2020年08月09日

Empty Hand

 おはようございます。裏部長です。

 三連休、いろいろと煩わしいことも多いですが、札幌は程よい気候ですごしやすいです。北海道はこうでなくちゃ。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 さて、デジタルに疎い裏部長も、今年の春から初夏にかけての自粛期間中、世にいうサブスク(サブスクリプション)というものにようやく出逢いまして、なつかしいTVドラマや映画を観てたのしむようになりました。

 先日は『ベスト・キッド』(1985年)を久方ぶりに鑑賞しました。いま改めて観ると発見が多く、べつのたのしみが生まれます。


 劇中での空手(カラテ)の描き方にはいくつも賛否や意見があるでしょうが、意外にも筋が通っているように思えたのは、主人公が学ぶ技術と師匠の系譜についてです。

 師匠となるのは、おなじみの「ミヤギ」さんで、沖縄から来たということでしたが、沖縄でミヤギというと、宮城長順さんを思い浮かべます。

 剛柔流をつくった方です。おそらくこの映画のミヤギさんも、この宮城さんの流れをくむ人なのでしょう。

 だから、あの少年(ダニエルさん!)に教えた受けの動作が、「転掌」に由来していたのです。このあたり、けっこう堅実です。


 学校でワルガキたちにいじめられている少年をミヤギ老人が助け、自分の部屋へ運びこむ。気がついた少年は、老人が空手をやっていて、なおかつ強いということにまだ半信半疑。不思議に思ってあれこれ尋ねます。

 それに対して、ミヤギ老人の答えた台詞がこれです。

沖縄のミヤギは皆 漁とカラテを知っている

 カラテは16世紀 中国から来た

 ″手”と呼ばれた

 後に ミヤギの先祖が

 ″カラテ”と呼んだ

 空の手だ

 最後の一文、英語では「Empty Hand」と言っています。

 わたしはなんだか、この表現にぐっときてしまったのです。


 思えば武術とは、すべてにおいて「Empty Hand」なのではないか。空手や柔術など、素手でおこなうものはもちろんですが、棒や杖、刀など、武具を用いる技においてさえ、その武具を扱うのは空っぽの手なのです。

 わたしの両手は、武術をするにふさわしい「Empty Hand」になっているだろうか。


 三十年以上前の映画を観ながら、ふとそんなことを思う裏部長なのでした。
posted by 札幌支部 at 09:34 | Comment(0) | 裏部長の日記

2020年08月01日

小川の水辺から大河の飛沫を見る

 こんにちは、裏部長です。

 八月になりました。全国各地、お暑うございます。

 こちら札幌もすこしずつ夏の息吹に包まれるようになりました。今月は真夏日も多くなるでしょう。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 札幌支部では先月から、小規模ではありますが、限定的に稽古を再開しております。

 以前のようにすべての参加者を受け入れることはできず、現時点では、大学関係者(教員、学生、OBなど)のみです。

 長らく通常の稽古をしていなかったのと、稽古休止期間中に自分であれこれ工夫してみた結果とがあいまって、いろいろと試行錯誤の連続であります。空手に関しては、やはりひとりで考えすぎてしまう傾向があり、いま大いに反省をしている最中です。

 刀の稽古も再開していますが、まだまだですね。技を覚える前に、身体がついていかないのです。

 空手にしても、柔術にしても、何にしても武術をやってゆくうちに、肉体も感覚も、あるいは精神も、その技をやるに適切なものへと変化してゆくのではないでしょうか。そういった意味でも、すくなくとも裏部長の身体は、まだ刀をやる身体になりきれていません。

 とにもかくにも、武術の灯はここ札幌でも、絶えずに点りつづけています。


 ああ、そういえば!

 昨夜の稽古のなかで、唯一の学生であるHちゃんから、師範の型の動画を見せてもらいました。「最破」と「征遠鎮」でしたが、彼女のスマートフォンを覗きこみ、わたしも、そして師匠も、唸りつつ感嘆の息を洩らしていました。

 わたしのような下っ端がこんなことを言うのはたいへん失礼にあたるのですが……

 ほんとうにもう、惚れ惚れするような型です。拳や足先などの張りや緊張感は残しつつ、腕や脚は力が抜けきっていて鞭のごとく、速く鋭く、全身には必要最低限の締まりしかない。わたしたちが師範の空手の型を見ることはとても稀なので、かなりの刺戟と衝撃をもって拝見しましたが、動画を見た師匠も、「あの力の抜けた感じは真似できない」とこぼしていました。

