みなさまはそこに何をお感じになるでしょうか。


 とりあえずは、今日はこれのみで失礼をいたします。



 どの分野においてもそうだろうが、先人たちが営々と築きあげた技法の体系がいかに豊饒で完成されたものであれ、結局それらは受け継ごうとする個人のなかで一から再構築されねばならない。もちろん遺産のすべてを引き継ぐことなど不可能だし、多くの場合不必要でもあるのだが、いずれにしてもこれは全く驚くべきことだ。もっとも、その再構築にかかる労苦をなるべく軽減するためにこそ、それぞれの分野でいろんなメチエが工夫され、開発されてもいるのだが、それでもなおかつ少なからぬ分野において、そんなものはたいした必然性も実効性も持たないだろう。すなわち、個人という現場で積みあげられる体系のかたちは、当然のことながら徹頭徹尾個人的なものなのである。
 さて、その個人的な体系のかたちは、まさしく個人的なものであるがゆえの複雑さ、不透明さに彩られている。その構成の全体像は恐らく当人にも把握しきれないものだろうし、仮に当人に把握しきれるような体系ならばたかが知れているともいえるだろう。従ってそれを把握し得るとすれば、洞察力や分析力に優れた第三者を持たねばならないが、もとよりそういった能力を持つ者の存在は稀有である以上、個人的な体系が公的に伝承される機会は常にそういった危うい可能性に賭けるほかないのである。

 竹本健治著『ウロボロスの基礎論(下)』より。



 

 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 19:35 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年09月16日

 こんばんは。裏部長です。



 今月六日の午前三時八分、大きな地震が北海道を襲いました。わたしの住まうあたりは震度四から五程度で、これまでの人生であれだけ大きな揺れを感じたことはありませんでした。


 幸い、被ったことといえば停電と断水くらいなもので、師匠をはじめ、後輩数名とも連絡をとることができました。


 奈良からはM田さんが、そして栃木からは帰省中のHちゃんがメールをくれました。どれだけ心強かったか。ここに御礼申し上げます。



 札幌支部としても、稽古は通常どおり再開されております。月に一度の武道場での稽古は、地震による被害状況の点検のため、現在は使用不可になっていますが、場所をかえて、稽古そのものはやっております。



 とにかく、裏部長は無事です。
posted by 札幌支部 at 17:34 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年08月04日

体道おじさん

 おはようございます。裏部長です。


 連日、お暑うございます。一方こちら札幌は、本日の予想最高気温が二十四度という、逆の意味で驚異的な気候となっております。どちらであっても、慎重かつ大胆な体調管理が求められます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 
 さて、稽古をやっているうちに仲間も増え、また、いっしょに稽古をするわけではないけども、わたしがそういうことをしていると知ってくれている人も増えてきていて、つまりは理解をしてもらえているという状況はなんともありがたいものであります。


 ただひとつ難点なのは、武術をやっているらしいということは把握しているけれど、具体的にどんなことを稽古しているのか理解していない人からのこんな質問です。


「○○さんのやってるのって、どういうものなんですか」


 日常会話の流れで、さらりと回答してみたいというのは手前勝手な希望であって、この問いかけに、正しく、シンプルに、即座に返せる答えなどこの世にありません。


 簡単に済ませようとすると具体性に欠けるし、細かく説明しだすと相手が飽きてきてしまいます。


 だから、これまでの裏部長は、ごく単純に、


「空手とかやってます」

「いわゆる古武術ってやつですね」


 などと、雰囲気重視で回答してきたわけですが、これはやはり歯がゆい。答えたこちらが消化不良になってしまいます。



 なので今日は、こんな問いかけをされたときにつかえる、ひとつの回答例を自分なりに書いてみたいと思います。



 まず空手についてですが、これはもうね、対面しただけの相手にすくない文字数で、正しく、たとえば流派の違いとか型の特徴とかを話してもチンプンカンプンです。相手も空手をやっている人ならまだしも、そうでない人にはほぼ不可能な芸当でしょう。


