2016年10月29日

塩麹

 おはようございます。裏部長です。



 札幌では先週初雪が降り、この週末から週明けにかけても雪マークが天気予報上に出ております。秋の寂しさ、切なさを味わう前に、冬へのカウントダウンがはじまり、寒さに立ち向かう日々です。


 そんななか、裏部長は数日前に寝違えたようで、ここ二日ほどは顔と身体の向きが同時です。これまでの人生であまり寝違えたことがないので、この症状がはたしてほんとうに寝違えたことによるものなのかどうか判断が難しいですが、とにかく不自由しています。


 いまもまだ、首がまわりません。いろいろなことに。





 さて、札幌支部では学生がひとり稽古へ参加するようになり、窓の外の冬めいた気温とは打って変わって、おだやかに、にこやかに、すこやかに身体を動かしています。



 しかし、まあ、空手の稽古をしていても、感嘆することしきりです。まだ出てくるか! まだこんなやり方があったのか! と、驚愕ししつも感嘆せずにはいられない瞬間が山ほどあります。


 昨夜の稽古でも、目から鱗どこか網膜さえ剥がれ落ちてしまいそうな教授を受け、これをものにしなければという思いを強くしました。


 それは、言うなれば、いますぐ欲しい味のために、塩や醤油やソースをぶっかけるのではなく、素材を漬け込み、じっくり寝かせて味を変化させるかのような、一時期流行った塩麹のような技でした。質の変化。ただただその一点に尽きます。





 こういう内容の稽古をどれだけ重ねられたか。重ねるためにはどうしたらよいのか。

 自問することはまだ多くありそうです。



 裏部長でした。
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2016年10月25日

体を旅する道

 こんばんは。裏部長です。




 最近、稽古をしていてふと感じたことがありました。以前にもそういったことは、自覚的ではないしても、頭のなかでは、稽古をしている以上きっと感じるだろうなとわかってはいましたが、実際に感じた経験は乏しく、あくまで認識どまりでした。それがようやく身をもって感じられるようになったので、ここに記しておきます。


 それは、体道のカリキュラムに関係することです。





 体道を習いはじめた人間は、まず日本伝天心古流拳法という流派を学びます。最初にやるのは柔術で、七十二本の技があります。これにつづいて、二番目にやるのは浅山一伝流体術。こちらも柔術で、技数は五十六本。類似している技もいくつかあり、地つづきの感があります。


 経験がある者もまったくの初心者も、よほどの事情がないかぎり、最初にこの二流派を学びます。約百三十本の技を、スムースにいっても二年以上かかって稽古するわけです。


 この段階で、最低限の柔術のエッセンスが身体のなかに流れこみます。素手で相手を制する方法、押さえ、投げ、絞め、極める動きとそれを受ける動きを教わります。


 ふたつの流派を終えたとき、身体のなかにはベーシックな柔術の要素があるはずです。




 さて、その次に出てくるのが、日本伝天心古流捕手術です。という短い棒をつかった技で、基本的には柔術なのですが、たった一本の短い棒が介在するだけで、その雰囲気は変化します。また相手に対して、挫で受けたり挫で打ったりする場面もあり、それまで馴染んできたベーシックな柔術とは違う技法に翻弄されます


 これを、前期後期あわせて七十二本教わります。

 前期と後期のあいだに、武具の流派が入ります。

 日本伝天心古流杖術内田流短杖術です。



 ここで急展開、入門当初からやってきた柔術は姿を消し、杖という異物をもって相手と対峙することになるのです。


 杖とはただの木の棒で、なのに相手は刀で来るという設定なので、厄介です。師範が以前おっしゃっていましたが、

「腕の立つ人なら杖など斬り落とされてしまう」

「同じ腕前なら刀をもっているほうが勝つ」

 ということらしいので、厳密に、杖の技を駆使して刀に対抗せねばなりません。



 柔術や挫の技に馴染んでいた身体に、ここでまた新たな刺戟が投入されるのです。それに、杖だけではありません。技をやるためには、受のほうも担当するわけで、そこでは刀の扱いを学びます。どうすれば斬れるのか、杖の攻撃を刀で受けるにはどうしたらよいのか、ということなどもここで教わります。




