北海道もすっかり春で、そして気づけばゴールデンウィークです。行楽地がにぎわい、観光バスが渋滞し、桜が咲き、桜が散り、そして沖縄ではもう梅雨がはじまっているという季節です。
ほどよい陽光は眠気を誘いつつも、なんだか活動的な空気を運び、背中を押してくれます。
今年に入ってから、札幌支部では体道のみの稽古を再開しました。
以前は毎週木曜日に体道の稽古をやっていたのですが、2008年からその曜日に道新文化センターにて古武術講座をやることとなってしまったために、体道のみの稽古日は取らず、ふだんの空手稽古の合間におこなう程度になっていたのです。
それに、体道をやるといっても、場所は床がコンクリートの教室で、満足に投げることも投げられることもできないという有様。もちろん、どんな場所でも技ができなければいけないのですが、こと投げ技に関しては、できれば畳のある空間で存分にやってみたい。
そんな話が出たり入ったりした結果、今年の二月から、月に一度だけですが、畳のある武道場を借りて、体道のみの稽古日を設けることとなったのです。
毎月、第二土曜日にやっています。
いつも柔道部なんかが稽古しているところなので広いし、天井も高いので、刀、杖、棒、なんでも振り放題です。冬場の寒さ、あるいは来たる夏の暑さだけ覚悟すれば、とても恵まれた環境と言えるでしょう。
空手の稽古においては、いろいろな発見があります。
不器用で、なおかつどんなことでも自分で体感してみないことには納得できない性分の裏部長は、愚かな試行錯誤をくりかえし、ときには傷つき、ときには反省の嵐に見舞われ、夜道をひとりで淋しく帰ったりしているわけですが、最近気づいたことはこれです。
「相対的な強さはつまらない」
師匠は、相対的な強さより絶対的な巧さ、ということをずっとおっしゃっていましたし、わたしもそれを信念にしてきてはいたものの、最初からその考えで出発してしまったために、相対的な強さとは、あるいは、相対的な強さを求めるとはどういうことかを知らずにいました。
もちろん、純粋に武術を稽古してゆくなかでは、相対的な強さになど眼もくれないという姿勢でよいのでしょうが、なにぶんにもやってみないと納得しない質なので、ちょっと試してみたのです。
とはいっても、どこかの道場へ殴り込みに行ったわけでも試合に出場したわけでもありません。ふだんの稽古のなかで、絶対的な巧さの追求をあえて廃し、強さのみを考えて組手などをしてみたわけです。
これは不思議な体験でした。
というのも、わたしはいささか体格に恵まれたところがあるので、この肉体、この体重、この筋肉をあてにした動作をしても、自分よりも格下でなおかつ身体も小さい後輩相手ではじゅうぶん通用してしまうのですね。
相対的ということは、相手と自分が離れている状態です。独立した自分という存在が、離れているところで同じく独立している相手を攻撃する。蹴散らす。相手が避けようが受けようが構わず、突進し、破壊し、表面化したダメージのみで優劣を判断する。
これまでにしたことのないやり取りだったために、最初は不思議と楽しささえ感じました。弱いよりも強い状態に人は優越感をおぼえ、満足してしまうものです。わたしも、情けないことに、一時はそんな心境を抱えて稽古へかよっていました。
しかしこれ、長続きはしなかったのです。
強さを求めた場合、そこにいる相手全員よりも自分が強くなってしまうと、それ以上の稽古ができない。つまり、深めてゆく過程がないから、結果だけを判断材料にしているから、優ってしまうとそれだけで終わってしまい、それ以上の満足感、手ごたえのようなものを獲得したいのなら、道場を出て武者修行をしなければならなくなる。
後輩相手でも、馬鹿のように何発もの突きをぶつけ、体格で圧倒し、押して押して押しまくる。もちろん、そういったことをするべき時期も、できるようになる時期もあるでしょう。
しかし、それだけになってしまうと、稽古は停滞してしまいます。
武術は死んでしまうのです。
愚かな試行錯誤を終え、ふたたび絶対的な巧さ、技の稽古に着手すると、これが面白い面白い。
追い突き一本をやっているだけで楽しいのです。あれやこれやと発見が訪れる。
そして、やはり、こちらのスタンスのほうが、腕は磨かれます。こと突きの威力という面だけを見たとしても、相対的な強さを求めていた時期とは比べものにならないほどの内容が生まれています。
武術はほんとうに奥深い世界です。
昨夜なんかは「川」の話が出たのですが、これなんかはその最たるものですね。
突きを出すときにはかならず片方の手を引く。この引き手で突いているわけですが、高段者になるとかならずしも手を引いていない場面を多く見受けます。
これはなぜか。
もちろん、引ききってしまわないほうが二本目の突きを速く出すことができるわけですけども、じつはそれだけではなかったのですね。
川なのです。
自分の身体の前に川が流れているのです。
マットをミット代わりにもって師匠に突いてもらいました。
@一般的な、片方の手を引く突き。
A引き手を残し、それをただそこに置いたまま出した突き。
Bそして、
Bの突きが放たれた瞬間、わたしはその変貌した迫力と威力に圧倒されながらも、たしかに、眼の前に師匠の肩幅よりもわずかに狭い、しかしあきらかに水量をもった川が流れたのを見たのです。
ほんとうに、川が見えたのです。
その突きを見せていただく数十分前、わたしはわたしで、こんな風な身体の使い方をすればよりよい突きが出せるのではないかという、ちょっとしたアイディアを思いつき、ひとり悦に入っていたのですが、そんな気分はひと息で吹き飛んでしまうほどの技でした。
こういう瞬間を味わい、体験し、そして自らもそこへ向かえる稽古こそ、真に武術なのではないでしょうか。
そして、そんなやり取りに楽しさを見出せる人だけが、稽古をつづけてゆけば良いのではないでしょうか。