 ですので、裏部長的には、世間一般にある「空手」のイメージを借りてその場をしのぐことを推奨します。


「空手やってます」

「ああ、空手ね」


 そんなやり取りで終わらせ、さっさと次の話題へ移っていってしまいましょう。



 さあ、最大の課題は【体道】です。


 これをいかに説明したものか……。



 全日本体道連盟に属し、体道を稽古している身としては、なるべく正確かつ詳細に説明したいという欲も湧いてくるのだけども、組織の成り立ちから話されても、聞いている相手にはなんのこっちゃさっぱりでしょうから、この際、思いきって最大限、実務的な解説に努めるという案はどうでしょうか。



 ひとくちに「体道をやる」と言った場合、いったいどういうことになるか。


 体道のカリキュラムのほとんどを占めているのは、柔術です。流派によっては、体術と言ったり拳法を言ったりしますが、要は素手で相手を制する武術ですね。


 投げ、押さえ、極め、絞めるなど、多種多様なパターンがあり、そんな柔術の技が、体道のなかにはたくさんあります。


 全体の六割強、いや、七割ほどはあるでしょうか。体道の体道たる所以と言ってもいいヴォリューム感です。



 体道を稽古する以上は、この多種多様な柔術をやるわけですが、じゃあ柔術だけでいいのかというと、決してそうではありませんね


 柔術の技というのは、ほとんどが、自分から攻撃を仕掛けるのではなく相手から先にかかってくるものです。つまり攻撃を知らないと、それに対する側の技も理解できないし、そもそも応じることさえ不可能なのです。


 だから、攻撃を学ぶ意味でも、空手は必要不可欠になります。


 空手の突き、蹴り、打ち、それに対する受け、あるいは型などの動きを通して身体や感覚を練ってゆきます。



 素手の武術を考えただけでもお腹いっぱいの印象ですが、体道には武具をつかった技も多くおさめられています。


 代表的なものは、やはり、さまざまなサイズのということになるでしょう。



 六尺のをつかった、「棒術」。

 四尺二寸ほどのをつかった、「杖術」。

 三尺の得物をつかう、「短杖術半棒術」。

 一尺のをつかう、「捕手術」。



 わたしが現在までに教わっただけでもこれだけあります。


 いくつもの流派、ヴァリエーション豊かな技を通して、さまざまなサイズの棒をあつかう術を習得してゆくのです。



 しかし、です。


 柔術のときと同様、では棒術や杖術だけ知っていればそれでいいのか、ということになると、答えはですね。



 これら武具をあつかう技は、ほとんどが対刀を想定しています。ただの木の棒っきれで日本刀に勝とうというわけです。


 なので、技を稽古する際には、相手方は刀をつかわなければなりません。ほとんどの場合、稽古では日本刀ではなく木刀をつかいます。


 つまりこの時点で、各種棒術のほかに、剣術のノウハウも知っておかなければならないことになります。


 刀で斬る、突く、受ける、払うなど、必要最低限の動きができないと、上記の棒術や杖術の技さえ学べないのです。



 おおっと待った。それだけではありませんでした。


 内田流短杖術のなかに、相手が腰に刀を差している状態から攻撃してくる技があったではありませんか。


 つまり、刀を鞘から抜いて、正眼や八相に構えた状態からはじめる技ではなく、まだ抜いていない状態から斬りかかる術を知らないとこれらの技はスタートできません。


 ということは、つまり、剣術だけでなく、抜刀術あるいは居合術が必要になってくるわけです。



 そんなこんなで、ざっと見てきただけでも、「体道」のなかには、柔術・体術・拳法、空手、棒術、杖術、短杖術・半棒術、捕手術、剣術、抜刀術・居合術などがあり、さながら総合武術の印象があります。いや、実際にそうなのでしょう。甲冑を着たり鉄砲を担いだり、弓を引いたりしないだけで、すでにこれだけで、日本の武術の代表的なものをおさえているように思えます。



