2018年08月04日

体道おじさん

 おはようございます。裏部長です。


 連日、お暑うございます。一方こちら札幌は、本日の予想最高気温が二十四度という、逆の意味で驚異的な気候となっております。どちらであっても、慎重かつ大胆な体調管理が求められます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。


 
 さて、稽古をやっているうちに仲間も増え、また、いっしょに稽古をするわけではないけども、わたしがそういうことをしていると知ってくれている人も増えてきていて、つまりは理解をしてもらえているという状況はなんともありがたいものであります。


 ただひとつ難点なのは、武術をやっているらしいということは把握しているけれど、具体的にどんなことを稽古しているのか理解していない人からのこんな質問です。


「○○さんのやってるのって、どういうものなんですか」


 日常会話の流れで、さらりと回答してみたいというのは手前勝手な希望であって、この問いかけに、正しく、シンプルに、即座に返せる答えなどこの世にありません。


 簡単に済ませようとすると具体性に欠けるし、細かく説明しだすと相手が飽きてきてしまいます。


 だから、これまでの裏部長は、ごく単純に、


「空手とかやってます」

「いわゆる古武術ってやつですね」


 などと、雰囲気重視で回答してきたわけですが、これはやはり歯がゆい。答えたこちらが消化不良になってしまいます。



 なので今日は、こんな問いかけをされたときにつかえる、ひとつの回答例を自分なりに書いてみたいと思います。



 まず空手についてですが、これはもうね、対面しただけの相手にすくない文字数で、正しく、たとえば流派の違いとか型の特徴とかを話してもチンプンカンプンです。相手も空手をやっている人ならまだしも、そうでない人にはほぼ不可能な芸当でしょう。


 ですので、裏部長的には、世間一般にある「空手」のイメージを借りてその場をしのぐことを推奨します。


「空手やってます」

「ああ、空手ね」


 そんなやり取りで終わらせ、さっさと次の話題へ移っていってしまいましょう。



 さあ、最大の課題は【体道】です。


 これをいかに説明したものか……。



 全日本体道連盟に属し、体道を稽古している身としては、なるべく正確かつ詳細に説明したいという欲も湧いてくるのだけども、組織の成り立ちから話されても、聞いている相手にはなんのこっちゃさっぱりでしょうから、この際、思いきって最大限、実務的な解説に努めるという案はどうでしょうか。



 ひとくちに「体道をやる」と言った場合、いったいどういうことになるか。


 体道のカリキュラムのほとんどを占めているのは、柔術です。流派によっては、体術と言ったり拳法を言ったりしますが、要は素手で相手を制する武術ですね。


 投げ、押さえ、極め、絞めるなど、多種多様なパターンがあり、そんな柔術の技が、体道のなかにはたくさんあります。


 全体の六割強、いや、七割ほどはあるでしょうか。体道の体道たる所以と言ってもいいヴォリューム感です。



 体道を稽古する以上は、この多種多様な柔術をやるわけですが、じゃあ柔術だけでいいのかというと、決してそうではありませんね


 柔術の技というのは、ほとんどが、自分から攻撃を仕掛けるのではなく相手から先にかかってくるものです。つまり攻撃を知らないと、それに対する側の技も理解できないし、そもそも応じることさえ不可能なのです。