 そして、これは合わせて明記しておくべきことだと思いますが、その動画内でおこなわれていた師範の型と、われわれが教わったふたつの型が、微妙に異なっていました。素早く、切れよく動いていた部分がゆるやかになっていたり、呼吸とともに力強くやっていた部分がごくあっさりとしたものに変わっていたり。このあたりの変化、変更は、きちんと捉えて、必要な個所は改めねばなりません。

 ですから、そういった意味でも、師範の技や型の動画というのは貴重なのです。生きる空心館の宝物殿です。


 心身ともに、ぴりりと刺戟的な体験でした。


posted by 札幌支部 at 12:44 | Comment(0) | 裏部長の日記

2020年07月01日

 こんばんは、裏部長です。

 七月になりました。天候の面でいろいろと心配の多くなる季節です。暑いなかのマスクも注意が必要です。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 札幌支部においては、まだ稽古再開となっていませんが、六月はたった一度だけ、師匠らとお会いすることができました。

 これは厳密に言うと稽古ではなく、師匠のお仕事に関係する素材づくりのお手伝い、といった内容だったのですが、ひさしぶりに道着に身を包み、空手の型や約束組手もほんのすこしですがやれました。師匠とそのようにして相対したのは、二月末の稽古が最後でしたから、三箇月以上ぶりにご一緒したことになります。

 いやあ、よかったですねえ。さほど動いてはおりませんが、快い一日でした。

 そして返す返す、稽古のなかでやりたいこと、やらなければならないことの多さを目の当たりにしました。


 稽古が再開されたら……

 最近はじめたばかりのはもちろんですが、中途半端なところで止まっている本体高木楊心流柔術も進めたいし、何よりも空手の型です。これまでに教わってきたすべての型を振り返ってみると、靄がかかり、どうにも腑に落ちない箇所、納得のゆかない箇所がいくつも見られます。

 そもそも、三戦立ちについてさえ、疑問が解消されていないのです。また、空心館における型の位置づけなど、つきつめたい話は山のようにあります。

 
 これまでに培ってきたこと、学んできたこと、それらを継続させながら、いまからだからこそ、はじめるべき、見つめるべき、新しい視点と姿勢をもって、次なる稽古段階へ能動的に進んでゆく。課題を課題のままで終わらせない。

 やるべきことはたくさんあります。それに、いまこそ取りかかる時期なのです。


 札幌支部としての、そして、裏部長としての新たな第一歩は、この大変な時期をこえて、踏みだされます。

 空心館の一員として、ひとりの武術稽古者として、ここからさらに前進するのです。



 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 19:31 | Comment(0) | 裏部長の日記

2020年05月31日

追記

 またまた裏部長です。


 先ほど載せた文章の後半部分は、いわば理屈の上の発展といったようもので、なんとなく胡乱な印象がありました。

 裏部長個人の実感としましては、むしろ現在の状態こそ心地よく、爽快である、ということをここに書き加えておきます。


 いくつもの要素が互いに監視しあっている、などと書くと、何本もの鎖でわが身を拘束されているかのように思え、とても窮屈に感じられるかもしれませんが、逆に言うと、迷う必要がない状態にある、と捉えることもできます。

 長くつづく稽古の道の上で、あっちがいいかな、こっちが正解かなあと、悩む場面は山のように出てきます。

 近くに師がいて、強靭な指導力でいつも引っぱってくれていれば、そんな迷い道に翻弄されることもないでしょうが、最後の最後までそんな状態がつづくわけではありません。

 いつかは自分で考え、自分で判断しなければならない時期が来ます。


 そんなときに、現在のわたしのような、いくつもの要素の武術を同時におこなう状態はむしろ好都合です。

 師匠の技のように雑味がなく、嫌味がなく、スッキリとした武術。

 何物にも拘束されず、澄んでいて、つねにニュートラルな武術。あるいは、そんな武術家。


 これこそが目指すべき領域なのかもしれません。


 
 六月も武術とともに歩みましょう!


posted by 札幌支部 at 14:50 | Comment(0) | 裏部長の日記

糸東流

 こんにちは。裏部長です。

 五月が終わりを告げ、六月が顔を見せて、こちら札幌でも初夏の陽気です。今日も気温が高く、空には雲ひとつありません。

 暑いですが、爽快感があります。そういう季節になって来たということなのでしょう。

 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 さて、全国的に、非常事態宣言も取り下げられる傾向にあり、北海道でも徐々に日常がもどりつつあります。