 だから、体道をやっている人は、基本的に、忙しい。


 とても、一般の方に細やかな解説をしている暇などないのです。


「体道をやっています」

「体道? それって……?」

「さようなら!」


 もう、こうしてしまうよりほかに方法は見つかりません。


 みなさまはどうお思いですか。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:12 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年07月14日

絶対性への扉

 おはようございます。裏部長です。


 七月半ばの三連休です。放置していたあれこれを、片っ端から処理したい今日このごろ。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 さっそくですが、たとえば、重いものをもちあげて、どこかへ運ぶとします。


 このとき、そのものを手にもって、屈めていた腰を伸ばそうとすると、重さが腰にのしかかり、痛めてしまいますね。だから身体をなるべくまっすぐに保って、膝の曲げ伸ばしをつかって、上半身というよりは下半身、もっと言えば脚でもちあげるようにすると、負担は軽減されます。


 しかし、です。裏部長はふと思ったのです。


 この動き、もっと小さくできないものかと。



 第一、その場にスペースがあればいいですよ。もし狭い場所だったら。それこそ、膝の曲げ伸ばしもできないくらい狭苦しい環境でそのものをもちあげなければならなかったとした場合、どうしてもさらに小さな動きが求められるわけです。


 そんなことを考えながら、自分の身体と相談していろいろと試した結果、たどり着いたのは、足の裏をつかうという選択肢でした。



 指はもちろんですが、足の裏全体をつかって地面をギュッとつかむあの感覚。


 当然、もちあげるものには指がかかっているわけですが、このギュッをすると、瞬間的に、どういうわけか指先に力が漲るのです。



 これはどうしてなのかなあ。自分でもよくわかりません。


 しかし、とにかく、現に力が感じられるのです。ですから、膝の曲げ伸ばしをせずとも、足裏と指だけでもちあげることができるのです。



 こないだ「内歩進初段」の足について書きましたが、それより以前に、ひとりで「新生」を何度か試してみた夜がありました。


 師匠は不在で、他の稽古者たちもいない時間と空間がそのときあったわけです。


 かなり過剰に、かなりしつこく三戦立ちを意識し、やってみると、上段受けや突きの締まりはもちろん、そこから四股立ちに移った際のパッケージ感、そして何より、手全体の充実感が生まれました。


 あれはなんとも不思議な感覚でした。


 同じようなことが「内歩進初段」にも起きていて、動きだしの足が決まると、全体のかたちというか姿勢が一瞬で決まり、またやはり、手全体に力が漲るのです。


 だから、自分で意識的に、力強さを演出する必要がなくなった気がしました。やさしく、あるいはゆるりと、その型を流そうとしても、どうしても勢いと迫力が生まれてしまうのですね。



 この不思議の最たるポイントは、力の発生源である足と、もっとも離れている手がつながるという点です


 足が決まった際に下半身が、腰まわりが強靭になる、というのはすんなり理解できますが、離れている手にその影響が現れるというのはなんとも不可思議です。それも一瞬です。体内をエネルギーが移動する間もなく、気づいたらもう手に何かが生まれているのです。



 意識していないだけで、たとえば体道の柔術の技をやるとき、相手の打ちや突きに対して上段受けや差し手受けなどをする際、こうした足もとからの力を借りて動いている可能性があります。そうでなければ、重さと速さを兼ね備えた攻撃を、ほとんど動かずその場で受け捌くことなどできません。その瞬間、その場で受け勝つには、こうした目に見えない力が働いているのかもしれないし、それを暗に示してくれているのが体道なのかもしれませんね



 おしゃれは足もとから、と言いますが、武術も然り、かもしれません。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:06 | Comment(0) | 裏部長の日記