2012年04月28日

愛だったんだよ

 こんにちは、裏部長です。

 北海道もすっかり春で、そして気づけばゴールデンウィークです。行楽地がにぎわい、観光バスが渋滞し、桜が咲き、桜が散り、そして沖縄ではもう梅雨がはじまっているという季節です。

 ほどよい陽光は眠気を誘いつつも、なんだか活動的な空気を運び、背中を押してくれます。




 今年に入ってから、札幌支部では体道のみの稽古を再開しました。

 以前は毎週木曜日に体道の稽古をやっていたのですが、2008年からその曜日に道新文化センターにて古武術講座をやることとなってしまったために、体道のみの稽古日は取らず、ふだんの空手稽古の合間におこなう程度になっていたのです。

 それに、体道をやるといっても、場所は床がコンクリートの教室で、満足に投げることも投げられることもできないという有様。もちろん、どんな場所でも技ができなければいけないのですが、こと投げ技に関しては、できれば畳のある空間で存分にやってみたい。

 そんな話が出たり入ったりした結果、今年の二月から、月に一度だけですが、畳のある武道場を借りて、体道のみの稽古日を設けることとなったのです。

 毎月、第二土曜日にやっています。

 いつも柔道部なんかが稽古しているところなので広いし、天井も高いので、刀、杖、棒、なんでも振り放題です。冬場の寒さ、あるいは来たる夏の暑さだけ覚悟すれば、とても恵まれた環境と言えるでしょう。



 
 空手の稽古においては、いろいろな発見があります。

 不器用で、なおかつどんなことでも自分で体感してみないことには納得できない性分の裏部長は、愚かな試行錯誤をくりかえし、ときには傷つき、ときには反省の嵐に見舞われ、夜道をひとりで淋しく帰ったりしているわけですが、最近気づいたことはこれです。

相対的な強さはつまらない

 師匠は、相対的な強さより絶対的な巧さ、ということをずっとおっしゃっていましたし、わたしもそれを信念にしてきてはいたものの、最初からその考えで出発してしまったために、相対的な強さとは、あるいは、相対的な強さを求めるとはどういうことかを知らずにいました

 もちろん、純粋に武術を稽古してゆくなかでは、相対的な強さになど眼もくれないという姿勢でよいのでしょうが、なにぶんにもやってみないと納得しない質なので、ちょっと試してみたのです。

 とはいっても、どこかの道場へ殴り込みに行ったわけでも試合に出場したわけでもありません。ふだんの稽古のなかで、絶対的な巧さの追求をあえて廃し、強さのみを考えて組手などをしてみたわけです。


 これは不思議な体験でした。

 というのも、わたしはいささか体格に恵まれたところがあるので、この肉体、この体重、この筋肉をあてにした動作をしても、自分よりも格下でなおかつ身体も小さい後輩相手ではじゅうぶん通用してしまうのですね。

 相対的ということは、相手と自分が離れている状態です。独立した自分という存在が、離れているところで同じく独立している相手を攻撃する。蹴散らす。相手が避けようが受けようが構わず、突進し、破壊し、表面化したダメージのみで優劣を判断する。

 これまでにしたことのないやり取りだったために、最初は不思議と楽しささえ感じました。弱いよりも強い状態に人は優越感をおぼえ、満足してしまうものです。わたしも、情けないことに、一時はそんな心境を抱えて稽古へかよっていました。


 しかしこれ、長続きはしなかったのです。


 強さを求めた場合、そこにいる相手全員よりも自分が強くなってしまうと、それ以上の稽古ができない。つまり、深めてゆく過程がないから、結果だけを判断材料にしているから、優ってしまうとそれだけで終わってしまい、それ以上の満足感、手ごたえのようなものを獲得したいのなら、道場を出て武者修行をしなければならなくなる。

 後輩相手でも、馬鹿のように何発もの突きをぶつけ、体格で圧倒し、押して押して押しまくる。もちろん、そういったことをするべき時期も、できるようになる時期もあるでしょう。

