2019年05月25日

改めて武と体を考える

 こんばんは。裏部長です。

 五月も終盤に差しかかり、全国的に暑い日がちらほら訪れるようになって参りました。

 ちなみに、明日の札幌の予想最高気温は三十二度です。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか!


 さて、いま裏部長は、「武術をする身体」について考えています。


 これまではどちらかというと、技一辺倒の考え方をしていたように思います。空手をするにしても柔術をするにしても、その技を正確に捉え、学び、実践し、研究してゆく。だから、多種多様な技がなければならないし、またそれらを深く追求する目も持たなければならない。

 もちろん、その姿勢は重要なものでしょう。

 しかし、最近はすこし考え方が変わってきました。


 技も大切なのですが、それ以上に、武術をしている自分の身体に興味が出てきたのです。


 ひとつには、武術をしているときの身体、あるいは、日常的に武術を稽古している身体、についての関心です。自分の肉体を通して、そのときに現れるもの、もしくは生じる現象や感覚、感情に至るまで、その変化がとても面白く感じられます。

 ただもうひとつには、特別なことではなく、たとえば呼吸のように、生きてゆくために必要不可欠なものとして武術をする身体とはどういうものか、という点にも興味が向いてきています。

 つまり、武術と身体を不可分のものとして捉える。乾燥肌や冷え性と同じように、武術する身体になるということ。


 技を知っていたり実践できたりすることはもちろんですが、それ以上に、裏部長はいまこういったことに目を向けはじめています。

 まさしく「修証一等」。


 新たなページが開かれることを。



posted by 札幌支部 at 20:10 | Comment(0) | 裏部長の日記

2019年04月30日

またあの頃のように

 おはようございます。裏部長です。

 いよいよ四月が終わり、明日から五月がはじまります。

 …ん? 

 間違いました。

 いよいよ平成が終わり、明日から令和がはじまります。

 これでした。


 世のなかはすっかり改元ブームで、あっちでもこっちでも賑やかにやっていますが、カレンダーとしては四月が五月になるだけであり、札幌ではようやく桜の便りが届いたころなので、お祝いムードで盛りあがるのもいいでしょうが、やはり穏やかな春の日をすごしたいものです。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 新しい春を迎え、裏部長的にはいくつか心機一転することがあったのですが、稽古に関してはむしろ、ここ十年ほどのあいだについた垢を落とし、より純粋なかたちで武術へ向きあえるよう工夫をはじめているところです。

 もともと合気道をやっていたこともあり、また性格的なことも相まって、ここ最近は体道に寄り添った稽古や武術観を心がけてきましたが、それらを取っ払い、空手、柔術、剣術、居合・抜刀術、杖術など、総合的な武術観、そしてその実践をこの身に馴染ませてゆきたいと考えています。

 結局のところそれは、入門した当初のスタイルであり、拘りをもたずに稽古に精進するということなのですが、存外容易くないことです。

 ひとことで言えば空心館の武術をやるということになるのだけれど、その中心には空手があり、しかし空手一色の空手ではなく、やわらの要素が色濃く、しかして素手の技だけでは習得できない領域の感覚があるため武具を無視することはできない…といったように、いろいろな武術が複合的に絡み合っているのが空心館の武術だと思うので、これを寄り道せず、偏りもせずに学ぶのは至難の業です。

 だからこそ、純粋に、適度な距離と情熱をもって稽古すべきです。入門十六年目に入り、裏部長はそう考えるようになりました。


 みなさんはどのような目で、どのように想い、そしてどのように稽古をつづけていますか?



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 08:23 | Comment(0) | 裏部長の日記

2019年03月31日

それも歩みのうち

 こんばんは、裏部長です。

 すっかり季節は進み、明日からもう四月です。

 長かった冬が終わり、平成という時代も幕を下ろします。身のまわりに心配の種は尽きませんが、何はともあれもう四月です。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 春は変化の季節です。

 長らく放送されていたTV番組が最終回を迎えたり、往年の歌手が引退を表明したり、いろいろなことが終わる季節です。

 つづけていたことをやめる。それはすこし感慨深げな、淋しいことではあります。

 しかし、同じことを長く、同じままにつづけることだけが歩みではありません。


 成長とは前進することでしょう。

 進みゆくこの道がいつまでも平坦ならば、これまでと同じ速度で構わないかもしれませんが、決してそんなことはないのです。

 落ち窪むこともあれば、逆に隆起し、上り坂となっている場所もありましょう。


 そんなとき、歩む速度を落とさないためにはどうしたらいいか。


 自分が変わるしかないのです。

 それまでもっていた荷物が不要なら捨てればいい。

 耐えることが必要なら、これまで以上に耐えてみればいい。

 下り坂なら足に力をこめて。階段をのぼるならまず太腿をひき上げることから。


 自身の変化。革新。

 それも歩みのうちです。


 いまよりももっとよくなるために。

 今日よりも明日、明日よりも明後日をよりよくするために。


 

