今日は建国記念の日であります。晴れていたのに、いまの札幌は雪が降りしきっております。
みなさま、いかがおすごしでしょうか。
祝日だからというわけではありませんが、本日はもうひとつ、師匠からの教えをひとつ記しておきます。
「する≠ニなる≠ヘ違う」
これです。
単にことばの表現の違いといえばそれまでなのですが、質として、また動きのなかに生まれるパワーとしても、これは大きな違いであります。
相手をこの位置に崩そう、倒そう、押さえつけようとしているのがする≠フ段階。
技をおこなうことで、相手がその位置に崩れてきてしまう、というのがなる≠フ段階です。
われわれは武術において、このなる≠フ領域に進まなくてはなりません。どうにかする≠フではなく、おのずとそうなる°Zを体現せねばなりません。
この教えを受けて、ここからは裏部長の私見でありますが、人には向き不向きということがあります。
適正。得手不得手。相性のよしあし。それは当然、稽古者と武術の関係においても存在します。
われわれがやっている武術。われわれが実践したいと志している技。こういったものは、その内容がどんなに素晴らしいものであっても、そういった技を身につけたいと思えない人にとってはさして価値のあるものではないのです。
その人のなかに、たとえば体道のなかでやっている技のような、ああいった感触、ああいった速度、ああいったニュアンスを生みだす技をやりたい、できるようになりたいという気持ちがなければ、どんなに稽古を重ねてもそれは徒労で、無駄なことです。
本気でそういう技を得たいと思わない人には、そこにどんな有意義な助言や見本やヒントを提示しても、本心の部分で関心をもてていないので惹かれることがありません。また逆に、技をやっていて上手くゆきかけるような瞬間で出合っても、心が惹かれていないのですから、そこに感動は一片たりとも生ずることがないわけです。
まさにそういう状態を「暖簾に腕押し」と言うのでしょうね。
師匠はやはり師匠で、教え導くプロであるため、どんなタイプの稽古者へ対してもサジを投げるということをしません。主観を交えず、感情を滲ませず、その人のできていないところを見極め、指摘した上で、技をおこなうにはどのようなことが必要なのかを根気強く提示しつづけます。
わたしは、人間としても稽古者としても未熟であるせいかもしれませんが、そういう指導ができません。
自分のためにも、その稽古者のためにも、
「この武術を、わざわざあなたがやる必要はない。もっとほかに、あなたに適したものがあるはずです」
と言いたくなってしまいます。
武術に限らず、そこへ意識が向いていない者には、何を提供しても無駄。堂々巡りの、暖簾に腕押しです。