 しかし、それだけになってしまうと、稽古は停滞してしまいます

 武術は死んでしまうのです



 愚かな試行錯誤を終え、ふたたび絶対的な巧さ、技の稽古に着手すると、これが面白い面白い。

 追い突き一本をやっているだけで楽しいのです。あれやこれやと発見が訪れる。

 そして、やはり、こちらのスタンスのほうが、腕は磨かれます。こと突きの威力という面だけを見たとしても、相対的な強さを求めていた時期とは比べものにならないほどの内容が生まれています。

 武術はほんとうに奥深い世界です。




 昨夜なんかは「」の話が出たのですが、これなんかはその最たるものですね。

 突きを出すときにはかならず片方の手を引く。この引き手で突いているわけですが、高段者になるとかならずしも手を引いていない場面を多く見受けます。

 これはなぜか。

 もちろん、引ききってしまわないほうが二本目の突きを速く出すことができるわけですけども、じつはそれだけではなかったのですね。

 川なのです。

 自分の身体の前に川が流れているのです


 マットをミット代わりにもって師匠に突いてもらいました。

@一般的な、片方の手を引く突き。

A引き手を残し、それをただそこに置いたまま出した突き。

Bそして、パンチ


 Bの突きが放たれた瞬間、わたしはその変貌した迫力と威力に圧倒されながらも、たしかに、眼の前に師匠の肩幅よりもわずかに狭い、しかしあきらかに水量をもった川が流れたのを見たのです。

 ほんとうに、川が見えたのです。



 その突きを見せていただく数十分前、わたしはわたしで、こんな風な身体の使い方をすればよりよい突きが出せるのではないかという、ちょっとしたアイディアを思いつき、ひとり悦に入っていたのですが、そんな気分はひと息で吹き飛んでしまうほどの技でした。