 さて、柔術をやった、挫をつかったすこし変わった柔術の技もやった、杖も短杖もやり、刀の初歩も学んだ、そのあとにはいったい何が待っているのか。


 神伝不動流体術です。


 ああ、ようやく素手でやる柔の技にもどったのかあ、と安堵したのもつかのま、出てくる技は、それまでの天心古流や浅山一伝流などでやってきたものとはまるで違う、個性まるだしの激しい技ばかり。飛んで飛ばされ、廻り廻され、稽古が終わるころには髪型も化粧もあったものではない。とにかく、これまでとはずいぶんと趣きの異なる技のオンパレードなのです。


 ここでまた新しい刺激に出逢うわけです。素手でやる柔の技であるにもかかわらず、ここまで違う動きがあるのか。捨て身の技ではこういうふうに身体をつかうのか。鈍重な肉体だと動けず、しかし軽いばかりでは技にならない。いくつもの瞬間に対応できる身体と動作が求められます。


 畳の上を右へ左へ。風流な名前に出合ったかと思えば急にお風呂屋さんを投げたりなんかして、この神伝不動流が終わったあと、次に教わるのが、柳生新陰流仕込杖です。



 わたしは今月から、この流派に入ったわけです。





 いやあ、驚きでした。上に書いたように、天心古流などの杖術をやっていたときに「刀に対して杖はこうつかう」という、常識といいましょうか、杖術のセオリーみたいなものが頼りなげであったにせよ体内に残っているなかで、この仕込杖の技を目の当たりにすると、しばらく混乱してしまいます。


 たしかに、ふつうの杖と仕込杖は違うものですから、おのずとそれを用いた技も変わってくるわけですが、わたしには新鮮に映りました。そして、教わった技をノートに記しているとき、ふいに、これまでに感じたことのない刺激が体内へ流れてゆくのを自覚したのです


 それはまさしく、ふだんつかっていない脳細胞へ電気信号が走るかのように、微弱ながらあたたかく、手ごたえがあって、新しいものでありながらこれまでに習った技たちとリンクするような、互いが互いを求めているような感覚でした。


 だから、そのとき思ったのです。


武術の稽古とは、こうして毎回異なる刺戟を受け取ることなのではないか」と。






 柳生新陰流仕込杖が終わると、たしか次は不遷流だったと思いますが、こちらもこちらで、個性のかたまりと言いましょうか、畳の上の社交ダンスと言いましょうか、またまた変わった技のようなので、いまからその刺激に出逢うのがたのしみであります。





 
 なんだか地味な話で申し訳ありません。


 裏部長も、こんなことを噛みしめられる齢になったのでした。
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2016年10月16日

まっさらのような一歩

 おはようございます。裏部長です。




 去る十月七日から九日にかけて、札幌支部の栃木遠征がおこなわれました。師匠のほか、わたしとIさんが参加し、初日はにぎやかな体道稽古、二日目は午前と夜の二回、こちらもいろいろとにぎやかな空手の稽古がおこなわれました。


 初期の遠征時には、最終日の午前中に稽古をしたこともありましたが、ほとんどの場合、初日と二日目の二度だけだったので、今回のように計三回おこなうというのは稀です。濃密な二日間でした。




 あれからもう一週間が経ちます。


 世間はどこも秋色に染まり、札幌では雪虫が飛びはじめました。




 この一週間は、わたしにとって、あの遠征で学んだことを吟味する日々でした。反芻し、省みて、いろいろなことを考える時間でした。





 思えば入門から丸十二年、来年の二月をすぎると十三年になります。小学生が入学から卒業までを体験する時間、稽古をしてきたわけで、そのあいだにはさまざまな局面がありました。さまざまな迷いに遭い、さまざまなことを試みて、今日まで歩いてきました。