 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 19:06 | Comment(0) | 裏部長の日記

2019年02月23日

技のリアリティ

 おはようございます。裏部長です。

 すっかりあたたかくなり、札幌の街もすっかり雪解けが進みました。このまま春になってゆくのかなあと、淡い期待を胸に起床してみると、昨夜に降雪があったとみえて、窓の外の景色は白く染まっていました。まだまだ春は遠いようです。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 今日はまず、近況をふたつほど。


 21日夜の地震ですが、発生時、わたしと師匠、そして師匠のご子息の三名は外にいました。道新文化センターの古武術講座の最中で、稽古をしていると、控室のほうから地震速報のアラームが聞こえ、それを耳にした全員が動きを止めた瞬間に、揺れが来ました。

 幸い何かが壊れたり倒れたりすることもなく、和やかな雰囲気のなかにおりましたが、すぐさま事務局より内線があり、余震等のこともあるので今日は早めに切りあげて帰ってほしいとのこと。さすがに、一度震災を経験しているせいか、対応が迅速でした。

 言われるがまま早仕舞いし、われわれも外へ出たのですが、師匠が「大丈夫だとは思うけれど、なんとなく気持ちのいいものではないから、地下鉄はやめて、タクシーで帰ろう」と提案。大通公園を抜け、ススキノへ向かいながらタクシーを探すことにしたのですが、なんとこのとき地下鉄は全面停止。翌朝まで動かなくなっていたのでした。師匠の慧眼、ここに極まれりといった印象です。

 しかし、どこまで行ってもタクシーはなく、バス停には長蛇の列、道という道には一方向へ流れる人の群れ。

 結局、徒歩で豊平川を越えたあたりでタクシーは諦めました。わたしは自宅が近いということでそのまま徒歩で帰宅。師匠らは、ご自宅から奥様が車でお迎えに来るという事態になったのでありました。自宅に帰ってみると、TVでは地震情報が流れっぱなしで、スマートフォンを見れば、奈良のM田さんからメールが届いていました。ご心配、いたみいります。

 とはいえ、おおごとでしたが大事なく、震災に対する緊張感を思いだすことができ、有意義な夜でした。

 
 つづいて、先月末にまたIshiさんよりコメントをいただきました。

 ドラムを習っていらっしゃるということ、驚きました。しかし、スティックの扱い方と刀や棒をつなげてしまうあたり、武術のなかに生きていらっしゃいますねえ。

 以前師匠も、ホームセンターにゆくと、「こんなにも武具になるものが売っている!」と思ってしまう、と話されていましたが、これとても武術のなかに生きている証左ですよね。わたしも、あるドラマーの映像から、挫の打ち方に共通するものを見出した経験もあり、おおいに肯くことができました。

 コメントいただけてうれしいです。またよろしくお願いします。


 さて、ここからは技の話です。


 以前、奈良支部にお邪魔した際、T技術顧問から浅山一伝流の「打落」について教わったことがありました。

 具体的な内容は省きますが、下げる足の意味と両手の使い方、「平安五段」からの流れなど新鮮な情報のオンパレードで、当時はいくらか面喰いならがも額面どおり受け取って帰ってきたのですが、しばらく解せずに悶々としておりました。

 たしかに、言われたことは理解できなくないのですが、いざ自分でやってみるとしっくり来ない。

 頭ではなく、身体で得心がゆかない、というのですかね。どうも腑に落ちず、時間だけがすぎてゆきました。


 しかし最近、この技においてひとつ変化が訪れたのです。

 それは最初、小さな疑問でした。拳槌打ちに来た相手の腕をこちらの肩までもってくるわけですが、従来のやり方では、この打ちを受けたところから肩までのあいだがどうにも危ういのです。打ち落とそうとする力がなければ受けを解いたときに下りてきてくれないが、その状態だと肩を打たれてしまう。しかして、そうならないように打ちの威力を殺してしまうと、受けを解いたところで下りてきてはくれない。T技術顧問が示されたように、相手は腕を引いてしまうでしょう。

 これをどうにか解消できないものか。そう考えたときに、わたしのなかへいくつかのヒントが舞い込んできました。

 ひとつはT技術顧問のされていた受け方。受けるタイミング。またそこに来て、師匠が稽古時に指導をされていた「このときは相手の肘を受けるのだ」という指摘。これらを掛け合わせた結果、どうにか疑問の解消にまでたどり着けたのです。


 長々と書いてきたのにも関わらず、その詳細をここに記すことは叶いませんが、一応師匠には合格印をもらうことができました。

 なるほど、たしかにああすれば技がきちんとつかえるし、また、あのようにやればたしかに金的蹴りはできなくなります。

 師匠、師範、T技術顧問それぞれからの教えがひとつになった瞬間でした。今年に入って経験した、最初の武術的快感でしたね。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 09:02 | Comment(0) | 裏部長の日記