 だから、攻撃を学ぶ意味でも、空手は必要不可欠になります。


 空手の突き、蹴り、打ち、それに対する受け、あるいは型などの動きを通して身体や感覚を練ってゆきます。



 素手の武術を考えただけでもお腹いっぱいの印象ですが、体道には武具をつかった技も多くおさめられています。


 代表的なものは、やはり、さまざまなサイズのということになるでしょう。



 六尺のをつかった、「棒術」。

 四尺二寸ほどのをつかった、「杖術」。

 三尺の得物をつかう、「短杖術半棒術」。

 一尺のをつかう、「捕手術」。



 わたしが現在までに教わっただけでもこれだけあります。


 いくつもの流派、ヴァリエーション豊かな技を通して、さまざまなサイズの棒をあつかう術を習得してゆくのです。



 しかし、です。


 柔術のときと同様、では棒術や杖術だけ知っていればそれでいいのか、ということになると、答えはですね。



 これら武具をあつかう技は、ほとんどが対刀を想定しています。ただの木の棒っきれで日本刀に勝とうというわけです。


 なので、技を稽古する際には、相手方は刀をつかわなければなりません。ほとんどの場合、稽古では日本刀ではなく木刀をつかいます。


 つまりこの時点で、各種棒術のほかに、剣術のノウハウも知っておかなければならないことになります。


 刀で斬る、突く、受ける、払うなど、必要最低限の動きができないと、上記の棒術や杖術の技さえ学べないのです。



 おおっと待った。それだけではありませんでした。


 内田流短杖術のなかに、相手が腰に刀を差している状態から攻撃してくる技があったではありませんか。


 つまり、刀を鞘から抜いて、正眼や八相に構えた状態からはじめる技ではなく、まだ抜いていない状態から斬りかかる術を知らないとこれらの技はスタートできません。


 ということは、つまり、剣術だけでなく、抜刀術あるいは居合術が必要になってくるわけです。



 そんなこんなで、ざっと見てきただけでも、「体道」のなかには、柔術・体術・拳法、空手、棒術、杖術、短杖術・半棒術、捕手術、剣術、抜刀術・居合術などがあり、さながら総合武術の印象があります。いや、実際にそうなのでしょう。甲冑を着たり鉄砲を担いだり、弓を引いたりしないだけで、すでにこれだけで、日本の武術の代表的なものをおさえているように思えます。



 だから、体道をやっている人は、基本的に、忙しい。


 とても、一般の方に細やかな解説をしている暇などないのです。


「体道をやっています」

「体道? それって……?」

「さようなら!」


 もう、こうしてしまうよりほかに方法は見つかりません。


 みなさまはどうお思いですか。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:12 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年07月14日

絶対性への扉

 おはようございます。裏部長です。


 七月半ばの三連休です。放置していたあれこれを、片っ端から処理したい今日このごろ。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 さっそくですが、たとえば、重いものをもちあげて、どこかへ運ぶとします。


 このとき、そのものを手にもって、屈めていた腰を伸ばそうとすると、重さが腰にのしかかり、痛めてしまいますね。だから身体をなるべくまっすぐに保って、膝の曲げ伸ばしをつかって、上半身というよりは下半身、もっと言えば脚でもちあげるようにすると、負担は軽減されます。


 しかし、です。裏部長はふと思ったのです。


 この動き、もっと小さくできないものかと。



 第一、その場にスペースがあればいいですよ。もし狭い場所だったら。それこそ、膝の曲げ伸ばしもできないくらい狭苦しい環境でそのものをもちあげなければならなかったとした場合、どうしてもさらに小さな動きが求められるわけです。


 そんなことを考えながら、自分の身体と相談していろいろと試した結果、たどり着いたのは、足の裏をつかうという選択肢でした。



 指はもちろんですが、足の裏全体をつかって地面をギュッとつかむあの感覚。


 当然、もちあげるものには指がかかっているわけですが、このギュッをすると、瞬間的に、どういうわけか指先に力が漲るのです。



 これはどうしてなのかなあ。自分でもよくわかりません。


 しかし、とにかく、現に力が感じられるのです。ですから、膝の曲げ伸ばしをせずとも、足裏と指だけでもちあげることができるのです。



 こないだ「内歩進初段」の足について書きましたが、それより以前に、ひとりで「新生」を何度か試してみた夜がありました。


 師匠は不在で、他の稽古者たちもいない時間と空間がそのときあったわけです。


 かなり過剰に、かなりしつこく三戦立ちを意識し、やってみると、上段受けや突きの締まりはもちろん、そこから四股立ちに移った際のパッケージ感、そして何より、手全体の充実感が生まれました。


 あれはなんとも不思議な感覚でした。


 同じようなことが「内歩進初段」にも起きていて、動きだしの足が決まると、全体のかたちというか姿勢が一瞬で決まり、またやはり、手全体に力が漲るのです。


 だから、自分で意識的に、力強さを演出する必要がなくなった気がしました。やさしく、あるいはゆるりと、その型を流そうとしても、どうしても勢いと迫力が生まれてしまうのですね。