 いろいろと汚れや曇り、埃や垢がたまっていたような気がします。



 それらを一掃して、まっさらな気持ちと姿勢でこれからの稽古に臨みたい。



 いまはそう思っています。


 
posted by 札幌支部 at 11:07 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年08月28日

柔の本質

 こんにちは。裏部長です。


 お暑うございます。札幌では、この週末あたりは急に涼しくなりまして、湿気をほとんど感じない、北海道らしい夏のひとときをすごせています。ずっとこれくらいの日々がつづいてくれると楽なのですが、明日からはまた鬱陶しい天候が再開されるようです。


 あとすこしの辛抱です。





 さて、オリンピックが閉幕しましたね。


 これまでにない数のメダル数だとか、史上初だとか、そんな文句が踊り、メダリストたちは帰国するや否や、さまざまなTV番組に駆り出され、大忙しです。昨夜は競泳のメダリストに息止めの対決をさせていました。話題になるというのはいろいろと大変なことです。




 わたしはさしてスポーツに興味はないのですが、TVをつけてやっていると何気なく見てしまいます。


 こないだも、TVをつけたら女子レスリングの試合がやっていたので、夕食をとりながらぼんやり見ていました。あいかわらず、どうもレスリングのルールはわかりづらいなあとか、霊長類がんばれ!とか、それなりに日本勢に肩入れをして応援していたのですが、そのときふいに疑問をおぼえてしまったのです。


 たとえば、片方の選手が果敢に攻める、タックルにゆく、後ろにまわろうとする、首に手をかける、さまざまな角度から攻撃を仕掛けるのだけれど、もう片方の選手はそれをかわす、足を逃がす、腰を落として耐える、など、とにかく受け流すことに専念している――と、そんな状況があるとしますね。


 こういう場合、すぐに審判が試合を止めて、後者の選手に注意をあたえます。消極的だと、もっと攻めなさいと言うわけです。それで試合再開。また攻防がはじまるけども、そこでも足を下げたりいなしたりしているとまた注意を喰らって、三十秒の時間制限がつきます。


 これ、その時間内に点を取らなければ相手に有利になるというルールらしいのです。半強制的に攻めさせる手というわけですね。


 これを見たとき、「へえ、レスリングにはそういうルールがあるのか」と素直に感心しつつも、次の瞬間には疑問に思っていました。「これって、本質的におかしいんじゃないか」と。




 上記のシチュエーションの場合、一方の選手があの手この手で攻めまくるのを、もう一方の選手がとにかく受け流して、いなして、技をさせまいと防禦にまわっている、それだと試合が進まない、決着がつかないからルールで禁止して、攻撃させるように指導をする、という内容があるわけですが、そもそも、どうして攻撃をしている選手は技が決まらないのでしょう。相手が受けに徹しているから? わからなくはないですが、そうされてまるで決まらないのなら、攻撃している選手の攻撃が駄目なのではないでしょうか。相手が受けに徹したくらいで、かわされるばかりの攻撃は、攻撃として成立していないような気がします。


 これは柔道を見ていても感じます。師匠に伺いますと、柔道では過去に、受けに徹していても問題ない時代があったそうですが、それでは試合時間が長くなってしまうので、ルールで禁止したそうですね。こちらでも、袖や襟をつかんで崩し、足をかける、腰にのせるなどして、投げにゆこうとする相手に対し、それに耐える、体を逃がす、距離を取るなどという対応をしていると、たちまち審判に言われてしますが、レスリングと同様の疑問を感じざるを得ません。


 攻撃している人は、どうしていつまで経っても決められないの?