2019年01月26日

体はおのずと

 おはようございます。裏部長です。

 そして、みなさま。

 あけましておめでとうございます


 一月もすでに終盤へ差しかかり、新年のあいさつも場違いに思われるようになった今日このごろ、みなさまいかがおすごしでしょうか。


 裏部長は最近あまり大学の稽古へは参加できていないのですが、風邪もひかず、インフルエンザにもかからず、どうにか暮らしております。


 さて、先日このようなことがありました。

 月に一度開催している、武道場での稽古のときです。

 ここは天井が高いので、杖を振ったり棒を振ったり、剣術の型をやったりと、武具の稽古をかならずおこなうのですが、今月は師匠が(もちろん本身ではありません)をもってきていて、それを参加者につかわせてくれる場面がありました。

 立った状態で歩みながら、あるいは座した状態から抜きつけ、斬り下ろし、血ぶり、納刀。

 この一連の動作は、ふだんから木刀を用いて稽古しています。そのときも、刀は一本しかないので、交代制でつかうこととし、それ以外のメンバーはいつもどおり木刀を用いて上記の動作をやっていたわけですが、いざ刀がまわってきたときの不甲斐ないこと、不甲斐ないこと。


 とにかく、刀がブレるのです。

 抜きつけのときはまだよいのです。問題は斬り下ろすとき。このときに刀身がブレるのです。

 いや、あれはもはやブレるという次元ではありません。

 ダンスです。

 細くて軽い刀の刃が、こちらの意思とは関係なく、突然ダンスをはじめるのです。


 なんとも情けなく、恥ずかしく、裏部長はつい苦笑してしまいました。

 そうなってしまうということは、間違っている、何かが足りず何かが過剰なのではないか、と考え、しかし先ほども書いたように、交代制なので刀をもっていられる時間はそう長くありません。一連の動作を、やれて三回か四回。このあいだにどうにかしなくてはならない。

 さあ思いだせ。師匠から何を教わった? 刀を振るとき、何をどうすればいい? これまで何を学んできたんだッ!?


 …と言うとかなり大袈裟ですが、あのときの裏部長の頭のなかはそれくらいに思考が渦を巻いていたのです。


 たった一度でした。数回振ったなかでたった一度、ダンスをせずに刀が下りてくれた瞬間がありました。

 そのときわたしは何をしたか。

 をつかったのです。


 思えば、師匠から刀を学ぶとき、これまで散々「」のことを言われてきました。抜きつけるときも振りかぶるときも、真っ向斬り下ろすときも、まず説かれたのが指のつかい方でした。

 刀というと「手の内」ということばがありますが、手や掌、あるいは腕そのものの運用を教わったことはまだありません。

 これまではとにかく指でした。それを思いだした裏部長は、最後の最後に、指だけで刀を振ってみようと試みたのです。

 
 結果は上々でした。ブレることなく、スンッと刀が落ちてくれました。

 このときの気持ちよかったこと、気持ちよかったこと。

 あのときたしかに、指に快感があったのです。


 こんな感触はこれまでにありませんでした。刀を振っていて気持ちいいと感じることなんて。

 
 わたしはこれまで、自分に刀などまだ早いと思ってきました。それよりもまず、体道のなかにある柔術や各種棒術を身につけ、空手も磨いて、ある程度のレヴェルに達してからでないと、刀は稽古してはいけないと捉えていましたが、あの感触、あの軽さ、あの気持ちよさを体感すると、すこしだけ認識が変化してきました。

 刀を「剣術」「抜刀術」「居合術」と表現すると、それはやはり人を斬る技、殺傷する技という印象がありますが、ただ単純に「刀」と表現すれば、それは誰かを殺める法ではなく、刀との会話、そしてそのとき肉体に宿る印象、育まれる感覚を、さまざまな動作のなかで見つけだすものになるのではないか

 勝手に刃がダンスするのではなく、この指と刀とで、ともに踊りだすような快さのなかで。

 もしそうであれば、その感触の芽に触れたいま、刀を取るべきではないか、と思うのです。

 この体が、この指が、それを望んでいるような気が、いましています。


 しかし、そうは言っても、裏部長はまだ自分の刀というものをもっていませんし、先日測ってみたら、師匠よりも腕が短いという衝撃的な事実が判明したため、刀を選ぶに際しても注意が必要です。どのみち、その分野に関してはまったくの素人なので、師匠や師範のご意見を伺いながら探していきたいと思います。

 よろしくお願いいたします。


 追伸。

  Ishiさんからコメントをいただきました。この名前から察するに、きっとあの方だと思われます。コメントをいただくのは数年ぶり、いやもっとでしょうか。かなりひさしぶりのことで、驚きつつも感謝、感謝です。

  Ishiさん、コメントありがとうございました。実益に富んだエピソードで、その目にもその姿勢にも、卓越したものを感じました。

 まさしく「闘うための構え」といった印象で、参考にさせていただきます。

 これからも気軽にお寄りください。


 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 09:11 | Comment(1) | 裏部長の日記