 この不思議の最たるポイントは、力の発生源である足と、もっとも離れている手がつながるという点です


 足が決まった際に下半身が、腰まわりが強靭になる、というのはすんなり理解できますが、離れている手にその影響が現れるというのはなんとも不可思議です。それも一瞬です。体内をエネルギーが移動する間もなく、気づいたらもう手に何かが生まれているのです。



 意識していないだけで、たとえば体道の柔術の技をやるとき、相手の打ちや突きに対して上段受けや差し手受けなどをする際、こうした足もとからの力を借りて動いている可能性があります。そうでなければ、重さと速さを兼ね備えた攻撃を、ほとんど動かずその場で受け捌くことなどできません。その瞬間、その場で受け勝つには、こうした目に見えない力が働いているのかもしれないし、それを暗に示してくれているのが体道なのかもしれませんね



 おしゃれは足もとから、と言いますが、武術も然り、かもしれません。



 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:06 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年07月07日

帰去来

 おはようございます。裏部長です。


 全国的に雨の被害が広がっているようです。こちら北海道でも川の氾濫などあり、農作物への影響が懸念されています。札幌では被害というほどのことはありませんでしたが、湿気にやられ、急激な気温低下も加わり、鼻水をすする回数が増えております。暑さに辟易とする前に、体調を崩さぬよう注意しなければなりません。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。



 ここ最近の札幌支部は、いささか中国武術色が薄まりまして、従来の稽古風景にもどりつつあります。


 そんななかで得た、わたし個人の気づきをいくつか。



一、内歩進初段の下半身

 これまで「内歩進初段」の足運びに関しては、一歩出たその瞬間にあの立ち方、そのかたちが決まっている、という教えを受けてはいたのですが、いまひとつ自分のなかに定着せず、しっくり来ていませんでした。なんとなく、膝、股関節あたりに遊びがあるように思えるのです。


 それが、先日ふと思いついた足運びの感覚がありまして、それでやってみるとなんとなくいい按配なのです。


 もちろん、型にない動きをしたわけではなく、端から見れば、それをする前もやった後も何ひとつ変化していないように感じられただろうと予測できる程度のアレンジなのですが、この感じで足を運ぶと、体が横へ動いたときにはもうあの立ち方ができている気がします。そして、例のへんな遊びもなくなっていました。


 師匠に見てもらうと、脚を交差したときに、そこで安定してしまうことがなければ問題ないだろうとのことで、しばらくはこの線で研究してみたいと考えています。



二、天心古流の杖

 日本伝天心古流杖術のなかで、杖の先を相手の正中線へ入れる動きがありますが、そのときのあのなんとも言えない気持ち悪さ、圧迫感と言うよりも違和感という感じのいやあな感じ。これをもっと精度高く、自然とおこなえるようにしたい。


 しかし、そのためのヒントは技のなかにすでに置かれているのですね。刀をもっている相手との攻防、その関係性のなかでは、そのようにしか動かせないようにできている。そこに忠実に、自然にあわせて、相手のテリトリーを侵食してゆく感じ。これを徹底したい。


 
三、技

 昨夜の稽古で数年ぶりに空心館の「技」を二手ほど教わりました。


 いやあ、感動的な印象さえありました。こういう技をもっと稽古しなければならないと強く感じました。




 全体的に言えることは、やはり、


さまざまなことに気がつけるようになるには、それ相応の時間がかかる


 ということでしょうか。



 空手の型に関しても体道のなかの種々の技に関しても、教わったときに見えていること、感じられている領域はごくわずかであり、深い理解や実践が伴うには、悲しいかなそれ相応の時間を要するようです。


 しかし、そのような気づきや発見を体験できたことは、成長だと思うのです。いたずらに多くの技を習うだけとも違う、ただ単に同じことを同じペースでつづけているだけとも違う、前進だと思うのです。


 
 あとは姿勢だけです。自分が、どのような姿勢で稽古へ臨むか。その技と向き合うか


 
 裏部長でした。

posted by 札幌支部 at 10:26 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年06月02日