 この流れが順調に進み、札幌支部としても、たとえ以前のペースやスケールとはいかないまでも、稽古を再開できればよいのですが、果たしてどうなりますことやら。

 優先すべきは、われわれの健康です。命です。

 ここをきちんと押さえた上で、新しい武術との向き合い方を模索したいものです。


 向き合い方、と言えば、空手に関して思うことがあります。

 裏部長もたまにはインターネット上に転がっている武術関連の動画を見たりするのですが、空手をやっていらっしゃる方々のものを拝見するたびに、「やはり、独特のクセがあるのだなあ」と感じます。

 これは、どちらかというと、よい意味で言っています。

 その流派の、その系統の、独特な動きのクセ。とくに型を見ると、これを顕著に感じてしまいます。


 なぜそう感じるのか、と自分に問えば、きっとそれは、自分のやっている型にクセがないと捉えているから、なのでしょう。

 師匠から教わってきた空手の型、あるいは師匠のやる空手の型は、上記の意味で言うクセがあまり強くない。アクがなく、雑味もなく、全体的にスッキリとしています。だからそれを教わったわたしの型もまた、濃いクセを有していないのでしょう。

 
 この自粛期間中に、わたしはつらつら考えてみたのです。

ではなぜ、師匠の型にはクセがすくないのか

 個人的に考察した結果は以下の通りです。


 糸東流というのは一般的に言うと、沖縄(琉球)にあった空手のすべての型を有した流派、ということらしいですね。日本の空手四大流派のうち、松濤館流、和道流、剛柔流はそれぞれひとつの系統を継ぐものだが、糸東流には那覇手も、首里手も、泊手もある、と物の本にも書かれていました。

 これ、もしかしたら、流れをくむ系統がひとつの性質のものならば、あるいはクセが生まれていたかもしれません。

 首里手なら首里手だけの要素をもって稽古を積んでゆく。そのうち深まり、濃度が増してゆくに従い、クセが生じてゆく。それは那覇手にしても泊手にしても同じです。ひとつの要素が煮詰まってゆく過程がそうさせるのではないか。


 しかし、糸東流においては、それらすべての型があり、またそれらの型を同時並行的に教わるので、ひとつの要素に染まる時間がないのですね。この時期は首里手のみ、この時期は那覇手のみ、というように、期間を決めてひとつの系統を集中的につきつめるのであれば話はべつでしょうが、抜塞大をしながら、三戦をやったりしているのですから、これはもう、どちらか一方に偏ることを許されないわけです。

 これ、言うなれば、いくつかの性質の型たちが、互いに監視しあっている状態にも見えます。

 酸性になりかけたらアルカリ性に、アルカリ性に染まりそうなら中性に、中性に落ちつく前にまた酸性に、というように。


 さらに空心館においての特徴は、ここに体道が加わることです。

 体道のなかにある柔術、各種棒術、札幌支部では法典流の剣術等のほか、最近では刀も登場しました。抜刀術や居合術が加わったわけです。


 これらすべてのものが、お互いを監視しあい、どちらにも偏りすぎることを看過しない状態。

 つまり、ニュートラルな状態、ですね。

 その最中にわれわれは生きているのではないか。数年前までの裏部長はこう思っていたわけです。


 ん?

 数年前?

 では、いまは……?


 現在の裏部長は、上記の内容をすべて呑みこんだ上で、さらにひっくり返して、こう考えはじめています。

「ならば、そのすべての技において、極端に偏ることもできるのではあるまいか」

 これは推論です。まだ肉体的にも、感覚的にも追いつきません。


 しかし、酸性のものやアルカリ性のものや中性のものがあって、すべてを扱う以上、その技をやっている瞬間はその要素に染まりきることができるのではあるまいか。いやむしろ、そうならなければいけないのではあるまいか。

 これは推論、と言うより幻想かもしれません。単なる創造上の産物なのかもしれない。


 ただ、こんな風に考えはじめると、われわれが稽古している武術、あるいは糸東流というものが、とても興味深く見えてくるのです。

 

 みなさまは、どうお考えでしょうか。


 裏部長でした。


posted by 札幌支部 at 13:51 | Comment(0) | 裏部長の日記