 
 こういう瞬間を味わい、体験し、そして自らもそこへ向かえる稽古こそ、真に武術なのではないでしょうか。

 そして、そんなやり取りに楽しさを見出せる人だけが、稽古をつづけてゆけば良いのではないでしょうか。
 
posted by 札幌支部 at 13:35 | Comment(0) | 裏部長の日記

2012年01月18日

詮のないこと


 最近ふいに、

武術を稽古するって、どういうことだろう

 と考えたりします。



 師匠のもとへ入門して、来月で丸八年。

 若輩者のわたしが、後輩たちの指導をしたり、道新文化センターで一般の方へ体道を教えたりできているのは、ひとえに師匠のおかげです。

 経験に比して、このような体験ができているというのは、稀なことです。

 ありがたい経験を積ませていただいています。


 ただ――。

 だからこそ、気づいてしまったのかもしれません。




 これはあくまで持論ですが、稽古をするというのはつまり、

自分を白紙にする行為

 なのではないでしょうか。そう思えてならないのです。



 空心館に入った以上、この道場の、あるいは、自分が求めてついた師の有する武術の技術なり、基準なりを共有することが必要になってきます。

 ほかの道場や日常生活のなかで習得したことはあっても、それは、純粋に、空心館の武術をやるという時点においてはまったく役に立ちません。

 それを持ちだした途端に、修得の道は霧で覆われてしまいます。



 つまり、修業者はいったん完全なる素人にならなければならないのです。



 この姿勢を貫く場合、稽古のなかで自分の意見を言うということはなくなります

 空手をするにしても体道をするにしても、その技が、その動作が良いのか悪いのか、自分で判断するべきではないからです。

 どんな些細な動きに関しても、自分で判断せず、すべて師に見てもらう

 そして、出された助言や指摘を百パーセント受けいれ、それを具現化することだけを考え、稽古する



 たしかに、いつまで経っても師がいなければどうにもならない、では話になりません。

 親の脛に齧りつきつづける悪しき子のようでは、ひとりの武術家として自立することは叶いません。


 しかし、それは数十年の修業を経た人間にだけ取ることを許される手段です


 この道へ、この道場へ入門してわずか数年の、あるいはそれ以下の人間がわけ知り顔でやってよい言動では決してないのです。





 わたしが考える稽古論、上達論をまとめるとこういうことになります。


○道場へ入門した以上、師、あるいは先輩の教えを尊重すること。その基準を嚥下し、おのれの心身へ移植することを最優先する

○この姿勢を持つ以上は、稽古中に自分の意見、感想、提案を出すべきではない。いやむしろ、徹底している人間であれば、発する言葉は「はい」以外にありえない

○稽古者は自然と無口になる

○師の発言にはつねに耳を向け、その動作を注視すべし。あたえられた助言はかならず受けとめ、返事をする

○自分はできる、自分は知っている、自分は理解できているなどとは決して思わない。少なくとも、入門して三年を経ていない人間は、「自分はまだ空心館においては素人である」と自戒しなければならない





 人間は十人十色。

 個性は尊重しなければなりません。


 穴だらけの道を、どこもかしこも灰色のアスファルトで覆ってしまうように、稽古者を同じ規格でがんじがらめにする必要はないのかもしれない。


 そうわかっていても、わざわざこんなことを書くのには理由があります。

 それは単純なことです。


 上に書いた条件に合わない人間のほとんどが、最終的に技の上達を諦め、道場を去っていってしまう

 わたしはそれが残念でならないからです。



 どんなタイプの人でも、最終的に動けるようになれば何の不満もありません。

 偉そうなことを言っている鼻もちならない奴でも、きちんと教えた技を教えたようにできているのならよいのです。


 わたしが見てきたなかで言うと、そういったタイプの人間は皆無に等しいです。

 まったくと言ってよいほどいません。


 入門以前に、または道場外で仕入れてきた知識、経験、考察の結果を持ちだし、何かというと自己判断をして、正誤の結論を勝手に出すたぐいの稽古者は、やっぱり下手です。

 空手にしても体道にしても、肝心の技ができないのです。

 出来たようなことを言っている人間に限って、どうでもよいつまらない間違いをし、そのくせ他人のミスにはめざとく気がついて、まるで指導者のような口ぶりでそれを指摘するのです


 はっきり申しあげて、わたしはそういう種類の稽古者を好みません。不愉快です。






 今日、どうしてこんなことを書いたのか。

 鼻もちならない奴がいるのなら、そいつに面と向かって言ってやればいいじゃないか。

 そうおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。



 違うのです。



 たとえば、技術面のことであれば、直接言ってあげたほうが身になるでしょう。
 

 その技がどうしてもできない人に、こうしたらいいよとアドヴァイスをすれば、できなかったことができるようになる。

 稽古とはそういうものだし、わたしは何も、やってできない人を非難しているわけではないのです。



 今日書いたことは、いわば、その人の精神面心根に関する部分なのです。

 これは、直接言ったところで、叱りつけたところで、容易に変わるものではありません。



 心根のことについては、その人の魅力、人間性などと同様に、最初から存在している下地のようなものです。

 だから、もともと持っていない人は、何度注意してもできないし、持っている人は、わざわざ指導しなくてもはじめからそうしているものです


 言っても詮のないことなのです。

 だからあえてここに書きました。




 わたしもひとりの稽古者として存在している以上、何よりも自分の修業のことだけを考え、他人のことに頭を悩まさず、ただひたすらに汗を流すべきであることは重々わかっているつもりです。これらのことも、書こうか書くまいか、かなり悩みました。

 その上で書いたことです。不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、ご勘弁ください。



 なお、上記の内容はすべて裏部長個人の想いです。師匠の受け売りではありません。

 その責任は、わたし一人にあります。





 裏部長でした。 
posted by 札幌支部 at 16:23 | Comment(0) | 裏部長の日記

2012年01月08日

稽古初め2012

 