もれなくついてくる

 こんにちは。裏部長です。


 六月となりました。2018年も折り返し地点というわけで、時の経つ速さを思うと、なんとも儚い気持ちになってくる今日この頃です。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 いきなりですけども、みなさまは上段へ刻み突きが来た場合、どのように受けますか



 ええ、もう本題に入っているのです。




 想像してみてください。


 互いに構えあっているところで、相手がこちらの上段へ向かって刻み突きをくりだしてきた。


 さあ、そのとき、あなたはどのように受けるでしょう。



 反撃はとりあえずあとまわしにして。


 これはあくまで「どのように受けますか」という質問であって、「どのような受けが可能ですか」や「どのような受けが想定できますか」ということではありません。


 いまこの瞬間、この文章を見たときに、ふと思いついた受けを念頭に置いていただきたいのです。



 おそらくですね、空心館においては、ほとんどの方が、掌や指、あるいは手の甲を用いたのではないかと、裏部長は推測するわけです。


 この場合、自然と発想されるものは、ふだんから稽古している動きか、もしくは、自分の師匠がやっているのをよく見ているために刷り込まれておぼえている動きか、このあたりのものでしょう。


 この点から言っても、上記の部位をつかった受けを考えられた方が多かったのではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。




 以上の前段を踏まえて、あえて疑問を提示したい。



なぜ、上段受けをしないのですか?





 白帯の、入門したその日から、空手の基本の受け型として、上段受け下段払い中段内受け中段外受けを教わるわけですが、その日以降今日にいたるまで、いったい何回これらの受けを稽古したことか。


 その歴史の長さ、回数の多さを見ても、稽古者にとってもっとも馴染み深い受けの動作はこの四つということになるでしょう。



 なのに、です。



 われわれはふだん、上段への突きに対してほとんどこの上段受けをつかいません。すくなくとも、札幌支部ではそうです。


 なぜなのでしょうね。考えてみれば不思議でしょうがない話です。



 上段受けを教わったとき、これは上段に来る突きに対する受けだからこういう風に動かさなくてはいけない、一方、拳槌打ちに対してもつかうので、こういう点にも気をつけて腕を動かしましょう、と、あれこれ言われたのに、実際に上段への攻撃に対してはほとんどつかっていません。


 いったい、そこには、どんな理由があるのやら……。





 中段追い突きの話をしましょう。


 ふだんの約束組手では、この中段追い突きがメインになります。最近、中段追い突きをここまで追求する意味や重みをあらためて感じている裏部長ですが、今日はその初歩の初歩に目を向けます。


 はじめて中段追い突きをやったとき、受ける側の人間は中段内受けで対応するわけですが、このときの注意事項は、「相手の腕を叩かない、弾かない」「ぶつけて止めようとしない」。こういった内容のものでした。


 そうしてはいけない理由はみなさまご存知の通り。

 
 なるほど、そうやって受けてしまうと相手にそんな影響があるのか〜。気をつけなくては!


 稽古としてはこんな感じで進んでゆけるのですが、ある日ふと思うのです。



 そういう受け方をするべからずというのには、ほかにも何か理由があるのではないか、と。





 結局ですね、相手の突きの腕を叩いたり弾いたりするには、こちらの動作がどうしても大振りになるのです。向こうは突っ込んできているので勢いがありますが、こちらはそれを受けようと待ち構えているので、手を出すだけでははね返されてしまいます。弾こうと思えば、それ相応のパワーでやっつけなければなりません。


 だからどうしても大きな動きになってしまいます。


 大きな動作である以上、その動きがはじまり完了するまでに、けっこうな時間がかかりますね。


 これ、相手が中段追い突きに来るというのがわかっている場合、つまり約束組手のなかであればまだ可能かもしれません。しかし、実際の攻防においては、相手がどのような突きで来るか、あるいは蹴りで来るかなど、攻撃は一定ではないのです。もし中段に追い突きが来るとしても、大ぶりな受けで対応できるほど、余裕をもって対処できるシチュエーションとは限りません。