 これはもしかしたら、互いに世界のトップクラスで、実力が拮抗しているために、そう易々と技は決まらないのだ、ということなのかもしれません。しかしわたしはあえて、こういう説を提示したい。



そもそも柔の技は、自ら攻撃するものとしてできていない




 これまでわたしが体道のなかで教わってきた柔術を見ても、その他の流派を見聞しても、そう感じてしまいます。常日頃、師匠から教わっているような、相手からのアプローチがあってはじめて技が生まれるというあのスタンスこそ柔術の根幹であり、また本質であるとするならば、その柔術をもって、こちらから積極的に相手へ攻めこんでゆくような行為そのものが矛盾しているのではないか。


 われわれが空手で突きや蹴りなどの攻撃を学び、体道のなかでも、刀や杖などで攻撃する術を稽古することはありますし、それはとても重要なことながら、そういった意味の攻撃と、柔術としての攻撃というのはいささか質的に異なっています。後者にはもともと、本質的な矛盾があるような気がします。



 
 これが最近わたしのなかで生まれた疑問です。



 じつは、この話を引き延ばしてゆくと、師範から伺った「肉を食べると攻撃的になる」というあのお話とも通じてくる気がするのですが、それはおいおい検討してゆきたいと思っています。



 

 裏部長でした。 
posted by 札幌支部 at 16:09 | Comment(0) | 裏部長の日記

2016年07月30日

縄暖簾

 おはようございます。裏部長です。







 朝っぱらから内輪の話をします。




 先日のある稽古の後半、体道をやっているときの話です。ここ最近の札幌支部のメイン・メンバーであるIさんが天心古流の「両手裏投」を教わった際、手と体の連動を意識する過程で、こんなことをおっしゃいました。


「ということはつまり、力を入れて手と体を固めて動くということですね」


 この技をご存じの方であればわかっていただけるでしょうが、動きだすときに最初はどうしても手と体が分離してしまいます。当然、体だけ行っても相手は崩れないし、手だけ先行させようとしても動かない。全体がひとつとなって、みんな一緒に動かなければ成功しない技なのですが、言わずもがな、力を入れてしまうことは避けたいわけです。もっと自然な状態で、身体をまるごと動かしたい


 そのときは、Iさんの受けをわたしが取り、師匠が指導をされていたので、裏部長としてはただされるがまま相手の両手首をもっていればよかったのですが、ふと考えてしまったものです。


自分は、どういう感覚でそのひとつになるという状態を実現させているのだろう?




 そのときの稽古ではわたしも「両手裏投」をやってみました。上記のやり取りがあり、自分のなかで再点検しながらの捕だったもので、いろいろと感じることがありました。


 どうして手と体が分離しないのか。身体の節々に力を入れて固めているわけではないのに、なぜひとつになって動いてくれるのか。


 そのときのわたしの答えとしては、


そこに相手がいてくれるから


 というところに落ちつきました。




 目の前に相手がいて、両手でこちらの両手首をつかんで立っている。その状況下で「両手裏投」という技をやるので、前にゆくにも後ろに引くにも、左右どちらかへ進むにしても、かならず相手がついてきてしまいます。一見するとかなり鬱陶しい感じがしますが、そのときのわたしにとっては、そういう状態のほうがありがたくて、相手が自分とくっついて立っていてくれるので、技をやる過程で身体を分離させることなく動くことができました。言うなれば、相手の存在が自分を調えてくれる、そんな感じでした。



 冷静になってあとから考えてみれば、結局は、相手を敵対する存在、攻撃しダメージをあたえたい存在と考えず、ともに技をおこなうパートナー、噛みあうふたつの歯車、そんな風なイメージで向きあうことで可能になった動きだったのでしょう。相手とひとつになる相手と反発しない。ここ数年、大切にしてきたことそのものでした。



 先日のブログ同様、このスタンスはすべてにおいて重要だとわたしは考えます。「両手裏投」は天心古流の中目録の技で、順番としてはかなり最初のほうですが、ここまで大切なことを教えてくれます。



 体道はあなどれません。




 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 09:11 | Comment(0) | 裏部長の日記