 明けましておめでとうございます。

 裏部長でございます。

 今年も何卒よろしくお願い申しあげます。





 札幌支部の稽古初めは六日でした。稽古納めから一週間とちょっとしか経っていないせいか、正月気分を感じる暇とてなく、いつも通り大学の教室からスタートしました。

 あいにく師匠はお仕事のため欠席。参加は、熱心に稽古している後輩のIくんと、あとは師匠のご子息のみという珍しい顔ぶれでした。


 理論よりも実践考えるより動け

 そんなことを心に刻んだ稽古初めでした。



 
 稽古のなかには空手と体道があるわけですが、強いて目標をあげるとなると、どうしても空手のほうが先に立ってしまいます。

 それも、やはり突きについて。


 今年も目標は、「重く、そして軽やかに」です。

 何のために追い突きを重点的に稽古しているのか。それも、相手の反撃ありきではなく、約束組手のなかで、ごく純粋に追い突きをやっているのには大きな意味があり、それをこそ実践しなくてはなりません。

 それでなければ、この稽古をしている甲斐がないというもの。


 結局は貫通力だと思うのです。きちんと突ききる。障害物など弾き飛ばして、相手の身体ごとなぎ倒しながら、重く素早い突きを相手へ当てる。

 二本目、三本目の突きなど、それができたあとに手をつけるべき代物で、最初の一撃さえまともにできない人間は、どんな手数を増やしても、しょせん小魚の群れ。

 鯱のひと呑みには敵うはずもありません。



 もう何年も前に、奈良のM田さんに言われたことばがここで痛烈によみがえってきます。

手数よりも、ここで決めるという一本

 それを理屈ではなく、体現する一年にしたいです。




 ただし、体道も忘れてはいけません。

 現在やっている内田流短杖術のあと、できれば夏までには天心古流の挫を終わらせたい。そう師匠とは話していますが、果たして行けるかどうか――。

 それに、技数だけではありません。そこから、きちんと武術的エッセンスを吸収しなければなりません。

 これは空手の型も同様で、ただ憶えた、ただ馴れたでは半人前もいいところで、そこから武術的な身体のつかい方を学び、それへ自分を順応させなければ、ほんとうに型をやったとは言えないでしょう。




 まさに、“稽古者多忙”です。

 そうあることに、感謝しなければ。




 今年も空心館とともに。


 
posted by 札幌支部 at 19:01 | Comment(1) | 裏部長の日記

2011年12月29日

稽古納め2011

 こんばんは、裏部長です。

 
 すっかり書くのが遅れてしまいましたが、今週の火曜日が札幌支部の稽古納めになりました

 師匠のご子息ら、子供たちのにぎやかな声。そして、さしていつもと変わらぬ顔ぶれのふたりの後輩たちと、氷点下の夜に汗を流しました。


 その後輩たちも、いまではふたりとも茶帯です。稽古へ熱心に参加している後輩はもうひとりいて、彼も来年にはきっと茶帯を締めることでしょう。

 札幌支部で一度に三名の茶帯が稽古をするというのは、なんと初です。これまでにはなかったことです。


 韓国人留学生Cくんが締めていた以外には、わたしと部長のほかは、茶帯まで達した人間自体がいなかったのです。黒帯までいったS呂くんは他流派の経験者で茶帯は締めなかったし、それ以外の後輩たちは――まあ、言わずもがなといった感じです。


 あらためて長く稽古をつづけることの難しさを痛感します。しかし、だからこそ、長くつづけた先に大きな発見があるのだと思います



 わたしは来年の二月で、師匠のもとへ入門してから丸八年になりますが、最近になってようやく、自分のなかの武術観が変わってきた気がしています


 結局、まっさらな状態で入門したわけではなかったのですね。合気道の経験が深く根づいていたし、それ以外にも、あの本を読み、この映像を見て、あくまで独学ながらも、あれやこれやと知識を溜めこんで稽古をはじめてしまったがために、師匠や諸先輩方の動きを目の当たりにしながら、どこかでそれ以外の残像を見ていたのではないか。