 突きは、速さ、鋭さ、重さを兼ね備えてゆきます。それが一本におさまらず、二本、三本とつながり、さらに相手への突進力もここに加わります。蹴りもあります。


 そんな多種多様かつ危険な攻撃に対して、大ぶりな受けはとてもできません


 小さな動き――必要最低限な手の動きで、それを司る体の運動もあいまって、受けは成長してゆきます。もちろん、これは翻って、突きの成長にもつながります。


 高度な突きが身につくと、その身についた感覚なり身体の使い方なりがそのまま、受けの動作にも活かされるわけですね。




 そんなこんなで、ふたたび冒頭の上段受けの話ですが、つまりそういうことです。




 空心館の空手における突きを考えると、そうならざるを得ないというのが真実なのではないでしょうか。成長してゆく突き(もちろん蹴りなども)に対し、それらを受け捌く技術もあわせて持たねばなりません。この構図において、自然に、そうした受けの動作が主流となっていったのではないか。あえて文章にすればそのようなことなのではないかと裏部長は思っています。




 もちろん、基本の受け方の重要性も考えなければなりません。


 あのオーソドックスな上段受けも、使いようによっては凄まじい威力を発揮します。それは裏部長も、体道のなかで実感済みです。





 空心館の空手と、体道を稽古する以上は、この両方を等しく捉え、追及し、深めてゆきたいものです。




 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 14:16 | Comment(0) | 裏部長の日記

2018年05月26日

半畳もいらない

 おはようございます。裏部長です。


 五月も終盤となり、本州のほうではすでに夏の暑さが顔を出しているようですね。札幌はかろうじてまだ春の陽気を保っています。TVをつければ各種日焼け止めのコマーシャルがひっきりなしで、ああ、もう季節は夏に向かっているのだなあといやでも感じさせられます。


 みなさま、いかがおすごしでしょうか。





 さて、前回のブログで、映画『イップ・マン』について触れましたが、あれはドニー・イェンさんが主演をつとめた作品の最新版で、同氏がイップ・マンを演じたものは計三本あります。わたしが先日観たのは、その三本目ということです。


 しかし、イップ・マンを主人公にした映画はほかにもありまして、わたしが個人的に好きなのは、

イップ・マン 最終章

 という作品です。




 具体的な内容などに関しては、ぜひ実際にご覧になることをおすすめしますが、劇中でイップ・マンが武術の教授を求められるシーンがとても印象的です。


 稽古代として食事をごちそうしてもらうあいだ、教わる側の男性は部屋のなかを片づけるわけですね、これから稽古をするから。しかし、食べ終わったイップ・マンは、そんなに広いスペースは必要ないと言い、畳んだ新聞紙を床に置くと、その上に立って構えます。


 あの新聞のサイズだと、日本の新聞紙の、見開き一面を半分に折り、さらにもう一度折ったくらいですね。その上で三戦立ちをすると、ちょっと狭いかなといった程度の面積しかありません。


 結局、そんな狭いスペースに足をのせ、構えたイップ・マンに弟子志願の男性が掛かってゆき、たやすくあしらわれてしまうという展開になるのですが、こういうシーンも、何気なく流して観るのではなく、自分に引き寄せて考えてみたいものです。





 ここ最近、裏部長は、


どうにか体道で闘えないものだろうか


 というようなことを考えており、これに関してはまだまだ暗中模索で書くことはできないのですが、実際に体道の技をやっていると、その技の威力が発揮されたとき、ほとんど歩幅もなく、大仰な構えもなくすべてが完了していることが多い気がするのです。大きな動きに走ったり、力みや焦りに流されて急いでしまったり、逆に勢いが滞ってしまったりすることなく、技が技として技の成果を見せたとき、立っている足の幅は、それこそあのシーンのイップ・マンではないけれど、かなり狭い。ほとんど半畳、いや、半畳もいらないくらいでしょう。



 これはいま、おもに柔術においての話だったわけですが、ほかの技、ほかの武術に関しても同じことが言えるのではないでしょうか。


 あるいは、空手においても――。





 裏部長でした。
posted by 札幌支部 at 10:17 | Comment(0) | 裏部長の日記