 そんな反省を、最近はことあるごとにしているのです。



 現在、体道では内田流の短杖術を稽古しています。

 やるたびに笑えてくるほど面白い流儀です。ひとつひとつに武術のエッセンスが煮こごりのように詰まっていて、これまでにない感動をあたえてくれます。

 こういった技を稽古していると、武術というのは筋力ではない、年齢や体力ではない、といったごく当然なことを痛感せずにはいられません。

 そしてもっとも強く刺戟されることはこれです。

武術は繊細で、かつ地味なものだ


 必要最低限の動きで、小さく、速い。武術というのはすべからくそうした形状へと向かってゆくのだとすれば、技そのものの内容はもちろんのこと、それをおこなう武術家もまた、動けば動くほど繊細で、そして地味な表現に行き着くのでしょう。


「やっていけば、浅山なんかは面白いよね」

 この台詞はわたしの個人的な意見ではありません。つねづね師匠が、そして、今年の九月に本部道場へお邪魔した際、師範もまた口にされていたことばです。

 
 いまようやく、わたしはその真意に触れはじめているのだと思います。



 先代、藤谷師範は杖の技に長けていたとか。

 杖、短杖、棒、半棒――。その腕前たるや恐ろしいものであったと師匠から伺っています。

 そして、体道のなかには、多種多様な杖関連の技があります。

 加えて、わたしは杖や棒が好きなのです。武具のなかではもっとも強い興味があります。




 いくつもの兆し。藤谷派糸東流拳法空手道と体道がある、空心館という道場の、師匠のもとへ入門したことの意味を、あらためて噛みしめつつ、2011年の書き納めといたします。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 20:30 | Comment(1) | 裏部長の日記

2011年11月19日

地つづき

 こんばんは、裏部長です。


 札幌ではついにが降りました。ついに冬到来です。

 木曜日の朝など、地面のどこもかしこも真っ白になっていました。

 しかし、わたしはこの季節が好きです。というか、この季節におこなう稽古が好きなのです。師匠のもとへ入門したのも冬だったし、札幌支部メンバーで本部へお邪魔したときも寒い季節でした。

 道場内の熱さと外気の肌寒さ。このなんともいえない対比が、その当時のことを思い出深くさせているのかもしれません。



 さて今週は、栃木のT君とも親しいT田さんら懐かしい面々が札幌支部の稽古へ参加してくれました。

 賑やかな稽古はやはりたのしいものです。



 裏部長はというと、ここ最近は面白いくらい稽古が面白い。行くたびに発見があり、収穫があり、また同じ量の反省点を抱えます。

 
 昨日の稽古なんかもそうで、得るものが多かったなあ。

 
 結局、地味な稽古の積み重ねなのです。いくら特殊な動きをしたところで、他者の物真似をしたところで、そんなものは本当の武術にはなりえない。


 そして、そういった稽古をくりかえした結果つくられる肉体、生まれる動作こそが、目指すべきへとつながってゆくのでしょう。


 一途に、ただひたすらに没頭すること。その大切さを日々痛感しています。



 とはいえ、やればやるほど面白く、知れば知るほど恐ろしい世界です。


 数年前には、ただ速いなあ、凄いなあと思っていた師匠の動きが、いまではまるで違って見えます。

 速いには速いなりの意味があり、それは往々にして物理的な、がむしゃらに頑張って生みだせる術理ではなかったりする。

 それらを目の当たりにしたときの驚愕と恐怖と快感については、きっと今日まで稽古をつづけてきた人間でなければわからないものなのでしょう。知覚できただけで幸福というものです。



 地道な稽古はときとして窮屈さを感じさせるかもしれません。だから、武の世界で生きるかなりの人たちは、自分なりに解釈した動作や、大声をともなって鍛えた筋肉や根性に頼る方向へと進んでいってしまい、真に武術たりえているものはその数を、残念ながら、徐々に減らしていっているそうです。

 師範のお話を伺うと、空手に関して言えば絶望的だとさえ思えます。



 師匠と空心館に出会えたことをいまこそ感謝したいです。

 そして、一度気づいたのなら、もう一生迷わずに、道場外の余計な騒音には惑わされず、純粋に、素直に、稽古を重ねてゆきたい。


 これはきっと、わたしの人生にさえ関わる大切な決意になるはずです。


posted by 札幌支部 at 19:49 | Comment(0) | 裏部長の日記